その後、戻ってきた勝呂が厨房に顔を出して話をしたら『これも持っていって下さい』と大量に果物やクリーム、ソース類にアイスやあんこ、抹茶パウダーなどを渡されたと両手一杯に荷物を抱えて戻ってきた。それに燐と蝮は目を丸めた。
 あまりに予想通りだとつい顔を見合わせて笑ってしまう二人に勝呂は首を傾げ、皿を用意しながらパンケーキを食べる準備をする。
 それぞれに好きなもので飾って食べていると、ふらりとやって来た達磨も加わり、随分と賑やかな遅い朝食になった。
 随分身軽な達磨の服装に燐が不思議そうに問い掛けると、達磨は食べ終わったら旅館の掃除をするのだと明るく告げた。
 ………それに勝呂と蝮はほんの少し、眉を顰めてしまう。出来る事なら、彼には座主としての職務を真っ先に執り行って欲しかった。が、既に不浄王がいなくなった今、本山にひとり赴き護摩壇に火を焚き読経をする必要もないのだと、苦笑とともにいわれてしまえば溜め息しか出ない。
 事実、祓魔師としての面が色濃い明陀宗だ。葬儀などの執り行いもしはするが、それ以上に祓魔の任務が多い。
 それらの任務は正十字團から回されるもので、正式な祓魔師の称号を得ていない達磨には回ってくる事がなかった。ならば試験を受ければいいと思うが、現状、達磨は虎屋の仕事を手伝い、その傍らで変わらず読経を捧げている。………護摩壇ではなく、かつて青い夜に喪ってしまった命達の眠る墓石へ。
 それだけで満足すべきなのかは解らない。そもそも、勝呂達には達磨が祓魔師としてどの称号に当たる戦い方を得意とするのかすら知らなかった。詠唱と使い魔を扱ったのであれば、詠唱士と手駒士か、それとも騎士の方に適性があるのか。そうした事も達磨は多く語らない。
 その上、不浄王の一戦で緊急避難的扱いとはいえ、達磨の使い魔であった伽樓羅を勝呂が継承してしまった。それが達磨自身の祓魔師としての能力にどう影響を及ぼしたのか、勝呂にも判断がつきかねた。
 が、そんな一切を気に掛ける事無く、幼い子供の声が『それなら俺も手伝う!』と明るく響く。ただ眼前にいる姿の中、痛みがない事を知る澄んだ青はまっさらなまま何も含みもせずに慕う眼差しを向ける。
 ………羨ましいと、一体どちらに思うべきか解らず、勝呂と蝮はこっそりと胸中で嘆息をした。
 そんな二人の傍ら、燐と達磨はニコニコとパンケーキを頬張りながら旅館の周囲に広がる花や野草の話をしていた。


