空は曇天。間もなく、雨
憂鬱な気持ちで空を見上げて
顔を逸らして窓を閉ざした

もっと晴れやかな方が、いい
明るく柔らかく日が差し込めて

心がもっと軽くなる

そんな天気が、いい

雨は、泣けない自分の頬すら濡らして



……………息が、詰まりそうになる



20.雨上がり



 じっと窓を見遣りながら、小さな溜め息を吐く。
 朝から何度目だろうか、首を傾げながらそんなことを考え、ちらりとその相手を見遣った。
 物鬱げと言えば聞こえがいいが、どこか間の抜けた顔で窓の外を見て、彼はぼんやりとしている。珍しいというべきかよくあることというべきか、まだ付き合いの浅い自分には解らなかった。
 ただ、寂しそうな顔をするな、と。それだけは見ていれば解った。
 「なるほどくん?」
 少しだけ考え込んで、明るい声で彼の名前を呼んだ。
 ぼんやりとしていた彼は、その声でようやく室内に自分もいたことを思い出したのだろう、驚きに目を丸めてこちらに顔を向けた。
 そんな顔をすると案外若く見えるものだと、先日の無茶な裁判の時の凛々しさと比べて、微笑ましさを感じた。
 「何かな、真宵ちゃん」
 そっと彼が呟く声が室内に谺した。初めて会った時も思ったけれど、静かな声を出す人だ。その後は色々なことが多くあり過ぎて、そんな彼も大声で人と論争することがあることも知ったけれど。………むしろ大きな声を出すことが多いことを知ったというべきかもしれないけれど。
 でも、第一印象はなかなか覆らないものだ。そんなことを思いながら、彼の座る机まで歩み寄って、その手元を覗き込んだ。
 自分の意図にまだ気づいていなかった彼は、けれど視線でなにを言われるのかが解ったのだろう、バツの悪い顔をしてそっと視線を逸らした。
 それを眺めながら、仕方ないな、という声で、彼の予想通りの言葉を呟く。
 「やっぱり!なるほどくんってば、さっきから全然進んでないよ!」
 折角手伝いにきたのにやりがいがないと喚いてみれば、困ったような顔で彼がこちらを見遣った。
 まだ出会ってひと月も経っていない。性別だけではなく、かなりの年齢差もあるのだから、扱い方に困っているのかもしれない。何よりも、突然この事務所の所長になってしまった彼にとって依頼の来ない日々は当然のようなもので、その彼よりも更にやれることの少ない自分に仕事のやりがいを求められても戸惑う面もあるのだろう。
 ちょこんと彼の手元を覗き込んで、それを指先で辿ってみる。それはよく見てみれば、書類ですらなかった。
 「あ……れ?」
 驚いて声が零れた。
 それに内容を読み取られたことに気づいたのだろう、彼が慌ててそれを隠すように両腕で覆った。
 その子供のような動作にびっくりして目を丸め、思わず凝視してしまう。なんといえばいいのかが解らず、互いに沈黙を守ってしばらくの間、間の抜けた奇妙な沈黙が出来上がった。
 見遣った彼は、冷や汗を流してこちらを窺っている。7歳も年下の自分に叱られるとでも思ったのだろうか。
 ………実際叱りつけたい衝動に駆られるのは、それを容認してくれそうな彼の様子のせいな気がするけれど。
 「なるほどくん、それ……この間の法廷記録じゃないの?」
 「………うう…そう、だ、ね」
 「お姉ちゃんの奴だよね」
 「………えと…うん、………そう……」
 「で、あの目つきの悪い意地悪な検事さんが相手だった」
 「一応御剣っていう名前があるんだよ……………」
 冷や汗をどんどんと悪化させながら彼が一つずつ応えてくれる。どれが彼が隠そうとした部分なのか、残念ながら自分には解らなかったけれど。
 あの裁判………というべきか、出会いというべきか。ひどいものだとしか言いようがなかった。
