柴田亜美作品 逆転裁判 NARUTO 突発。 (1作品限り) オリジナル (シスターシリーズ) オリジナル enter |
昔から彼は誤解されがちだ 君への祈りをこの胸に ぼんやりとソファーに座りながら成歩堂は室内を眺めていた。 今日はボルハチでの仕事もなく、自分宛の依頼もなかった。精々裁判員制度シュミレーションの今後の打ち合わせがある程度だが、それも相手の仕事が終わらなくては話し合いの時間すら始まらない。 それを思い出し、成歩堂は時計を見遣った。時刻は既に夕方6時。とはいえ、時間の指定が出来そうにないといっていた相手の忙しさを考えれば、まだ当分待ちぼうけを喰らわされることは目に見えていた。 申し訳なさそうな、といえばまだ聞こえのいい、不満そうな声で告げていた電話の相手を思い出す。何年経っても彼の応対は変わらなかった。幾度も繰り返し窘めてはいるけれど、相変わらず自分にばかりその腕を伸ばし、傍に居たいのだと明け透けなその態度で訴えてくる。 時を重ねた分したたかで太々しくなったという点だけは自分と同じかと思い出し笑いを唇に浮かべると、事務所のドアがノックされた。 誰だろうと立ち上がりながら、成歩堂は一人ずつ可能性のある人物を思い浮かべた。この事務所に訪れる人間はそんなに多くはない。………少ないとも言い切れないのが難しい境目ではあるけれど。 一番始めに浮かぶのは当然この事務所の所長であるみぬきだった。が、彼女は既にビビルバーのショーに出向いている。同じく事務所に所属している弁護士である王泥喜は、珍しく弁護士としての依頼が舞い込んだので、その調査に向かっている最中だった。 そもそも二人であればノックなどせずに勝手に入ってくるだろう。思い、ドアに手をかける。知らず浮かんでいた笑みは、おそらく本人すら知らない柔らかさだ。 依頼人という可能性も一瞬脳裏を過るが、こんな時刻に来ることはまずあり得ない。可能性を消去していくと、自然と残されていくのは今日このあと会う約束をしている幼馴染みの顔だった。事務的ともいえる話し合いが名目の逢瀬だけれど、それでも会えることは嬉しい。……それを相手に伝えることは滅多にないけれど。 ただ会って資料に目を通し推敲と計画の立案、更に今後の展開予測と必要な人材の選出。シュミレーションの更にシュミレーションをしなくてはいけない。やらなくてはいけないことは山と築かれている。それでも、その中のほんの一握りではあるけれど、彼に会う時間も確かに保証されているのだ。 たったそれだけだったけれど、それでも久しぶりにその顔を見れるのは成歩堂にとっても喜ばしいことだった。 彼が無理をしないでも仕事という名目であれば融通が利く。負担をかけていることを自覚しているだけに、今回の立場は少しだけ有り難いと思ってしまうことは否めなかった。 彼の立場的なものも当然ながら、それを差し引いてもなお、その忙しさは眉を顰めるに値するものだ。たまに会えるときくらいは彼にも息抜きをしてもらえると良い。そんな風に思いながら、成歩堂はドアを開けた。………ドアの先にいるのは彼だと思い込んだまま。 「いらっしゃい、ミツル……ギ?」 「え?」 開けたドアの先、佇んでいたのは告げた名前とはまるで当て嵌らない人物だった。お互いにそれは解っているため、目を合わせたまま惚けたように数秒の沈黙が降った。 目を瞬かせながら見遣った先にいるのは、美丈夫というに相応しい待ち人とは少々異なるタイプの美男子だった。柔らかな物腰を彷彿させる整った顔立ちの中、困惑に揺れる瞳が少しだけ幼い。 それに苦笑しながら、成歩堂はそっとドアから手を離す。身体を若干後ろに引いて、自身で閉ざしていた事務所内への入り口を開けた。そんな所作すら相手はまだ気づかないのか、惚けた顔のまま成歩堂を見つめていた。 「いらっしゃい、牙琉検事。取り合えず、中に入ってよ」 仕方ないと声をかけた成歩堂は、常のスタイルとなっているニヒルな笑みを口元にだけ浮かべる。 いつも通りの気怠気な笑みに戻した成歩堂を見遣りながら、響也が少しだけホッと息を吐いた。同時に躊躇うように少し視線を揺らめかす。 それは室内に入るか否かを悩むように見えた。 「?どうかした?」 用件がなんであるかはともかく、中に入るように促したにもかかわらず入ろうとも断ろうともしない相手に、不可解そうに成歩堂が声を掛ける。それは響也も理解しているのだろう、数瞬の躊躇いとは打って変わり、真っすぐに成歩堂を見遣ると問いかけた。 「もしかして、来客予定が?」 「ん?ああ、まあ……あるにはあるけど、来る時間も解らないし、時間があるなら暇つぶしに付き合ってよ」 若いながらそうした気遣いと観察力は十分にある響也に成歩堂は軽く笑い、気遣いは不要であると示すようにパーカーのポケットに両腕を突っ込みながら背中を翻した。その背を見ながら、響也は溜め息を吐き出す。 つい今さっき、ドアを開けた瞬間の彼の笑みを、思い出す。 ……………今のスタイルが身に付いて以降は見かけなくなった、……否、それ以前とて恐らくは親しいものしか知らないのだろう、柔らかく綻んだ笑み。喜色を浮かべて招き入れるはずの相手は、少なくとも自分ではなく、その事実に落胆とてあるはずだ。が、成歩堂はそれを欠片も見せはしない。 もとより今の発言を鑑みれば、まだ来るはずがないと思っていたのかもしれないが、だからといって訪問者が自分であったことに不満が浮かばないはずはないのに。無関係の自分ですら一瞬惚けてしまうような笑みを浮かべてまで待ち望んでいる相手がいるだろうに、彼はそれを差し引いてなお、目の前にいる人間をぞんざいには扱わない。 …………それは、自分のように彼にとってマイナス要素でしか構築されていないような人物であっても、だ。 思い、訪問したのは自身でありながら、この事務所に足を踏み入れることへの罪悪感が胸中で頭を擡げた。それは、決して目の前で無防備な背中を晒す相手に気づかれてはいけない感傷であり、意識だった。 拳を握りしめて、それを飲み込む。顰めかけた顔に常の笑み浮かべられているかさえ、解らなかった。息苦しささえ感じる圧迫は、自分が感じるにはあまりに身勝手な感傷だ。 「牙琉検事?」 けれど成歩堂はそれさえ理解しているかのように、また名を呼んだ。なんの含みもない、素のままの声。 窺い見た先にいるのは室内灯の下、笑んでいる男。7年前、自分が陥れてしまった無実の人。 感傷は、消えない。彼への負の念が消えるわけがない。けれど、それすら相手が受け止めて飲み込んでしまうならと、響也は小さく息を吸い込み、踏み締めるように一歩前に進んだ。 たった一歩入り込んだ室内は、優しく受け入れてくれる。明るい照明の中、雑多というべき物に溢れたそこは、不思議と人を拒まなかった。 ………ここは、関わるものにとって憩えるようにと、主が願った場所なのだろう。 それは所長であるみぬきの意思だけではなく、その彼女を擁護し慈しんでいる成歩堂の願いだ。 それに気づいて、目の前の彼がかつて法廷でしたような不敵な笑みを真似るように唇に浮かべた。過去にたった一度だけ対峙した、彼の最後の法廷で浮かべた小生意気な若者の笑み。 それに一瞬だけ驚いたように目を大きくして、次いでそっと囁くような吐息を落とす。 「うん、それくらい生意気な方が坊やらしいね」 含み笑い、成歩堂もからかうようにいった。………細められた瞳がひどく優しくて、まるで彼の子供にでもなったかのような錯覚を受ける。 これを普段から示されているのだから、みぬきや王泥喜が彼に傾斜しやすくなるのも仕方がないのかもしれない。そんなことを思い、響也は苦笑した。 大雑把な気性のせいか、成歩堂は人を非難したり排除したりする意識が薄い。