柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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バカで愚かな男

それしか表す言葉がない

自分の傷には気づかないで
人の事ばかり
疑う事を知らないで
信じてばかり
自分たちとは対極にいる
苛立たしいほどの、お人好し

だから、
バカで愚かで

…………こんなにも、視線が惹き寄せられるのだ





伏せた睫毛の揺れる先(中編)



 立ち去った男は少しだけ小さく見えた。
 先ほどの傲慢な物言いを思えば、それは消沈しているとも受け取れる。もっとも、いった言葉を後悔して落ち込むバカを、自分はよく見かけているので、その程度で同情はしないけれど。
 それよりも今は気にかけるべき存在がいる。一歩前に立ったまま動かない、自分よりも背も高く年齢も上の彼。
 その顔色はいよいよ悪くなる一方だ。この状態でよく病室から外に出してもらえたものだと、いっそ感心してしまう。あるいは、無断で抜け出したのだろうか。彼ならやりかねない無茶を想像して、知らず顔を顰めてしまう。
 「…………」
 何か、彼が小さく呟き、ふらりと……身体が揺れる。
 「成歩堂龍一!」
 ぎょっとして叫ぶように名を呼び、その肩を掴んだ。手袋越しの体温は、それでも十分高い事が知れて、尋常ではない彼の体調を決定づけた。確信し、僅かに自分の身体も震える。
 ……もしも彼がここで倒れたなら、自分では支えきれない。ましてやあの橋を渡らせる事など、不可能だ。それはそのまま、この極寒ともいえる場所に放置しなければならない事を意味していて、悪い結果が脳裏に浮かぶ。
 弱気な考えに頭を振り、舌打ちをして、身体を翻そうとする。まだなんの調査も出来ていないが、そんなことを言える状態ではない。少なくとも、いまこの状態で彼が正しく現状認識出来るとも思えなかった。
 このまま奥の院にやってきた捜査官たちに彼を引き渡し、強制的に病院に戻らせよう。そう決めて進みかけた足を、止めるものがあった。
 「…………待った、狩魔冥」
 自分が支えたままだった彼の肩に置かれた腕を、彼は掴み、淀みない声でいった。
 力の無ささえ気づかなければ、その声の質は普段と変わらない。少しだけ震えを帯びている指先も、触れていなければ気づかないほど微弱なものだ。…………ただ、触れた肌の熱さだけが、彼の高熱を知らしめていた。
 眉を顰め、その指先を振りほどこうかと思い、止めた。
 彼よりも力のない自分でも、恐らく今なら容易くそれを解く事は出来る。けれどその衝撃がそのまま彼に与えられる事は、避けるべきだろう。
 どれほど気丈に立っていたとしても、彼の体調が最悪である事は疑いようのない事実だ。いま彼が与えられる衝撃に耐えられるとは、到底思えない。
 掴まれた腕はそのままに、睨み据える視線で彼を見遣る。視線の先には困ったような顔で笑みを浮かべている男。
 「何の用?」
 「………大丈夫だから、気にしないで?」
 素っ気なく言い捨てた言葉に彼は苦笑して応える。まるで子供を窘めるような口調だ。
 掴まれた腕は力などほとんど入っていない。もしも今タンスの一つも動かせと言われればそのまま倒れる程度には、力がないだろう。だからか、先ほどから自分を止めるために言葉以外の一切を使わない。
 「その言葉をどれだけの人間が信じるか、試すといいわ」
 ふんと鼻先で笑い、彼の言葉を切って捨てる。自分の返答に彼は少しだけ目を丸めて、ついで優しく、綻ばせた。
 「………手厳しいね」
 首を傾げながら、彼はどこかあたたかな響きを持つ声でそんなことを言った。褒めるようなその声に、かっと頬が熱くなる。
 彼との年齢差を考えれば、自分はまだ子供だろう。どれほど背伸びをして肩肘を張り、同じであろうと仕事をこなそうと、重ねられた年輪故の経験値や人間としての深みはどうしようもなく遅れをとってしまう。
 惰性で生きた人間ならば踏みつけて先に進めるが、誠実に生きる事を見据えて歩んできた人間を追い抜けるほど、まだ自分の人格は完璧ではない。
 ビィンと、ムチをしならせる。これで打ち付けて強制的に眠らせてしまおうか。どうしようもなくなってしまうとそんな事に頼る自分の弱さは、好きではなかったけれど。
 まだ掴まれたままの腕は、それでも怯えに震えはしない。先ほどから続く微弱な震えは、悪寒故だろう。早く、彼を帰さなくては。この審理が彼にとってどれほど重要でも、彼の命に代わるほどの重さなど、あるはずがない。
 「成歩堂龍……」
 「ありがとう」
 彼の名を呼び強制退去を突きつけようとした瞬間、彼が笑んでそんな事をいった。
 ………優しく穏やかな、笑みだ。その顔色の悪ささえなければ、誰もが見惚れるほどに。
 その事実に微かに眉を顰め、彼に掴まれていない腕を伸ばす。触れるのに邪魔なムチは、無意識に手からこぼれ、畳の上に落ちた。
 それを視線で追う彼の首筋に手袋越しに触れれば、指先には熱を感じる。厚手ではないとはいえ、障害物のある感覚の先でも解るなど、安静にしていなければ取り返しのつかない結果にも至るはずだ。ましてやここはその状態を悪化させるにはあまりにも好条件が揃い過ぎている。
 調査をしたいのだろうと、自分の権限を見せつけて連れ回したのは、確かに自分の我が侭だ。彼が彼としての法廷を演じるには、他者から与えられた情報だけではなんの意味もないと自分は知っている。
