たった一人の命には
たった一つの人生
それは誰もが平等に与えられたチャンス

才能や身体能力、環境
多くの差異はあり、不平等はあれど
それでも与えられたチャンスがある

生きるということ
自分のために、生き抜くということ
物を考え、先を見据え、
自分という個がどのように生きるかを

決める、その権利

……………だからどうか、それを侵させないで
たった一つ、誰もが与えられた、平等なる権利を



21.怖い



 ちらりと彼が時計を見遣る。彼の、最近の癖だ。
 娘を得てからというもの、彼は時計を見る機会が増えた。それは時間に細やかになったという意味ではなく、彼女が帰ってくる時間に必ず家にいるというその意識のためだろう。
 思い、苦笑する。まだ歳若く、到底父親などという大役を務められる威厳のない彼だけれど、無意識か本能か、あるいは勉強でもしたのか。やっていることはあながち素っ頓狂でもないことが微笑ましかった。
 「まだ、大丈夫だろう」
 「へ?あ、………うん、そうだね」
 そっと彼の意図を察して告げてみれば、目を瞬かせて彼は曖昧に視線を逸らすとそう答えた。
 そこまであからさまだったかと、頭を掻きながら僅かに顔を顰めている。もう少しルーズなスタイルを目指していたのだろうか。仕事のためとはいえ、相変わらずやると決めたことには熱中してはまってしまう男だと思う。
 ………実際、子育てもそれに近いのかもしれない。彼は決めたのだろう、あの幼い少女を守ると。そしてそれを実行している。決して豊かではないだろう生活環境の中、この親子はひどく幸せそうだ。
 「しかし、意外……というべきか?」
 「うん?」
 「君がまともに父親をしていること、を」
 からかうようにそんなことを意地の悪い笑みで言ってみれば、彼は目を丸めて驚いていた。そうして、すっと目を細め、皮肉な笑みを唇にたたえる。恐らく、ポーカーを行う時のスタイルそのままなのだろう。なかなかしたたかで不遜で、対峙した相手の神経を逆撫でしてくれる。
 そのくせ、意識を逸らさせない、笑みだ。
 …………気を抜いてしまえば、容易く彼を見つめている間に手の内を読まれてしまう。そんな底知れなさを静かな瞳が教えている。
 「まあ、ね。君よりはこなせるんじゃないかな?」
 からかいに対してからかいでもって返した彼は、反論の余地のない事実をそのまま添えてくれた。つい憮然とした視線を晒してしまい、彼が吹き出すように笑い出す。
 その様子に更に眉間の皺を濃くして睨むように彼を見つめる。今更その程度で彼が怯えるはずも無いと解っているが、それ以上に不愉快さを示す手段が無かった。………だからこそ、彼にそんなことをいわれるのだと言うことも、解らなくもないのだけれど。
 しばらく笑っていた彼は、出された紅茶を一気に飲んで呼吸を整え、目尻に溜まった涙を拭いながら、小さくごめんと言いつつ手を挙げた。そっと伺う視線がこちらの心境を探る。既に癖にでもなってしまったのか、彼は感情を読ませない瞳で微笑んだ。
 「とはいえさ、プライベートでも緊張の連続だから、結構疲れはするんだよね」
 空になったカップを指先でいじりながら、ふと溜め息のような声で彼が言う。恐らくは、本音だろう。
 負担ではなくとも、それに心を救われていようとも、一時たりとも気を抜けない環境にいて疲れを感じない人間などいない。もう少し手を抜けばいいとも思うが、そうするにはまだ、時間がかかりそうだ。
 親子で互いに歩み寄りながら、相手の負担となる部分を見極め、自分の役目を探し、相手を支え、相手に支えられて。ほんの短期間でそこまでの真似を出来ただけでも、彼らは十分玄人だ。自分が同じ立場に立ったなら、親であれ子であれ、決してこんな短期間で良好な環境を作り上げることは出来ないだろう。
 「君は熱中し過ぎだ」
 その役柄を演じることも、父親になろうとすることも。嘆息とともに、少しだけ不満を込めてそんな揶揄をする。
 自分たちの関係に妥協は存在しない。だから、彼は自分が海外視察にいくことを奨励するし、彼の傍に居たいなどという理由でそれを蹴るような真似をしたなら、彼から絶縁状くらい叩き付けられかねない。
 彼は、そうした意味では潔癖だ。自分の存在が誰かの枷になることを嫌う。同じように、誰かに拘束されることも好まないのだろう。色々な意味で、彼はとても奔放で自由だ。
 そんな思いが顔に出ていたのか、彼はにんまりと人の悪い笑みを浮かべる。それに顔を引き攣らせて睨みつけるが、あまり効果はなかった。
 「なに、御剣……寂しかった?」
 首を傾げて子供のような口調で問いかける。戯けた声はからかいでしか無く、それが本心だということは……確実に気づくことは無いのだろう。
 もしも仮に、彼に寂しいといったなら、何があるのか。…………彼が自分の家族になってくれるとでもいうのなら、幾度でもそんな言葉吐けるというのに。