 …………とてもとても、それは優しく他愛無い、日常の光景のように。





 達磨との追いかけっこのような掃除も終わり、二人ぶらぶらと番頭部屋に戻ってくると、見知った板前のひとりにかち合い、そのまま燐は厨房に呼ばれた。
 達磨は少し席を外すとそこで別れ、燐は板前に連れられて厨房へ向かった。
 何か手伝いだろうか。けれどまだ夜の仕込みには早いのではと首を傾げていくと、厨房の片隅に集まっていた、不浄王の一件の際に仲良くなった板前達がおいでおいでと手招きしていた。
 その中に厨房の長である板長を見つけ、燐は大きく手を振って声を掛けた。
 「あ、板長!朝は果物とか一杯ありがとう!すげぇ美味かった!」
 以前ここに来た時も、彼は仕出し弁当の味見や調理法など、問う言葉にしっかりと燐を見て応え、言葉を繋げてくれた。……あの頃は塾生達と不和の中にいたので、ここの板前達のあたたかさに随分と救われていたと思う。
 初めて見ると言っても過言ではない京野菜達に目を輝かせて普通の野菜とどんな違いがあるか聞いたり、調理の際の注意点やレシピを聞いたり、考えてみるとそれなりに秘密の筈の内容をさらりと教えてくれた気がする。それも、とても楽し気に。
 大人達の中に混じる事はあまり得意ではないけれど、それでも向けられる感情に燐は敏感だ。それが排他的な感情であれば喉を掻き切るような苦しさを味わうけれど、優しい眼差しに込められた慈しみはくすぐったくて喉に何かが詰まったように息苦しくなる。……まるで泣き出す前兆のようだと不思議に思っていた事も記憶に新しい。
 そんな燐の頭を撫で、板長は愉快そうに目を細めて笑っている。………本当に小さな子供になっていると、その眼差しに染まるものは驚きよりは楽し気だった。
 「そうか。そりゃ良かった。お前さんは舌がええからな、喜んでもらえればこっちも鼻が高いわ。それよりほれ、こっちおいで」
 そう告げて、朗らかに笑う節だった指先が燐の身体を軽々と抱き上げた。
 突然の行動に燐は目を丸め、首を傾げてしまう。ちゃんと傍にまで歩み寄ったのに、なおまだこちらにおいでとは、どういう事だろうか。
 「?どうしたんだ?」
 大きな青い目を瞬かせて問う燐に、周囲の板前達が苦笑して重ねるように声を響かせた。
 「ええからええから」
 「坊や女将には内緒やで」
 楽し気にクスクスと笑い、みんなニコニコと抱き上げられている燐を見上げている。………何が何なのか、燐にはよく解らなかった。
 キョロキョロと辺りにいる大人達を見渡し、自分を抱き上げた板長のシワの寄った顔を見上げる。が、それにはにこりとシワを深く刻んで笑う優しい笑顔に出会うだけで、疑問の解答はなかった。
 「????」
 ますます怪訝そうに首を傾げて困惑を示せば、たまりかねたかのように若い板前が吹き出した。いい加減気付いてもいいだろうとお腹を抱えて笑う彼をじっと見下ろす燐に、他の板前達も苦笑する。
 そうして、近くにいた中堅の板前が、板長の横にあるテーブルの上に乗せられていた弁当をついと取り上げ、幼い燐の眼前に差し出した。
 それは彩りも鮮やかな弁当だ。煮物や焼き魚、揚げ物にしぐれ煮、揚げ出しもあるしステーキらしい肉は赤みを残し上質な肉の彩りを教える。それらの邪魔をしない為か、ご飯は敢えて白米だ。が、キラキラと綺麗に輝く純白は、それだけでも十分美味しいと教えてくれる。
 「ほら!特別しつらえの昼飯や」
 「え、うわ!凄ぇ………!」
 ほんわかとあたたかなそれは出来立てのようで、ひどく美味しそうな香りが鼻孔をくすぐる。思わず燐のお腹が鳴ってしまった。…………空腹だった事などまるで気付いていなかったのか、そんな音が鳴り響いて燐は目を丸めてお腹を見下ろした。
 それに気付いた板長が満足そうに笑った。腕の中の燐ごと揺するその笑い声に、鳴ったお腹を笑われたと思ったのか、かぁと燐が真っ赤になってしまう。
 ………朝ご飯は遅めだったけれど、それでも前日夕飯を食べ損ねて眠ってしまっていたのだ。そのあとに達磨と一緒に旅館の敷地の中を駆け回るように箒で掃いて回った。………気付かなかった事が不思議なくらい、お腹は疾うにペコペコだったようだ。
 そこにこんな美味しそうな弁当を見ればお腹だって鳴ってしまうと、唇を尖らせて拗ねたように俯き頬を膨らませた。
 そんな愛らしい頬を弁当を持った板前が突いて潰し、からりと笑ってまた弁当をテーブルに戻した。そうして、板長は弁当の前にある椅子に、燐をおろして座らせる。
 ……………その意味を把握しきれなかった燐が、目を瞬かせて弁当と板長達を見回した。
 「奥村くんのご飯や。仰山旅館の手伝いしてくれたて聞いたからな」
 遠慮とは違い、まるで状況を理解出来ていないからこその困惑に板長が苦笑して燐の頭を撫でながら、弁当の存在意義を解り易く教えてやる。
 それに乗るように、一番初めに吹き出して笑っていた板前が、幼い背中をぽんと叩いて笑いかけた。
 「くずきり食べた事ないて、前にゆうとったやろ?デザートにあるで」
 それは自分が作ったのだと、まだ下拵えしか任せてもらえないとぼやいていた彼の得意気な顔に燐は目を瞬かせる。
 覚えていてくれたのだろうか、ちょっとだけぼやいたような、そんな事を。あんな忙しかった日の、他愛もない言葉だったのに。
 「え、でも、だって……そんなに俺、役に立ってないのに…………」
 こんな美味しそうなお弁当にデザートまでつけてもらえる理由がない。本当に、今日自分が出来た事といえば達磨の後を追って大きな箒をグラグラさせながらちりとりにゴミを押込んだり、雑草を引き抜いたり、その程度だ。
 子供のお手伝い以上の何も出来ていなくて、むしろきっと邪魔をしたと思う。……達磨は全部笑って許してくれたけれど、確実に足手まといだった筈だ。
 思い出し、思わずしゅんとしてしまった俯く幼い頭を板前達は苦笑で眺め、お茶を煎れたコップを差し出しながら明るく言った。
 「ははっ、相変わらずやな、奥村くん」
 「ほんまに。ほら、それよりこれ勿体ないやろ、食べんの?」
 小さな箸まで渡されて、ニコニコと笑う大人達に囲まれたまま、目の前の美味しい香りにまたお腹が鳴ってしまう。
 どうしようと視線を彷徨わせても、優しい笑顔ばかりで首を振れない。達磨や勝呂がいればどうすればいいか教えてくれそうだけれど、ここに彼らはいなかった。
 困った。………こんな風に理由のない好意を差し出される事には慣れていないのだ。与えられるものは基本的に差し出した労力と等価だった。
 どうしてそれに見合わない良質のものを与えられるのか解らないと考えた脳裏に、不意に先程、勝呂と話していた時に思い出した養父の顔が過った。
 ………何も出来なくても、出来る事を頑張ればいいといってくれて、無理をするなと抱き締めてくれた腕。これも、それと同じなのだろうか。
 出来る事を頑張った、それが彼らの笑顔を作ったなら、どれほど自分は恵まれているのだろう。そう思ったなら、きゅうと胸が詰まる程にあたたかくなった。
 「本当に食っていいの……?」
 辿々しく、小さく問い掛ける。じっと見上げた眼差しの先、目を瞬かせた板前達が、一様に嬉し気に目を細めて笑い、頭を撫でて背を叩いてくれた。
 「奥村くんが食べんと廃棄やで、これ」
 「俺らは別に賄いあるからなぁ」
 「んな?!勿体ない!絶対食べる!」
 「そうそう、子供は遠慮せんと仰山食べとくもんや」
 驚いた声を上げて慌てて箸を握り締めた燐に、板前達が楽し気に笑う。何よりも一番、丹誠込めたものを味わい喜ぶ笑顔が一番の喜びなのだと教えるその笑みに、少し照れ臭そうに幼い子供が笑い、幸せそうに弁当を頬張った。
 家庭料理とはまた違うこだわりあるそれらに目を瞬かせながら使った素材を聞いたり、自分が作る際の手順との差異を尋ねたり、好奇心旺盛に言葉を投げかけながら顔をほころばせて燐は一口ずつ噛み締めている。
 それを眺めながら、不意に入口に顔を見せた虎子に気付いた板長がそっと輪から抜け出し、そちらに足を向けた。
 「………ほんま、あの子うちに奉公来ませんかねぇ、女将」
 微笑ましそうに目を細めて板前達が作る輪を眺める女将に、前回からつい零す言葉をまた、板長が口にする。
 それに頬に手を当て、小さな溜め息を落としながら困ったように虎子も笑んだ。
 「私もええと思うんやけど、祓魔師になるらしいからなぁ」
 「坊といい、勿体ないなぁ。兼任出来んのやろか」
 どうにも見所のある人間は違う道に進んでしまいがちだ。坊もまた幼い頃から祓魔師という目標を掲げて進み、気配りも人当たりもよく従業員達の事を把握しているというのに、旅館の経営に携わろうとはしない。
 今そこにいる金の卵も、技術を身につける為の努力も、奉仕する喜びも、働く事によって得られるものが賃金ではなく何よりも心の充足の共有である事も、きちんと知っている希有な子だ。
