世界中のどんな場所にいても
きっと、この腕の中に閉じ込めても
決して捕らえられない生き物が、いる

願っても
乞うても
祈っても

恐らくは、それを与えようとしてくれても

どれほど尽力したとしても

捕らえられない、生き物がいる


それを求める事を愚かと思うか
与える事を祈る思いを愛しむか
………どちらにせよ、身勝手なエゴだろう


それでも手を、伸ばさせて



19.ホテル



 夕方の喧噪も過ぎ去り、辺りは静寂だった。若干の車の音さえ除けば、あまり生活音がしないのは、雑居ビルの多いオフィス街だからだろうか。
 そんなことを思いながら、ようやく書類を束ね始めたこの事務所の所長の姿を視界の端におさめた。
 この事務所に来て30分が経とうとしていた。秋も深まったいまの季節では外は暗く、街灯と目の前のホテルから発される光だけが煌煌と照っていた。
 随分と明るいものだと思いながらそちらに目を向けると、今更その窓が開け放たれていた事に気づく。寒さを感じるわけではなかったが、それでも室内に入り込む風は冷たいものだった。
 気づいてしまえば気になってしまう。自分はまだ寒さに耐性があるが、彼は弱かったはずだ。思い、彼が帰り支度を始める前にそれだけでも閉めてしまおうかと、彼の方に視線を向けた。
 …………同時に、視線が混じる。
 彼もまた、同じタイミングでこちらを見つめたらしい。嬉しい誤算と思うべきかどうかは、若干思い悩むところだ。…………彼の目が、少しだけ揺れて見えた、から。
 恐らくは、また、窓を見つめていたのだろう。それに気づかれていないかどうかを窺うために、彼は自分を見たのだ。
 その流れを交わった視線で推察されてしまう事さえ彼は解っていて、だからこそ、気づかれなかったはずの事実に気づかれた事を、痛んだ。
 彼が思い悩む必要など、本当はないはずの事だというのに、彼はそれでも思うのだ。
 自分が少しでも傷つかなければいいと、祈ってくれる。彼とて今までの人生の中、数多くの痛みを抱えて生きてきたはずなのに、周囲の人々こそが安らかであればいいと願うように、その傷には無頓着だ。
 「………成歩堂?」
 問うように彼の名を呼ぶ。そうする事で彼が答えてくれる事を、自分は知っている。法廷という特殊空間以外では鈍感らしい自分に解るように、彼はその声を響かせてくれる。自分のため、だけに。
 それに僅かな独占欲がないと言えば嘘になるだろう。もっとも、それは願えば誰もが与えられるものなのだから、殊更に誇張できるようなものでもなかったけれど。
 「少し、寒くなったね。窓、閉めていいかな?」
 視線だけで方向を示し、彼が問う。その先を見つめていた視線が揺れないように、微かに息を飲んだあとの仕草。
 小さく頷けば、彼は立ち上がり窓へと向かう。その背を見つめている事も、解っているだろう。
 ほんの数歩の距離を、殊更ゆっくりと彼が歩む。足先一つさえ神経が行き届いているような歩み。それを眺めながら、小さく息を吐き出した。
 なにを問いたいのか、なにを答えて欲しいのか、自分は解らない。
 解っているのは、おそらく、この恐怖だけだろう。
 …………奪われるのではないかという、漠然とした、恐怖。
 自分は彼にとって優しい人間ではないだろう。そうありたいと願っても、彼の基準と自分の基準はあまりにも違いすぎる。
 彼にだけ向ける感情の数々を自覚している。他の誰にも与える必要性を感じていないことを彼が憂えていることだって、解っている。
 それでも、駄目なのだ。
 ……………どうしたなら彼が望むままに生きられるのか、自分には解らない。
 だからこそ、恐怖はいつだって拭えない。彼がいつかこの手を振りほどき他者の元に駆けていったとしても、自分は彼の腕に縋る資格すら、ないのだから。
 窓の前に彼が立つ。室内の明かりの方が強いせいか逆光となり、街灯の明るさを浴びてもその表情はあまりよく見えはしなかった。
 その足下で、彼は唯一人の師を看取ったと、言っていた。自分もそれを知っている。調書を読み返したし、証言も聞いた。……あの事件が自分たちの再会だったのだから、忘れられるわけがない。
 彼はその死を看取り、師の妹とともに向かいのホテルより目撃され、被疑者へとその立場を一転させた。そのホテルにこそ真犯人は居座っており、この立地条件だったからこそ可能だった殺人計画。
 眇めた視界の中では、幻惑が揺れる。
 真っ暗な室内、動かなくなった女性が座り込んでいる。それに縋るように泣きながら寄り添う少女と、為す術もなく見つめその死を見届けた青年。
 死を見つめたまま時を過ごすのは、どれほどの苦行なのだろうか。自分はそれを知らない。目を閉ざした次の瞬間、目覚めたなら死はそこに居座っていたのだから。
 突然の死はお互い同じであっても、その過程はまるで違う。それ故に、自分では彼の痛みを知っているとはいえない。己の罪を告げられなかった自分と、冤罪で生け贄に捧げられた彼とでは、立場も意識もやはり違う。