 見落とすような些細な事。あるいは、繋がる事のない情報。そんなものが、彼の中では積み重なり織り込まれ、知らぬうちに真実という一枚の美しい布を織り上げてしまう。
 それは、見つめていて感嘆さえこぼしそうな、作業だ。他の誰にも真似出来ない、対峙した人間だけが知る事の出来る、あの緊迫と静謐を織り交ぜた厳かな空間。
 息を飲み、顔を歪める。自分は良かれと思い、いつだって行動する。完璧であるという事は、そういう事だ。決して後悔と後ろめたさを持たずに駆け上る。誰にも非難などさせない。
 けれど、いま自分の胸中を占めるのは、怯え、だ。
 …………決して失ってはいけない命を危険に晒している。独り善がりの身勝手な意志で、彼をここまで連れてきた、から。
 「心配、してくれて。……ううん、ここに一緒に来てくれて、ありがとう」
 沈みそうな頤を必死の自制心で留めていれば、掴んでいた腕を放し、彼はそう呟いた。優しい笑みだ。慰めるような、労るような、声。
 彼を思いそうした訳じゃない。それは身勝手な自己満足だ。解っているから振りかけた頬を、そっと彼が押し止める。頭を、撫でられた。そんな行為、どれほど振りだろうか。完璧であれと奨励され、そうあろうと努めて弱味を晒さず生きてきた自分に、そんな事をする大人はいなかった。
 「止まったら、僕は生きられないから………ありがとう」
 あのまま何もせずに待っていればいいと言われたなら、身動きも取れなくなる。彼はそういって、嬉しそうにその顔色の悪ささえ払拭する笑みで、いった。
 その顔を見て、遣る瀬無さを知った。………よく知る弟弟子が打ち沈む理由が、何とはなしに解ってしまう。
 彼は、進み続ける生き物だ。留まる事は出来ず、自身を顧みる事も出来ない。生きる限り何かを追い求め続け、先を見据えて歩む。
 きっと、こんな言葉さえ、いつもであれば言わないのだ。己の中に押し止め、激情をぶつけられようとやんわりと抱き締めるだけで、流されはしない。
 自身の言葉の重みを、おそらくは彼は知っている。そしてそれが相手に与える痛みさえもを、知っているのだ。
 高熱に冒され考えうる限りの悪質な症状をその身に与えられてなお、立ち上がるその精神力も、全てを賄い覆い隠せる訳ではない。……………完璧などありはしないというフレーズが、脳裏を掠めた。
 「………狩魔、冥?」
 答える事なく唇を噛み締める自分に、不思議そうな声が与えられる。
 きっとこの先、もしも今日という日がなかったなら、自分は知らなかっただろう。弟弟子が打ち沈み戸惑いを乗せて彼を見るその理由を。
 彼のために何かをしたいと願い奔走する、あの不器用さの糧となるものを。
 どれほどこの男はバカで愚かで……不器用なのだろうか。人のためにしか生きられないなど、己自身を殺す意味しか持ち得ないというのに。
 首を傾げて自分を見遣るのは、幼い男だ。純潔に生きた訳でもあるまいし、その意志を残し続けるのにどれだけの傷と覚悟を必要としたのか。考えるのさえ、拒みたい。
 奥歯を噛み締め、漏れかけた溜め息を飲み込んで、睨み据えるようにして自分の頭を未だ撫でる愚かな男を見上げた。
 「………解っているなら、しゃんとなさい、成歩堂龍一」
 冷たい声で言い放ち、頭を振るう。与えられていた指先は心地いいけれど、それに甘える気は毛頭なかった。
 自分がやりたい事は、この男が明日の法廷で真実を掴み取ること。自分以外の誰かに負ける事など許さない。いつか必ず、自分こそが彼を打ち負かし、その痛みを突きつける。生きる事に不器用すぎる愚か者には、似合いの結末だろう。
 そうして彼が自身を顧みれるようになれば、いい。そうしたなら、きっと、彼の周囲にいる少女たちとて、もっとずっと安堵して笑えるのだ。
 「それとも、捜査を打ち切りたいの?」
 「それは願い下げ、だよ」
 ふんとせせら笑って告げてみれば、彼は不敵に笑んでそんな返答を寄越した。
 響いた音は、どこまでも清らかに澄んでいて、胃の奥が痛む。それを押し殺し、颯爽と背を翻して、歩んだ。
 背後では緩慢な動きを息を飲んで押さえ込み、自分に負けぬように歩む彼の気配。
 バカで愚かでどうしようもない、男だ。
 それでも誰もが祈るのだろう。その歩むための足が傷つかぬ事を。………手折られる事なく前に進む事を。

 早く早く、進めばいい。


 もっと早く、時間が手繰り寄せられればいい。
 そうしたなら、あるいは、彼は振り返り、自身の傷を見つめるだろうか。



 詮無き事だと吐息とともに飲み込んで、唇を引き締めた。


 飲み込んだそれは、冷たく静かに胃の腑を刺激したけれど。
 追いついた彼がそっと肩を叩くそれだけのぬくもりで、霧散した。






 冥ちゃん視点は難しいなぁ。どんな感情で成歩堂を見ているのかが微妙だからだろうけれど。
 …………まあバカだという認識は確実にされているかな、恐らく(苦笑)
 3−5の冥ちゃんのかっこよさというか、頼れるあの行動力は素敵でした。凄いよこの子、どの検事よりも頼りがいあるよ!と心から賞賛させていただいた。
 彼女よりもみんな年上でそれなりに経験値もあるはずなのに、なんであんなに頼りなく見えるのか 、不思議な話だ。
 ちなみに、成歩堂が少し遅れて追いついたのは、冥ちゃんが落としていったムチを拾っていたからですよ。そういうところは目敏いんだ、成歩堂。

07.9.4