他愛無いことだった
ほんの少しの、意識のすれ違い
それは別段いつだってあることで
それに怯えることも
悲しむことも
ましてや厭うことも、ないのに
あまりにも震える指先で自分を伺うから
余計に、悲しくなる
ねえ、君、は
そんなにも一生懸命、どうして僕を思うの?
14.誤認逮捕
薄暗い室内の殺風景な様を欠伸を噛み殺しながら眺める。
あと1時間ちょっとすれば新しい友人が夕食をともにするためにやってくるだろう。今朝突然入り込んだ連絡を思い出し、くつりと唇を笑みに染めた。
きっといま手がけている裁判がうまくいったのだろう。あるいはその自信があるのか。彼は仕事が片付くと、その話を聞かせるために自分の職場まで足を伸ばす。まるで弁護士としての己の有能さを誇示したい、子供のように。
思い、次は苦笑が唇に浮かんだ。そう考えたなら、あるいはあれも微笑ましいのかもしれない。余裕のある笑みで流暢にこちらのペースを気遣いながら語られる会話はなかなかのもので、まるで一種の劇の最中にいる気分に陥ることさえあった。
ただ、その話の内容が聞きようによってはただの自慢話であることが多いという、たった一点の欠点さえのぞけば。
「今回の依頼人は……企業だったかなぁ」
詳しいことはさすがに守秘義務で聞けるはずはないが、判決が下ってしまえば彼はあまり気にせず自分に話してくれる。多分それは、と思うと、少しだけ遣る瀬無いものがこみ上げる。
彼もまた、不器用な人だ。自分と関わる中で、共通の会話がない。そのせいで、誘いをかけるタイミングすら見つけられず、結果が、恐らくはいまの状況なのだろう。
自分にとっては好都合だけれど、彼にとってはある意味最悪の状況なはずだ。自分の手の内や思考の方向性、意志の向かい方や情報の流通。全てを自分に晒すようなものなのだから。
ぽつりぽつりとそんなことを考えながら時間を潰していると、不意にガコンという大きな音が響いた。聞き覚えのあるそれに、視線をずらして原因であろう壁を見つめる。
棚に覆われたはずの壁はゆるゆると動き、当たり前のような顔をして古い友人が現れた。
そこにいる相手は予想外で、正直目を丸めてしまった。きょとんと見遣る自分に気づき、彼は首を傾げて眉間の皺を濃くした。
「………もしかして、メールでも、した?」
「君はまた見ていないのか」
相手の反応に予測出来たことを口にすれば、呆れたような盛大な溜め息が返された。それに苦笑を浮かべて、肩を竦める。
「だってここ、電波届かないからね。持ってはいるけど、意味ないんだよ」
ほらとポケットの中の古びた携帯電話を見せれば、圏外の表示があるだけでメール着信の表示はない。それを確認した彼はム、と顔を顰め、自身の不手際に気づいて目を逸らした。
素直なその反応に気をよくして、破顔しながら気にしないでいいと伝えれば、そわそわと視線をあちらこちらに移しつつ、彼が頷いた。その様子に、少しだけ警戒心を沸き起こす。
彼は、たまに訳の解らない行動を起こすことがある。それは決して悪意からではなく、彼の中では摂理ある行動のようだが、自分には少し理解が及ばない。そういう行動の前兆に、大抵がこうした様子が見られるのだ。自分の方を見ず、落ち着かないような、どう切り出せばいいのかを考えあぐねるような、態度。
そっと彼の様子を窺ってみれば、彼の腕には紙袋がある。それなりの、大きさだ。こんな場所に土産を持ってくるはずもないのから、菓子とかそんなものを想定するのはあまりに儚い希望だろう。小さく息を吐き出し、どちらにせよ声を掛けなくては対処のしようのない現実に頭痛を感じた。
「…………で、御剣?」
「ム」
「今日はなんの用?僕、一応夕方から用事があるんだよね」
だからあまり時間は割けないと釘を刺すと、微かに顰められた眉。彼は自分の行動を束縛はしないけれど、やはり逢瀬を邪魔されることを好みはしない。それでも重ねた年月の分、約束を優先する自分の性情に理解は示し、無駄な抵抗も幼い我が侭も飲み込むように努力してくれている。
その様は微笑ましくて、小さく笑って彼にまた声をかけた。
「だから、用があるならちゃんと言わないと、時間なくなるよ?」
悩んでいる暇はないと暗に教えてみれば、覚悟を決めたかのようにギロリと睨みつけられた。…………もう少し、余裕のある表情は出来ないものかと溜め息が漏れそうになるが、緊張しているだろう相手にそれも酷かと、笑みをそのままに首を傾げて彼を促した。
「………実は、だな」
少し話し始めを悩むように彼は声を濁らせ、口を閉ざす。数秒の間のあと、ようやく言葉を見つけたのか、再び唇が開かれた。
「何も言わずこれを着てくれたまえ」
