小さな重みを膝の上に感じる

微かなぬくもり
微睡む呼気
健やかそうな肌は幸せそうな寝顔に染まっている

幼く小さく愛しい命

そっとその頭を撫でて
微睡む少女と同じほどの微かさで笑む


どうぞ幸せに
苦難ばかりを背負う少女に
祈りをこめて、微笑んだ



13.ケーキ



 「…………………………………」
 開かれたドアに成歩堂が気づき、そちらに顔を向けた。そこにはよく見知った男が一人立っている。何か言いたそうに口を開きかけた相手に気づき、成歩堂はそっと唇に指を当てて話すなと仕草で教えた。
 するとドアを開けたまま立ち尽くした男…御剣は途方に暮れた顔をして、どうすべきかを考えあぐねたように硬直してしまう。解らなくもないけれどと成歩堂は苦笑して、それでも声を出す事を控えて手で招くだけで入る事を許可した。
 ほっと小さく息を吐いて彼は足音を殺しながら成歩堂の座るソファーに近づいてくる。手にはいつもの事ながら助手である少女たちへの土産が携えられている。相変わらず律儀な奴だと成歩堂はこの事務所に訪れる事が当たり前になっている友人を見ながら苦笑し、視線を自身の膝元へと向けた。
 ………その視線の先には幼い少女が眠っている。ソファーに座る成歩堂の隣に横たわり、その膝を枕に健やかな寝息をそっと紡いでいた。あまり寝心地がいいとも思えない姿勢だが、少女は寝苦しそうにもせず、むしろ幸せそうに笑んでいる。
 それはとても微笑ましい姿だった。訪れた事務所のドアの先、そんな光景が広がっていればどう対処すべきか解らなくなるほど、優しい雰囲気だ。そこに加わる事を許されたらしい事にもう一度息を吐き出し、御剣は極力音を出さないように注意しながら二人の座るソファーの横までやってきた。
 成歩堂がそっと春美の背中を撫でて安眠を守るようにぬくもりを与えれば、カサリと間近で音がする。傍まで歩んだ彼が手にしていた土産を机に乗せたのだろうと、視線だけを動かしてそれを確認した。同時に、じっと注がれている相手の視線を見上げるようにして目を合わせる。
 先ほど同様に途方に暮れたような寄る辺無さで彼は首を傾げ、自身がどうしたらよいのかを問うようにこちらを見つめている。
 おそらく、帰った方がいいのか、それを問いたいのだろう。ここまで入り込んでいて今更だと成歩堂は内心苦笑する。そのくせ、彼は自分からそれを切り出せない。………結局、欲しい答えを自身で携えている事は、解りきっていた。
 「取り合えず、座れよ」
 小さな囁きで告げて成歩堂が指で示したのは、自身と御剣とを隔てているソファーの肘掛け部分。座るのに適した部位ではないが、そこ以外に示せる場所はなかった。
 実際、春美が眠っているのだから二人で使用したソファーは既に定員を超えていた。かといって正面に座られても会話が成立しない。眠る春美を起こしたくないのだから、あとは残された選択肢は一つだけだ。
 一応客に当たる筈の彼に勧める席としては心苦しくはあるが、それでもホッと息を吐いて彼は頷き、示された肘掛け部分に腰を下ろす。確認するようにそちらを見遣ってみれば、大分視線が上だった。見下ろされる格好に成歩堂が苦笑してみれば、同じ事を思ったのか、彼も苦笑を零していた。
 「悪いな、折角来てくれたのに」
 「構わん。………春美くんは、どうしたのだ?」
 互いに囁くほどの小ささで話しながら、そっとその視線を眠る春美に向けた。あどけない寝顔のまま、すり寄るように頬を寄せる。普段の聡明な彼女も、眠れば幼い少女の姿を惜しみなく晒している。その微笑ましさに、成歩堂は自然に綻ぶ唇でそっと言葉を紡いだ。
 「うん……なんか、真宵ちゃんと喧嘩しちゃったみたいでね」