だからこそ、傷を抱えた人間に、彼の傍は居心地がいいのかもしれなかった。 そんなことを思いながら見慣れない道具に溢れた室内の、更に奥に歩を進めた。今日この事務所に訪れたのはたいした用事でもないが、彼が望むなら少しくらいの時間潰しを出来る余裕はあった。……若干、自分に彼の話を聞きたいという誘惑がなかったともいえないけれど。 彼は何も話さない。過去についても現在についても。多くを語らず、笑みの中で全てを自身一人で抱えてしまう。シュミレーション裁判の件が、一番顕著な例だっただろう。 何も知らない弁護士と検事に全てを託し、真実をそれでも明るみに出すべく、彼は影であることを諾とした。栄光も賞讃も名誉も何もないその位置を、恐らくは笑んで受け入れたのだろう。 彼が求めるのは、真実だ。それ以外見向きもしない高潔さを、他に響也は知らない。………否、たった一人だけ、いる。先ほどの成歩堂の取りこぼした名を冠する、自身の上司に当たる人物。 その人を思い浮かべながら、手にしていた封筒をそっと窺い見た。あるいは、彼らもかつてはこのような関わり合いをしていたのだろうかと、夢想しながら。 立ち尽くしたままの響也にソファーに座るよう成歩堂は示し、自身はそのまま奥へと進む。どうしたのかと見遣れば、おそらく給湯室があるのだろう場所に入り込み、すぐにまた出て来た。 茶をいれるにも早すぎると訝しんでみれば、その手にはグラスが二つと何やら瓶が一つあった。一瞬アルコールかとも思ったが、どうやらそれはジュースのようだ。 「で?今日はどうかしたのかな?」 悠々とした雰囲気のまま、成歩堂はグラスにジュースを注ぎつつ問いかける。並々と注がれたそれは、グレープジュースだと色合いで理解できた。ソファーに座った響也の前にも一つグラスを置き、成歩堂はそれを口に含んでいる。 礼を言いながら同じように一口飲み込み喉を湿らせたあと、響也は手にしていた封筒を成歩堂に差し出した。二つあるうちの片方、隅の方に王という文字が丸く囲まれている。 目を瞬かせながら成歩堂は、自分に渡されるには不釣り合いなそれを手にした。が、このあと訪れる相手であればまだしも、響也が自分に渡す物はないはずだと首を傾げた。 そもそも王という文字からして、この事務所でそれを渡されるべき相手は、成歩堂ではなく王泥喜であろうことは簡単に予測できる。 中身を見ていいものかと一瞬悩むが、もしも見てはいけないものであれば渡す前に一言添えるはずだと、そのまま封筒を開けて中の書類を見た。と同時に瞠目する。 それが響也にも解ったのだろう、楽し気な笑みを浮かべた。 「これ…は、オドロキくん宛、かな?」 「そう。………今回オデコくんの相手検事は、ボクみたいだよ」 鑑識結果や現場の報告書が数枚入ったその封筒を手にしながら、成歩堂は珍しいものを見つめるように響也を見遣る。正直、自身が弁護士として奔走していた頃、相手検事は証拠を隠しこそすれ、率先して与えようとなどしなかった。 彼が王泥喜の相手検事で良かったとこっそりと笑みを浮かべ、それを隠すように書類を手にして目を通す。 事件の概要は知らないけれど、この書類だけでも充分解ることはある。何よりもはっきりしているのは、自分の時もそうだったけれど、依頼人が崖っぷちにたたされている、限りなく犯人として疑わしい立場にいるということだろう。 苦笑を浮かべながら、今回も苦労するだろう王泥喜に同情をした。もっとも成歩堂から見てみれば、相手検事が響也であることが救いだろうと同情点は若干減ってしまう。少なくとも彼は被告人を断罪することだけに重点を置かない。 その思いが滲むように成歩堂の唇が綻ぶ。あまり詳細まで目を通すわけにはいかないだろうと考えて、数枚をざっと読んで確認しながら、すぐに書類から顔を上げた。 「そっか、まあ……君が相手なら安心だよ」 書類を封筒にしまい、楽し気に成歩堂は笑いながら告げる。自分の時のような相手検事だったなら、きっと王泥喜の苦労は今の数倍以上に跳ね上がるだろうことは、簡単に予測がついた。 微笑ましいとも見て取れる歳若い二人の法廷は、けれど過去に置ける自分のそれとは異なって、そこまで心臓に悪いものではなかった。 けれど相手は若干思い違いをしたのか、成歩堂の言葉に微かに眉を顰め、僅かに声を鋭くして口を開いた。 「………言っておくけど、ボクは勝敗にこだわらないだけで、検事としての能力が劣るわけじゃないよ」 自身の力量を軽んじられていると感じたのか、響也は鋭い眼光で成歩堂を睨み据える。 確かに王泥喜を相手に有罪判決をとったことはない。けれどそれは、被告人が無実だからこそ、だ。本当に罪を犯しているのであれば、容赦などしない。検事としての職務を自覚していないわけではないのだから。 自分の罪を知っているからこそ、誰よりもそれを理解してもらいたい相手に、それを否定されることは許せないと、響也は挑むような視線を隠しはしなかった。 常の笑みも、柔らかな敬語もなくした相手の様子に、成歩堂は嬉し気に目を細める。 響也が持ってきた封筒を手の中で弄びながら、懐かしそうにそれを眺め、そっと目を瞑る。思い浮かぶのは、かつて弁護士として奔走していた頃の記憶。まざまざと浮かぶ、鮮やかなそれらは色褪せることもない。 たった3年の出来事だ。人生の中の、ほんの3年。それでもあれほどまでに濃密な3年もそうはないと、苦笑が浮かんだ。 「だからこそ、だよ」 「…………………………?」 「君は検事としてもレベルが高いけど、それ以上に、真実を必要としてくれる。まだまだオドロキくんはヒヨッコだからね、君みたいな検事が相手だと、彼の成長も歪まないでくれると思うんだ」 同じように真実を必要とし、有罪の人間を無罪にするような真似はしないでくれるだろうと、成歩堂は笑んだ。ひどく懐かしそうに、柔らかく。 その様に、毒気を抜かれたように響也は目を瞬かせて成歩堂を見遣った。相変わらず、成歩堂がたたえている笑みは柔らかくて……少しだけ、寂しい。 「それこそ御剣が相手検事だったら、オドロキくんなんて秒殺だよ」 楽し気にそんなことを言い、成歩堂は何気なくまた時計を見た。携帯電話も音楽を奏でない。まだ暫くは彼は訪れないのだろうと、小さく息を吐く。 そんな成歩堂の様子を見つめながら、響也は首を傾げた。彼の発言に矛盾を感じるのは自分だけなのだろうかと思いながら、少しだけ逡巡する。 それでも知りたいという欲求は無くならない。それがあるからこそ音楽でも検事としても、とるに足らぬものを見過ごすことなく拾い集め、真実を構築し人を共鳴させる力があるのだろう。………本人には無自覚な部分ではあるのだろうけれど。 見遣った先の響也をそんな風に評しながら、成歩堂は問いかけの言葉を探している彼の言葉を待った。 「あの………いいですか?」 「ん?どうかした?」 君まで拗ねるのかと、からかうような声で言いながら成歩堂は定まったらしい響也の問いかけに目を向ける。 僅かに目元を赤くしている響也には、先ほど不貞腐れた思いがあったことに自覚があるのだろう。言い淀むように少しだけ顔を逸らしたあと、観念してまた成歩堂へと視線を戻した。 「あなたたちも真実を追究していましたよ………ね?」 「うーん、僕は御剣と再会当初はひど扱い受けたしなぁ。どうだろ?」 にっこりと食えない笑みを浮かべながら答える成歩堂の言葉は、けれど嘘ではなかった。 事実、3年間の弁護士時代の間、彼が法廷の中で真実こそを重要と考えてくれたのは最後の一年間ほどであったし、その頃は海外研修も多く入り込み、あまり日本の法廷には顔を見せないことが続いた。 勿論、その後成歩堂が弁護士を辞めたあとも御剣自身の真実への真摯な姿勢は崩されなかったのだから、響也の言葉はある意味正しい。