たまに彼はぼんやりと
何も無い空を見上げる
まるでそこに何かが見えるように
愛しいものを、探すように
ぼんやりと見上げて、小さく息を吐く
区切られたフレームの中のような
事務所の中の、窓の先
見えるものなどたかが知れている
都会の中のその光景
それでも
彼は、見上げ
小さく小さく、息を吐く
まるでそこに、何かを探すかのように……………
11.窓
まただ、と思う。
彼が対面のソファーに座り、自分用に入れてくれた紅茶を一緒に飲みながら、不意にその視線が途切れた。
会話の途切れた時間や互いに何かを行っているちょっとした間。あるいは、ただぼんやりとしていたりするとき。
彼は不意に何かを見つめる。何も無い空間を、じっと見つめる。まるで猫かなにかのような仕草。
苦笑して、彼と同じ方向を見遣る。そこは窓のある壁で、恐らくそこから外を見ているのだろう。微風を入り込ませている窓は、同じように雑多な喧噪を微かに室内に響かせていた。
見えるものは、さしてない。隣のホテルと電線と電柱、それから、僅かばかりの青空。見ていて楽しい景色では無いだろう。何も動くものも無いのだから、恐らく毎日毎日同じままの景色だ。精々、ほんの1割程度の空の変化くらいか。
なにが楽しいか解りかねるが、彼はよくそんな仕草を見せる。不意に引き寄せられるように、窓を見つめるのだ。
そんな時の彼は、ひどく静かだ。喧噪の聞こえる窓を見つめるくせに、彼自身はひどく虚ろで静寂に浸る。
そのまま、まるで別世界にでも歩んでいってしまいそうな様子に、ついいつも声をかけてしまう。
「……成歩堂」
今もいつもと変わりなく、彼の名を呼ぶ。
数秒の時間差を置いて、きょとんとしたいつもの目でこちらを見た彼が首を傾げる。どうしたのかと問うその様に、内心ほっと息を吐く。
……………そして、特に話題がないことにいつも苦労するのだ。
こうして不意に彼の事務所に訪れることは、あった。特に自分がこの近場に来た時、それが昼食時なら、連絡をして一緒に食事をとるのは習慣といってもいい。今もそれで、事務仕事に忙しかった彼が外ではなく事務所で食べるならと、デリバリーの弁当を所望し、食べ終えたところだった。
今日は助手である真宵はおらず、一人で朝からずっと事務処理をしていたのだろう。ようやく人心地つけると安堵の溜め息を持って迎え入れてくれたのは、ほんの30分ほど前の話だ。
けれど、今はそれがひどく遠い昔のような錯覚を受ける。
食事の間軽く近況を報告し合って、他愛無い話も交えて、食べ終われば彼が紅茶を入れてくれた。
それを互いに飲んでいた、ほんの一瞬。
その隙に、彼はどこかへと飛んでしまうのだ。まるで自分の知らないところを見つめるように、窓を見遣りながら。
それを伝えるには自分のボキャブラリーは極端に薄い。法廷で使用する語彙でまかなえるわけの無い会話は、ひどく難しいものだ。まして感覚で捕らえたものは、言葉に置き換えることが不可能に近い。その上、感性の違いから誤って伝わる可能性が極めて高いのだ。
なんとか別の話題で話を繋げようと、こちらを見た彼が目を瞬かせている間に考える。
そうして口を開きかけたとき、また、彼がそっと窓を見遣った。
…………それは、たまたま笑い声が窓の下から聞こえただけの、反射だっただろう。彼は誰かと話をしているときにそれを遮ってまで、その癖を出すことは無い。
解っていたけれど、焦燥が、生まれた。
………知らず、立ち上がり、彼の肩を掴むように、腕を伸ばす。
突然の行動に彼が目を白黒させる。…………青ざめなかっただけでも、よかったのだろうか。そんなことを考えながら、衝動的な行動の結果に、途方に暮れた。
テーブルが僅かな音を立ててずれたことさえ、今はどうでもいいことだった。なんと言葉を継げば不自然ではないのか、そんなことばかりを脳内で検索するが、あらゆる意味で既に、不自然だ。
