出会いは極めて不自然
それでも
惑うように駆け込んできた彼女の
挑むようなその視線と
他者が居ることでほころんだ視線の
その差、に
直感、する
ああ、この人は
自分と同じなんだ
渦巻く孤独を抱えたまま
それに立ち向かえる、強い人
ただ独りでなくては立っていられない
儚い、人
17.セピア色
講義の終わりを告げる教授の声に欠伸を噛み殺しながら目を向ける。
これで午前の講義は終わりだ。このあとは昼食をとる。それしか今日の大学での予定は無かった。本来なら午後にも講義があったが、今朝掲示板をチェックしてみれば、突然の休講だった。
もっとも時間が出来る分には有り難いというのが実情だ。少しでも多くの自由な時間が自分には必要だった。
今までとはまるで違う専門分野を目指すからには覚悟が必要だと、周囲に窘められ心配され、それでも頑固に意志を曲げずに我が侭を押し通している現状で、せめてそれらの意志に応えられるだけの成果を見せたいと思うのは人情だろう。
軽い溜め息を吐き出し、教授の出て行った扉が閉まるのを眺めた。それとほぼ同時に、ざわめきが強くなりあちらこちらで立ち上がり動き始める音がする。ぼんやりとそれを聞きながら、講義に使った文具類を片付け鞄に詰め込んだ。
視線を泳がせれば、大きな窓の先に青空が見える。
澄んだ色だ。真っ白な雲も漂っていて、まるで一枚の絵画のようで笑みが浮かぶ。
自分の描いた未来は、初めはなんだっただろうか。こんな空を無邪気に見上げて駆け回っていた頃は、もっと他愛無い、それでも本気で願った夢が沢山あった。
緩やかに首を振り、立ち上がる。感傷は表情を曇らせる。それは自分には不必要な要素だった。
にんまりと唇に笑みを乗せて、軽やかに鞄を肩に背負い、楽しげな鼻歌とともに歩き始める。それを見た近くに座る友人が冷やかすように声をかけた。
「お、なんだ、なるほどー。今日も彼女のところか?」
「そうだよ!羨ましいだろ〜?」
ニコニコと心底幸せそうにとろける笑みで言ってみれば、惚気るなよとからかう声でみんながいって、手を振った。無邪気な子供を見るようなその視線は少しだけ苦笑が浮かんでいる。
元気よく手を振って彼らに別れを告げ、少し早歩きで廊下を進む。外に出て中庭を抜ければ、彼女が待っているはずだ。
今はそれだけを脳裏に浮かべた。そうしなければ、気のゆるみから何かを考えてしまいそうだ。
苦笑しそうな口元を笑みに染めて、空を見上げる。
青い青い、綺麗な空。友達と手を繋いで駆け回った子供の頃と同じ、空。
泣き虫で弱虫で言いたいことも口に出来ないちっぽけで弱い自分を、彼がまるで守るように切り裂く声を教室に響かせてくれた、あの頃と同じ………
思い、はっと気づいて首を振る。
感傷は、タブーだ。あの頃の自分はそんなもの欲しがらなかった。ただ毎日が楽しくて幸せで、出会えることがとても嬉しくて、重なる毎日が愛しかった。
子供だったからこそ、自分はそれがかけがえが無い日々であることを知っていた。
そうして、本当にそれがかけがえの無いもう取り戻せるかも解らない、そんな日々に変わってしまったことを突きつけられた、あの別離の日。
見つけ出そうと、思った。それまでは今の自分で居ようと、決めた。
彼は仕方がなさそうな顔で、それでも自分に手を差し伸べてくれた。それは自惚れでもなんでもなく、自分を友達だと思ってくれたからだと、知っている。
だから……変わらないでいようと決めた。変わってしまったなら、遠くに消えてしまった彼にとって、それはもう別人だ。
そうして拒絶されたら、あの絶望の夜がまた舞い戻ってきてしまう。
思い出し、視界が霞む。目頭が熱くなって、涙が滲んでいることが解った。生来涙脆い自分は、それを抑えるストッパーが無い今、いつでも世間体も気にしないで涙をこぼしてしまう。そのせいで周囲にはひどく危うげな子供のような人間に思われているけれど、そんなことはどうでもよかった。
また泣き出しそうだ。ぎゅっと目を瞑ってそう思たとき、ふわりと風が舞って、頬にぬくもりが触れた。
「りゅうちゃん、おめめが腫れていますわ」
「ちぃちゃん……?」
にっこりと微笑んで、彼女はこぼれ落ちていたはずの涙をその手に持ったハンカチで吸い取ってくれた。
きょとんと目を丸めて彼女を見ていると、困ったように目を細め、彼女は優しく頬を撫でてくれながら、囁いた。
「お声を、おかけしましたの。でもりゅうちゃん……とても空を懐かしそうに見上げていましたのよ?」
だからそれ以上邪魔が出来なくて待っていたのだと、彼女は言った。いとけない子供を見つめる慈母のような、そんな柔らかな瞳で。