が、あなたたちという区切りの期間で考えるならば、とても微妙なものだと言わざるをえない。 ましてやこんな風に情報を教えてくれることは、皆無だった。しかも同じ事件を担当しているなら、むしろ現場からさえ追い出されかねない。 ……思い返せば返すほど、随分ひどい扱いだったものだと苦笑する。今更それを愚痴るつもりも気にかけるつもりもないけれど。 「だってあいつ、結構身勝手だろ?我が侭というか……自分のロジック崩されると拗ねるしさ」 「……なら、なおのこと、情報を共有して真実を明るみにしておけば………」 躊躇いながらフェアであろうとする響也の言葉に、成歩堂は楽し気に笑った。まるで目の前にいる響也を褒めるような、そんな笑みで。 一口ジュースを飲み込んだあと、成歩堂は戸惑うような視線を浮かべている響也ににっこりと笑みを浮かべ、答える。 「負けず嫌いなんだよ、あいつは」 「は?」 「自分が真相を知っていて、それに僕を導くのはいいけど、僕が知っていて、そこにあいつを導くのは嫌がるんだ」 結果は同じだけれど過程がまるで違う。そしてその過程こそが、彼にとって重要な意味があるらしい。成歩堂にはいまいち解らないことだけれど、それはもう負けず嫌いなのだろうと納得するのが一番解りやすい行動原理だった。 ………他にも多分、と、思うことはある。 例えばプライベートでいつだって自分に甘やかされていると不満をいう彼だから、対等に渡り合うことの出来る法廷という場でだけは優位を保ちたいとか、そんな幼い見栄もあるかもしれない。そうして自分も頼っていい存在だと、教えたいのかもしれない。 そんな風に思うこともあるけれど、やはりそれらは成歩堂からしてみれば子供のような必死さで、微笑ましさが勝ってしまう。 思い出す法廷での悔しそうな御剣の仕草に笑んでいれば、目の前の同じく検事である響也は、不可解そうな惚けた顔で悩んでいた。 何かおかしな点があっただろうかを同じように成歩堂も首を捻るが、少なくとも成歩堂にとってそれらは厳然とした事実であり、嘘偽りの入り込む余地のない現実だった。 「どうかした?」 同意も否定も出来ずにいる響也に不思議そうに声を掛けると、響也は視線を揺らめかして成歩堂から顔を逸らした。思い悩むというよりは、言葉に詰まっているような顔だ。 目を瞬かせてそれを見つめ、相手が発言をまとめる猶予を与えるように、成歩堂はまたグラスの中のジュースを口に含んだ。 数秒の沈黙のあと、恐る恐るという形容が正しい面持ちで、響也が成歩堂を見遣った。重そうな唇を開く様さえ、躊躇いがちだ。 「…………どうも、ボクにはそんな姿は想像が……」 「?御剣の?そう?あんな子供っぽいのに??」 「そもそもあの人は……それこそ『完璧』に近いというか………」 「…………はぁ?御剣、が??」 「………………諸外国にも精通しているし、時勢の見極めもタイミングも読み間違わないし、小さな事件でもちゃんと目を通していて、こちらが舌を巻くくらいで………」 この上もなく胡乱そうに聞き返す成歩堂の声が居たたまれないのか、響也はひどくしどろもどろに自身の知る情報を口にする。 少なくとも響也の知る御剣という人物像は、完璧な機械人間、というものに近いものがあった。あまり感情を持ち込むことなく全てをこなす様に妬みを込めて囁かれるその名は、正しくはないが………間違ってもいない。 響也自身、知らないのだ。成歩堂が言うような子供じみた真似をしている御剣など。見知った姿はいつも颯爽と厳かに、人の何倍もの仕事量をそつなくこなして疲れも顔にのぼらせることのない、そんな姿。 彼を子供のようだと評する人間など、響也は知らないし、言ったところでそんなものはただの戯れ言だと一笑するだろう。…………少なくとも、それが成歩堂でなければ。 成歩堂は心底不思議そうな顔をしている。彼の知る御剣という人物像が自分の知る人物像と重ならないことは、明白だ。彼は人を貶めるための言葉など、吐きはしない。それが事実でない限りは。 「完璧……ねぇ………。あの御剣が……………」 深い溜め息とともにひどく呆れ果てた声で成歩堂が呟く。信じ難いというよりも、その響きは疲れ切ったような雰囲気を漂わせていた。 不機嫌そうに半眼になりながらまたグラスを傾ける成歩堂に、萎縮したように響也の身体が小さくなる。それを見つめながら、また成歩堂は溜め息を吐き出した。 「………別に怒っているわけじゃないから、そう怯えないでくれないかな?」 「怯えてなんか………っ」 「まあそれはいいけど。うーん、どうも思い違いが多い気がするんだよね、あいつに関して」 食って掛かろうとした響也の発言をさらしと躱して、成歩堂はぼんやりと中空を見るようにして呟く。 実際、あれほど解りやすい感情表現をする人間もそうはいないと成歩堂は思うほどだ。が、現実として今の自分よりも彼を見る機会が多いはずの響也ですら、この反応だ。 この様子ではおそらく彼の職場で彼の本質を知っているのは精々姉弟子である狩魔冥とあるいはゴドー検事くらいだろうか。………よくてあの人のいい糸鋸刑事も含まれるくらいかもしれない。 列挙出来た数の少なさに少しだけ途方に暮れながら、成歩堂は被っていたニット帽を僅かに引き摺り下ろし、表情を隠した。 相変わらずあの男は自分に痛みを覚えさせるのが上手いものだ。 本人は気遣っているのだろうし、円滑に業務をこなせるだけの人間関係を維持しているだけでも十分だと思っていそうだけれど、自分の願うそれとはかなり掛け離れている。 …………彼を彼のまま、理解してくれる人がいればいいと、思うのに。 御剣はそれを理解し得ず、他者を排除しないことが願われていることだと思い、いつまで経っても傍に人を置こうとはしない。だからこんな風に、成歩堂が知る彼と、他の人間が知る彼とに隔たりが出来るのだ。 どうしようもない遣る瀬無さを噛み殺しながら、成歩堂は携帯電話を見遣った。………まだ、彼からの連絡はない。 「あいつは、感情がないわけじゃないよ。完璧でもない」 音楽を奏でない携帯電話を見つめたまま、ニット帽を指先でいじり表情を隠しながら、成歩堂が呟く。………それは少しだけ、寂し気な姿だ。 戸惑いのまま見つめる先の男は、自分よりもずっと年上のはずだというのに、ひどく頼りな気に見えた。もっとも、その言葉が当て嵌るような人物かと問われれば、響也は即答で否と答えるだろうけれど。 彼は、守られるよりも守ろうとする類いの人間だ。………断罪するよりも許したいと祈る人だから。 「子供っぽいし負けん気も強いし、独占欲もかなり強いし、我が侭だし」 「…………ひどい言われようですね…………」 訥々と流れる評価は、酷評といっても過言ではないものばかりだ。少し顔を引き攣らせながら、自身の上司に同情を寄せそうになる。 そんな響也の様子にようやくニット帽からその目を覗かせた成歩堂は、小さく笑って首を傾げた。 「そう?じゃあ裏を返してみようか?」 「…………?」 「正直者で一度決めたことはやり遂げて、大事なものはどんなことからも守ろうとして、自分の意志が何よりも確立しているよ」 それは表裏一体の意識なのだ、と。成歩堂は困ったように呟いた。ニット帽に隠されていた双眸は柔和に細められている。 そうして、彼は呟く。………発想の逆転にも及ばない、それは単純極まりない事実だ。どんなものだって意味は二通りあるものなのだから。 「でも、人間は、そんな綺麗なものだけで出来ていないから。僕はあいつを評価するなら、前者で評価するよ」 素っ気ないともとれる声音でそう呟いた彼は、それでもひどく穏やかな笑みをたたえていた。 それに視線を奪われながらも、その笑みとは重ならない発言に、響也は苦笑を唇に浮かべる。 「………意外、ですね。逆な感じがするのに」 「そう?