 彼が窓の前で、立ち尽くす。その足下にいた、たった一人の彼の師。窓から外を見つめたまま、彼は動かない。………頬から滑り落ちるのは、町の街灯か、ホテルの灯火か。
 あるいは、彼の、感情か。
 その視線の先には何があるのだろうか。彼らを目撃したと嘘の証言をしたあの女性の居た部屋の窓か。
 彼の脳裏には、なにが広がっているのか。………冷酷な顔で彼を貶め冤罪と知りながらその首を切り落とそうとした、相手検事の顔か。
 くらりと、脳が揺れる。いるはずのない、この事務所の元所長が笑んでいる気がした。
 「………っ」
 突然の、突風。未だ窓の前に立ち尽くしていた彼の顔にそれは容赦なく吹き付け、その視線を奪うように絡み付いた。
 驚きに固く閉ざされた彼の瞳が、開く。窓の外、なんの変哲もない都会の光景に魅入られるように見つめる、視線。
 知らず、席を立った。足音に彼が振り返るより早く、腕を伸ばす。
 突風に見舞われた時と同じように、息を飲む音がした。腕の中、彼の身体が硬直する。
 それでも、あたたかい。確かに腕の中にいることを教えてくれる、感触と体温。それだけで、ほっとした。
 縋るように腕に力を込めて、その肩に顔を埋める。窓から吹き込む風が互いの身体を過っていった。
 「………御剣?」
 不思議そうな問いかけの声。けれど同時にそれは、問う意味を持たないことを知っている気がした。
 彼の身体を押さえ込むように掴む腕を、戸惑いながら眺める彼の顔が浮かぶ。ほんの数瞬後、縋る指先に、彼の指先が触れた。
 「まったく、時と場合と場所を考えろよな」
 窘めるように彼がいい、動かす範囲の極限られた、抱きすくめられた体勢のまま、そっと開け放たれたままの窓を動かした。
 その音を聞きながら、この位置が眼前のホテルからいかに目撃されやすい場所かを、思い出す。
 ………この事務所が失われることを彼は悲しむだろう。ここはなにがあろうと手放すことの出来ない、彼の原点だ。
 けれどそれは、同時に痛みを想起させる場所であり、常にそれに身を焼かれる場所でも、あるはずだ。
 いっそ壊してしまいたい。…………出来るはずのない欲求が胸中を占める。
 この窓があるから、彼がどこか遠くに行ってしまうのなら、いっそ………
 思い、首を振る。彼がそれを望むはずはなく、奪ったなら厭われるのは、恐らくは自分だろう。……否、奪ったなら、この窓を見つめることで想起された全てが、自分を見つめることで、浮かぶように変わる。
 それはある種、最上級の戒めであり、罰だろう。
 それならいっそ、と。閉ざされた窓の先を睨みつけた。
 「…………御剣?」
 先ほどとは若干異なるイントネーションで彼が名を呼ぶ。それに頷く仕草で答えながら、抱き締める腕に力を込めた。
 この場所も、あの窓も失えないなら、いっそそれら全てを目撃し誤った方向へと転がそうとした、窓の先の風景を奪い尽くしてしまいたい。
 一枚の硝子で隔てられた風景の先に佇むホテルを見つめながら、暗い情念の存在を、確かに感じた。
 自分から彼を奪うなら、奪われる前に打ち崩してしまいたい。そんな欲求をもしも彼に知られたなら、この腕の中の肢体は消え果てるのかも知れないけれど。
 どれほど願っても祈っても、叶わないことはある。それは大人となる前に誰もが痛感する現実だ。慰めるような意図でもって自分の指先を包む彼のぬくもりを感じながら、そんなことを思った。
 彼は願えば与えてくれるだろう。けれど、決して自分だけのものにはなってはくれない。そうあることを………自分を彼だけに縛り付けることを、悲しむ人だから。
 自分は、彼だけでいいのに。彼はその事実を憂えて受け取ってはくれない。
 彼が包まれる優しい世界のように、そのぬくもりに触れて欲しいと、祈るのだ。多くのそれらに浸り、情豊かに開花してと、愛しむように彼は祈っている。
 彼だけでいい。それ以外なんて、欲しくない。そう告げたなら、彼はきっと泣き出しそうな顔で自分を見つめるのだろう。拒むことの出来ない情を、それでも受け入れることが出来なくて。
 傷つけたくはないのだと祈りながら、震える指先で、抱き締めてくれるのだろうか。願うのは、彼の喜びとともに与えられる、抱擁なのに。
 「………あのホテルは、嫌いだ」
 そっと、吐き出すように告げて、彼の肩に再び顔を埋める。
 今現在自分から彼を引き離し、過去には再会の時を最悪の形で為した、このホテル。
 この先の未来ではどんな災厄を自分に運ぶのかと思うと、忌々しい象徴にすら、思えた。
 「……………?まあ、それは人それぞれ、だからね」
 それでもいいと思うよ、と。いまいち言葉の意味を飲み込めていない彼は、否定も肯定もせずに受け入れた。
 それをひっそりと笑んで受け止めながら、やはり彼の願いとはまるで方向の違う己の性情に目を瞑った。