過去の記憶に浸っているところを見つめられていたと知って、羞恥に頬が真っ赤になる。耳まで熱いのだから、それこそ茹でタコという比喩表現そのままの姿だろう。いっそ鏡で確認してしまいたいくらいだ。
思いながら、まだ頬を撫でるように指先を動かしている彼女に、軽く頷いて平気である旨を示した。
それに笑みを深め、彼女は手を下ろし、日傘をそっとこちらに示した。一緒に入ろうということだろう。緊張で胸が騒ぐけれど、それを断るわけにはいかなかった。
だらしのない笑みで嬉しそうに頷いて、彼女の作る人工の影の中に入り込む。少し歩いた先にある木の根元に、彼女の荷物が見えた。そこで今日は昼食を食べるのだろう。知らず浮かんだ笑みに、隣の彼女は上目遣いで伺い、小さな声で問いかけてくる。
「あの……りゅうちゃん…?」
「なぁに、ちぃちゃん」
「お願いが、ありますの」
芯の強い、しっかりとした声が響く。すぐに何を言い出すのか解る、柔らかな春の日差しのような彼女の中にある、決して譲ってくれない事柄を脳裏に浮かべ、胸元を手繰った。
それを知ってか知らずか、彼女は真っすぐにこちらを見上げながら、揺らめかない瞳で囁く。
「ペンダントを、返して下さいませんか?」
「駄目だよ、だってこれは、証拠なんだよ?」
毎日繰り返される問答。まるで言葉遊びだと小さく笑う。少し楽しくなって、目を細め、猫のような笑みで小柄な彼女の顔を覗き込むように屈んだ。
きょとんとした瞳。日傘が、揺れる。
「ちぃちゃんと僕が同じだって言う、証拠なんだよ?」
きっとそれだけで、自分が手放さない理由が彼女には解るはずだ。あの出会った日、互いに理解してしまったこと。
自分と、鏡写しのように同じだった相手を繋ぎ止める、小さな小さなペンダント。
ぎゅっとそれを服の上から握りしめ、確認する。脳裏に浮かぶ、あの時の貫くような鋭利な視線。そうして、ほころび親しげに声をかけた、まるで真逆の彼女の笑顔。
「りゅうちゃん………?」
戸惑うように彼女は名を呼び、そっと頬を撫でた。まるで先ほど泣いていた時と同じ、慰めるようなぬくもり。
それに嬉しそうに笑みを深めて、同じ気持ちを返したいと、そっと囁いた。
「だからね、ちぃちゃん。ちぃちゃんも、僕には隠さないでいいからね?」
「…………?」
「ちぃちゃんが知っているみたいに、僕だって知っているから。どんな君のことも、大好きだよ」
子供のような拙い無邪気な告白に、それでも彼女は頬を染め、嬉しそうに戸惑うように、笑んでくれる。………けれど、決してそれ以外の顔をのぞかせはしない。
まだ、自分には足りないのかもしれない。彼女が全てを晒すには、自分の思いは少ないのかもしれない。
表面に浮かぶ優しく儚い彼女だけでなく、あの鋭利な野獣のような眼差しを持つ彼女も、自分は受け入れたいのに。
「りゅうちゃんは、とても難しいことをとても簡単に出来ますのね」
素敵なことだと、彼女は誇らしげに笑んで、ペンダントがあるだろう胸元の手のひらを見つめ、諦めたようにそっと歩み始めた。
揺れる日傘。小さな沈黙。見える横顔は、春の日差しのような優しく儚い美しさ。
寂しくなって、空を見上げた。
どこまでも広がるこの空のように、自分の思いも彼女を包み、不安を無くしてあげられれば、いいのに。
…………彼女と自分はあまりにも似ていて、だから多分、自分は彼女に重ねてしまっている。
いつかもしも再会出来たなら。……否、何があろうと再会を果たした、そのときに。
変わり果てた自分も、変わらず残る自分も、受け入れてほしいから。
あの、幼かった日の出会いを悲しみに彩らせたくはない。
この手で、掴むのだ。
何があっても。………たとえ、疎まれても。
何度だって繰り返す。
だから、彼女の言葉には幾度でも同じ言葉を返そう。
このペンダントは、証拠なんだよ。
自分たちが出会って、分かち合える孤独がある
………そして
相手を受け入れる覚悟を持った、証拠なんだよ。
あやめさんというか『ちぃちゃん』です。成歩堂にとってこの時期の感情は恋愛未満、という感じですね。そのまま時間が流れていれば、いずれは変わったのかもしれませんが。
ただ、受け入れたかった、というのが一番強い感情と言えばいいでしょうか。
隠しているのは、相手が受け入れることが出来ないだろうものだから。
それさえ大事に思うのだと、そう教えたかった。でも多分、それはきれいごとで、突き詰めれば自分がそうしてほしかった。
強いけど弱い、揺れ動いてあやふやな時期の、そんな一コマでした。
07.9.14