 自己嫌悪で落ち込んで盛大に泣いたあと、疲れて眠ってしまったと、困ったように笑って簡潔な経緯を口にした。
 教えられたその内容に御剣が驚いたように瞠目する。それはそうだろうと成歩堂もまた苦笑を深めた。仲の良さにしか想像のつかない二人が喧嘩など、現場を見ていなければ想像も出来ない。
 そもそも喧嘩の内容自体も、互いを思うが故のものだ。喧嘩にもなっていないけれど、それでも互いに必死に口論をしていて、相手を思うが故に、余計にもつれてしまっている。
 それを目の前で繰り広げられたのだから、呆気にとられて口も挟めない状態だったと成歩堂は思い返しながら小さく息を吐き出した。
 二人とも黙り込んでしまったタイミングを見計らって、少しだけ時間を置いた方がいいとそっと真宵に耳打ちし、取り合えず書類を裁判所に届けてもらっている最中だと成歩堂が現状に足りないピースを補うように付け加えると、合点がいったような納得しかねるような顔で御剣が頷いた。
 今の状況の原因は解っても、その原因の発端は理解出来ないのだろう。そのくせ御剣はそれを問う事が許されているのか解らず、唇を開こうとはしなかった。………ただ彷徨う視線だけが疑問を問うか問うまいかと揺れ動き悩んでいる事を教えている。
 「あのね、御剣」
 まだ解らないという顔をしている彼に苦笑しながら、そっと膝で眠る少女を撫でる。先ほどまでは悲痛な泣き声を上げていたけれど、今は落ち着いたのか、寝顔も安らかだ。きっと夢の中で真宵とともに遊んでいるのだろう、はにかむ笑みは、彼女に向ける尊敬と親しみをこめたものだった。
 それを愛しそうに見つめ、成歩堂はそっと隣に座る御剣に囁きかける。
 「真宵ちゃんは、春美ちゃんを守りたいんだよ」
 「知っている」
 「………だから、春美ちゃんが独りで我慢する事が、悲しかったんだよ」
 小学校でいわれないイジメを受けたらしいと、寂しい笑みで告げれば、息を飲む音が響いた。彼も驚いたのだろうと、成歩堂は遣る瀬無い思いで睫毛を落とした。
 この少女の中、非を探す事の方が難しいと、自分たちは知っている。
 それでも、同時に自分たちは思い知っている。………………集団というものの残酷さと冷徹さを。
 小さな火種があれば、それは燃え広がるのだ。罪悪感も少なく、あっけなく燃え尽きるほどの、一時の感情の爆発。それを向けられた相手の傷など、顧みる事はない。それはいっそ無邪気なほどの残虐性だ。
 それに染まる事は子供も大人も無関係だ。ただ要因と対象さえ居れば、それはいつだって作り上げる事が出来る。それほどまでに身近で、それほどまでに、人という生き物の精神性は、脆弱だ。
 「…………だけど、さ」
 眠る少女を守るようにその背に手を添え、優しく撫でながら、慈しむ音が紡がれる。意図などせずとも、健気に生きる命を前にすれば、自然と滲む音。
 眠る少女を守るように紡がれた音は、優しく室内を満たした。
 それを見つめて、去来するのは……微かな遣る瀬無さと寂寞。その事実に誰にも気づかれぬようそっと息を飲んでやり過ごし、眠る少女を見つめる彼を、見つめた。
 「春美ちゃんも、真宵ちゃんを守りたかったんだよな」
 だから言えなかったのだろうと、そっと囁く。
 優しい小さな命は、まだ育ちきらないその手のひらで、必死に自分の愛しい人を守ろうと足掻いたのだろう。不器用で拙くて、恐らくは失敗と躓きばかりの方法で。
 それはひどく微笑ましいけれど………同時に、どうしようもなく歯痒く悲しい。
 愛しいのだと伸ばす腕は美しいのに、それが誰かに傷つけられたが故に隠されるなど、本来ならばあってはならない事なのに。
 幼い命は、知っているのだ。耐え忍ぶという、その言葉の意味を。教えられなくとも、経験的に思い知っているのだ。
