柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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………ずっとずっと信じてる。

そう呟いて、彼は笑う。
寂しそうな泣き出しそうな、
それでも一途な灯りを陰らすことなく。

それしか出来ないから、と。

この世で最も実行することの難しいことを、
彼は容易く体現しながら、
それでも無力感に俯いたその顔は
小さく小さく、笑った。


泣くことを忘れてしまった、幼子のように。





ニアイコール



 ぼんやりと天井を見ながら、彼は精密検査の結果を待っていた。入院しないのかと驚いたけれど、その必要性を彼が感じていないのでは無理もない。検査自体は午前中一杯で終わる程度のものだったのだから。
 軽い苦笑を漏らしながら、そっと彼に近づいた。
 「…………あ、千尋、さん………」
 少し惚けたような声で彼が呟く。思いがけない人物に会ったような無防備な様が、少しだけおかしかった。苦笑を微笑みに変えて、首を傾げながら彼に答えた。
 「久しぶりね。検査結果は……まだかしら?」
 「あ、はい……えっと、なんか驚くくらい無事みたいなんですけど…………」
 医者が目を白黒させていたと不思議そうに彼がいった。それはそうだろう、医者とてまさか毒薬が入っていると思われた硝子の小瓶を噛み砕いて食べておきながら、こんなにも元気に動き回る患者など想定しない。
 検査室でスタッフがどんな会話をしているのか想像すると吹き出してしまいそうだ。
 そんなことを考えていると、視線が逸らされたのを感じる。座っている彼は、またぼんやりと空を見上げるようにして天井を見つめている。特に何もない、薄汚れた白い天井を、ただ眺めるようにして。
 その視線が何を見つめているのか、それを考えるまでもないだろう。つい先日の話だ。まだ彼にとって過去にするには時間が少なすぎる。
 思い、そっとしておくつもりだった言葉が、するりと唇から漏れてしまった。
 「…………まだ、信じられないような顔、しているのね」
 囁くほどの声は待合室の雑多な音の中、掻き消えるかと思った。けれど彼との距離を考えればそれは浅はかな希望だろう。天井を見つめていた視線が、そっと自分に注がれる。
 …………無垢、といえばいいのだろうか。真っすぐに、ただ相手を見つめる瞳だ。
 ただひたすらに相手を知ろうとする、空恐ろしいまでに貪欲で純粋な、視線。
 彼は首を傾げて、困ったように小さな笑みを唇に浮かべた。幼い仕草だったけれど、それは先日の法廷のときに晒されたような、あからさまな無邪気さではない。
 「千尋さんが、僕の知らない事実を知っているように………僕も、千尋さんが知らない事実を、知っているんです」
 躊躇いなく、淀むこともない声がするすると奏でられた。証言というにはあまりにも気楽な音だ。それはただの事実であって、重みも痛みも孕まない。そういうかのような、音。
 興味を持ったのは、確かだった。…………あの少女を一途に信じるには、彼が知った現実はあまりにも無理がある。そのための要素を彼が手にしている可能性は、極めて低いけれど………無いとはいえない。事実、彼は無心なまでに自身を陥れた少女を庇い、信じ続けていたのだから。
 もう既に裁き終え、真実は晒された。これ以上を求めるのは、おそらくは弁護士としての使命感ではなく、自分個人の感情だろう。
 そう思いながらも、無意識のうちに自分の唇は音を紡いでいた。
 「私の知らない……事実?」
 そんなものはあり得ないというかのような響きを持って、それは彼の耳に響いたことだろう。少なくとも、彼が知るよりもよほど多くの情報を自分は持ち得ており、その上、それら全てはあの少女の信じがたいまでの性情を裏付けている。
 突きつけるべき証拠の多さに戸惑うほどのそれを、彼は静かに笑んで見つめている。
 …………まるで、それら全てを覆す証拠を持っているかのような、そんな瞳で。
 「千尋さん、僕のこと、どう見えましたか?」
 「…………え?」
 唐突にまるで無関係な質問を投げかけられて、間の抜けた声を落としてしまう。それだけである程度の予測がたったのか、彼が苦笑した。
 「きっと……すぐ泣いて頼りなくて子供のような、成人を超えた男にはとても見えない、みたいな感じですよね?」
 「………………………………………」
 的確に表現されてしまい、フォローの言葉が浮かばない。ましてそれを告げたのがその本人なのだ。二の句が継げないという状態を体感してしまう。
 沈黙は肯定と同じだ。彷徨わせた視線でそれを十分理解しているらしい彼が、困ったような顔のまま、気にしないでくださいとそっと告げる。
