え?夢?
いや、もうないよ、この歳じゃ。
………そんなこと言われてもな………
うん?願い事はって?
えー……それも、ちょっと………
………ロマンがないって言われても困るよ。
一端の社会人だしね…うーん、家賃とかは?
あ、やっぱり駄目か。
だってさ、大抵のことは、自分で努力するだろ?
夢も願い事も同じでさ。
諦められないならちゃんとそれに向かっていくよ。
え?…………ああ、…そういう、ことで?
難しいな…だって、それって、夢とかじゃなくて
もしもの世界、だろ。
僕、もしもとか、そういうのあんまり考えたくないんだよ。
だって

寂しい、だろ?



23.もしも……



 「まあそんな訳でさ、真宵ちゃんに問い詰められちゃったよ」
 困ったような声で彼はいい、土産に持ってきたケーキを頬張った。そんな様子を眺めながら、彼が入れた紅茶を口にする。若干口当たりに棘のあるヌワラエリヤに出来上がっていたが、目くじらを立てるほどのひどさはなくなった。
 ティーセットがないことを理由に紅茶を入れる手間を惜しんでいた彼に半ば無理矢理与えた茶器はそれなりに功を奏したらしい。小さく笑んでそんな無関係なことを考えていた。
 「オイ、御剣?………聞いてないだろ?」
 むっとしたような声で彼が身を乗り出して問いかける。顔を覗き込んでこちらに意識が向いているか確認する様は、どこか幼稚だ。それに笑んで、軽く首を振る。別のことを考えはしたが、彼の話はきちんと聞いていた。
 それを立証すべく、カップをソーサーに戻し、不敵に笑んで彼に向き直った。
 「ほう?なにを根拠にそんなことを言うのかね」
 「………なんで検事仕様な話口調なんだよ」
 間近な彼の顔が引き攣る。こちらが自身にとって嬉しくない物言いをするつもりであると理解しているらしい。こうした部分の勘が、彼はひどくよかった。
 その期待に応えるように、不遜な笑みをそのままに組んだ腕で滑舌のよい声音を響かせる。
 「私は君が真宵くんに夢もロマンもないといわれた上、仮初めの世界を想像することも出来ない想像力の貧困さを披露したことを、きちんと聞いていたが?」
 要約した上に扱き下ろすような物言いに相手はひどく不愉快そうに顔を顰めた。解りやすい反応に満足して、先ほど戻したカップを再び手にし、紅茶を口にした。渋みを感じはしたが、彼をからかって楽しんだ直後のためか、あまり気にならなかった。
 「お前って本当にそういうところ腹立つな………」
 ぶつぶつと文句を言いながらも特に彼は反論はせず、残りのケーキを頬張っている。さして彼は自身への評価に頓着せず、他者が思ったことに左右もされない。それはそれだけ彼の中に確固たる意志が存在するという証拠だろう。
 羨みもするし危ぶみもするその意志を愛でながら、ふと思いつき、首を傾げる。
 小さな仕草に目敏く気づいた彼が、きょとんと目を向けて疑問を示す。まだ口の中にケーキがあるせいで彼は声はかけられなかったが、雄弁なその目の問いかけに苦笑して口を開いた。
 「いや……もしも、という意味であれば、君は答えられたのではないか、と思ってな」
 こちらの言葉の意図が伝わらなかったのか、彼は首を傾げてまた疑問を示した。手のフォークを置くことはなく、そのまま、まだケーキを食べている。
 子供のような様子を眺めたまま、以前聞いたことのある話を胸中で反芻しながら、それを口にした。
 「君が弁護士になろうとしたのは、大学からだろう?それより前は、別のものを目指していたのでは?」
 それがあるなら、それはまた別の夢であり、もしも弁護士とならなければ進んだかもしれない未来だ。なんの基盤もなく想像するよりもずっと現実味を帯びた仮想現実を織りなせるだろう。
 会話を楽しむことを自分よりもよく知っている彼が、それを助手である少女に差し出さなかったことは疑問点といえた。