だって、大事な相手を思いのまま評価したら、他の誰も寄せ付けなくなっちゃうよ?」 だから酷評くらいで丁度いいと成歩堂は笑った。 ……………それくらい、その心に相手が蔓延り根深く存在していると告げるも同然の言葉を、あっさりと受け流すかのように。 何気ない言葉の奥底に潜む思いの深さに、知らず瞠目する。 困惑に揺れた瞳を、成歩堂が笑んで見つめた。………微笑んで、といった方が正しいのかもしれない。 それは響也こそが評される表現だったけれど、その意味が恐らくは違う。 ……………慈しみを想起させる、それは笑み。今の彼の姿に似つかわしいはずのないそれは、けれど穏やかな気配とともにその本質を知らしめた。 「………随分、評価が高そうですね」 なんとなく深く追求する気にもなれず、検事としての彼を当て嵌めているのだというかのように響也が呟いた。それは想像出来る事実を当て嵌めることへの躊躇いと、微かな怯え、だろうか。若干子供のような響也の表情に成歩堂が少しだけ吹き出すように笑う。 その様に響也は微かに眉を顰め、その仕草が今話題となっている男を彷彿させて、また成歩堂は笑った。 「評価……ね。検事としての姿勢なら、君も買っているよ?」 だからそう拗ねることはないと、からかう声音でいう成歩堂に、図星を指されたかのように響也の頬が赤く染まった。 つい先ほどの、会話の始まりの引っかかりが、若干の羨みを込めて彼らの絆を眺めてしまった。それを覆い隠すことが出来なかっただけでなく、あっさりと看破された上に指摘された事実に羞恥を覚えて響也は顔を俯けた。 もっとも、そんなことを言い始めたら同世代の弁護士であったとはいえ、その後の長期間の法廷からの隔絶があったことを思えば、響也の方がより近く御剣の傍に居ただろう。そうでありながら、その本質を欠片も理解していなかったことをこそ恥じるべきなのだろうか。………人間観察も心情の推移もまるで出来ていないことを暴露したも同然なのだから。 それに思い当たった響也がますます恐縮するように顔を俯ける。………彼には珍しい仕草だ。無意味な自信をあふれさせているわけではないが、確固たる信念があるせいか、彼はあまり物怖じしない。 さして彼を知るわけではなくとも話に聞く限りの情報でそう判断した成歩堂が、その視線を戻させようと、のんびりとした声を紡いだ。 「でもまあ、君は部下に当たるわけだし、やっぱり気を張っちゃったりするのかな?」 だから気づかなかったことは恥ではないという響きに、響也は少しだけ拗ねた思いで睨みつける。そんなもの、詭弁でしかない。結局は解らなかったという事実が存在するだけだ。 それは視線に孕む揺らめきで解ったのだろう、成歩堂は笑いながら、そっとニット帽をまた下ろし、表情を隠す。先ほどからの仕草を少しだけ訝し気に眺めながら、それでもその口元にはシニカルな笑みが浮かんでいるのを響也は見つめた。 そんな風に笑うようになったのは、おそらくは弁護士を辞めたあとだろう。彼のことを詳しくは知らないし、知ろうともしなかったけれど、少なくとも自分が対峙した法廷で見つめた姿に、そんな皮肉な笑みはなかった。 7年の重みを響也は肌で知っている。………自分もまた、同じようにそれを背負った。彼よりもずっと軽い立場で、けれど若さ故の不満と憤りで、それを経験した。 そうしてその果てに、自分は真実を思う重要性を説かれ、その道を歩むことを許された。おそらくは、目の前にいる彼の願いのままに。 今更になってようやくそのことまで頭が回るようになった。自分に初めに手を差し伸べたのは、誰よりも自分を疎んじるだろうと思っていた、弁護士バッチを剥奪された彼の親友である人だったのだから、そこにこの男の意志が入り込まないわけがない。 ずっと目を瞑り続けても、それでもこの人は何も言わないで許してくれてきた。それは真相が暴かれたあとですら、同じだ。 「んー…なんというかね」 口を引き結んだまま答えないでいると、困ったように成歩堂がまた話し始めた。彼の返答を不快に思ったわけではなかったけれど、彼の言葉がまた引き出されるならと、視線はそのままに彼の声に耳を澄ませる。 「多分、僕と一緒にいる御剣は、凄く解りやすいと思うよ。今度試してみるかい?」 「……………は?」 何らかのフォローか、あるいは彼が相手を見る時のポイントなどのレクチャーがなされるかと予測していた言葉は、見事に裏切られた。 目を瞬かせて驚きを示してみれば、相変わらず食えない笑みを浮かべた相手は楽しそうに頷いていた。けれどそれは決してからかっているわけではなく、妙案を思いついた子供のような雰囲気に包まれていた。 「うん、それが一番いいかもしれないね。クッション材があればクラッシュすることもないし、少なくとも僕がいれば牽制にもなると思うし、その上御剣の解りやすさも口で言う以上によく解るはずだし………」 ぶつぶつと成歩堂は思案顔で考え始めてしまう。顎に指を添えるのは彼の癖なのだろう、先ほどのように表情を隠したり似合わぬ笑みを浮かべるよりも、ずっと彼らしい姿に思えた。 それらは晒される、彼の意志。覆い隠し飲み込んでしまうあの寂し気な気配のない、すべらかな柔らかさとしなやかさを備えた、受け入れることと人を思うことに長けた人間の意志だ。 「でもネックはそうそう君と御剣が居合わせている場面がない上、そこに僕まで居るなんてほとんどあり得ないってことだよなー」 呑気な声でそんなことをいい、成歩堂は朗らかに笑った。その様に冗談だったのかと響也は苦笑した。どうせならと思い、その冗談に乗るように、からかうような声で成歩堂の言葉に問いかける。 「ふーん?でもさ、仮にそんな場面があったとして、一体どうやってあの完璧を地で行く人を動揺させる気?お得意の揺さぶり、かな?」 敬語ではない響也の言葉遣いに成歩堂は不敵な笑みを浮かべた。時間潰しに付き合うように言ったのは成歩堂だが、遊びをしかけたのは響也のようだ。 歳若い彼はまだどこか青臭いけれど、それは愚かな意味合いでの青さではなく、初々しさでもない。感性を常に開いた状態であることでの、青さだろう。それはある種必要だからこそ為されている仕草かもしれないけれど、成歩堂には好意的なものに思えた。 ………だからこそ、だろうか。ちょっとした悪戯心が芽生えた。にんまりと唇だけを笑みに染め、成歩堂はただの言葉遊びだからこその気安さで、そっと腰を上げる。 突然立ち上がった成歩堂を不審そうに見上げながら、響也は特になにを言うでもなくその動静を見守った。彼の法廷の数々を書類上でだけ見てきたけれど、突飛な言動の数々が逆転劇を繰り広げるのはいつものことだった。 今もそれは顕在かと面白そうに見つめた先、彼はその歩先を自分の座るソファーまで詰め、間近で立ち止まった。 ぎしりと、小さくソファーが鳴る。成歩堂の片足が響也の座る真横に乗せられた音だ。なにをしているのかと不可解そうに首を傾げながら、彼の足が乗せられたソファーの座面を見つめた。と、同時に、何かが視界を掠める。 次いで感じたのは、間近な体温と耳に直に響くような彼の声。 「簡単だよ、牙琉検事」 「…………?」 「こうしている所を目撃されるだけで、充分なんだよ?」 だからほんの一瞬出会すだけでも可能なのだと、成歩堂はしたり顔でいった。 暫しの沈黙が、室内に降る。それを息苦しいと感じたのは響也だけだった。………目の前には楽し気に笑う男が居る。子供……否、まるで動物でも撫でるようにぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、ようやく我に返った響也は質の悪いからかいを披露した男を睨んだ。 「あんたはどうしてそう………!」 