 自分なら出来ればあんな場所にいたくなかった。辛くて悲しくて苦しくて、いいことなんて一つもなかった。笑っていてという姉の願いすら、挫けてしまいそうな、あの冷たい空間。
 暖かかったのはたった一人。目の前の、この青年だけだった。
 打ち拉がれて淀みそうな目を、それでも前に向けていた。まだまだ頼りないのだといわれていた人は、それでもあの法廷の中、誰よりも自分には強く真っすぐな人に思えた。
 それは多分、彼だけが自分を見てくれたからだろう。被告人や犯人という、そうしたカテゴリーではなく、彼は自分という個を守ろうとしてくれた。出会ってたった数日の、あの時間の中で。
 純粋な人なのだろう、きっと。
 信じることばかりが先行して、疑うことを知らない。それが多分、姉の危うんだ箇所の一つだったのだろう。
 裏切りは、存在する。それを恐れて里を出た姉は、どこまでも気高い心を持っていたけれど。だからこそ、多分、恐れていた。いつか与えられるかもしれない傷に、彼が立ち直れなくなることを。
 自分は知っているのだ。姉が歩むその足をたった一度だけ留め、進むことを拒否したことを。
 その原因も理由も教えてはくれなかったけれど、顔を見れば解ってしまう。小さく踞り揺らめいた目を、忘れる訳がない。
 それを思い出しながら、じっと彼を見つめる。
 小さな小さな、揺らめき。まだ冷や汗を流しているその顔とはチグハグの、まるで違う感情をたたえて。
 「………なるほどくん、……」
 なんと言えばいいのかが解らなくて、彼の名を呼んだまま、口を噤む。
 言いたいことはあった。ただ、それがどんな言葉にすれば伝わるのか、解らなかった。じっと彼を見下ろして、彼の腕で隠されたままの書面の、真っ白な角を指で辿る。
 これは、自分たちが出会った時の詳細が書かれた紙だ。
 これは、死してなお姉が暴いた罪が記録された紙だ。
 これは、姉が死を迎えた瞬間を記した紙だ。
 これは………彼、が。確執ある人間と再会し、勝利した流れを綴った、紙だ。
 それがなにを意味するのだろう。出会えたならそれだけでもいいと、思ってはいけないのだろうか。
 死の痛みを、自分も彼も、嫌になるほど味わった中での、焦がれた再会ならば、それを喜ぶことは、許されないのだろうか。
 ………………たとえそれが、考え得る最悪の状態での、再会であったとしても。
 「あのね、真宵ちゃん………」
 沈黙を守っていた彼が、不意に口を開いた。困ったような顔で自分を見上げて、首を傾げる。顔を覗き込むその仕草に、自分の表情がさぞ滑稽なものだっただろうことが窺えた。
 そっと、伸ばされかけた指先が、躊躇って、机に戻される。まだ少し、彼は自分に遠慮がある。あるいは、姉を僅かでも重ねているのだろうか。あの裁判の最中、自分は霊媒を行い彼と姉の邂逅を果たさせたのだから。
 小さく悼む思いを眺めながら、不器用に優しく笑う人を、見下ろした。
 「忘れたく、ないんだ」
 「うん」
 「僕は………忘れたく、ないんだ」
 何を、とは問わなかった。
 失った人か、消えたかもしれない絆か、判決さえ作り出せる世の仕組みか。
 あまりにも色々なことがあったあの裁判の中、どれか一つだけを取り出せなど、出来るはずもない。
 ぎゅっと彼の拳が握りしめられる。まるで子供が何かを我慢しているような、仕草。
 「ねえ、なるほどくん」
 そっと、その手のひらを指先で突ついて、にっこりと笑いかける。姉が好んでくれた、自分の笑顔。それで元気になってくれるなら嬉しいと、沈みそうな彼に笑いかける。
 「あたし、思うんだけどね?」
 首を傾げて、彼の拳を突ついた指先を持ち上げ、それを窓へと向けた。そこには雨をたたえた景色を映す、曇った窓がある。