すっと差し出された紙袋は、どうやら洋服のようだ。しかもきちんと見た紙袋は、自分にも解るようなブランドの名前が書かれている。興味がないのでそれの相場など知りはしないが、少なくとも自分の購入する洋服とは桁が違うだろう。下手をすれば、二つくらいは。
顔を引き攣らせそうになりながら、そっと一歩後ろに退いた。彼が自分に物を与えたがるのは、多分独占欲の現れでもあるのだろう。自分は物に執着しないけれど、与えられたものは当然それなりに大切にはする。それを知っているからこそ、彼はまるで自分のいる空間全てを埋め尽くしたがるかのように、色々なものを与えようとした。
だから、別段珍しいことではない。………普段はそうした真似を注意して止めるように促しているが。
ただ、自分が与えられて素直に受け止めることが出来る範囲がある。いくら思いを寄せられていて、同じようにそれを返していたとしても、金銭面で甘えたいとは思わないし、貢がれたいなんて考えたこともない。………そもそも、冗談でいったところで、彼は本気にしかねなくて、言える訳もない。
どうやって断りを入れようかと考えながら、差し出された紙袋を胡乱そうに見遣った。
「…………嫌なのか?」
どんな服かも見ていないのにそう寂しそうに言う当たり、恐らく自分に似合うという意識と同等に、彼の服に似せた部分もあるのだろう。じっと彼の服を見てみれば、シンプルではあるけれど、やはりどこか世間離れした感は否めない。彼の容姿であれば似合うのかもしれないが、一般的な自分の顔にあう訳はない。
深く吐き出しそうな溜め息を飲み込んで、困ったように笑い、首を傾げた。
「うーん、僕、ブランドものって嫌いだからさ」
この職場に合わないだろうとやんわりと断りを入れると、なお彼の眉間にヒビが入った。何か地雷でも踏んだかと言葉を脳裏で反芻するが、特におかしなことはいっていない。普段から気にも掛けないブランドを好んでいるなど、さすがに彼も思わないはずだ。
どうしたのだろうと目を瞬かせれば、びしっと法廷に立ったかのような鮮やかさで指を突きつけられる。睨む視線は被告人を見据えるような冷たいものだ。ますますもって理解が出来ないと更に首を傾げた。
「だからこそ、だ!」
「なにが?」
「このような場所でそのようなうらぶれた格好で夜通しポーカーをしているなど、誤認逮捕に事欠かん!せめて服装くらいきちんとしておけ!」
捲し立てるような早口で言われた言葉の内容を、出来れば理解はしたくなかった。ので、さらりとスルーをし、取り合えず、彼の目的がなんであるかを理解する。
だらしのない格好で悪辣な噂を立てられかねない仕事場と仕事に就くなと、そういうことだろう。せめて服装に乱れがなければ付け入る隙はないと言いたいのだろうが、明らかにそれはこの場に浮いて仕事がやりづらくなるだけだ。
彼は自分のことになるとどうしても視野が狭い。自分の身を守ろうというそれしか意識が向かず、その他との折り合いが上手くつけられないのは昔からだ。軽い溜め息を吐き出し、首を振った。
「平気だよ、逆にこういう服の方がね、上手く躱しやすいんだ」
だから気遣いだけいただくよと断ると、彼はむっと顔を顰め、一歩前に進む。先ほど自分が後退した分よりも大きな一歩だ。その分、距離が縮まった。
嫌な予感が脳裏を過り、距離を確保しようと身を捩ろうとした、その瞬間、空間が反転した。
先ほどまでは壁が見え、その先に広がった隠し通路も見えたのに、いま見えるのは天井の小さな電灯だけだ。否、それに加えて、怒ったような拗ねたような彼の顔も映る。
状況を判断するのはそう難しいことではない。退いた先はテーブルで塞がれていて、そこに近づいた自分に彼が腕を伸ばせば、当然そこに横たえられる。頭では冷静に理解出来るそれも、現実の状況となれば話は別だった。
クラリと、脳が揺れる。吐き気さえしそうな感覚を、掠れた呼吸をすることでなんとか耐えた。
「着てみなければ解らないだろう。取り合えず、一日それで過ごしてみたまえ」
のらりくらりと躱すことを予測したのだろう彼は、当然のように実力行使に出た。目を見開いて、彼の顔を凝視する。息が、上手く出来なかった。
もしもこんな薄暗くない蛍光灯の下にいたなら、彼は手を止めたことだろう。パニックに陥っているいまの状況で、まともに酸素を肺に取り入れることは出来ない。必然的に、顔は青ざめていたはずだ。
けれどこの部屋は薄暗く、顔色の変化など鈍い彼に解るはずがない。混乱した頭でどうやって逃げればいいかなど、思いつくはずもなく。
…………ただ、伸ばされた腕が恐ろしくて。
無意識に歪んだ視界が、溢れた。音もなく息をすることすら惜しんで、眼前の恐怖から目も逸らせず、見開いた目のまま、涙だけがこぼれ落ちた。