 そうした姿勢を知る者は、人と相対する職にとても向いている。祓魔師というものの詳細は知らないけれど、出来る事ならばこの道にも足を向けて欲しいと願うのも当然だ。
 そんな板長の入れ込み具合に楽し気に笑い、虎子は頷いた。気持ち的には、虎子とて板長寄りだ。
 「どうやろ?今度竜士に聞いてみよかねぇ」
 問えばきっと、きちんと考えて答えを導くだろう生真面目な息子の顔を思い描き、虎子はあどけないままに板前達の言葉に頷き質問を繰り返す子供を見遣った。
 一口毎に幸せそうにほころぶ唇が、それを作った人間にどれ程の喜びと幸せを与えるか、知っていながら無自覚な子供。美味しいものを与えてくれる事への感謝ばかりで、それに返される笑顔の価値を失念している。
 ……自分とて周囲に喜びを与えているのだと、あの子供が気付くのはいつだろうかと、そっと伏せた睫毛で虎子は思う。
 「それか、たまにこうして来てくれると嬉しいどすな」
 そんな物思いを知ってか、板長が小さく囁く。
 幾度でも、やって来る度分かち合えば、いつかは届く。………彼が作る料理によって与えられた笑顔に支えられてきたように、彼が食み零す笑みに自分達が満たされ次への一歩を支えられている事を。
 染みるように、当たり前に変わればいい。互いに循環する笑顔の中に自身とて加わっているという、当然の事実を知ってくれればいい。
 「そっちは約束してまえばこっちのもんやろ。達磨はんにお願いせんとな」
 そう呟き、クスリと笑い合い、女将と板長は画策するかのように頷き合った。そうしてまた、穏やかな声に満たされた厨房の一角を見つめる。
 時折料理からも話がずれて、祓魔塾のみんなとの話や、弟の話、養父の話もほんの少し、幼い声が語る。
 「………ほんま愛らしゅう笑いはるな。あの日は寂しそうな顔ばっかで心配やったんやけど」
 あの子が背負うものを、板前達は知らない。ただ、初めてここにやって来た日、健気に前を見ようと立ち尽くすひとりぼっちの背中だけが、それらを何とはなしに物語って教えていた。
 それでも、そんなものは自分達には無関係のものだと両断出来る。ただ目の前にいるあの子は、責めを負うべきでもなく、詰られる必要もなく、疎外される意味さえ見出せない。ただ必死に手を差し出しているその傷だらけの腕を、愛しいと思うのは愚かな事ではないのだ。
 「仲直り出来て、よかったですわ」
 しみじみと頷き、板長が笑む。あの日、頼み事を嫌な顔もせずに全部引き受けてくれた子は、それでも折角だからと招いてみても、躊躇いに足を止めてへたくそな作り笑いで首を振っていた。それが、今日ははにかみながらも駆け寄ってくれるのだ。
 「そやね。奥村くんにとっても、竜士にとっても、ほんまよかったわ」
 友がいる、それだけでも変わるものは数多くある。………燐の場合、特にそれが顕著だ。
 そう囁く虎子の背後、何やら荒々しい足音が響き、それがぴたりと止まったかと思うと、突然に大声が響き渡った。
 「奥村ぁ!見つけたわ!お前、飯の前にちゃんと部屋に戻らんか!!」
 たった今虎子と板長が話していた、燐ともう一人……勝呂が眉を吊り上げて入口に立っている。
 おやまあ厳つい顔や、などと呑気な事を考えながら振り返った虎子が息子を見上げる。前に控える虎子と板長に軽く頭を下げるあたり、怒りに燃えているのではないのだろうと思いつつ、虎子が苦笑を落とした。
 …………心配だったならばそう顔に出せばいいのに、どうにもこの息子はそうした点が不器用だった。
 そしてそんな事はお見通しの板前達は虎子と同じ苦笑を唇に乗せ、まったく理解していないらしい燐は目を丸めて口の中におかずを頬張ったまま固まっている。
 どうやらいきなり怒鳴られた理由が思い当たらないらしい。パチリと目を瞬かせたあと、ようやくおかずを咀嚼して飲み込み、首を傾げながらずかずかとこちらにやってくる勝呂に戸惑いの声を返した。
 「へ?え、す、勝呂?え?」
 「てかお前らも!声かけるなら教えぇ!」
 が、そんな燐の声に被さるように、勝呂が苦い顔をして燐を囲む板前達を一瞥して溜め息を落とした。
 燐が遅い朝食をとったあと、蝮と片付けを終えてから達磨と庭掃除に向かった事は解っていた。だからこそ、勝呂も日課としているジョギングを筋トレに変え、余った時間は予習復習に当てて、室内で午前中を過ごしていた。
 当然、出掛けた燐が昼食をとる為に戻ってくると思っていたからだ。が、待てど暮らせど戻ってこない。
 父が一緒にいる筈だし、敷地内から出ていくような真似もしないだろうとは思いつつも、昼を回っても戻らない燐に業を煮やして旅館内を歩けば、何故か達磨が既に袈裟を身に纏っていて目を丸めた。………彼が袈裟を身に纏う事自体はいい。きっとこれから読経に向かう為だ。が、そこに燐がいなかった事が問題だ。
 燐がどこに行ったか問えば板前に連れて行かれたといわれ、何故一度こちらに戻ってこないのかと重い溜め息を落としたのはつい先程だ。おかげでこちらも昼食を食べ損ねるところだった。
 「はは、すんません、坊。奥村くん頑張ってはったんで、つい」
 そんな空回りが勝呂の態度で見えたのか、あっさりと板前が謝った。勝呂自身、この状況を好ましくは思っている事くらい、長年の付き合いで解る。
 大人の余裕で躱された感はあるが、それも仕方がないとまた小さく息を落とし、勝呂は手にしていた弁当をテーブルに置きながら燐の隣に腰掛ける。………ちゃんと席を空けてくれる当たり、すっかりお見通しのようだと思えば、少しばかり頬に朱が差しそうだ。
 「ったく。……おい、奥村、飯粒。食い方までガキに戻っとるぞ、お前」
 そんな勝呂の様子に未だ追いつけていないらしい燐はきょとんとしたままだ。それを見下ろせば、顎の当たりに米粒がついたままだ。
 普段であればそう食べ方が下手なわけでもない癖にと苦笑して米粒取り上げれば、気付いていなかったらしい燐が慌てて顔を拭った。
 「ん、わ、悪い。あれ?勝呂、飯まだなのか?」
 そうしてようやく思考が追いついたのか、弁当の包みを開けて割り箸を手に取る勝呂を不思議そうに首を傾げて見上げた。
 「お・前・を!探しとったんじゃいっ」
 普段であればその能天気な頭に拳骨を落としてやりたいが、流石に今の燐にそれは憚られる。仕方なしにギロリと睨み下ろすだけに留めた勝呂を見上げる大きな目が、またパチリと瞬いた。………驚いたと教えるそれに、若干の頭痛を覚えた。
 「え、そうなのか?悪い、俺あっちこっち行ってたから」
 それでも零れるものが小さな笑みである辺り、少なくとも動き回った中で怪我をしたり危ない目にあったりはなかったらしい。それだけ確認出来れば十分と、割り箸を銜えてパチリと割った。
 そんな勝呂を見ながら、板前達の輪がそっと崩れ始める。………そろそろ休憩も終わりらしい。タイミングが良かったのか悪かったのかを勝呂は悩みつつも、このテーブルはまだ提供してくれるらしい様子に、食べ終わるまでは居座らせてもらう事を決める。
 燐も辺りを見回しながらも、ちらり隣の勝呂が動かない事を確認して、また弁当に箸を向けた。それを視界の端に収め、ちゃんと周囲を見ている癖に、どうにも彼が危なっかしく感じるのは自分が心配性なのかと思い、すぐに胸中で首を振った。
 「まあええわ……あんま無茶すんなよ。身体かて普段とちゃうんやから」
 どうにも燐は自分の身体が小さい事にも、過去とは違い力が弱く体力もない事を理解していない気がする。そここそが目を離せない要因だ。
 だからこそ無駄な事とは思いつつも釘を刺してみれば、やはりまったく気に留めていなさそうな満面の笑みでただ頷かれた。
 「おう!なあそれより勝呂、ほれこれ、美味いぞ。ここの板前さん、凄いな!」
 そういって差し出された箸の先、牛肉のしぐれ煮が一口分、摘まれている。…………つまりこれは食べろという事か。
 一瞬思考が停止したが、悩む事もないかとそのままぱくりと口に含む。子供が何かを共有したがるのは珍しくもない。…………相手は一応、中身は自分と同い年であると幾度も他の人間に言い含めていながら、やはり差し出されるものはその外見年齢で受け止めてしまいがちだった。
 それに、やはり身内を素直に褒められるのは、嬉しい。牛肉を咀嚼しながら、勝呂は自然ほころぶ唇のまま、傍らの子供の頭を軽く叩いて撫でた。
 「そりゃありがとう。腕も確かやけど、みんな気のいい奴らや。やから美味いやろ」
 「おう、今度さ、仕込みの手伝いさせてくれるって。楽しみだな!」
 そんな燐の零れる声と笑みの明るさに、勝呂は眩そうに目を細め、頷きながらまた、その頭をぐしゃりと少し乱暴に撫でる。
 ………ここが、燐にとってまた来たい場所である事が嬉しくて……誇らしい。
 厨房内に散った板前達もその唇をほころばせ、嬉しそうだ。