 音はしない。閉められた窓は、静かな雨音を室内に響かせることはなかった。
 「いまは雨でしょ?だけどさ」
 じっと、自分を見上げる彼の視線を感じる。それを知らない振りをして、窓を見つめた。
 気持ちが沈みそうな、暗い空。泣きわめく子供のように終わりを知らず流れ続ける水滴。
 いまの自分たちには、あまり嬉しくない天気だ。ふとした瞬間に、どうしたって失ったものを思い出してしまう。まだひと月も経っていないのだから、当然だけれど。
 「昨日は、晴れてたんだよ」
 「……………?」
 自分の言葉に、彼は首を傾げる。
 それに気づいて、顔を彼へと向け、笑った。出来るだけ、明るく写るように気をつけて。
 「きっと明日は晴れるよ。晴れなくたって、曇りかもしれない。雨ばっかりが続くなんて、限らないと思うんだよね!」
 だからきっと大丈夫。………そんな風になんの根拠もなく断言して、彼の肩を勢いよく叩いた。
 惚けたように自分を見ていた彼は、突然叩かれた痛みに顔を顰めて、それから………笑った。
 それは決して心からの笑みではなかったけれど。
 …………泣きだしそうな、雨をたたえそうな、そんなお天気雨のような、笑みだったけれど。
 「真宵ちゃんは、やっぱり千尋さんの妹だよ」
 したたかで真っすぐだ、と。彼は嬉しそうに呟いて、そっと大切そうに書面を撫でたあと、それを揃えて引き出しにしまった。
 きっとまた、思い悩むときにはそれを見るのだろう。自分の至らなさを、守れなかったものを、繋ぎ止められなかったものを。一つずつ一つずつ思い出して、舌に転がし、痛みすら、失わぬために飲み込んで。
 また、彼は笑うのだろう。お天気雨のような顔で。
 遣る瀬無くて顰めかけた顔を小さく振って、もう一度彼の肩を叩いた。
 「ね、それよりさ、なるほどくん。お腹空いたから、みそラーメン食べにいこうよ!」
 明るい提案に彼は時計を見て、もうそんな時間かと目を丸めながら、立ち上がった。承諾の意を示した相手に機嫌良く両手を叩き、その手を掴んで引き寄せる。
 「ほらほら、早く早く!」
 「ちょ、ま、待ってよ、真宵ちゃん!」
 よろけながら転びそうな彼が慌てた声を上げるけれど、それには見向きもしないで歩き出す。ばたつきながらも彼はちゃんと自分の後ろに控えてついてきてくれた。
 「お腹空いたね」
 振り返って、笑いかける。
 「たまにはみそラーメン以外がいいけどね、僕は」 
 苦笑を浮かべて彼がいい、それでも文句は付けずにいつもの馴染みの店への道を歩んでくれた。

 まるで雨の日のような顔で
 お天気雨の笑顔を浮かべる彼を
 傍にいることで守れるだろうか

 なんの力もない半人前で
 きっと彼の仕事では足すら引っ張るけれど


 せめて、その笑顔が雨上がりのその時を迎えるまで


 危なっかしい姉の弟子の傍に、いよう

 それは小さな小さな、出会いの日の、決めごと







 成歩堂にとっての千尋さん、は真宵ちゃんにとってのお姉ちゃん、と違う意味ででも同じなんだろうな、と。
 真宵ちゃんにしても春美ちゃんにしても歳の近い血の繋がる人に、本当に真っすぐ情を向けるから。多分、それは恋愛感情よりもずっと強くて消えることがないんだと思うのです。
 で、成歩堂にとっても千尋さんも同じで、この先何があっても絶対にその存在が薄れることも消えることもないのだろうな、と。寂しいけれど、思うのですよ。
 もっとも、もういない人が永遠に寄り添っていることを不幸と嘆くか幸せと笑むか、それは当人が決めることですけどね。うちの成歩堂は100%後者だけどね(苦笑)

07.9.26