そもそも間が空き過ぎていて、今更なにをいっても言い訳に過ぎないことは明白だった。
逡巡は一瞬で、諦めるように嘆息する。
言い訳は見苦しくて嫌いだ。なにを言い募っても不審しか呼ばないだろう。それならば、事実をありのまま告げた方が、まだ潔い。
思い、こちらの溜め息に首を傾げて見上げる彼を見遣り、苦笑する。
「時折君は…」
「うん?」
「消えそうに、なるな」
言葉をどう選べばいいかを思いあぐねて、自分の不安をそのまま口にする。何故、とか、どうして、とか。そんな理由を並べることなく、唐突にその事実だけを。
案の定彼はまた首を傾げ、目を瞬かせる。見上げた顔は疑問を持って困ったように揺らめいていた。
それを見つめ、肩から手を離す。少しだけ逡巡し、数歩歩んで彼の座るソファーへと進む。それに気づいた相手が少し身体をずらし、座るスペースを作ってくれた。
あまり隣に座ることに慣れていない彼だが、それ自体を拒むことはない。ほっとしながら、そこに腰掛け、両手を組んで唇に押し当てた。
「君は窓を見る癖が、あるだろう」
なにから言えば、いいだろうか。そう思いながら、思ったことを思ったまま、告げる。彼はじっとこちらを見遣る。前方のテーブルを睨むように見つめる自分の頬に、彼の視線を感じた。
「何かを探すように、幾度もだ」
恐らく自分が整理し切れていないことを無理に整えようとするより、断片であろうと情報全てを差し出した方が彼には解りやすいだろう。彼は彼の中でそれらを構築し、理解してくれるはずだ。
全てを相手に丸投げするような行為だが、彼がそれを拒まないことをいいことに、理解してくれることを願って、そっと口にする。
「……そんなに、見ているかな?」
困ったような声で彼が小さく呟く。自覚は、あったらしい。それに目を向け、彼と同じように困ったように小さく笑う。
「それほどでもないのかもしれない。が、その度に君は、そこに消えそうな顔で、見ているのだ」
まるでそこに迎え入れられることを待つように。苦いものを噛み潰すように告げてみれば、彼は苦笑して、その身をそっとソファーに沈ませた。
ちらりとそちらを見遣り、伺うように怪訝に眉を顰めれば、彼は目を伏せ、その両手を持ち上げると、己自身の顔を隠すように交差させた。
そうして、ぽつりと、呟く。
「そっか………そんな風なんだ、僕」
苦笑するとも自嘲するとも取れない唇の笑みは、微かに震える声と相まって、泣き出す子供のように見えた。戸惑い、頭でも撫でたなら落ち着くだろうかとそっと手を伸ばす。が、それを拒むように交差された腕が立ちはだかっていた。
行動を読まれているのかたまたまなのか、解りはしない。ただ………恐らくは、慰めを求めていないのだろう。その事実に思い当たると、胃の奥が痛んだ。
「気にしないで、聞いてくれる?」
小さな呟き。感情を鎮めて、他愛無い話のように見せかけた、声。
きっとそんな風に聞くことは不可能なのだろうと思いながら、小さく頷き、いつもの素っ気ない返答で了承を示す。出来る限りは、冷静に話を聞きたいといつだって思ってはいるのだ。
「窓の下、だったんだ」
「…………?」
「千尋さん、看取ったの…………」
だから、そこに目がいってしまう。けれどそれを思い出すのは痛みが強すぎて、逃れるように視線は窓へと向かう。
だから、窓を見る癖がついた。思い出す度、消えない痛みを感じながら、もういない人を探すように。
そう小さく消え入るように呟きながら、彼は決して顔を見せようとはしなかった。
彼の腕の下、どんな表情を浮かべているのか。声は震えはしても嗚咽に染まらず、掠れてはいない。泣いていないからといって、悲しみがないわけではないだろう。
それでも、彼はきっと、笑むのだろう。