 幸せそうに弁当を咀嚼して声を弾ませる、そんな代わり映えのない姿こそが幸を呼ぶのだと、知らず教える幼い笑顔。


 …………ただそれが萎れる事無く咲き誇ればいいと、注がれる優しい眼差し達はそっと祈った。





 昼食も終わると、また腹ごなしに少し手伝いをするとはしゃぐ燐を、勝呂は少し心配そうに見つめる。
 オーバーワークではないだろうが、少しばかりナチュラルハイ気味だ。少し休ませるべきかと顔を顰める勝呂に、まだ二人を眺めていた虎子がそっと歩み寄って、過保護と窘めた。
 …………言い返す言葉もない勝呂は溜め息を落として、手を振りながら虎子の指示に従い駆け出す小さな背中を見送った。
 そのまま燐がひとり廊下を歩いていくと、見知った仲居と出会った。
 どうやら小さくなってしまった事は既に話を聞いているらしく、驚かれる事もなく手招きされた。……旅館内ではまず聞かない、歓声ともいえる「可愛い!」の声とともに。
 その声を聞きつけたらしい面々が、こぞって顔を見せにきた。それに燐は目を丸めてしまう。確かにこの旅館には相応の使用人がいるわけだが、それにしてもわらわら現れた人の数には呆気にとられざるを得ない。
 流石に廊下に長居はタブーと、そそくさと燐の手を引いて使用人控え室へと連れ込まれてしまう。お菓子もあるよ、とみんなニコニコしていた。
 ……………途中、思ったよりも短い手足で急ぎ足が出来ず、転びかけたりもしたけれど、それはそれでご愛嬌だ。かなり恥ずかしかったけれど。
 お昼ご飯も食べ終わったし、世話になっているお礼に何か手伝いたいと歩きながら燐がいってみると、やたらみんな頭を撫でてくれて嬉しそうな顔をした。何だか、それを見ていると昔初めて料理の手伝いをした時の養父の顔を思い出す。
 とはいえ、小さな手足では出来る事は少ない。しかも、昔のような馬鹿力すら今はないのだ。それを思い出し、しゅんとしてあまり役には立てないけれどと呟くと、何故かみんなますます笑顔になって燐には不思議だった。
 「大丈夫。奥村くん、その気持ちがあればなんだって出来るんよ?」
 初老に近い仲居が、ほわり笑い、頭を撫でてくれた。………いまいち何の事か解らなかったけれど、その笑顔のあたたかさに目を瞬かせて、燐は知らず頷いてしまった。
 それから、お客様の荷物を一緒に運んだり、お茶を運んだり、テーブルを拭いたりお見送りをしたりした。
 あまり役に立てなかったかなと思っていたけれど、仲居さんもお客様も笑ってくれてた。………こっそり、お客さんがチョコや飴をくれたりもした。
 こんな風に知らない大人が笑いかけてくれるのは不思議な気がして、ほんの数時間の話なのに、喉が痛くなるくらい沢山ありがとうを言った気がする。同じくらい、ありがとうを返してもらえた事が、嬉しかった。
 控え室に戻ると、手伝ってくれたご褒美にとスイカを切ってくれた。途端にお腹が空いて、バクバクと遠慮なく食べていたら、頑張ったから疲れただろうとまた頭を撫でられて照れ臭くなった。
 小さな身体で力も弱くて、たいした事も出来ない。それなのに、そんな他愛無い事をみんな沢山褒めて笑って喜んでくれる。
 そうして……なんとなく、解った気がする。どうして養父が怒ったのか。それから、沢山抱き締めてくれたのか。
 無理をして頑張るのではなく、出来る事を一生懸命。ただそれだけで大人は嬉しいのだと、必死になり過ぎていつも空回っていた自分に知って欲しかったのかもしれない。
 もっとも、あの奔放な養父がそんな殊勝な事を思っていたとしても、自分が問えば鼻で笑って認めてくれないだろう。代わりに、誇らし気に笑って胸を張って前に進めと背中を押してくれる。そんな気がした。
 スイカも食べ終わると、今度は出張所の方に向かった。スイカの差し入れを届けにいく為だ。大きくて重いので、カートの中に座布団で包んで運んだ。
 出張所には鍵を使うし、たいした距離ではないし、昔養父を心配させた程の重さもない。だから大丈夫と受け取ったスイカは思いの外重く感じて首を傾げたけれど、それでもカートに乗せればそれも半減した。
 ………それでも背の高い取っ手に四苦八苦してなんとか鍵を取りに勝呂の部屋までいき、そのまま部屋のドアに鍵を差し込み出張所へと顔を覗かせる。
 するとたまたま開けたドアの正面に柔造がいてお互いに目を丸めてしまった。
 「奥村くん?!ほんまに小さいなぁ」
 たっと駆け寄ってきた柔造が燐の目の前でしゃがみ、視線を合わせてくれる。
 見上げる必要がなくて、首が楽だった。が、そんな事を思うより先に、まだ顔を見せていない柔造が自分の状態を知っている事に驚いて、燐は目を瞬かせた。
 「あれ?知ってるのか?」
 問い掛けたあと、考えてみれば蝮が一緒にオモチャを探したと言っていたのだから知っていて当然かと口を覆う。
 それに気付いたのか、ニコリと笑った柔造が燐の頭を撫でながら頷き、くるり辺りを見回しながら教えてくれた。
 「おん、和尚が数日小さな奥村くんを預かるって言ってはったからな」
 だから他の人間も、出張所にいるものであれば知っていると悪戯っぽくウインクをして告げる柔造が、そのままひょいと抱き上げてくれた。
 ようやく見渡せた室内には、柔造の他にも何人か祓魔師が在中していた。おそらく柔造の声が聞こえていたのだろう、みんなこちらを見ていて、軽く手を振ったり会釈したりしてくれた。
 それに少し照れ臭そうに笑ってぺこりと頭を下げると、何故か柔造が褒めるように背中を撫でてくれた。………多分、完全に子供の扱いだ。
 けれどそうした事に疎い燐はあまり気にも留めず、ふにゃりと嬉し気に笑って顔を向け、思い出したように自分達の足元に横たわっているカートを見下ろし指差した。
 「あ、これ、虎屋から差し入れ!冷えてるからすぐ食べれるってさ!」
 これを配達するのが役目だったのだと弾む声で告げる燐に、眼差しを柔らかく溶かして微笑みながら柔造はしゃがんでカートを立たせた。
 相変わらず、この子は誰かの為に駆け回る事が好きらしいと、内心少し苦笑してしまう。折角幼い姿になっているのであれば、その頃ならば許されていたように、一日中駆け回り遊び倒してもいいものなのに、どうせ動くならば誰かの笑顔の為にと願う優しい子。
 ………自分の力を優しい事の為に使えるようになりたいと、ひっそりと祈り願うまま、それに即した一歩を弛みなく捧げている。
 ぽんとそんな慎ましやかな幼い背中を叩いて撫で、額を合わせるようにして頬を撫でる。小さな子供相手には言葉以上にスキンシップが思いを伝える要だ。
 そうして柔らかく落とされた声で嬉し気に柔造は燐に答えた。
 「おおきに。ほならおとんに声かけんと………って、今どこにおるんやあの人」
 呟きながら、はてと柔造は首を傾げた。
 それに燐は小さく首を傾げて目を瞬かせる。
 「志摩の父ちゃん?一緒じゃねぇの?」
 「同じ場所で働いとってもみんなやる事は違うもんなんよ。今頃やと……菜園やな、多分」
 それなりに京都出張所は大きく、不浄王の一件以後、深部の変動などもあり、特に今は色々な処理に追われている。それでも日々の流れを損なわずこなす事は心身の揺るぎない確立に大切な事と、八百造は忙しい責務に追われながらも日課としている菜園の手入れは欠かさない。
 この辺りは息子よりも勝呂に受け継がれた習慣だとこっそり燐に告げながら、柔造は時計を見ながら父が今いるであろう場所の当たりをつけた。
 そんな言葉に小さく吹き出して確かにと頷きつつ、燐はきょろりと室内を見渡す。ここ以外にも、きっと人はいるだろう。それでもそれは、きっと仕事中だ。
 そして自分はスイカを届ければもうやる事もない。それならばと燐は柔造に笑顔を向けて提案した。
 「ふ〜ん…じゃあ俺、声かけてくるよ。スイカ届けたっていえばいいんだろ?」
 無邪気な笑顔でもっと頑張りたいと告げるような声に、柔造はつい愛好を崩した。小さな子供のこうした健気さがとても愛おしい。誰かが笑顔になってくれるのだと思えば惜しみなく頑張りたいと願う至純さは、大人以上に子供こそが身に纏う美しさだ。
 それを包むように、けれど無理を押し付けないようにとそっと丸い頬を親指で撫でながら首を傾げ、柔造はくすぐったそうに目を細める燐に問い掛けた。
 「そやけど、平気か?疲れてへん?」
 「大丈〜夫!なんかさ、今日は凄く楽しいから、もっと沢山動きたいんだ!」
 へへっ♪と子供らしい笑顔で告げる燐の頭を条件反射でグシャグシャと撫でて掻き混ぜ、柔造はそっとしゃがんで燐の身体を床に下ろした。
 「そっか、ほなお願いしよか」
 それなら任せようと、この出張所内も少しは見て回れるように柔造は燐に言付けを任せた。
 「おう!またあとでな、柔造〜!」
 「おん、あとでまたなぁ〜」
 どのみち菜園といってもそう距離のある場所ではない。廊下に燐を導きながら一番単純な道を教え、柔造は駆け出した背中を見送った。


 ……………こっそりとその後、各部署に燐が八百造を探して菜園に向かっている事は告げられ、迷いかけるとどこからか現れた祓魔師が声を掛け、ルート修正をしてくれた事は燐の知らぬところでの京都出張所の連係プレーだった。