「僕、嘘はいってないよ」 きょとんと不思議そうに成歩堂は首を傾げた。先ほどの笑みさえ霧散するような幼い様子にますます混乱が増し、目眩すら感じた。それを押さえ込むように額を手で押さえ、響也は呻くような声で訂正を求めた。 「じゃあなに、親友だった二人はいつの間にか恋人になっていました、とか、使い古されたメロドラマでもあったって言うわけ?」 ありえないと、初対面の時の幼い坊やのような物言いで挑む響也を、成歩堂は目を瞬かせながら見遣った。………すっかり忘れていたが、彼はまだ御剣の本質を見ておらず、見る機会がこれから多いだろう予測からの提案は、前提を知らないからこそ本気にとられなかったらしい。 今まで周囲は自分が言うまでもなく看破していたから、この反応はひどく新鮮だった。常識的とも良識的とも言える彼の反応に、成歩堂は嬉し気に笑う。 「うん、やっぱり君、御剣の傍に居てくれるといいな。ちょっとは君のこと見習って欲しいよ」 「…………訳が解らないよ」 「ん?ああ………さっきの質問なら、YesでNoだよ」 ぐったりとしながら自分に見下ろされた若者は、必死にこちらの与える情報を整理しているらしい。初めから解らないと切って捨てない態度は、好ましかった。解ろうと努力する人が一人でも多く彼の傍に居れば、もっとずっと彼の視野は広がってくれるだろう。そうしたなら、自分が抱える憂いもまた消えてくれる。そう祈りながら、成歩堂は響也の頭をもう一度撫でた。 からかわれていると受け取った相手は軽やかにその指先を手で払い、怪訝そうな顔でこちらを睨むばかりだったけれど。 「…………どうかした?」 「だから、訳が解らないって………」 「いったよ、僕は。YesでNo。つまり、関係性は正しいけど、君が想像したような真似はしていないってこと」 にっこりと柔らかく笑んだ成歩堂は不愉快さを表すでもなく、多少の卑猥さを想像されたことを受け入れていた。それはどこか、子供のいたずらを容認する親の視線に似ている。 成歩堂の言葉に自身がなにも考えなかったと反論できない響也は顔を赤らめて沈黙した。相変わらず、彼は自分にとって鬼門だ。言い負かすことが出来るかと思えば唐突に逆転される。しかも、嘘偽りで覆い隠すことなく真実だけを差し出すのだから、反証出来るはずがない。 「…………すみません…」 言葉が過ぎたと結局は自身の至らなさと軽率さを謝罪するしかない。あっさりと晒された事実は、それでも彼らにとってアキレス腱にならない情報では、ないのだ。それを差し出された信頼に足るだけの応対を取れなかった腑甲斐無さに、唇を噛み締める。 そんな響也を見下ろしながら、少しだけ困ったように視線を揺らし、成歩堂はそっと口を開く。 「謝るようなことじゃないよ。それに、きっとここは、御剣に同情する所なんじゃないかな?」 同じ男として、と笑う成歩堂に苦笑を浮かべる。茶化して話の痛みを有耶無耶にするのは、彼の手腕なのだろうか。数少ない対面の時間を思い返せば、そんな仕草をよく与えられている気がした。 「なら、同情しておきましょうか?」 同じように茶化すように響也が返せば、成歩堂は軽く首を傾げてそっと笑んだ。 「うーん…でも、まあ、どっちにしろ変わらないしな」 「?」 「許して、僕以外目も向けなくなったら困るだろ?」 自分だけでなく君たちも、と。そんな風にいう成歩堂は、それでもやんわりと細めた瞳を愛しそうに綻ばせている。きっとその言葉は、自分たちでも彼自身にでもなく、彼が思うただ一人の人に向けられているのだろう。 見上げた彼は、ひどく穏やかな顔をしている。言葉とは裏腹の、受容の意志をたたえて。微かに感じる物淋しさに顔を顰めてみれば、それを見下ろす彼は優しく笑んだ。 そうしてそっと顔を覗き込んできた彼の影が、額に掛かる。………突然近くなった距離に無意識に身体を引くと、ソファーがぎしりとたわむ音が耳に響いた。 「………ま、傷にはなってないようだね。君の顔に傷をつけたら女の子たちがうるさそうだよ」 みぬきにまで叱られるのは困ると楽し気に成歩堂はいってそのまま身体を起こそうとした。いい加減この体勢も身体が疲れるとソファーの背に手を置いた時、ドアがノックされる。 そのまま立ち上がれば、恐らくは、良かったのだ。そう、成歩堂は思った。が、実際はタイムラグがあった。…………彼からの連絡をまだ自分に知らせない携帯電話を、つい見遣ってしまった。そのために出来た時間が、開かれたドアと重なる。 「成歩堂、遅くなって………」 声とともに入り込んだ人物は硬直した。丁度ドアに視線を戻した成歩堂と目があっても動かない。………表情すら凍てついているのがよく解る。解ってしまったからこそ、今現在の状況を鑑みて、自分が響也の背面に当たるソファーに手をかけて覆い被さる格好であることを認識する。 ………………最悪のタイミングで最悪の人物がやってきてしまった。いつもは律儀に連絡を入れる相手がまさか何も言わずにやってくるわけがないと油断しきっていた。遊びも度が過ぎれば周囲を傷つけることくらい、成歩堂は知っている。 事実、目の前の彼は明らかに傷ついている。が、何よりも厄介なのは、そのあとのことだ。自分のことはまだいい。いくらでも彼を手繰る手腕は携えている。 けれど自分の悪戯心に巻き込まれただけの被害者であるべき若手検事は、そんなものは持ち合わせていないだろう。しかも立場的にも相手の方が上司だ。かなり分が悪いと言わざるをえない。 「………ごめんね、牙琉検事」 こっそりと彼にだけ聞こえるように声を紡ぐ。ぴくりと反応したのは、声など聞こえるはずのない御剣の方だった。その事実に溜息が漏れそうになる。 どこまでも必死に一途に自分にだけ注がれる視線。自分に近づく存在すら、好んでいないというような苛烈な意識。………それに揺れそうになる瞳を、成歩堂は小さく吸い込んだ吐息で押し止めた。 「結構早かったね、御剣」 「…………牙琉検事が、何故?」 会話すら成り立っていないことをきっと彼は気づいていないだろうと思いながら、成歩堂は苦笑する。そうして間近の響也の頭をもう一度ぽんと叩いて立ち上がった。 「オドロキくんに事件の情報持ってきてくれたんだよ。君に似ないで優しい検事に育ったね?」 「………………」 心当たりがありすぎるせいか、その言葉には御剣は反論せずに黙し、顔を逸らした。が、逸らした先は壁でも虚空でもなく、この室内に居るもう一人の人物、響也の後頭部だった。 頬を掠めていく視線の冷ややかさ……言い換えてしまえば、相手を射竦め捕らえている絶対零度の視線を思い、成歩堂は響也が間違っても振り返っていないことを祈った。………振り返りたくとも振り返れないかも知れないけれど。 もしもいま響也を気遣って彼を見下ろしでもしたら、この視線がなお鋭さを増すことは想像に難くない。これ以上不機嫌に拍車をかけるのは得策ではないし、こちらとしても本意ではないと小さく胸中で息を吐き出し、ドアの前で仁王立ちしたまま微動たりともしない相手を見遣った。 その視線は冷ややかだけれど、それに竦むほどのことはない。当然だろう、それの向かう意識は自分ではない。その上、彼は自分を見るとき冷ややかな視線であったとしても、その本質は常に一緒だ。………それを隠すための鎧でしかないのだから。 「御剣?」 殊更に何事もないように普段通りの声で彼を呼ぶ。沈黙のまま、視線も動きはしないけれど、その意識がこちらに向かっているのは解った。 「取り合えず、話し合いだろ?………牙琉検事も暇潰し、ありがとう。ね?いった通り、御剣って感情的で子供っぽいだろ?」 ひとまず二人を引き離してしまわなければ話が進まないと判断し、御剣に現状を教えるように簡潔な言葉で響也に声をかけた。それでもその発言を向けられたのは、御剣だろう。