声も発せない。嗚咽も漏れないのは、多分、息も上手く出来ていないせいだろう。
ただ見上げた自分に覆い被さる相手は……………凍り付いたように、止まった。歪んだ視界では相手の顔は見えない。着替えさせようとパーカーに掛けられていた手が、震えていることだけが服越しに伝わった。
頭を撫でられる感触。誰のものか解らない熱に、びくりと身が竦んだ。それを悲しむように、その熱もまた震えて、離れる。
「………すまない、泣かないで、くれ」
消沈した声が、戸惑いながら小さく零れる。混乱した思考も歪んだ視界も相手を識別させなかったけれど、その声だけは、響かせた。
見知った相手であることをようやく理解し、意識が正常化される。クラリとした脳は酸欠に喘いでいたのか、数度の瞬きと深呼吸でもまだ目を眩ませた。
「…………みつ……るぎ?」
確認するように小さく名を呼ぶ。もう一度瞬きをして、まだ揺れる視界をクリアーにすれば、痛みに打ち拉がれた人が、恐れるようにこちらを覗いている。………まるで、視界に入ることさえ、罪だとでもいうように。
クラクラと揺れる意識をなんとか正して、ほっと息を吐く。どうも未だに、この体勢は慣れない。危害を加えられるという意識しか浮かばないのだから、いい加減彼に対しても申し訳ない話だ。
「………………すまない」
消え入りそうな声でまた謝罪を口にする彼の方が、泣き出しそうだ。困ったような笑みを唇に乗せて、微かに震える腕を持ち上げ、力なく彼の両頬を叩く。そのまま包むようにした指先を、彼は戸惑うように見つめてから、恐れるように自分へと目を向けた。
なんとか目を向けてくれた相手に小さく息を吐き、掠れた声で馬鹿だな、と呟く。彼にそれが聞こえたかどうかは解らなかったけれど。
「心配、してくれたんだろ…………?」
なら謝ることじゃないと、震えそうな声を必死に紡いで告げる。それでも彼はゆるゆると首を振り、沈むようにその身を小さくして、微かな音を吐き出した。
「例えそうでも……君を、怯えさせた」
解っていて恐れさせたと、悲しむようにいう声は自分の胸元から零れていた。
きっと彼は身体も離し、いっそ帰ってしまいたいのだろう。傍にいれば自分を傷つけそうだと、そんな馬鹿なことを考えて。それでも頬を包む自分の腕を振り払えず、せめて落ち込む自身の顔だけでも見せまいと、小さな努力をしている。
それを愛しいと思うことと、この体勢を恐れることは、矛盾しているのだろうか。
己の中に問いかけながら、そっと、子供のように罰を願う図体の大きな相手の背中に、腕を回す。
「平気、だよ。………だからそう落ち込むなって」
もう落ち着いたからと、笑みを溶かした声でいっても、彼は顔を上げず、ぎゅっと握り締められた拳をテーブルに押し付けて、自分の胸に沈めた顔を上げはしなかった。それを眺めながら、失敗したと、小さく思う。
彼の顔が埋められた場所を考えれば、鼓動がいまもまだ恐ろしく早いことは容易くバレてしまう。無理をさせていると、また思われたのだろう。
それはまた別の因子があるのだと、きっと考えることも出来ない彼を思い、困ったように天井を仰ぎ見た。
視界の端には彼が持ってきた、恐らくは上等の洋服の入った紙袋。それに袖を通すことはないだろうけれど、いつだって彼は自分を気遣い思ってくれる。その方法が少しばかり頓珍漢でも、自分には微笑ましいし嬉しいものだ。
さらりと彼の髪を梳いて、出来るだけ優しく、彼の背中をあやすように撫でさする。
「あの、ね…………?」
惑いながら、視線を揺らして。それでも胸に抱く人をなんとかしたいと思う意識だけで、そっと口を開く。
心臓が早鐘を打つ
そんな当たり前のことに、落ち込まないで
愛しいと思う人が傍にいて
緊張しない訳が、ない
どこか自信のない彼に、小さく小さく、そう告げて
赤く熟れた顔を隠すように、両腕で覆って、顔を逸らす
惚けた顔のあとの、彼の極上の笑顔に、なお赤くなる頬を自覚しながら……………
『2.机』の前に当たりますか。相変わらず情けないな、御剣……………
いや、この場合情けないのは成歩堂か??でも怖いと思うのだけどね、この体勢。息出来なくなるぞ。
御剣の反応を調整すればギャグでなくてもいけるはず!と思って書いたのですが、微妙に長くなって途中で放棄したくなりました。
で。このあと成歩堂も落ち着いて、御剣もなんとか立ち直って(なんでこいつの方が凹むのやら)洋服に関してはもう関与しないこと、で話に決着つけさせます。不服だけど同じこと繰り返して嫌われたくはないので承諾する御剣(笑)
で、彼を引き取らせた数分後、霧人さんがやってきました。危うくご対面だったのだね、考えてみると。それはそれで愉快かも。
07.9.25