 なんとか迷わずに外に出ると、思わず燐は感嘆の声を上げた。
 目の前一杯に、自分よりもずっと大きな苗木が花や実を付けている。どれも瑞々しい色を讃えて日差しに輝き、収穫を待つように艶やかに輝いて見えた。
 こんな風に野菜が喜んで実るものなのかと驚きながら、燐はどこからこの菜園の中に入れるのかと、入口を探して歩き始めた。
 とことこと歩いても歩いても、背の高い苗木の途切れる場所はなかった。実際は既に菜園内にたたずんでいるのだが、特別仕切りなどがない為苗木達は囲いの一種だと燐は思っている。
 「コラ、誰や、忍び込んどるんは!」
 両手にそれを眺めながらキョロキョロと首を巡らせていると、不意に苗木の奥から鋭い声が響いてびくりと身体が跳ねた。
 「ふぃ?!ご、ごめん?!え、っと……あの」
 誰がどこから声を掛けたかも解らずに燐は首を巡らせて辺りを見回した。すると、調度前方の、燐の右手の苗木の囲いの向こう側、葉の重なりの影よりなお濃く黒い影がある。
 それが人影である事にようやく気付き、けれど誰なのかまでは確認出来ず、燐は駆けよるべきか逃げ出すべきか解らなくてその場に立ち尽くしてしまう。
 ザッザッと土を踏み近付く足音がする。どうしようか、逃げ出すにはもう、遅い。人を探しにきたのだといえば解ってくれるだろうか。それとも、叩かれて放り出されるのだろうか。ぐるぐると回り始めた思考は、容易く過去の日の記憶にリンクして混乱を助長させた。
 怖い、と。思い、竦んだ足を睨むように俯き両手に力を込めた。殴られても耐えられる、そう自分に言い聞かせて息を飲んで眼前に落ちた大人の影と足先にギュッと目を瞑る。
 「うん?………なんや、もしかして奥村くん……か?」
 が、落とされたのは思いの外柔らかくなった声で、覚悟していた衝撃が身を襲う事はなかった。
 それにきょとんと目を瞬かせて、少しの沈黙の後、おずおずと燐は視線を持ち上げる。足先のサンダル。そこを辿り、作務衣に包まれた足、胴、胸……それから、タオルを頭に巻いて縛る、その顔。
 パチリと数度瞬きをして、それから詰めていた呼気を緩く吐き出して身体から力を抜いた。………八百造だ。探していた人が、目の前にいた。
 「え、あ、う、うん………あの、ゴメン、勝手に入ってっ」
 それからようやく彼の声に答えていない事に思い至り、肩を跳ねさせて燐は両手をワタワタと振り回しながら早口に言った。
 それに怪訝そうに片眉を上げ、八百造は緩く首を傾げる。
 「ああ、構へん。すまんかったな、近所の童かと思うたんや」
 萎縮する小さな肩を見下ろし、緩く八百造は首を振ってその頭にぽんと手のひらを置いて呟いた。
 ………不思議な感覚だった。今日は沢山色々な人に頭を撫でられたり叩かれたりしたけれど、こんな風にじんわりと手のひらが乗せられてそっと声を落とされる事はなかった。
 怒っている……訳ではないようだ。それだけは解って、こくんと燐は頷き、八百造の手のひらから見上げるように彼を見遣り、日差しの眩さに目を細めながら答えた。
 「う、うん。でも声かけないで、ごめん。………凄いな、これ全部志摩の父ちゃんが育ててるんだ?」
 「ひとりやないで。明陀のもんみんなでや」
 「そっか」
 淡々と燐の言葉に答える声のどれもが静かで深みのある音色だった。見上げた先の顔は廉造や柔造によく似ているけれど、彼ら程愛好を崩す事はなく、かといって無愛想な程の仏頂面でもない。
 いうなれば静寂そのままだと思う。その声や雰囲気がそのまま形になった、そんな表情だ。
 排他ではなく受容とも少し違う、けれどあるがままを許すように向き合う気配を不思議そうに燐は見上げ、………それから思い出したようにはっと声を上げた。
 「あ、そ、そうだ!俺、志摩の父ちゃん呼びにきたんだ。虎屋からさ、スイカ届けたから。柔造が伝えてって」
 ここに来た目的は彼を見つける為だった。つい驚いて伝えるのを忘れていた。
 慌てて告げる燐に腕を組んだ柔造は微かに眉を顰めた。ように、燐には感じた。実際はあまり表情が変わったようには見えなかった。………もしかしたら、よく似た顔をした廉造達の表情に慣れてしまい、微かな動きを認識しきれないだけかもしれない。
 「スイカ?を、奥村くんがひとりでか?」
 けれどそれをじっと見つめる視線で知ろうとするより早く、落とされた声がどこか窘めを孕むように問い掛けてきた。
 「?うん。あ、でもちゃんと大きいから、今出張所にいる人分くらいはあるって」
 どうしたのだろうと首を傾げた燐が悩みながら、八百造が何を考えたのかを必死に見つめて答える。………多少素っ頓狂なのはいつもの事だと、もしも勝呂が聞いていたなら痛む頭を抑える姿が想像出来る返答だった。
 「ちゃう。まったく、無茶をする」
 はぁと深い溜め息を落とす八百造に、燐は首を傾げた。彼が何を言いたいのか、燐には解らない。
 それとも自分にではないのだろうかと軽く辺りを見回そうとすると……何故か眼前に八百造の腕が下りてきて目を丸めた。
 「へ?え……っ??」
 呆気にとられる程あっさりと、瞬きの間に燐の身体はすくいあげられ、そのままスタスタと八百造は歩き始める。そうして彼は空いた片手で頭に縛っていたタオルを解き、首にかける。
 「こないちっさい手で無茶するもんやない。戻るで」
 そんな合間に淡々と静かな声が告げる。腕の中、燐は八百造を見上げる。
 真っ直ぐに前方を見ている八百造の眼差しはやはり声と同じく静かだ。瞬きながら映しとった視野の中、青空と歳を重ねた八百造の横顔が燐の目に鮮やかに浮き彫りに刻まれる。
 「え、あ、あの、俺、歩け」
 何故いきなり作業を中断して自分を抱き上げて帰ろうとしているのか、燐には解らない。それでも彼がまだ菜園の手入れの途中である事くらいは、彼の背後にあった大きなざるの中に盛られた野菜達で解る。
 邪魔をしないようにと困った顔で腕を突っぱねようとすると、柔らかくその小さな拳をそっと包まれてしまう。
 そうして幼い手のひらを慰撫するように包む指先で撫でられた。
 「………少し我慢しぃ。手の痛いんがなくなるまでや」
 言われ、燐は目を丸めて驚いた。
 スイカの大きさだって、どんな風に運んだかだって、自分は言っていない。それなのに、この人は小さな手が赤く擦り剥けている事を知っているようだ。……バレないように、ずっと軽く握り締めていたのに。
 惚けたように八百造の変わらぬ前を見つめる横顔を見上げた。その眼差しがひどく柔らかい。………不意にこの人は父親なのだと、当たり前の事を思った。
 達磨のように愛好を崩して手を引くのではなく、勝呂のように困ったように小さく笑って頭を撫でるのではなく、柔造のように楽し気に構ってくるのでもなく。
 それでも、無言の中、当たり前に腕を伸ばし抱き上げて、背を撫でてくれる。そのどれもがひどく自然で、すくいあげられてからやっと、自分の視線の高さに驚いたくらいだ。
 「頑張るんはええが、頑張り過ぎたらあかん。それだけは、忘れんとき」
 低く優しく、あたたかな声が紡がれる。それをちらり見つめた。
 真っ直ぐに前を見つめる眼差し。たわむ事のないすらりと伸ばされた背中。………無言で、けれど優しく、あやすように背を撫でられた。
 きゅうと胸の奥が痛くて喉が干上がる。ツンと目頭が痛んだ。けれど、悲しいのでも怖いのでもない。
 それでも溢れそうなものをギュッと唇を噛み締めて耐えようとして……それでも耐えきれなかったものを隠すように燐は八百造の肩に顔を押し付けてその首に腕を回した。
 小さく震えた声でうんと答えるしか出来なかったけれど、背中をあやしていた大きな手のひらがぽんと頭を叩いて撫で、解っているというように答えてくれる。
 見下ろした地面との距離を滲んだ視界で見つめる。養父の腕に抱かれて歩いた頃、これくらいの距離だった。きかん気が強くて意固地な自分は、言葉もへたくそで伝えたい事が伝わらなくて。
 幾度も喧嘩をして、その度に叱られて、けれど、必ず最後に養父は抱き上げて一緒に帰ってくれた。愛おしいのだと、言葉にする事もなくただ抱き締める腕とあやすぬくもりで告げるように、ゆっくりと時間を掛けて歩く足取り。
 その優しい振動が大好きで、知らず腕の中、いつも眠ってしまっていた。そんな事を思いながら、燐はそっと記憶の中の景色を思い出すように瞼を落とした。




 出張所のドアを開け、室内に入り菜園の手入れ時に着用している作務衣姿のまま廊下を進めば、程なく曲がり角から見覚えのあるとさか頭がヒョコリと現れた。
 顔を向ければ勝呂は驚いたように軽く目を丸め、それからすぐに声を掛けた。
 「八百造!………なんや、奥村寝たんか?」
 名を呼ぶ声のあと、そっと音が顰められる。腕の中の子供が眠っている事に気付いての気遣いに八百造は軽く頷いて燐の背中を包むように撫でる。
 「流石に疲れたんやろうと思います。今日はもう部屋で休ませた方がええですわ」
 まるで我が子を抱くような八百造に深く息を吐き出し、勝呂はガシガシと頭を掻いた。どうも虎屋に来てからこっち、燐は休む間もなく動き回っている。
 折角の休日で、身体も本調子とは言い難い状態なのだ。少しは自重という言葉を覚えてもらいたかった。
 「まったく、張り切り過ぎや。何焦っとんのやか………」
 困ったと言いたげな勝呂の顔は、高校生よりは大人びている。どうにもこのまだ子供である筈の坊は、次期座主となる為に周囲を見渡し把握し、細微に人を理解する事に努め気を配る事に慣れてしまっている。
 それを見据え、緩く八百造は吐息を落とした。
 ………勝呂が呟く言葉は、そのまま彼自身にも告げられるべき言葉だ。もっとも、そんな事を言っても彼は認める事はないだろう。己の努力は成すべきものを見据えたならば当然のものと見なしている。
 「坊、小さい方が色んなもんに過敏なもんです」
 緩く吐く吐息とともに、八百造はひたと勝呂を見つめて呟く。腕の中、燐は未だ眠って身じろぎもしなかった。
 「八百造?」
 囁く声の質を見据え、勝呂は怪訝そうに眉を顰めた。日常の中、あまり笑う事はなくとも、彼は志摩家の朗らかな気質もきちんと携え、相対する相手を思い遣る和らぎを持っている。
 それ故に、告げる言葉の中には真っ直ぐに捧げられる意志と、祈りのようないたわりを孕ませている事も、幼い頃から世話を焼かれている身には見知ったものだった。
 そうして、彼が呟くその声が、その腕で眠り子供と……更には自分にも向けられている事を、勝呂は勘づいた。
 「与えられるものに応えたい、そう思う子供なら尚更、惜しみなく捧げ尽くしますわ」
 「……………………」
 「何事にもストッパーは大事。自分でそれが出来ん子なら、周りがそうならんとあきまへんえ」
 自身が幼い日、明陀のものの注ぐ愛情に答えたいと決起し今もその為の努力を怠らないように。そう告げる八百造の声に、きゅっと勝呂は唇を引き締める。
 解っている。燐は、馬鹿ではない。けれど、同時に途方もなく阿呆でお人好しだ。
 己にとって不利益であろうと、自身に成せる事であると見定めれば躊躇わない。他の誰も傷付かずに収められると思えばその身を盾にする事も厭わない。
 そうして、それは戦いの場だけでなく、日常の中ですら零れ落ちる性質だと、知っている。
 緩く長く息を吐き出し、腹の中を空っぽにする。そうしてその中に溜め込むようにゆうるりと、定めるべき意志とともに息を吸い込んだ。
 「肝に銘じとくわ。今日は目ぇ離した俺が悪い」
 真っ直ぐに八百造を見据え、頷く。………燐が無茶をするのであれば、その肩を掴んで諌め、共に打破すべき策を考える。それは、彼とともにいたいと願うならば不可欠な覚悟だ。
 ただ駆けていく彼に顔を顰めて叱るだけではどうする事も出来ない。共に駆け出すのだと、幾度でも彼に教えなければ、きっと解らない。
 そう挑むような意志の強さで八百造に告げ、そっと睫毛を落としたあと、一歩を踏み出して燐に腕を伸ばした。
 「世話かけたな。スマン、代わるわ」
 そう呟き、八百造から眠る燐を受け取った。軽く頭を下げてから廊下を歩む背中を見つめ、ふうと軽く息を吐き出した八百造は更衣室に向かいながらぽつり、呟く。
 「さて、放任も困るが過保護も困る。そん加減が真面目な坊に解るやろか」
 ………なかなか難しそうだと小さく笑い、それでも咲き誇るだろう優しい意志を脳裏に浮かべ、機嫌良く八百造はその足先を進めた。