状況説明と牽制と窘め。どれがもっとも強く響いているかは、結局は聞いた本人にしか解らないことだったけれど。 思いながら、成歩堂はソファーから離れ、ドアの前で立ち尽くしたまま動かない御剣の元まで歩んだ。そうしてその腕を引き、じっと顔を見遣る。 ………嘘偽りを見抜く能力がなくとも、ある程度の範囲であれば成歩堂にも解るものはある。何よりもそうすることで御剣の行動を牽制することが出来ると、経験則から理解していた。 息の詰まるような喉の音を微かに鳴らしたあと、忌々しそうに顔を顰めて御剣は成歩堂の手に従った。導かれたのは、響也の座るソファーの対面。一瞬だけ二人の視線が合うかと思った時、さり気なく成歩堂が間に入って、今度は響也の肩を叩いて立ち上がらせた。 呆然とした様子の響也は、軽く叩いたその衝撃にすら驚いたのか、弾かれたように周囲を見遣って改めて成歩堂の顔を見た。 それは困惑というより………申し訳なさというべきか、労りというべきか。一人この部屋に残され、今現在自身の前方に座る人物と話し合いを行わなければならない成歩堂を不憫に思っているのは確かだろう。 苦笑して、気遣いは無用であると伝えるように成歩堂は小さく頷いてみせた。 「……じゃあ、今日はご苦労様。またいつでも来るといいよ、みぬきも喜ぶから」 ソファーから事務所の出入り口はほんの数mの距離だ。わざわざ見送るほどのものではない。が、成歩堂は敢えて響也を見送った。………自分が間にいるからこそ刺々しい程度の視線なのだろうことは、今までの周囲からの被害報告で身に染みていた。 曖昧な返答と微妙な表情で自分を見返す響也は、先ほどから言葉を発してはいない。 ただ困惑の目を揺らしながら、押し殺そうとしているのだろう憤りが明らか漏れている、普段は冷静沈着な自身の上司を見遣り、すぐに目を逸らした。 彼もきっとフォロー体質なのだろうと思いながら、若干の同情と親しみを込めて、押し出すようにして事務所から帰らせる。微かな足音がどうにかちゃんと階段を下りていることを確認したあと、大人げない幼馴染みを睨みつけた。 「………………御剣?」 先ほどとは明らかに違うイントネーションで彼の名を呼べば、顰められた顔が更に盛大に顰められてこちらを睨んできた。 それに流される意志はないと毅然と睨み返せば、彼の視線が揺れる。………傷ついているという、意味で。 「なんで君はそうすぐに怒るんだよ。牙琉検事が何かするわけないだろ?!」 「しかし!抱き締め合って……」 「いないから!なに勝手に妄想悪化させているんだよ?!」 相手の言葉にぎょっとして、御剣の反論の途中でツッコミを入れた成歩堂の頬が少しだけ赤く染まる。実際、あくまでもソファーの隣に膝を置いて響也の頭を撫でただけで、自分から抱き締めたわけでも抱き締められたわけでもない。 どうやったらそんな勘違いが出来るのかといい募ろうとした瞬間、思い出す。………彼が入り込んできた時は、丁度響也の顔を覗き込んでいたあとだった。姿勢としては、確かに重なって見えたのかもしれない。 だからこそのこの態度かと合点がいき、溜め息が漏れる。何年経とうといくら諭そうと、彼の中で自分の比重は変わらない。結局はそれを甘受してしまう自分こそが、もっとも問題なのだろうけれど。 彼を自由にしたいと、そう祈ってばかりで。それが実現することは今のところ予測すらつかない儚さだ。………傍にいることをこそ幸せに思う自分が、その歩みを遅らせている可能性もまた、否定は出来ないけれど。 必死に自分を見つめる視線が身体を射抜くようだ。これで本人に自覚がないのだから、質が悪い。彼自身よりもそれを向けられた自分の方が、余程克明にそれが解ってしまう。 そっと、事務所の中を歩む。ドアからソファーまでの距離はたいしたものではない。たったいま響也を見送るために歩いた距離を……ほんの数mの距離をひどく遠く感じた。 触れたいと彼が望むことはもうずっと昔からで、それを知らないほど愚鈍ではないし、言葉に換えて突きつけられるのだから、知らぬふりも出来ない。 歩む自身を見つめる視線は途絶えない。そのくせ、彼は声をかけない。途方に暮れるように目を揺らすくせに、最後の最後で彼は臆病だ。………それはあるいは、自分を傷つけたくはないと願うが故の優しさなのかもしれないけれど。 目の前までくれば彼の指先が揺れる。あくまで、彼の膝の上だけで。 先ほどの場面を目撃したのだから、いっそ掻き抱きたいのだろう。視線の激しさからも雰囲気の苛烈さからも、それは自分だけでなく恐らくはこの事務所から去った響也にも解ったことなはずだ。 だからこその労りの視線かと、思い出した帰り際の響也の様子に成歩堂は苦笑して、御剣の隣に膝をついた。 体重がかけられたことによって軋むソファーが、御剣の身体を揺らす。眉間の皺が色濃くなったのは、それを不快に思ったわけではなく、衝動を耐えているためだろうか。 見下ろしながら苦笑して、成歩堂は御剣の俯き加減の顔を自身に向かせるように柔らかく前髪を梳きながら押した。 それに微かに抗う感触のあと、観念したように盛大に顔を顰めた御剣が成歩堂を見遣った。 睨むような、視線。憤りというよりは、縋るような必死さ。それを見つめて、成歩堂は首を傾げて声をかけた。 「これだけ、だよ?」 「…………………?」 「頭は撫でたけどね、他は触ってもいないよ?」 だから傷つかないでと願うように、困ったように笑む。眇めた瞳は微かに揺れて見えて、御剣が息を飲んだ。 彼が傷つけることを厭うことくらい、知っている。それは自分が身勝手な振る舞いをしてもなお、確かに示される。こうして、彼のことさえ傷つけかねない応対をしているにも関わらず、その奥底で相手が傷ついていることを看破してしまえば、彼は責めることを忘れる。 ………傷が、人を優しくすると、彼は思うのだろうか。そんなはずはないと自分は知っているけれど、それでも彼は祈るようにその思いを捧げてくれる。傷ついたなら癒そうとし、そうして与えられた慈しみを他の人にもまた分け与えてくれればいいと、願っている。 彼以外の命に頓着などしていないといったなら、きっと自分が与えられる痛みよりも深く、彼を抉るのだろうけれど。 「それに、君、知っているだろ?僕があんまり得意じゃないってこと」 人に触れたり触れられたり、その体温を感じることに怯えを孕ませる質の人間にとって、不要な接触は避けたいものだ。それを誰よりもよく知っているはずの相手に、成歩堂は申し訳なさそうに眉を垂らして笑った。 ………触れることでしか不安を解消できない相手に、自身が酷な願いを押し付けていることくらい、自覚がある。そして普段我が侭で我の強い相手が、それでも辛抱強く自分に付き合ってくれているのだから、居たたまれなさだって、ある。 「子供相手じゃないんだしさ、君にするみたいなこと、しないよ?」 そっと、成歩堂の腕が垂れ下がり、御剣の膝の上、固く握り締められたままの指先に触れる。 たったそれだけのことだというのに、御剣の肩が跳ね、驚きを成歩堂にも知らしめた。その反応に苦笑しながら、成歩堂がそっとその指先を包み込む。 「そう不安がるなよ。僕が選んだのは、君なんだからさ」 そう囁いて、苦笑をたたえた顔が、御剣の肩に埋められる。指先と額だけが交わる体温。抱擁ですらないその接触に焦れたように御剣の指先が蠢く。 抵抗を示されるかと思っていた包まれた指先は、けれどあっさりと包囲を解かれ、自由を与えられた。それはそのまま、抱き締めることを許容されたということだろう。思い、笑んだ唇で御剣は目の前の男の背に腕を回す。 膝立ちの状態のままの成歩堂は、少しだけ躊躇いながら足の位置を移動させる。あくまでも、ソファーの上での移動。