零さない涙の代わりに、不敵に笑んで、目の前の事実を受け入れるために、腕を差し出す。
そうして負った傷になど目も向けず、抱え込むのだ。どんな事実であろうとそれが真相であれば受け止める覚悟を、彼は弁護士という職種に付いた早い時期から、強いられていた。
現実の苛酷さも酷薄さも彼は知っている。…………突きつけたのは、他ならぬ自分だ。知らないなど、そんな夢見事、思えるほど馬鹿ではない。
「…………彼女の隣が…」
ぽつりと、呟きかけて、愚かなことをいったと唇を噤む。彼が気づかなければいいと思いながら見遣った先、唇の笑みを微笑みに染めて、彼が音を紡いだ。
「生きるよ、僕は」
何があろうと、精一杯。そう、己に言い聞かせるように断言して、ぎゅっと唇が引き締められる。同じように、彼の腕にも微かに力が込められた。
それは、誓いなのだろうか。今はもういない人への。
……………誰よりも大切であったものを失ったものの意志としては、美しいとも醜いともいえる、意志。
彼は誰を失っても決して後など追わず、その痛みを背負い、微笑んで、生きるだろう。失うことを知っているからこそ、なによりも深く傷つくくせに、その痛みすら、生きた証というように。
「成歩堂」
胸が、痛い。喉が、痛い。………恐らく、心という物自体が、痛い。
それを癒す方法など、自分は一つしか知らなくて。躊躇うように彼の名を呼ぶ。
微かな間をあけて、揺れた彼の腕が解け、ようやくその顔がのぞく。思った通りに笑んで自分を見つめる眼差しは、深く沈んだ湖面のように見えた。
それに触れることは、罪だろうか。…………どれほど裏切らず生きようと、人は必ず最期の瞬間は、独りでしかない。独り逝くか独り残るか、その差しか、ない。
解っていて、それでも自分は、その瞬間までずっと、求めてしまう。どれほど彼がその事実を怯えようと、求めることを留める術を知らない。
震えそうな喉を叱咤して、困ったように歪めた顔で、ソファーに沈む彼の顔を覗き込む。言葉に換えることの浅ましさを思い悩めば、そっと彼の腕が、肩に回された。
「君は……無遠慮なくせに、遠慮深いよね」
矛盾もいいところだと、彼は苦笑して呟き、そっとその腕の中、自分をおさめた。彼が看取った人とは到底似ても似つかない身体を優しく包む腕に、息が詰まる。
惑いながら彼の背を抱き締めて、もしも自分が彼を看取ったならと思い、頭を振った。
彼はきっと生きるだろう。
……………生きることを願われるまま、
死を思いながらも、生きるだろう
決して手の届かない桃源郷のように
いつかまみえることの出来る、たった一人の師を思い
窓を、見つめながら、生きるだろう……………
ちょっと暗めに。でもお気に入りな話ですよ。
基本的に私の書くキャラは生きることは死に向かう、という意識で生きているので。常に死を想定した上で、生き方を模索します。だって、いつなにが起きて死ぬかなんて、誰にも解らないしね☆
それなら死の瞬間に悔いが残らないように、自分で自分の生き方決めなきゃね☆
まあそのせいで、こんな風にちょっとばかり意識の違うキャラ同士だと痛い話になってしまう(苦笑)とはいえ、御剣もある意味間近で父親亡くしているのですがね。そこが感性の違いというか、性格の違いなのでしょう。
うちの成歩堂は単に痛みを忘れたくないだけなのだと思います。なんというか……鈍感になりたくないというか。
どうしても刑事事件ばかり弁護して、人が死ぬ事件ばっかりに出くわして、それが当たり前になりたくないという。
死は当たり前の事象だからこそ、それに慣れてしまわないように。
自分自身を見直して、律するために、死を看取った痛みを忘れないで生きるのだと思います。
そうやって生きれば、いつかは優しい人間なれるかもしれないと、祈りながら。
07.9.19