 問う声音に彼は目を瞬かせ、こくりと口の中のケーキを飲み込んだあと、苦笑するように小さく笑った。それでもまだ彼は答えず、手を伸ばしてマグカップを引き寄せ、中の紅茶を口にする。
 それはたいした時間ではなかったけれど、ひどく焦らされているような感覚を覚える。……もしかしたら、答えたくないことだったのだろうか。
 「君はそういう矛盾点はすぐに気づいちゃうな」
 マグカップを手にしたまま彼は失敗したと、きまり悪げにいった。
 なにがと問うように視線を眇めてみれば、怖い顔をするなと窘められる。法廷さながらの応対をしてしまうのは、解らないことを知りたいと思う、この貪欲な意志のせいだろうか。彼の示すものを自分が知らないことが不服だった。
 彼はあまり自身のことを語らない。問えば答えてくれるけれど、敢えて開示はしない。伝えることで不快に思うかもしれないと、以前困ったようにいっていたことを思い出す。………そんなはずがないと不機嫌に返したその時も、やはりどこか諦観を知る笑みで頷くだけで、確たる返事は得られなかったけれど。
 思い、またその時と同じく眉間に刻まれた皺が濃くなる。気づいた彼の指先が伸ばされ、前髪を梳いたあと、親指で眉間を撫でられた。思い悩むなということ、なのだろう。むっとしながらも、彼のいたわりを受け入れて敢えて抵抗はしなかった。
 そっと彼の指先が離れ、微かに感じていた体温が消える。それが少しだけ寂しく思い、その指先を目で追った。
 「僕さ、もしもって好きじゃないんだ」
 その目線をやんわりと留めさせるように、彼の声が響く。耳に触れるよりも肌に響く。恐らくプライベート空間で、彼も自分も気心が知れているからこその、音だろう。法廷での勇ましい気丈な声音とは質の違う音だ。
 ゆっくりと目を瞬かせ、それを吟味する。
 与えられた情報は、一つとして取りこぼしたくはなかった。彼は、自分にとって最大級の難関だ。法廷であってもプライベートであっても、どちらも一歩も退かない。
 だからこそ、相手の意志を知るためには奏でられる音色を慎ましやかに拾う姿勢が不可欠だった。…………彼がそうすることで自分の言を汲み取るのだから、恐らく自分にも出来るはずのことだと、毎回思い実行しながらも、どうしても失敗ばかり繰り返す仕草ではあったけれど。
 「何故?」
 「だって、あり得ない現実だから」
 問いかけてみればあっさりと彼はいい、そっと視線を逸らした。
 変わらない口元の笑み。言い淀まない言葉。けれど、交わらない視線。
 不可解に思い、目を眇める。問い質すような強い視線を頬に感じたのだろう、彼は居心地悪そうに肩を揺すったあと、目線だけでこちらを窺った。
 それを逃さず、発言を引き出すために、声を掛ける。
 「たかが空想だ。することのなにが悪い?」
 「悪くないよ。でも、僕は好きじゃない。それだけだよ」
 「では、何故君は好きではないのか、その理由を述べたまえ」
 まるで理解が出来ないと首を振ってみれば、彼は躊躇うように首を傾げて、マグカップを引き寄せる。手で包んだだけで特にそれに口をつけることはなく、彼は微かに俯いた。
 …………………数瞬の、沈黙。
 何かまた自分は失敗をしたのかと、顔を顰めて彼の肩に手を置こうとした時、不意に彼は顔を上げ、真っすぐにこちらを見遣った。
 相変わらず強い眼差しを秘めていると、息を飲む。…………逸らすことを許されない、無辜の意志。
 「単純だけど…物凄い、身勝手な理由だよ?」
 聞いても気分を悪くするという彼の目が、小さく揺れる。出来れば伝えたくはないと、思っているのだろう。告げることで相対した相手を傷つける可能性があることを、言葉に換えることを彼は好まない。
 「構わない。言いたまえ」
 そうでなければ彼を理解出来ない。情けない本心は口にはせず、ただ願うように許諾の言葉を口にする。尊大な物言いをしていながら、その実、許しを乞うているのは自分だ。彼はそれを受諾することも拒否することも許されている。………選択権は、いつだって彼にあった。