 八百造から眠る燐を受け取り、そのまま勝呂は外に出た。鍵を持たない勝呂はここまでも歩きでやって来たが、当然帰りも歩きだ。
 腕の中で眠る小さな身体はそれなりに重い。…………が、それも安心して無防備な姿を晒せるからだと思えば、逆に愛しいものだ。
 そっと小さな背中を撫でながら歩む。肩に零れ落ちる呼気のぬくもり。それに頬を寄せるように擦り寄り、こめかみを重ねるようにして小さな肩に頤を埋めた。
 蒸し暑い残暑の日差しに照らされて、汗も滲むし暑いと投げ出したくなる筈なのに、それでもどうしてこんなにも幼い命は手放し難い程に心を満たすのか解らない。
 ツンと鼻の奥が、幼い日に燐が逃げて立ち去った背中を呆然と見送るしかなかった時のように痛む。けれどこれは悔しさでも悲しさでもなく、いうなれば胸が詰まる程の喜びと愛おしさ故だ。
 ………こんな風に、何を背負うでもなく無邪気に無防備に、己であるだけを晒して肩を並べられたならどれ程いいだろうか。
 燐が抱え背負う全ては、ひとり立ち尽くすには過酷で重すぎる。さりとて彼はそれに押し潰される事もなくたおやかに進む先を見据えて歩む。…………その足先が血に塗れようと、気にも掛けずに笑って。
 自分にくらい泣き言を言えと、その肩を掴んで振り向かせ、こうして抱き締めて告げたなら、彼は答えてくれるだろうか。
 益体もない事を考えると思いながら、日差しの下、高い体温を保持する幼い身体をぎゅうと抱き締めた。
 痛まないように、眠りの中、ただ和らぎに包まれるように願いながら、同じくらい、その目を覚まして自分に笑いかけて欲しいと願いながら。
 ………とんだ矛盾だと吐き出した吐息とともに燐の背中を叩いてあやしていると、ふらりと曲がり道の先、袈裟姿のままの達磨が現れた。
 タイミングの良さに目を丸めていれば達磨もこちらに気付き、同じように目を丸めていた。が、すぐにその顔は愛好を崩して歩み寄り、手を上げながら声をかけてきた。
 「おや竜士、帰るとこかい?」
 「おん、おとんもか」
 「今日は燐くんの為に腕振るうて板前達が言うとったからな。食べ逃さんようにな」
 問えば達磨はつるりと剃り上げた頭をぽんと叩きながら、楽し気にいう。食べ逃す…というよりは、一緒に食べられるように、という事だろう。相も変わらずこの父親は燐を気に入っている。
 そう思って片眉を上げて吐息を落としていれば、眼前に達磨の手のひらが迫り、ぽんと燐の頭を包んで撫でた。
 「ようけ寝とるね。沢山、動き回ったんやな」
 少し顎を引いてその手から逃れ、眠る燐の額と鼻先、前髪に隠れて少しだけ見える長い睫毛を見下ろしながら、今度は呆れた溜め息をはっきりと落として父に倣うように燐の背中を撫でた。
 「やり過ぎや。キャパオーバーやろ」
 朝から蝮とパンケーキを作り、終わったあとは達磨と庭掃除。昼食を食べたあとは虎屋で仲居達の手伝いをして、休む間も昼寝の間もなかった筈だ。
 この小さな身体でどれ程のエネルギーを消費するか、燐は無頓着だ。元より魔神の落胤として生まれ育った彼は、おそらくは体力の限界というものをあまり理解していない。
 そうどこか苦味を噛み締めて呟く勝呂に達磨は笑い、あどけない顔で眠る燐の頬を指先で撫でながら柔らかく眼差しを細める。
 「はは、子供はそんなもんや。ギリギリまで体力使って、寝る時はバタンと寝るで」
 呟き、そっと頬を撫でていた指先が燐の眦を撫で……拭うように目元を辿る。
 「せやし、まああどけなく寝とるんに………なんや思い出し泣きかねぇ」
 呟く父の指先は、濡れていた。それに眉を顰め、唇を引き締めた勝呂はぎゅうとまた燐の身体を抱き締める腕に力を込めた。
 八百造の肩に顔を埋め、まるで懐かしいものに縋るようにその手で作務衣を握り締めていた。引き剥がさないでと願うような丸い手のひらが何を望んでいたかなど、勝呂には解らない。
 想像する事は、出来る。けれどその想像を押し付けても、何一つ正答など得られないだろう。………燐は、あまり自身の事を語らない。今ある事実以上の彼の事を知る者は、きっと弟の雪男だけだ。
 それとて共に過ごした時間の中の姿だけで、おそらくは燐の中の深みに眠るものを知りはしないだろう。
 思い、緩く噛み締めた唇から漏れるように吐息を吐き出す。………今度のそれは、悔し気だ。
 「解らん。……聞いてええんかもな」
 この腕の中、何もかも吐き出せという事は自分にとっては楽な手段だ。受け止める覚悟を持てば知る事が出来るならば、燐を認め受け入れた時点で疾うに成せる事だ。
 けれど、語らせるという事は、その事実の全てを燐自身に認めさせ紡げと迫る事だ。それが燐にとって痛みとならず、救いとなるのかどうか………解る筈がなかった。
 そう眇めた眼差しに不甲斐なさを滲ませて呟く声に、にこりと達磨は笑い、息子の背を叩いた。
 「はっはっ、せやね。ほなら、泣くより一杯笑えるようにしたろ」
 その声の明るい弾む様と、腕に抱く身体が驚きに跳ねたせいでか、疼くように顔を震わせ額を勝呂の肩にすりつけた燐がうっすらと目を開けた。
 「むにゃ…ん………ぅ?あ、……れ?」
 そうして顔を勝呂の首元に埋めたまま映る景色の中、手を振る優しい笑顔に目を瞬かせ、不思議そうに燐が呟いた。
 「勝呂の父ちゃん………?」
 「起きたんか」
 どうしてここにと問う声を紡ぐより早く、その声に答えるように勝呂が頭上から声を掛けた。
 「勝呂?!へ?何で?!あれ、志摩の父ちゃん??」
 今度こそ目が覚めたのか、驚きにガバリと身体を起こしたせいで落ちかけた身体を慌てて勝呂が両腕で抱きとめる。そんな苦労に気付きもせずにキョロキョロと燐は辺りを見回して、いつの間にやら市街地の一角を歩いている事に目を丸めた。
 先程までは京都出張所の菜園にいて、八百造に抱き上げられていた筈なのに、知らぬ間に勝呂に変わり、達磨が傍らにいるとは一体何があったのだろうか。
 そんな混乱が伝わり、勝呂は軽く息を吐いて燐の頭を叩き、意識を向けさせると告げる。
 「寝とったから預かってきたんや。ちぃとは休憩せい」
 「せやせや、一緒に帰ろか、燐くん」
 な、と笑う達磨と相変わらずの勝呂のしかめっ面を交互に見遣り、ふと目を輝かせた燐が身体を揺すりながら勝呂の腕を叩いた。
 「なあ勝呂、下ろせよ。俺も歩きたい!」
 弾む声で突然言い出した燐に、勝呂は怪訝そうな顔をした。今日一日、一度でもこんな風に態度で訴えて下ろせとせがむ事はなかったのにどうしたのかと首を捻ってしまう。
 それに動き回り過ぎて既にくたくたな筈だ。きっと昨夜のように唐突にぱたりと眠ってしまうようにエネルギー切れを起こしただろうに、この子供は何を言っているのかと同い年である事を承知の上で窘めてやりたくなる。
 「お前な、疲れ切っとる癖にまた……」
 「いいから!早く!」
 が、燐は聞く耳を持たず、ペチリと腕を叩いてきた。………痛みがあるような強さではないが、そこまで主張するのも珍しい。
 仕方なしに顔を顰めながらも勝呂は腰を曲げて腕を下ろし、燐を地面に立たせた。
 「ったく…船こいだら歩かせんからな」
 「……竜士は厳しいんか過保護なんか解らんなぁ」
 そんな事を言いながら、ひどく当然のような仕草で達磨は燐の右手をすくいあげ、手を握る。
 「やかましっ」
 「へへ……なあ、勝呂も!」
 片手を嬉し気に見上げた燐が、もう片手をそっぽを向いてしまった仏頂面の勝呂に向けて伸ばした。声に視線だけで応えてみせた勝呂は、その仕草に目を丸めてしまう。
 ………まず、普段であれば有り得ない事だ。そもそも燐は甘える事がへたくそで、なかなか我が侭を口に出来ない。
 そんな彼がこんな風に真っ直ぐに甘える事は珍しい。驚きに目を瞬かせていると、焦れたように燐が更に腕を伸ばし、勝手に手を繋いでしまう。
 燐を挟み、達磨と勝呂が歩を並べる。不思議な光景だと思いながらも悪い気はせず、小さく柔らかい子供の手のひらをギュッと握り締めた。
 それに応えるようにギュッと握り返されて、知らず目元に朱が灯る。………熱を灯す頬を自覚しながら、それが不自然でない残暑の厳しさに少し感謝した。
 こうして帰るのもいいものだ。そんな事をじんわりと温もる胸で思っていると、嬉し気に弾んだ燐の声が唐突に響いた。
 「じゃ、ギュッとしてろよ〜。力抜くなよ!」
 ………なんだそれは。そう疑問を口にするよりも早く、燐はえいやっとばかりに地面を蹴って足を宙ぶらりんにする。
 当然、そんな燐を支えるのは達磨と勝呂の腕だ。解っていたかのように達磨は笑って燐を支えながら腕をゆらゆらとしているが、まったく予期していなかった勝呂にそんなゆとりはない。
 足が縺れかけたのをなんとか正し、片側だけ地面すれすれになった燐の足がうまく浮かぶように力を込めて腕を上げる。
 「突然ぶら下がるんなや!驚くやろ!」
 「子供は突然やるもんやで。それに燐くん、言うたったしなぁ」
 「はは、怒んなよ勝呂。俺一回これやってみたかったんだ」
 けらけらとはしゃぐ声で笑いながらいう燐の声にほだされる意識を自覚しながら、それでも勝呂は悪戯小僧を窘めるように顔を顰めて口を開く。
 「こんなん、ガキの頃」
 「楽しいか、燐くん」
 溜め息を落として勝呂が呟きかけた言葉を遮るように、達磨が朗らかに燐に問い掛けた。……達磨が相手の言葉に割って入るような真似をする事は、普段はないと言ってもいい。
 珍しいと勝呂が父に顔を向ければ、眼下で楽し気に歩く燐が達磨を見上げながら弾む声で答える。
 「おう!これってさ、大人が二人いないと出来ねぇだろ?俺、ジジイとしか手、繋がなかったからさ。こうやって遊んでる奴見ると凄い羨ましかったんだ」
 ちゃんと修道院の人達もいた、けれど。それでも中には自分を恐れている人もいて、こんな風に手を繋ぐ事が許されていた頃は力加減もへたくそで。
 誰が手を繋いでいい人か解らなくて、拒まれる事が怖くて、結局養父と雪男以外と繋ぐ事もなかった。
 たまに養父の両手を独占出来る時は、彼に腕を引いてもらい宙に浮かぶ事はあったけれど、別々の人と繋ぐ手のひらは、結局知らないままだった。
 まさか今更そんな幼い日にしたかった事が叶うなど思わなかった。そう屈託なく燐は笑い、キラキラと青い瞳を日差しに輝かせて歌う。
 「でも今日出来た!メフィストの悪戯だけど、ちょっと感謝だな!」
 二人を見上げて笑うその笑顔は、幼いその顔立ちに見合う無邪気なもの。
 それを嬉し気に目を細めてクシャリと顔一杯の笑顔を返しながら、達磨は頷いた。
 「せやね、小さい頃出来んかった事、沢山しよな」
 柔らかなその声を見上げ、燐が目を細めて笑う。達磨と同じ、顔一杯の笑顔で。
 「でもまずは腹減ったから、目一杯飯食うんだ。みんなさ、好きなもん作ってくれるっていうから、すき焼き頼んだんだ♪すげー楽しみ!」
 「お前…何もこの暑い時期にすき焼きやのうてもええやろ」
 そんな二人を見遣り、ついぶっきらぼうな声を落としてしまった自分に勝呂は深く溜め息を落とした。が、燐はそれを呆れた溜め息と受け取ったらしく、頬を膨らませて唇を尖らせ、ぷんと眉を吊り上げる。
 「暑くても美味いって思えるもん作るのがプロだぞ!」
 びしっと叱りつけるように言い返す様は、まるで料理人の気概の塊だ。……ただし、見た目は拗ねた子供そのままの愛らしさで迫力は欠片もなかったけれど。
 その鼻先を摘んでからかいたい衝動に駆られながらも必死に耐えて、勝呂は仕方がなさそうに軽く息を吐いて頷く。そんな二人を楽し気に眺めた達磨が笑って燐の頭を撫でた。
 「燐くんも料理に関してはプロやね」
 そんな呑気な話をしながら、地面を蹴っては宙に釣られ、楽し気に燐は足をばたつかせて笑う。
 昔出来なかったこと。…………そんなもの、思い出すとしても大抵が悔やむようなもの、勇気のなかった事、そんなものな筈なのに。
 燐は当たり前に与えられた筈のものが出来なかったと、あっけらかんといつもいう。そこにある痛みすら、よく理解せずに。
 思い、勝呂はぎゅっと、必要もないのに強く燐の手を握り示す。
 少し不思議そうに自分を見上げた燐の視線には素知らぬ顔を返して、緩く手を振ってやった。
 たったそれだけの事にひどく嬉し気に笑い、燐の手の力も強くなる。じっとりと暑い残暑の空気に汗が出る筈なのに、それでも誰も手を離そうとしなかった。


