人には人それぞれの好みがある
それらに執着する人もいれば
同様に執着しない人もいる

与えられれば受け入れて
求められれば与えてしまう

それはきっと
他意もなく、知らぬ仕草の内なのだろう
すくい取りたいと、願うままの

赤に緑に黒
色とりどりの水色の中
なににも染まり、なににも染まらないままの
それら全てを色づかせるために不可欠な

清水のように、ただあるだけだ



22.コーヒーカップ



 ぼんやりとした横顔を見遣って、立ち上がる。人の気配に敏感ではないものの鈍感でもない彼は、けれど気づかないのか視線すら動かさなかった。
 しばらくして、手にマグカップを持ったまま舞い戻ってもなお、彼は一点を見つめたまま動かない。面白いほどの静止だ。
 そのまま自分も無言で彼の座るディスクまで近づく。間近になった気配とディスクに置いたマグカップの音でようやく相手は自分の存在に気づいた。
 大きな目を更に丸めて瞬かせたあと、申し訳なさそうに眉を垂らせた。
 「あ、えっと、す、すみません、わざわざ……!」
 なにを言えばいいのかとあたふたした彼の声がなんとかそんな言葉を紡いだ。目に見えて解る動揺っぷりに吹き出してしまう。
 それに更に顔を赤くして言葉を継げなくなった彼は、黙り込んで拗ねたように与えられたマグカップに口をつけた。一口飲んだあと、慌ててマグカップから口を離す。その様に笑っていた口元をおさめて、不可解そうに彼を眺めた。
 「どうした、まるほどう?」
 「………いえ、……………熱くて……………」
 味には一切問題がありませんというように小さな声で告げる内容に目を瞬かせてしまう。残念ながらゴーグルの下の瞬きなど彼には解る筈もないけれど。……それでも大体予想出来たのだろう、むっと顔を顰めて彼は自分を睨み上げてきた。
 拗ねたように唇が尖る様は、年下とはいえいい歳をした男なのだからそれでいいのだろうかと、内心首を傾げてしまう点ではあったけれど。
 「あんまりコーヒーは飲み慣れてないんですよ。最近は特に」
 だから熱さをすっかり失念していたのだと言い訳のように告げて、マグカップを引き寄せると息を吹きかけて冷まそうとしていた。
 彼の言葉に、ふと気づく。たったいま勝手に拝借した給湯室は確かに数種類の紅茶と日本茶とが混在していて、その中に更に自分が持ち寄ったコーヒー豆もあった。もっとも匂いを気にしてか、別の棚に入れられて仕切られてはいたけれど。
 彼らしくない神経質さだと思ったが、どうやら彼の意志というよりはそれを使用するものの意志なのだろう。あまり彼自身が頓着しているようには見えなかった。
 たいした独占欲だと思いながら、喉奥で笑う。脳裏に翻った赤い色は、今はもう見えない色彩だけれど随分と克明に浮かんだと苦笑してしまう。
 「あんたのところには色んな飲み物が集まるんだな」
 笑う自分を不可解そうに眺める相手にそう告げてみれば、少しだけ首を傾げてから合点がいったのか、彼もまた苦笑を浮かべて頷いた。
 「そうですね、随分揃えられた気がしますよ」
 でもそれが相手が好きなものなら構わないと、あっさりといって受諾する。だからこそ、自分がコーヒー豆を勝手に置いていても咎められた事がないのだろう。彼は相手が望めばさして気にもせず、居座る事を受け入れる。………器が大きいのか大雑把なのか、それは判断の難しい境目だけれど。
 「でもそのせいか、何となく好きな飲み物で色分けしやすいですね」
 日本茶の緑に紅茶の赤、コーヒーの黒。相手を見ると思い浮かべるのがその色か香りだと面白そうにいう彼に、ふと思いついた言葉がするりと唇から零れた。
 「なら………あんたは無色透明って所か」
 「……………なにがですか」
 唐突な言葉に彼は怪訝な顔を向けた。手の中のマグカップを啜りながらこちらの言葉を待っているように視線を向けた。
 「俺をイメージすればコーヒー。それと同じように、誰にだってまとわりつくもんがあるのさ」
 あんたの言うように、と笑んで告げれば更に不可解そうな顔をされた。それもそうだろう。自分はそれをそのまま名称で告げず、彼を思うイメージのままに告げたのだから。
 相手を思う時に浮かぶものは、おそらくはその人間の本質に近いイメージだろう。それ故に、誰もが漠然とした色を持っている。それらは関わり合う色と混じり合い変色し、色を変え、また戻りゆくものだ。そうして、本来の色を深めていく。
 それでも、彼を思う時、色が浮かばない。深まりゆく色をイメージするよりも浮かぶのは、無色透明の水色。
 「つまり………僕は水ってことですか?」
 「そういうこった」
 「…………じゃあなんですか、味も素っ気もない無個性って評価ですか」
 それはあり得ないという顔で怪訝そうに返す反論に、正しい意味を汲み取る彼の勘の鋭さを祝すように笑んだ。
 「あんたは……それだけで甘露なんだろうさ」
 返答に、彼は首を傾げた。自身の評価に無頓着故か、いまいちその意味を彼は掴みきれていないらしい。
 「コーヒーも紅茶も日本茶も、どんなもんだって結局、水がなけりゃ入れられねぇんだ」
 人の個性を豊かに開かせる。それが、彼の最大の特徴だろう。関わる中で誰もが感じる、自身の意志の明確な方向性。有耶無耶であやふやな筈のそれを、彼は解きほぐし絡みを解き、真っすぐな一本の筋道にしてくれる。
 ありふれた中での、それは無個性ながら、強烈な、個性。他者を輝かせるためだけの、個性だ。
 「?でも水っていい水過ぎちゃ、駄目なんじゃないんですか?」
 余計な成分で邪魔をするのではないかと問いかける彼は、既に自身が問答の中心である事を失念しているようだ。他人事の響きに苦笑して、そっと付け加えた。
 「舌を蕩けさせる水でありながらなお、異物の旨味も出すってんなら、そりゃあ珠玉なんだろうさ」
 他を調和しながらも自身の持ち味を殺さず残せる。そんな水、この世にあったなら誰もが求めるだろう。それはつまり、ない事を前提とした、想定だ。
 どんな人間もそれを求めながら、どこかで知っているのだ。そんな夢物語がある筈がない、と。
 だから羨望とともに諦観を持って、それを望む。叶わないと解っている望みは、荒唐無稽な夢に近い。おそらくは、叶わないからこその夢、だろう。
 それを叶えられてしまったなら、人はどうなるのだろうか。
 ………微かな空恐ろしさを首筋に感じ、ニヒルに笑んでいた唇が歪みかける。顰めかけた顔を、それでも彼の前だけは耐えておこうと、また笑んだ。
 きっとこの自分よりもずっと歳若い若輩者の駆け出し弁護士は、知っているのだろう。
 夢見るだけで終わるべきだったものが現実となった時の、悲しみを。
 「でも、神乃木さん」
 そっと逸らした視線を追うように、彼が声をかけてきた。頷く仕草だけで返答とすれば、それに気を悪くするでもなく、彼は言葉を続ける。
 「水はいつだってただの水で、その水の旨味を出しているのが、加えられた異物なのかも、しれないですよ」
 ふわり、と。
 寂し気に笑んで、彼がいう。
 呼気を飲み下して、それに見惚れた。………見惚れたというのは多少の語弊がある。見るまいと思ってもなお、視線を動かす事が出来なかった。
 彼はまるで他人事のように呟いていたくせに、その実、きっちり思い知っているのか。
 …………自身の存在がどれほど他者に影響を与えたか、を。
 そうしてなお、願うのか。流転し好転し、あるいは一部は後退しながら、それでも必死に進もうとする命が、己がいなくともそうあれる度量であり存在であると。
 それはまるで、化学変化を否定したような、願いだ。
 どんな事にも法則はある。その法則を無視しての現象はあり得ない。それでもきっと、彼は願うのだろう。それが現実であれ非現実であれ、関係なく。
 極上の水はただの水道水で、それを注がれ花開いた茶葉が一級の香りを醸すのは、茶葉の価値である事を。
 「………まあ、そういうことも、あるかもしれねぇだろうさ」
 答える確かな解答を持ち合わせていない身には、なかなか重い問答だ。せめて否定ではない言葉を与えようと、あやふやな言葉を差し出せば、彼は笑んだ。
 感謝するような、喜ぶような………そのくせ、泣き出しそうな、顔で。
 それはゆっくりと逸らされ、窓を見つめる。
 窓の先にはいつもと代わり映えしない光景が写っている事だろう。それを見つめて、彼は目を細め、愛しそうに寂しそうに、そっと吐息を落として。
 それを飲み込むように、目蓋を落とした。