 小さく息を吐き出し、埒の明かない幼子のような嫉妬心を鬱陶しげに押さえ込んだ。
 「それは君だろう。全く、わざわざ自分から飛び立つヒナを抱え込んで……」
 「?」
 「…………いや、いい」
 ぶつぶつと口内でぼやくように呟いた言葉の意味を、自分のなかで咀嚼して……誤摩化すように言葉を終えた。多分、それは………タブー、だ。
 こくりと息を飲み込みそれを無かったことにするようにまた新たな会話を始めようと口を開く。見遣った先の彼が………………微笑んで、いた。
 「ねえ御剣」
 そっと、その笑みのまま、彼が囁く。………物静かな、優しい、笑み。
 「みぬきは、僕の腕の中にいなくていいんだよ?」
 ふわりと、ほころぶように彼は笑う。恐らくは、幸せそうに。
 「あの子には帰る場所がある。僕は、一時の借宿だ」
 だからいつでも自由に飛び立てばいい。彼は満足そうにそう囁いて、その指先でカップを弾いた。微かにガラスの音が響く。
 惚けたように、彼を見つめる。………聞こえていたことを驚くべきか、意味を理解されていたことに驚くべきか。
 ……………それら全てを覚悟の上で、あんなにも子供を愛しむ彼に、驚くべきか。
 本当の親子のようだと。理想的な家族の姿だと。見るもの全てが微笑ましくなる彼らは、それでもいつかは別離が待っている。それは強制ではない。けれど、必ず来る。それを前提とした、始まりだったからだ。
 「それでは、君があまりにも………」
 「いいんだよ、それで」
 反論しようと開いた唇を遮るように彼はそっと自身の指をその唇に当て、言葉を飲むように示す。
 なにがいいというのか、解るわけが無い。噛み付くように睨む自分の視線など、今の彼は冷や汗すら浮かべず飄々と受け流すだけだ。……なんと歯痒いことだろう。自分がどれほど彼を傷つけることを厭おうと、彼は自ら平然と傷を受けるように荊道ばかり歩むのだ。
 噛み締めた奥歯が体内で音を発する。相当険しい顔をしていたのだろう、彼は首を傾げるようにして困ったように笑んで、首を振った。
 「いいんだよ、御剣。………あの子が僕に捕われることの方が、僕には怖い」
 泣きそうな笑みで、彼が小さく呟く。
 見つめる先の彼は演じているその姿ではなく、昔と変わらない、法廷で自分と対峙していた時代の彼だ。伺うようにその姿を視界に映し、彼の言葉に耳を澄ませる。
 「あの子が生きるための決定権を、僕に与えられるのは、悲しいだろ?」
 自分の存在が子供の道に影を落とすのは嫌だと、彼は笑んだ。…………寂しそうに悲しそうに、ひどく、怯えたように。
 「だから、いいんだよ、御剣?」
 そっと、確認するように名を呼ばれる。…………それは、なんの確認なのか、脳内で谺すばかりで聞き取れない。
 それは、彼の娘の話か。
 …………それは、自分の、ことか。
 揺らめきながら彼を見る。射るように、見つめる。寂しい笑顔。戸惑うような、眉。小さく唇が開く。呼気ではなく、音を発するために。
 「僕がいなくても生きられる。そうあって、欲しいんだ」
 それは幼い娘の将来を、思ってか。
 惑う視線で彼を見つめれば、困ったような顔で彼はこちらを見つめて、苦笑を浮かべ、腰を上げた。
 帰るのかと、唐突なその行動に少しだけ肩が跳ねる。彼に気づかれなければいいと思いながら呼吸をした。………彼に集中すると、息すら、忘れそうだ。
 目蓋を落とし、静かに深呼吸をする。その唇に、何かが触れた。不可解に思い目を開ければ、彼の手の甲が目に映る。彼の指先がまるで呼吸を促すように、唇に触れていた。
 ばれていたのだろうか。呼吸すら忍んで、彼へと意識を向けていたことが。
 微かに眉を顰め、誤摩化すように彼を見つめる。それに彼は困ったような顔をして、苦笑を浮かべた後………そっと、その指先を滑らし、頬を撫でた。
 まるで慰めるかのような、仕草で。
 「誰かを捕らえてしまうことは、怖いこと、だよ」
 それは子供であってもね、と。彼は泣きたそうな顔で唇だけに笑みをたたえて、いった。
 ぼんやりとそれを見つめて、ひどく心が疼いた。彼は、なにを悲しむのか。手放すことを悲しむなら、初めから手に入れなければいいのに。手に入れなくてはいけなかったのならば、情を与えなければいいのに。
 それでもきっと、彼はそれを見過ごせず、手にしたなら、情を与えずにはいられないのだろう。
 そうして………いつかは自分の元から飛び立つことを、願うのか。自分自身が檻となることを厭って、癒された鳥が振り返ることなく空へと帰ることを、願うのか。
 「………そうか」
 小さく彼に答え、それでもふと思う。
 ………彼に捕われることは、恐ろしくなど、無いのだろう。きっと他のどんなものに捕らえられるよりもずっと自由に己であることを許される。
 そうして、いつだって彼の元に返りたいと、願うのだろう。