 ……………この場合、気にした方がいいのは、自分自身でそれを理解している彼の方な気がしなくもない。が、あえてその点については触れなかった。
 「そう感じるのは当然なんです。だって僕、ずっとそうあろうとしてきましたから」
 むしろそうでなくては困るのだと、優しく笑って彼がいう。それはどこか、あの少女を彷彿させる、静かで優しい笑みだ。…………全てを隠そうとする、仮面の笑み。
 眉を顰めてその顔を睨み据えるように見つめる。もしもあの日、初めて出会った彼であったなら泣き出しかねない形相だっただろう。けれど今目の前の彼はそれを受け止めて戸惑うような顔をしはするものの、苦笑を唇に浮かべるだけだ。
 「千尋さん……『まるで美柳ちなみのようね』って顔、していますよ?」
 「!」
 「まあ………半分、それは間違っていないんですけどね?」
 首を傾げて、驚きに瞠目している自分に彼はいった。感じたそのことは、少なくとも半分は正解なのだと。
 …………その言葉の意味を吟味する。舌に転がし、咀嚼して………想像する。
 最悪の想像が脳裏を駆け巡り、一瞬目眩がしてよろめいた気が、した。
 「そんなに長い話じゃないとは思いますけど……座ってください」
 目に見えるほどの揺らめきだったのか、彼が少し慌てたようにして立ち上がる。けれど伸ばされた腕は途中で思い留まるように戻され、自分の身体を支えることはなかった。
 そうして彼は自身が座っていた場所を示し、座ることを促した。彼自身は横にずれてまた腰を掛け直す。見上げる視線が、座らなければ話の続きはしないと告げていた。
 だから、多分、ここで自分は示されていた。
 聞きたくないのであればいま話を打ち切ればいい。そのチャンスを彼はくれた。………ダメージを受けたかのように目眩を感じた自分を、案じて。
 じっと見下ろした彼の視線は逸らされない。一途な、目だ。その印象は変わらない。自分は自分が感じ取った彼の本質を疑いたくはなかった。
 いま話を打ち切り別れれば、疑惑は残され彼を理解することのないまま、この細い繋がりは終わるだろう。有耶無耶のまま終わらせるには、自分にとってこの青年の存在は根深いものだ。あの少女を、正体を暴かれてもなお、信じ続けようとする、青年。
 「…………失礼するわ」
 呟き、立ち去るのではなく、彼が与えてくれた席に、腰をおろす。若干彼の方が高くなった視線の先で、彼は嬉しそうに……けれど、少しだけ悲しそうに、笑った。
 「千尋さん………僕、印象違うなって、思われてますよね?」
 「………まあ、かなり、そうね」
 「さっきもいいましたけど、僕は変わりたくなかったんです、ずっと」
 そっと差し出された言葉は、何気ないものだった。当然だろう、誰とて変わりたいとは思わない。もしもいまの自分に不満がなければ、だけれど。
 じっと見つめた視線は、けれど交わりはしなかった。真っすぐに前方を見つめる彼は、どこか遠くを懐かしそうに眺めていた。
 「あの裁判の日も、いいましたよね。僕は弁護士になりたいんです。………友達を、助けたいから」
 しっかりとした声。真摯さに裏打ちされた、誠実な音。真実を紡ぐ音色は、揺らがない。
 その瞳すら力強く、前を見据えていた。あの日の彼とは、少しだけ違う。いや、違う訳では、ないのかもしれない。時折垣間見せていた、あの視線。真実を掴もうとするときに晒された、あの、何者も介入出来ない純乎な瞳を思い出す。
 「でも、あいつは僕のこと、小学生の頃までしか知らないから……変わりたくなかった」
 「…………え?」
 「会っていないんです。手紙も……読んでくれているかも、解らないから。いまの僕を知っている保証は………………一つも、ないんです」
 淀みそうな声は、それでも真っすぐに響いた。切ないほどの静謐さだ。…………彼の言葉の意味を理解すれば、その静けさが彼の覚悟を知らしめているようで、物悲しいほどに。
 困惑に瞳を揺らしかけて、慌てて瞬きでそれを押し止める。少なくとも、自分がそれに対して泣き出すのは、お門違いだ。彼を貶めるような真似は、したくはなかった。
 「だから変わりたくなかった。どれほど周囲にいわれても、自分で決めていたから、変わらなかったんです。まあ、それでも勿論、そんな風に考えている時点で、変わっている証拠にしか、ならないんですけどね」
 ちゃんと解っているというように、彼は苦笑した。そして、真っすぐに自分へとその視線を向ける。
 逸らせない。……………飲み込まれるように、彼の目を見つめた。それ以外の全てがシャットアウトされる。
 「ちぃちゃんと出会ったとき、感じたんです。ああ、この子もだなって」
 響いたのは、音。
 静かで寂しい、雪の降る音のような、あり得ない非現実的な、音。
