そこは埃だらけで
雑多で
不要なものばかりが一杯で
とても過去に名を馳せた事務所なんて、思えない

あの、逆転弁護士の、事務所なんて

少しでも理想を目の前にしたくて
身勝手な理由で片付けた

どうしてそのままにしているか、なんて
考えもしないで

過去を土足で踏みつける、
そんな手酷い裏切りのような、真似を………



1.六法全書



 かたんと音がして、そちらに首を向けた。
 ようやく整理が終わりそうな本棚の前、背後を振り返るように見やってみれば、僅かに顔を隠す角度でニット帽を被った長身の男性が居る。
 それだけを認識したら不審者のようにも思えるが、彼はこの事務所の責任者だ。義理の娘とともに、ということではあるが、実質機能させるには過去からの手腕が物を言うのは当然だ。
 悟らせずに相当の面倒な手続きをこなしているのだろう。それだけでもご苦労なことだと思うが、普段の態度が態度なだけに、それすら誰かに押し付けているのではないか、などという穿った見方をしそうにもなる。
 もっとも、もしも自分がそんなことを言えば、真実はどうであれ、彼は笑ってそうかもね、程度で躱してしまうのだろう。
 彼は、自分自身のことをあまり語らない。
 だから、知らなかった。………そんな言い訳が、成り立つのであれば、だけれど。
 「…………?成歩堂さん?」
 事務所のドアの前、惚けたように目を丸めて立ち尽くす彼は、何も言わない。珍しい、というよりは、不気味だ。何かよくないことでもあったのだろうか。
 眉を顰め、不安を浮かべた目で彼を見やると、すっと細められた、その双眸。
 鋭利な、光だ。聞いたことしかない弁護士時代の彼を思わせる、追求するものの、瞳。
 一瞬で喉が干上がってしまう。自分は被告人でもなければ証人でもない。ましてここは法廷ですらないというのに、何故そんな気分を味わわなくてはいけないのか。
 軽い憤りは、けれど意識には登らなかった。
 「………………?」
 彼は、声を発さない。ただ眇めた眼差しで見つめている。真っすぐに、自分を。…………否、自分の、手元、を。
 その視線を追うように自分の視線も手元に落とした。そこには本棚から不要な本を取り出し積み重ねた山がある。まさに今、紐で括ってしまおうとしていたところだ。
 あるものは雑誌やボロボロの漫画、古くて使い物にならない資料や辞書。新しいものがあることを確認してから分類したそれらは、捨てられることをただ待つ資源ゴミでしかない。
 何をそんなに驚くのかと首を傾げ、もう一度彼の名を呼ぼうと口を開いた。
 ………その、瞬間。
 タン、と、音がした。多分、だけれど。
 そうして惚けていた間に距離が縮まり、自分の手首がつかまれる。……………痛みさえ覚える、握力だ。
 ドアからここまで、ほんの一瞬で移動してしまった。普段はのんびりとだらけているところばかりを見ていて失念していたが、彼は自分よりも体格的に恵まれていて、しなやかな筋肉もしっかりと付いている。考えてみれば自分よりも俊敏であったところで、不思議なことはない。
 ましてこの距離だ。純粋な歩幅という問題を考えれば、さして不思議な移動時間でもないかと、現実を認識することを拒否した頭がぐるぐると考えていた。
 視線が、あげられない。
 …………手首が痛い。目に映る本の山と紐と、自分の腕と………彼の手のひら。微かに震えている、彼の手のひら。
 顔をあげられない。彼を見ることが恐ろしい。どんな感情がその目に宿っていても、自分は見抜いてしまう。
 顔を見なくても、その雰囲気で。あるいは、この震える手のひらで。力の衰えない握力で。言葉さえ介入してくれない、焼けるような視線で。
 怒って、いるのだろうか。あるいは、悲しんでいるのだろうか。喜怒哀楽のどれかだとするならば、それは確実に怒か哀だ。
 息が詰まりそうで首を振る。それに怯えたと思ったのか、彼が詰めていた息を吐き出す音が聞こえた。
 それに促されるようにして、自分もまた、深呼吸をする。心臓が物凄い早さで脈打っていた。胸が痛むほどのそれに、知らず自由な片手を胸元に置いていた。
 短い沈黙は、静まり返った室内に心臓の音を響かせているようで冷や汗を誘う。
 あと10秒もこの緊張感が続いたなら気を失いそうな頃、彼が溜め息のようにもう一度息を吐き出して、くしゃりと、自身の髪をニット帽の上から掻き混ぜた。
 その音に反応しつつも、どうしても顔は上げられなかった。まだ、彼の手のひらは自分の手首に繋がっており、それはやはり………微かに震えていたから。
 「あのね、オドロキくん」
 「………………………」
 ゆったりと彼が声を掛ける。いつもと同じ、静かで抑揚の少ない彼の声。