 そんな風に、歩いていければいい。
 当たり前の事を感謝して微笑み、喜びを分かち合うように。




 繋いだ手のひらを尊いのだと祈る想いのまま、ただ共に……………






 今回入り切らなかったチミッ子燐のお話の小ネタ。

・ひっそり燐に会いにきてちょっかいを掛けたけど、警戒して追っ払おうとする燐が、小さな身体でバランス崩してペチャンと転んでは必死になって追いかける(注:燐は追い払っているつもりです)のに楽しげ無表情で逃げ回る、鬼ごっこがしたかったアマイモン。
・それを弟達のシャッターチャンス☆と待ち構えていたメフィスト。
・虎子さんが用意していたお菓子は和菓子ではなく庭で実った枇杷を使った自家製タルトでした。夕食後に美味しくいただきましたよ。
・……実はこっそり昼間、達磨と庭掃除した時に枇杷を食べさせてもらったのは二人の秘密☆
・そういえば元に戻る時に子供服でいたら服ってどうなるわけ?という燐の疑問に、慌てて迷彩ポンチョの支給を求める勝呂。もしもの時はこれ来て即部屋まで逃げろ。←
・ちなみに持ってきてくれたのは出雲☆メフィストが燐にあげた差し入れ(?)の一部に紛れていた兎の形のリュックの中にきゅっと詰めて渡しにきたよ。あとちゃんとした子供服も持ってきました。
・迷彩ポンチョよりもメフィスト犬のクッション(むしろ抱き枕サイズ)を寄越されて、それを渡さなければ迷彩ポンチョは渡さないという不可解な取引があった事は出雲とメフィスト二人だけの秘密。
・何気に抱き心地のいいメフィスト犬クッションを気に入って使用しているチミッ子燐(元に戻っても)
・そのままちゃっかり居座り出雲。念願の燐抱っこも達成。
・任務から帰ってきて出雲が京都に行った事を知るとちゃっかり柔造に電話して京都出張所に行った廉造。取引材料→昨日のチミッ子燐の写メ。
・宝の撮った写メと今朝のプレゼントに囲まれてテディベアを抱っこしている燐が人気が高かったようです、志摩家。(柔造は蝮に見せる用に、八百造は達磨と蟒に見せる用にちゃっかり貰った。ついでに金造も何故か貰ってた)
・子猫丸は坊の邪魔しないように大人しく寮にいましたよ。クロの世話もあるしね………!←ある意味幸せの極地。
・勉強中、真面目に集中しないので最終的にチミッ子燐を胡座に乗せて教えていた勝呂さん。うん、無自覚に構っているよ、抱っこしている時間の長さも無自覚だよ。きっちり独占欲だという事も無自覚で気付いていないよ。むしろそうある事が自然な流れ過ぎて気付かない。
・お風呂は旅館の大浴場に勝呂父子と一緒に入りました。
・別々の布団(勝呂はベッド、燐は旅館の子供用布団)で寝ていましたが、チミッ子燐が寝ぼけてベッドに入り込んだので(昔からベッドだった癖)朝起きて『?!』と固まっていた勝呂。でも起こすに起こせず、仕方なく二度寝を選択。
・日曜日は特に何も考えていなかったですよ。八百造の抱っこから達磨&竜士と手を繋いでいるチミッ子燐を書きたいが為のお話でございました。ひとまず満足!