 「だからさ、御剣」
 優しく幼い背中を撫でながら、彼が囁く。谺すことなく静々とその音は隣に座る男に捧げられ、消えた。
 その様を見つめながら、微かに頷き、音ではない仕草だけの返答を差し出した。もっとも、俯き少女の姿を見つめる相手にそれが届くとは到底思われなかったけれど。
 けれど彼はそれを受け止めたかのように笑んで、愛おしむように、そっと吐息のように音を紡ぐ。
 「僕は、二人の事、守りたいなって思うよ」
 不器用で拙くて、大好きな人の事を守りたいのだと足掻くまだ幼い少女たち。
 彼女たちが傷つかないように、出来る事なら傍で、守りたい。自分が師に慈しまれたように、導ければいい。…………それだけの度量があるかどうかは、また別問題かもしれないけれど。
 ただ、傍にいる事で痛みを緩和出来るなら、これほど嬉しい事はないだろうと、彼は笑んだ。
 「だって二人が一緒に笑っていたら、嬉しいからね」
 己に注がれる視線の意味を感じながら、それでも彼は告げる。真っすぐな意志と真っすぐな言葉。歪曲する事なく伝わる音。それは、少女たちを思いながら、隣に座る人へと、捧げられる。
 「…………………そう、だな」
 小さく彼は答え、そっと視線を逸らした。
 彼の返答の意味を知っている相手は、少しだけ寂しそうに笑んだあと、何事もなかったかのように顔を上げて笑う。そうして気軽な調子で相手の肩を叩き、強請るような茶目っ気のある顔で、給湯室を指差した。
 「じゃあさ、お願いしていいか?」
 「……………?」
 「紅茶。君が買ってきたケーキ、みんなで食べようよ」
 そろそろ真宵も帰ってくる筈だからと、笑んで彼は告げ、眠る少女の頬をあやすように撫でた。
 あと少しだけ、眠るといい。そうして目覚めた時、自分たちと帰ってきた真宵と、広げられたケーキと紅茶を見て、驚いたように目を丸めると、いい。
 声をかけたなら笑ってくれるといい。
 喜びを、悲しみ以上に感じ育ってくれれば、いい。
 それはどこかこの少女へ捧げるだけではない祈りだと思いながら、成歩堂は目を瞬かせる相手に悪戯っぽく笑う。
 視線の先、相手は少しだけ惚けた間を空けて、仕方のなさそうな、そんな溜め息を吐き出した。
 「客を使うとはいい度胸だな、成歩堂」
 可愛げのない返答をしながら、それでも彼は立ち上がり、座る相手の頭を撫でるように一度、その髪を梳いた。
 まるで眠る少女へ捧げる指先への意趣返しのような真似に胸中で苦笑しながら、したたかな笑みを浮かべ、成歩堂は答える。
 「君が子供に膝枕が出来るようになったら、代わってやるよ」
 からかうその声に渋い顔を見せながら、彼は背を向け給湯室へと向かう。
 その背を見ながら、彼の入れた極上の紅茶を思う。


 事務所のドアが開き、申し訳なさそうな顔で助手の少女が帰ってきて。

 テーブルの上のケーキに目を輝かせて、喜色に染まった声で、眠る少女を揺り起こす。

 嬉しそうに二人がケーキを頬張る姿を見つめながら。

 そんな感情が愛しいのだと、隣に座る人に告げたなら。
 そっと睫毛を落とし、眠る少女の背を撫でて、自身もたゆたうようにその解答に思いを馳せる。



 …………………答えを思うよりも少しだけ早く、微かな紅茶の香りと事務所の前で立ち止まった足音が、聞こえた。








 初めは成歩堂が焼いたアニョー・パスカルを真宵ちゃんと春美ちゃんに振る舞っているところに御剣が来て自分の分がないと不貞腐れる話にしようかなーと思ったのですが(どこまで子供だよ、御剣)明らかに私しか楽しめないので止めました。
 そもそもアニョー・パスカル自体、どう考えても一般的でないしな………。

07.10.17