 耳に響くそれは同じなのに、どうしてこんなにも質の差を感じるのか。痛いほど、突き刺さる。これ、は……怒りでは、なく。……………悲しみ、なのだろうか。
 項垂れるように俯き、力無く肩を落とした自分に困ったように彼は苦笑して、掴んだままの手首を揺らすように振った。
 顔を上げろという催促か、そのままでいいという合図か。解りかねて、また、俯いた。
 「……本棚を整理するのはいいよ」
 「…………………」
 「本を読むのも、君の力になる。だから、構わない」
 一つずつ確かめるように、ゆっくりと彼が呟く。噛み締めるような、静けさ。何かを耐えるような、緩やかさ。
 もしもそれがなかったなら、きっと。
 …………自分の腕を掴んだあの瞬間の、ように。
 彼は感情を露に、したのだろうか。ニット帽に隠し無精髭で武装して、だらしないパーカーで躱している、普段のそのスタイルを脱ぎ捨てて。
 あの、過去の日に居た、今もまだ彼の中で存在し続ける、真実だけを追い我武者らに前を進む、情豊かな弁護士のままに。
 耳に響く。肌に染み渡る。聴覚だけでなく、五感の全てが彼に向けられる。そのくせ、視覚だけは……恐れて彼を映せないと悲鳴を上げた。
 答えない自分を見下ろしたまま、彼はそっと息を吸い込んで、その声を沈め、響かない…無機質な音で、いった。
 「だけど………本棚のものを勝手に処分するのは、駄目だ」
 きっと彼は普通にいっただろう。聞き手たる自分が、それに付加要素を加えただけだ。
 それでも自分にはその声は痛かった。…………彼が自分を拒むようで、痛かった。
 「だ……って…………」
 必死になって、絞り出すように掠れた声を出す。怯えきった子供のような自分に、心底呆れ果ててもどうすることも出来ない。
 彼を、失いたくない。この居場所をなくしたくない。
 ここは、自分を受け入れてくれる。弁護士だとか肩書きではなく、自分というものを、この事務所は当然に迎え入れ、受け止めてくれるのだ。
 それは取りも直さず、彼の娘が……ひいては、彼自身が、自分を認め受け入れてくれている、証だ。
 両親の居ない自分にとって、それはまるで夢物語の一つのようで、決して手に出来ないだろうと思っていた、光景の一つだ。
 嫌われたいわけがない。拒まれたいわけがない。
 けれど………言い訳をして軽蔑されることだって、嫌なのだ。
 戦慄く唇で必死に何かを告げようとして、けれど言葉は見つからず、ただ混迷した意識だけが明滅するように焦りを生み出した。
 開閉される唇。じっと見下ろされた視線に、喉が鳴る。このまま逃げ出したい意識は、けれどつかまれた手首を見つめる自分の視線にその実現性を否定された。
 どうすればいいのか、解らなくて。ぎゅっと閉ざした目蓋が彼に見えるはずはない。ない、のに。
 「この事務所は僕のものじゃないんだよ」
 そっと、彼の手のひらが頭を撫でる。子供をあやすような、静かな指使い。
 窘めるような、言い聞かせるような、静かな音。…………まだ、手首は掴まれたままだ。
 「だから、僕は何一つ処分しちゃ、いけない。…………君も、同じだよ」
 駄目、なのは。そう告げて、彼は笑んだ。惚けたようにいつの間にか彼を見上げていた自分の視線に驚いたのは、その笑みを映したあとだった。
 どこまで、彼は気づいているのだろう。見抜いているのだろう。
 解らないけれど、同じように、自分もまた、一つだけ気づいた。
 ………彼は、この事務所という場所を、尊い場所だと思っているのか。自分が思うのとは違うのだろうけれど、それとはまた違う形で……慈しんでいるのか。
 本棚の本一つ捨てられないくらい。ずぼらなくせに観葉植物を手放さないくらい。
 この事務所の全てを、愛しいと。
 「……成歩堂、さん」
 かさついた声で、なんとか声を掛けてみれば、彼は首を傾げて応える。それを泣きそうな思いで見上げながら、小さく口を開けて。
 そっとそっと、謝罪の言葉を捧げた。


 彼の手のひらはいつの間にか自分の手首から解け
 自分がまとめて積み上げた本の上に乗せられている。
 厳かなものを見つめるように彼はそれを見下ろし
 見たことのない柔らかな笑みで、目を細めた。


 彼の手のひらの下。分厚い、重厚な作りのそれ。



 ……………それは、10年近く前の、六法全書。







 片付けしていたら千尋さんの思い出の品捨てようとしちゃっていたおバカなオドロキくん。
 よかったね、捨てちゃう前に気づいてもらえて。これで本当に捨てちゃっていたらどうなっていたことやら。
 しばらくは落ち込んだ成歩堂が魂抜けたようになっちゃうよ。
 そしてそれを心配したみぬきに散々責められちゃうよ。
 …………面白いくらい立場無いね、オドロキくん。

07.9.14