 そんなわけで愉快に長くなりましたが、お付き合いありがとうございました。
 色々割愛したせいでシーン毎に区切れていますが(汗)その隙間はどうぞ妄想で埋め尽くしておいて下さいませ。

 二度寝を選択〜のお話を下に書き加えておきました。いや、これないと前回のおまけの話の補完が出来ないな、と気付きまして。
 そしてこちらの文末にて、支部でいただいたタグを一部代名詞のみ変更して使用させていただきました。
  事後承諾でしたが許可はいただきました♪ありがとうございます!!





おまけ。



 暑い。……ひどく暑かった。残暑まっただ中なのだから当然ではあるが、それでも暑いと首を傾げそうな気分で勝呂は目を開けようと睫毛を震わせた。
 カーテン越しに頬に差し込む日差しが今日も快晴である事を教える。日が昇り切る前に日課のジョギングをしてこなければ辛い事になりそうだ。
 それにしても、暑い。……………主に胸元あたりに熱の塊を感じる。
 ぼやけた意識でそんな事を思い、ふとその点に違和感を覚えた。暑いのは当然だ。が、それが確定された場所から暑いというのは、気温に関係がない。何か物質的な関与があるからだ。
 恐る恐る、勝呂はうっすらと目を開けた。思った通りに日差しは明るく目を射る。けれどそれに負けて目を閉ざし惰眠を貪る脆弱な意志を、勝呂は持ち合わせた事などなかった。
 ゆっくりと…殊更ゆっくりと開けた眼差しの先、予想に違わずまず見えたのは黒い塊。そして澄ました耳に響くのは健やかな寝息だ。
 「………何しとんのや、手前は……」
 呆れたように囁く声はひどく小さく掠れていた。
 腕の中、自分にしがみつくような体勢で何故か燐が眠っている。手足こそ丸められていてどこも触れてはいないが、どれだけ上手い具合に入り込めばこうもすっぽりとスペースを埋められるのだと言いたくなる程、燐は横を向く勝呂の懐に転がっていた。
 見下ろしてみれば黒い髪がゆらゆら揺れる。小さな手のひらが緩く丸められていて、突いて指を差し込めばギュッと握り締める赤ん坊の手のひらのようなあどけなさを見せていた。
 微かにそれに微笑みを落とし、けれど同時に眉を顰める。
 ………燐は、丸まっていた。身を守るように腹部に手足を添えて、そのままころりと転がせそうな、そんな寝相だ。
 到底寝易さからは掛け離れている。まるで無意識に外界の痛みから自身を守る術を探すかのようだ。
 その理由を考える。寝起きの頭は巡りが悪く、クルクルと寂し気に俯く燐の顔ばかりが浮かぶ。
 無茶ばかりをして、無謀に駆けていく癖に、自身にまつわる事にはひどく臆病で諦観を孕んでしか見つめられない。仕方がないのだと、寂しそうに笑んで頷いてしまう寂寞の気配が脳裏を染めた。
 そっと、身を起こした。きしりと微かにベッドが軋む音を立てて揺れた。が、燐は少しだけ頤を揺らすだけで目覚めはしなかった。
 その姿を見下ろし、そっと彼の髪を梳く。髪の隙間から現れた幼い耳は、尖りもせずに自分と同じく丸い。………彼が、覚醒するまでは人でしかなかった事を教えるようだ。
 それが、突然悪魔となる恐怖は、どれ程だろうか。考える事も出来ないと眉を顰め、そっと息を詰めた。
 自分では、解る事は少ないだろう。燐程全てに対して素直になど出来ていない自分は、まず頭で物を考え行動に出てしまう。そんな自分が感情について考えても、理路整然と言葉に換えるばかりで本質を紡げない。
 解っている。それでも、自分に出来る事とて、きっとある。
 もしもないと言うならば、出来る事を作ればいいだけの事。そう引き締めた唇で微かに頷き、しっとりと汗を孕んで湿りげを帯びた燐の髪をもう一度梳く。
 「………いつか、お前が」
 小さくそっと、囁くように呟く。眠る彼には聞こえない。解っていて、否、だからこそ、音に換えた。
 彼に告げるつもりはなかった。自分が彼の全てを未だ解らないように、彼にもこの言葉の意味はきっと伝わらない。まだまだ、自分達の間にある隙間は互いを繋げるには頼りなく弱い。
 ……………彼の涙を、抱き締められない程度には、まだ。
 「誰よりも一番に泣き言いえる、頼れる、甘えられる、そういう奴に」
 掠れた声が、小さく燐の幼い耳に注がれる。鼓膜を震わせはしても彼の意識には届かない祈りの声を。
 これは自分の我が侭だろう。そう眇めた眼差しで思い、眠る燐の丸い頬を見下ろす。
 ………ただひとり駆けていく彼が、背中を預けるに足るのだと笑ってくれるといい。共に目指す先を求めてこその歩みなのだと、叱る声に真っ直ぐに目を向けて答えてくれるといい。
 いつものような困ったような作った笑顔で謝るのではなくて。己の意志でそれを選んだのだとその綺羅やかな青で見据え、告げてくれればいい。
 そうしたなら、自分はそれを誉れに思う事だろう。そうして、彼が進む先、障害となるものを取り除く最善をこそ、考える。
 共に歩み、先を見つめ、駆けゆくその足先を傷つける茨をなぎ祓い、大地を踏みしめる。笑い合い、無謀すらも希望に変えて信じ見据える、そんな絆を。
 「きっと、俺が……………」
 与えられれば、彼の悲しみは癒されるだろうか。悲嘆は微笑に変わるだろうか。
 囁きは掠れ、飲み込むように閉ざされる。
 握り締めた拳。噛み締めた唇。……険しいと窘められるだろう顔つきで、じっと彼を見下ろした。
 腕の中の、健やかな寝顔。この愛しまれるであろう子供が幼い日々に受けた痛みがいかほどか、なんて。今の自分が考えても何も取り戻す事の出来ない事実でしかないのだろうか。
 …………笑顔を注ぎたいと願う大人達程に純然と、自分は祈れないけれど。
 それでも、これ以上痛みも知らず不器用に笑んで受け入れてしまう彼が悲しみに浸らずに生きてくれるといい。
 むずがるように微かに身じろぐ幼い四肢をあやすように髪を梳いて落ち着けた。そうしてなら、ほぅと小さな吐息とともにくたりと弛緩した燐の手足が、無防備に転がった。
 胎児のように丸まり眠るのではなく、その身を晒して転がったのは、きっとただの偶然だ。解っている、けれど。それでも眼差しを染めた水膜はどうしようもない。
 彼が笑い、喜びに満ちて生きてくれれば、それでいい。
 …………けれど、もしも。
 もしもそれが不可能なのだというのであれば。

 この腕が彼を支え、共に未来を掴みとる為に進めればいい。


 ぽたり、子供の頬に落ちた水滴を啜るようにそっと、身を屈め口吻ける。
 まるで眠る彼が知る筈もない、密やかな誓いを捧げるように厳かに。

 眦に落ちた水滴が、その頬を彩るより早く、もう一度。



 …………愛しい君に溢れる程の喜びが、降り注ぎますように。



 他愛無い、当たり前の祈りを小さくそっと口吻けた睫毛に囁いた。










 虎屋の人々、八百造や柔造、勝呂家族に可愛がられているチミッ子燐のお話、ラストでございます。
  八百造の話までしか考えていなかったのでぼんやりこんな事もあるのかもね☆な小ネタはラストに箇条書きしました。そこから派生した小話だけは必要上書き加えてみた。ら。……普段よりはカプ色が上がったのだろうか。と少々悩みましたよ。
  チミッ子燐を抱っこしたり撫でたりに慣れると、元に戻ったあとについ腕引いたり頭撫でたりしてもお互い違和感感じなさそうで怖いですね☆(それ故の中身は同一でのチミッ子化………!)