 その睫毛が微かにも濡れていない事を確認して
 小さく、息を吐き出した


 彼が泣く事など想像もできないけれど

 それでもきっと、彼はいつだって、泣いていたのだろう



 吐き出す吐息とその視線だけで
 彼は、こぼす涙全てを飲み干すのだろう



 その身全てにたたえられた、甘露をたゆたわせるように……………








 コーヒーカップと書くよりマグカップと書く方がしっくり来るのは私がコーヒーが苦手だからでしょうか。オレなら飲めるんですがね………。コーヒー単品は香りは好きだけど飲めないのです。

 で。今回の話は少しだけ『11.窓』にリンクしています。まあこの話をベースに、程度ですが。読まなくても話として成立はしているので大丈夫は大丈夫ですけどね。
 涙の意味を知っている人は、優しい人だと思うのですよ。相手の意志を受け入れる覚悟を持てるから。飲み込むにしろ流すにしろ、その表現はどちらでもいいですが。
 しっかし神乃木さん………どうも彼は書きづらくて困りますよ。成歩堂の応対をどうすべきかを一番悩む人です。まあ仲のいい先輩後輩みたいな感じでいいんじゃないかな、と結論付けてはいるのですけどね。それはそれで書くのが大変、みたいな感じですが(苦笑)

07.10.13