ふと思いつき、御剣は身を起こした成歩堂の背中から腕を滑らせ、腹部に回すと、そのまま引き寄せるようにして力を込めた。 「ぅ……っわ?!」 小さな悲鳴とともに、成歩堂は両腕でソファーの背を掴んだ。かろうじてその腕だけで身体を支えている不安定な姿勢のまま、突然悪戯をしかけた子供のような相手を睨み上げた。 それに対して不服そうな視線を返されるが、敢えて黙殺して、成歩堂は叱るような口調で御剣にいった。 「危ないだろ、いきなりなにするんだよ」 「辛そうな体勢だったので膝に乗せようとしたまでだ」 「堂々と主張しないでくれるかな。女の子じゃあるまいし、そんな体勢は遠慮するよ」 「……私はしたいのだが」 「しつこい」 間髪入れない攻防のあと、すっぱりと切り捨てた成歩堂の言葉に御剣が目に見えて落ち込む。 どうしても男としての矜持の強い成歩堂は、女性のような扱いは好まない。決してそうした意味で告げているわけではないが、おそらくはそれを訴えても意味はないのだろう。成歩堂の中での価値観で定義されたことは、たとえ御剣の意志をすくい取ったとしても、そう容易くは変わらない。 女子供に甘い彼だからこそ、自身がそれと同等に扱われることへの抵抗も強いのだろう。自身を律して生きる、彼だから。 思い、小さく溜め息を吐いて彼の身体を支えるように腰に腕を回す。若干身体の位置もずらして、隣に膝立ちする成歩堂が辛くないように姿勢を整えた。 そうして、彼の身体を改めて抱き寄せる。触れることを受け入れてくれているのに、わざわざそれをふいにしてまで我を張る意味はない。 ぎゅっと、目の前の身体を抱き締める。子供が縋るような、そんな力の込め方で。…………苦しいだろう抱擁を、成歩堂はそれでも文句は言わず、仕方なさそうにその腕を御剣の背に回し、あやすように広い背中を撫でた。 「まったく、君ももう少し余裕があると、いいよね」 そっと溜め息のようにそう呟いて、成歩堂は愛しそうに眼下の男の髪に唇を埋める。もっとも、それは自身を抱き締める相手にはあまり気づかれない仕草であり、表情だけれど。 楽し気にも聞き取れた相手の言葉に、むっと顔を顰め、御剣は腕にまた力を込める。そうして、くぐもるような低い声で、告げた。 「ほう……ならば、君が自信をくれるか?」 「?」 「簡単だ。もっと触れさせてくれればいいのだからな」 そう呟いて、目の前に晒されている相手の腹部に、頬を寄せるのではなく唇を寄せた。それは抱きかかえた頭の動きで成歩堂にも伝わったのだろう、ギョッとして、身体が逃げを打った。 やはり拒まれたかと、初めから解っていた結果に小さく心の中で溜め息を吐く。ただの意地悪で、本気でいったわけではないけれど、やはりそれでも怯えられることは嬉しくはなかった。 本気で怯えられる前にからかっただけだと告げようと、御剣が顔を上げる。と同時に、また跳ねた、間近な身体。 「……………っ」 近すぎる視線に成歩堂の瞳が揺れる。たたえられた水面は、それでもこぼれ落ちるほどの厚みはなかった。 困惑と戸惑いに怯えたような顔をして、それでも瞳だけが照明に照らされて煌めいて見える。 その輝きに惹かれるように、御剣が手を伸ばした。頬に触れていた指先が後頭部に添えられ、微かに引き寄せるように動くと、気づいた時にはそっと掠めるようにその目元に口吻けていた。 瞬間、竦むように成歩堂の身体が跳ねる。………今そんな真似を仕掛ければ、先程の発言が本気だったと取られかねないと考えることは出来なかった。ただ単純に、触れたかった。 それでも傷つけることも恐れさせることも本意ではないと、それだけを伝えたい必死の思いで、成歩堂を見つめる。泣き出しそうな彼の瞳と同じように歪められた、御剣の顔。 宥めるように乞うように、御剣の指先が成歩堂の背に落とされ、そっと添えられる。抱き締めるというよりは、受け止めるような、優しい仕草。 少しの沈黙のあと、ゆるゆると息を吐き出し、成歩堂は緊張に凍り付いた身体から力を抜く。そうして、怯えるように自分を支える御剣の顔を見下ろした。 「…………平気、だよ?」 だから泣かないで、と。そんな音が潜められているような声音で成歩堂が囁く。そんなにも不様な顔を晒しているのかと思いながら、そっと成歩堂の頬に指を寄せた。 告げた言葉が真実だと教えるように、成歩堂は苦笑してその指先を受け入れる。ホッと吐息を落とし、同じように苦笑をたたえて、御剣はその指先が辿った頬に唇を寄せた。 拒まれる恐怖を与えた詫びのつもりか、成歩堂はそれに抵抗を示すことはなく、少しの緊張でもって受け入れる。 唇が触れたのと同時に固く閉ざされた成歩堂の瞳と紅潮している頬が、隠しようもなく御剣の眼前に晒される。それは間近な視線で十分に知れていて、ますます成歩堂の頬が熱く熟れた。…………その様を見惚れるように眇めた瞳で見つめたあと、ぎゅっと御剣は抱き締めている腕に力を込めた。 躊躇いながらもそれを拒まない成歩堂にもう一度安堵の息を吐き出し、その肩に頬を寄せる。 驚きに竦むことは未だ無くならずとも、さすがに震えることは無くなった相手の肢体を腕におさめたまま、御剣は問うように成歩堂を見遣った。 「…………?な、に?」 微かに途切れがちの声は気恥ずかしさと照れからだろうか。何年経っても触れ合うことに慣れない成歩堂に苦笑を浮かべながら、視界の中にある封筒を見遣った。 自分の座るソファーにもまた、同じ大きさの封筒がある。それを確認しながら口を開いた。 「………牙琉検事の持ってきた封筒は1つだったのか?」 「?うーん?僕が預かったのは、一つだよ」 思い出しながら答える成歩堂は、少しだけ身体を引き離そうと御剣の肩に手を添える。あまり長い時間この体勢でいると、ただでさえ緊張で早鐘を打つ心音が相手にバレそうで更なる羞恥を呼んでしまう。 それに気づいたのか、腰に回された腕がまた少しだけ力をこめた。時折意地悪をしかける相手は、どうやら今はまだ手放す意志がないらしい。………自身が原因であることは熟知している成歩堂は、それ以上の拒否も示せず、困惑を顔に浮かべながらも抵抗を諦めて力を入れていた腕を御剣の背中に垂らした。 「なるほど」 相手の言葉にそっと笑み、御剣が納得したように呟く。 ソファーは対面式のもので、そこにそれぞれ一つずつの封筒がある。片方は届けられたもので、もう片方は忘れていったものと推測されるそれは、少なくとも二人が同じソファーに座っていなかったことを示唆していた。 そして時間を考えたなら、響也がこの事務所にいた時間は、御剣が訪れるより前であってもそれほど長くはない。その二つを鑑みれば、少なくとも成歩堂のいうように、自分が響也に対して成歩堂の望まぬ感情を向けるだけの事実はないのだろうことは窺えた。 小さな納得の言葉と示した封筒の存在だけでそのことは成歩堂にも解り、ようやく悋気をおさめたらしい相手にホッと息を吐いた。 そうして、苦笑を浮かべながら、今度は自身から相手を抱き締めるように御剣の頭を胸に納めた。 「まったく、それくらい、いつもならすぐに気づくことだろ?」 目に見える物的証拠には滅法強い御剣を窘めるようにいう成歩堂の言葉に、御剣はむっと眉間に皺を刻んだ。それを押し殺した笑いで受け止める相手に拗ねたような顔を晒しかけ、胸に納められて表情が見えない状態であることを微かに感謝した。 そうして現状を認識したあと、ふと、気づく。…………相手が今現在自分が触れることを厭っていないことと、甘やかすように願いを受け入れようとしていることを。 その事実に、少しだけ、逡巡する。 それでも願いは変わるはずがなく、微かな躊躇いで成歩堂の身体を抱き締める腕をそっと彼の頭へと移動させた。 それに気づき、成歩堂の身体が少しだけ離れる。