 「…………僕は、ね?」
 そのくせ、彼は決して拒むことを知らない。
 小さな声でぽつりと呟いた声は、それでも惑いはしなかった。震えもなく、静かに澄んでいる。浸るようにその音に耳を傾けていれば、視界の端で、マグカップを持つ彼の指先に力が込められた。
 「いまが、幸せだから。それがなかったことになるなら、他の可能性はいらないんだ」
 ごめんね、と。何故か彼が呟いた。寂しそうな笑みをたたえながら。
 何故彼が謝罪を口にするのか、解らない。いまが幸せだというなら、それは自分にとっても嬉しいことだ。自分は彼とともにいることを願い、それがいま、彼によって許されているのだから。
 それを幸だとたたえてくれる彼は、けれどひどく寂しそうに、悲しそうに告げる。どうしてなのか解らない自分には、ただ途方に暮れて彼を見つめることしか出来ない。
 寂しい笑みをなくしたくて差し出した指先を、彼は少しだけ眼差しを揺らして受け入れた。拒まないけれど、申し訳なさそうな意志は消えない。
 遣る瀬無くて、伝えてくれたにもかかわらず理解出来ない自分が歯痒くて、力を込めた腕の中、微かに彼の身体が跳ねた。
 「本当は……」
 そっと、小さな音が聞こえる。腕の中、掻き抱かれているせいか少しだけ声が掠れている。耳にほど近い距離だからこそ取りこぼさずにいられる音は、静々と響いた。
 「君にとっては、その方が幸せなのに、ね……」
 ごめんね、と、また彼は呟いて、それでもその腕はぎゅっと自分の背に回されて、抱きとめてくれた。
 言葉の重みを噛み締めて、喉が詰まりそうになる。………彼は、そんな些細なことすら、気にかけてくれるのだろうか。
 仮想現実に過ぎない空想の中の幸など、自分は求めはしない。それでも、その中であれば現実の自分が受けた傷を何一つ負うことなく生きられるなら、それを願いたかったと。
 彼は、いうのだろうか。それでもいまこうして歩んだが故に帰着した立場に置いて出会えた人間たちもまた切り捨てることが出来ず、いまを幸と思う己を身勝手などと、思うのか。
 ………その歩みの中数多くの痛みを彼もまた背負ったにもかかわらず、その全てを幸いだといえる胆力をこそ讃えるべきであるのに。
 「君は……優しすぎる」
 言葉が見つからず、噛み締めるように、そんな当たり前のことを口にする。
 彼は不思議そうに首を傾げて、そっとその頬を肩に埋め、小さく小さく唇を動かした。もしかしたら自分に伝えるつもりのない言葉だったのかもしれないけれど、間近なこの距離が、耳へとその声を捧げた。


 君の方が優しい、なんて。

 彼以外の誰が肯定するというのか、問いかけたい。
 あまりに自身の価値を知らない相手の身をただ抱き締めて



 せめて、言葉にも換えられないこの思いの一端だけでも捧げられればと、祈った。







 御剣が弁護士だった未来を想定すると、きっと成歩堂は弁護士じゃなく役者になっているのだろうな。当然狩魔検事の事件もなくて、そうすると舞子さんが里を出ることもなくて、きっと千尋さんも弁護士にならないで別のことしていて。あるいは真宵ちゃんと一緒に何かしていたのかな。
 …………そう考えると、誰もが傷を負うことなく幸せになれるんじゃないか、とか思うけど。その未来だと、成歩堂が弁護士になったことで出会えた全部の人と出会うことなく時間が過ぎるのだなーと。それは絶対に嫌だな。
 出会ったことが嬉しいなら、もしもっていう考え方は出来ないと思う。でももしもっていう考え方の方がずっと優しく楽しい世界が広がっているのは事実なんだよな………。
 仮定した現実を望むことも、現実を大事にすることも、どっちもどっちに寂しさがあるな、と。まあそうであっても歩んだ道は変わらないので結局自分が踏んだ道を進むしかないわけですけど。

07.9.29