 「自分の意志で、自分自身を決めている子なんだって………」
 だから運命だと思たのだと、彼は小さく呟いた。それは多分、運命の恋人とか、そんな意味ではなくて…………同じ痛みを知っている相手なのだと、思ったのだろうか。
 自身を押し込み自身のあり方を決めて、誰にもそれを晒さず二重の意志を紡ぎながら一人を演じる。まるで滑稽な喜劇だ。現実的ではないし、現実でそれを行うにはあまりにも、辛い。
 「でも、その後に付き合っていた彼女は、少しだけ感じが違っていて………でもやっぱり、何か抱えていることだけは、同じだったんです」
 告げられない秘密。晒すわけにはいかない真実。それは多分、誰もが持ち得ていながら自身にすら蓋をして目を背けている、人間という精神構造の奥底の、闇。
 見据え続けることは、狂うことすら、招き寄せる。それでも……彼はずっと見つめ続けていたのだろうか。変わりゆく自分と、変わるわけにはいかない自分と、その両方を妥協させながら折り合いを付け、時を重ねる自分を。多重人格のように幾人もいる過去の自分の全てを背負って、目を逸らさずに受け止めて、歩んできたのか。
 ぞくりと、鳥肌が立った。それはどれほどの孤独だろうか。誰にも理解されることのない、されるわけにもいかない、そんな極限だ。
 「だから、信じています。いまも」
 そっと彼は呟き、静かに細められた瞳は優しく光をたたえた。
 「出会いはおかしかったかもしれません。でも、ずっと一緒にいたちぃちゃんは、秘密を抱えていても………嘘をつける人じゃ、なかった」
 呆然と見つめる自分の視線の先、彼は躊躇いも戸惑いもなく、笑んでいた。
 裏切りも誹りも、あの罵りさえも。全てを飲み込んでなお、彼は信じるというのか。自分自身が感じたというだけの、それを。
 「あの時間に……偽りはなかった。僕は、信じています」
 自分が感じた、ともに過ごした時間は、間違いなくあったのだと。澱みのない音が寂しさに打ち震えながら、紡がれる。
 彼は、何の話をしているのだろうか。
 ……………まるで、彼女の話をしながら、まるで違う人を思うように、して。
 「ずっと………ずっと、信じています」
 覚悟を定めるように、彼が呟く。その瞳の輝きが、力強さを秘めた。
 「それしか……僕に出来ることなんて、ないから」
 悲しそうに泣き出す寸前の顔で呟いて、彼は笑った。その顔を見て、直感する。
 彼は、変わることを受け入れるのだ。…………時が経ち変化する全てを眺めていても、何も出来ないと痛感したのだろう。今回の、この事件で。
 泣いても喚いても、幼さだけを称えた意思では、何も救えない。
 だから、覚悟をしたのだ。…………変化することを受け入れても、決して変わらずにいる部分を定めるように。
 「それが、あなたが出した結論なら………頑張って」
 「…………千尋さん?」
 「惚けた顔をしないの。信じることを決めたなら、信じ抜きなさい。それが、弁護士よ」
 叱られるとでも思っていたのか、驚いた顔で自分を見返す彼に苦笑して、力を込めた言葉で、告げた。
 裏切りと疑惑と偽りに満ちた法廷の中、それら全てを超越してなお真っすぐに依頼人を信じられたなら、必ず真実を見据える力を与えてくれる。………少なくとも、今回の法廷で自分は彼にそれを教えられた。
 信じることは、力をくれる。自分にも、依頼人にも、だ。
 くしゃりと顔を崩して、それでも彼は数度息を吸い込んで、笑った。
 泣くことを忘れた子供のように、不器用に笑みを浮かべる。進むと決めた彼の道の先、涙は飲み込むことにしたのか。あるいは、彼の意志の先にあるその目的のために、それは不要だったのか。
 何故かなど解りはしないけれど、不器用な彼は泣き笑いのまま、ただ頷いた。

 …………弁護士になれたなら必ず会いにくると、そう告げながら。




 見舞いの品代わりに差し出した紙袋の中の六法全書を、縋るように抱きしめながら。





 21歳成歩堂と千尋さんでした。うちの成歩堂の基本は弁護士時代なので、21歳のあれも、33歳のあっちもまあ、根本は同じです。弁護士時代の彼が中枢にいた上での、表現形の違い。
 元々21歳成歩堂には『小学生から成長の無い態度』の違和感を、その頃別れたまま一切の連絡が途絶えた某検事が原因だったということにしておこうと思っていたのです。
 で、それじゃあ救うことが出来ないんだ、という自覚を持って変わることを受け入れたのが、ちぃちゃんの事件。
 この話を書くとどうしても相手は千尋さんで、千尋さんにしてみれば嫌だろうな、ここまでちなみを信じ続ける相手って、と思いつつ、背を押してくれる千尋さんにしてみました。
 だって成歩堂を否定する千尋さんなんて想像がつかないんだもの(苦笑)

07.8.29