 それを、彼が悲しむなど、鳥は思わず


 愛しいのだとさえずりながら
 空を駆け、翼を羽ばたかせ

 そうして、彼という懐に舞い戻る



 愛しいのだと、さえずりながら








 『9.宴会』に少しリンクする感じでしょうか。もう一つ何かとリンクするんだけど……どれだっけな……。ああ、『28.オバチャン』ですね。空回りしながら暴走している御剣さん。
 …………というか、暗いなぁ(遠い目)まあ捕らえたくないっていうことは、そのまま手放す覚悟を持っているっていうことでもあるから仕方ないか。でも決して関係性を無くしたいとかじゃないですよ。
 ただ、自分のために何かしようと思わないでほしい、と考えちゃうだけで。自分の時間は自分のために使ってほしいのです。それは自分が生きるために必要なことだから。
 あんまりにも必死すぎて、逆に自分が居なくなったりしたら次の人をちゃんと探せるのかな、とか。いらん心配もしているのでしょう(苦笑)
 まあ成歩堂から離れることは無いのでその可能性は皆無に近いですが、如何せんうちのキャラですから。別離は強制的なものも存在すると想定してしまって、それ故に、自分が死んだりしてもちゃんと一人で立っていてくれるように、いっつも願ってしまうのです
 …………ええ、母親のように、ね…………。でもこのドラ息子には一切伝わってなさそうですがね(苦笑)

07.9.20