どうかしたのかと問うような、きょとんとした顔。それに小さく笑いかけて、躊躇いながら、その頬を撫でた。 甘えていると思ったのか、困ったように笑いながら成歩堂はその指先を受け入れる。それにつけ込んでいるような気がして、少しだけ良心が咎めた。 けれど自身の願いに忠実な指先は触れていた頬に添えられる。じっと見上げる視線を、彼は首を傾げて見下ろしている。 その唇に近づこうと背を伸ばしたなら、微かに彼の身体が揺れた。 ………彼が拒む意志を見せたなら諦めようと思いながら、それでもまだそれ以上の反応がないことを確認する。 「…………………っ」 触れている身体が、熱かった。緊張は、抱き締めた時からずっとしているのだろう。成歩堂の心音は常のそれとは比べ物にならないほど早い。………もっとも、それは御剣にとっても同じことだったけれど。 頬に添えられただけの指先に拘束力はなかった。成歩堂が拒絶しようと思えば、両手を使える分勝機は充分ある。何より、たった一言でも止めて欲しいと告げれば御剣はそれだけで我慢してくれるだろう。 思いを寄せられてからの長い時間、ずっとそうしてくれたように、御剣は自身の願い以上に成歩堂を大事に扱ってくれる。 だから、その肩を少しだけ押せばいい。 僅かに首を振るだけでいい。 怖いと告げるだけで、いいのだ。 解っているけれど、それが出来ない。縋るように乞うように、ただひたすらに自分ばかりを求める人の情は、いつだって自分を捕らえているのだ。………それを他者にも分け与えて欲しいという祈りは、自分の我が侭に他ならないことくらい、知っている。 それでも少しでも自分の祈りに応えようと、彼が思ってくれていることだって、解っていた。……ただひたすらに、自分に嫌われないためだけに。 抱き締められることに慣れても、それでも怖い。それを受け入れ自分まで溺れたら、相手は自分以外のどこにも歩み寄らなくなりそうで、悲しい。 それでもその心……否、いっそ命とさえいえるほどの重さでもって思われていることを、知らないわけでは、ない。 つい先ほど響也に告げたばかりのはずの、彼のためを思い祈る気持ちが折れそうになるくらい、思い知っている。 触れることを許したら、きっと自分に雁字搦めに捕われるだろう。この先の一生を、彼は自分のためにしか、歩めなくなる。 それでも動けない。………いとけなく、拒まれることすら受け入れて願う意志が、寂しくて。 怯えるように手を伸ばす彼を包みたいと思わないわけが、ない。 微かな諦観で近づく熱を思った瞬間、………………………今日三度目のノックが、響いた。 「………!!」 流されかけていた意識が、唐突に現実に舞い戻る。 今度のノックは先ほどとは違いドアを開ける音を響かせはせず、もう一度確認するようにノックがなされるだけだった。 その気遣いと時間と今日一日の状況から考えて、相手は十中八九、響也だろう。それは当然御剣にも解ったらしく、忌々しそうに顔を顰めている。 「…………えっと、いい……かな?」 未だ腕を解かない御剣に、躊躇いながら成歩堂が問いかける。 さすがにこの時間差で訪問を拒んだら、いらない想像を刺激するだろう。それがいい悪いというよりは、次に響也に会った時に労られる上恐縮と申し訳なさで接されることの方が居たたまれない。 それが表情に出ていたのか、御剣は苦渋の顔で荒々しい溜め息を吐き出しながら、勢いをつけるようにぱっとその腕を離した。おそらくそうしなければ子供のようにしがみつきそうな自身を理解しているのだろうと思い、成歩堂はより頬が熱くなるのを感じた。 「牙琉検事?忘れ物かい?」 頬の赤味を隠すだけの時間もない。すぐにドアの外に声をかけながら、成歩堂は御剣の側から離れ、対面のソファーに放り出されたままの封筒を手に取った。 成歩堂が僅かに小走りになっているのは照れているせいだと解るけれど、それでも面白くない思いが消えないわけではなく、御剣はその背中をじっと見つめる。 それは成歩堂にも解るのだろう、多少動きがぎこちなかった。 ドアが開かれ、成歩堂の背中越しに響也の顔が覗く。知らず込められた苛立ちが視線に乗せられたのか、たまたま奥を見遣った響也と御剣の視線があった。と同時に、ひくりと響也が顔を引き攣らせる。 振り返るまでもなく何があるのか解る成歩堂は、ただひたすらに申し訳なさそうな顔をして響也を見遣り、封筒を手渡しながら気の毒そうに小さく声をかけた。 「えっと……ごめんね?多分……八つ当たりされる、かも………」 「………………………………………、何となく、解っています……」 更に言わせてもらえるならば、それはあまり嬉しくない熾烈さだろうということも。遠くを見つめながら現実逃避をしそうな響也を見遣りながら溜め息を吐き出し、成歩堂はもう一度謝罪を口にしてから彼を見送った。 出来るだけのフォローはしてあげないとと決意を改めながら御剣と向き直る成歩堂は、既に先ほどのような雰囲気は微塵もない。それは御剣にも伝わったのか、深い溜め息が落とされ、本日訪問した目的である打ち合わせの開始を告げた。 …………そんなやり取りを見なくとも想像のついた響也は、あまり訪れる機会のなかった……むしろ忌避していたともいえる成歩堂なんでも事務所を後ろ手に見ながら、ようやく戻ってきた余裕で小さな苦笑を漏らした。 道を歩みながら、思い出す。職場で見かける冷徹とも言える美貌であらゆることを処理していく有能な男の顔。………同時に浮かぶ、ただ一人の人に執着して、感情の全てを晒している、子供のような男。 完璧な機械人間、なんて。確かにこの世には存在しないのだろう。そう、今ならいえる。 あんなにもはっきりとした激烈な意志は、大人となったら誰も示せない。常識や体面、あるいはプライドが邪魔をして、取り繕ってしまう。 そんなものは邪魔だというように己の意識の全てをたった一人に向ける様は、確かに人間臭くて幼く我が侭で、一途だ。 今まで見ることの叶わなかった一面は、ひどく遠く感じていた一人の人間を少しだけ間近に感じさせた。 それこそが成歩堂の願いであり目的だったのだろう。まんまと彼の策略にはめられていることを自覚しながら、それでも悪い気はしなかった。 …………誰かのための祈りは、どれほど独り善がりに見えてもやはり優しさと健気さで構築されている。 そう思いながら、響也は今頃フォローに勤しんでいるだろう、人を食ったような笑みで笑うどこまでも優しく甘い男の顔を思った。 ………そうして共有した意識が故に、時折二人で飲みに行っていることを知った御剣が盛大に拗ねるのは、そう遠くはない先の話だった。 長くてごめんなさい(汗) 自分の文章が長編をいっぺんに読むには向かないことは重々承知しているのですが、どこでも切れない状態になってしまって(遠い目)そのまま突っ走らせていただきました。 一応読み返してはあるのですが、あんまりにも長くて途中で疲れたので誤字脱字はあるかと思います………。見つけたら笑っておいて下さい。教えて下さると嬉しいですが……… この話は30のお題の『信じましょう』で使おうと思っていた奴ですね。でも御剣が嫉妬深くて(笑)響也さんがピンチ?と思って止めておいたのです。成歩堂が一言「めっ!」って言えば平気だよ!と愛知県民に言われたので、まあ……そんな感じに。 しかし、響也さんが出てくるといい感じにカップリング色が上がる気がします。多分成歩堂が案外気楽にミツルギへの気持ちを吐露してくれるからでしょう。 よかったね、御剣!報われていたよ、君!!(笑)………本人にその自覚があるかどうかは知りませんけどね!(駄目だろ、それ) 07.11.26 |
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