 彼が悲しむことなどないのだ、きっと。

 傍にあるこの存在がなければ、なおのこと。



 自分は、優しさというものの存在を、見出せないのだから。







 いやはや、このお題だけ書けなくて随分経ちましたね、時間。その間に別のお題が7作書き上がってしまいましたよ。それはそれでどうでしょうか。
 初めに考えていたのが海外視察中の御剣の独白的なものだったのですが、とても鬱陶しくなったのでさっさと諦めまして。
 次に考えたのが冥ちゃんが日本に遊びにきた時に日本のホテルがひどい!と憤慨して御剣に当たり散らし、御剣が自分の部屋を明け渡して自分は成歩堂の家に転がり込むというギャグだったのですが。
 ………ギャグは書くの疲れるのですよね(遠い目)だからこのネタは丸っと朱涅ちゃんに押し付けました。ちなみに大筋のあらすじを伝えたんですが、そのあらすじ自体が、伝えたその時に考えたことだといったらなんといわれるやら。
 うん、基本的に私はネタが浮かべばプロットは数分で出来上がるの。さっさと動き始めるキャラに指が追いつかないだけで。そして映像で浮かぶものを文章に換えるので、その文章かがうまくできずに私の脳が硬直するだけで。
 なんだって思った通りの描写を書けないのでしょうね。語彙数の少なさが原因でしょうか…………

 一応この話は解りやすいほど解りやすく「窓」とリンクしています。御剣が若干怖い人になっていますが、その辺は敢えてつっこまないで下されば幸い。もう少し優しい人になれるといいね、御剣…………

07.11.7