救えればいいと彼はいう

もっと多くのものを見て
もっと多くの人と触れ合って
…………その心を開いて

そうして、世界が広がってほしいのだと
夢見るように……あるいは、祈るように
彼はいう

あまりにも盲目的に差し出される全てを
それでも受け止めながら、彼はいう

自分以外の幸とてあることを気づいてほしいと

誰よりも価値ある幸せを与えているその人が
その価値を知らぬままに
小さな幸せこそを知ってほしいのだと


…………優しくたおやかに、祈りの言葉を囁いた



25.暖炉



 「それは浅はかだと思うわ」
 彼の言に呆れたような溜め息を吐き出しながら告げた。
 ブリーザードに襲われた人間の目の前に暖炉を置いたなら、そこから離れないのは当たり前。そう揶揄するようにいってみれば、彼は遣る瀬無さそうに瞳を揺らし、そっとそれを隠すように目蓋を落とした。
 次に見えた瞳は、常と変わらない輝きを乗せた、弁護士としての、彼の瞳。
 「知っているよ、狩魔冥」
 痛ましいほど静かな声でそういって、彼は笑んだ。
 自分が選択し選びとった結果なのだと、彼は憂えるように呟きながら、それでも浮かぶ笑みは法廷さながらのしたたかなもの。その差異に怪訝に眉を顰めてみせれば、その笑みが深まった。
 知らず、息を飲む。何かが、自分の中で揺れたことだけが解った。…………それがなんであるのか、まだ彼よりも人としての経験値の浅い自分には解らないことが、少しだけ悔しかった。
 それをあやふやにするように睨みつけた先、彼の唇が揺れる。
 「………だけど、狩魔冥」
 そっと彼の声が響いた。
 自分の肌に響くようなその音は、異議を唱える姿とはまるで重ならないくせに、それと同等の重みと存在を主張した。
 真っすぐに向けられる視線。逸らされないそれに、魅入られる。
 息すら惜しませる眼差しを睨み据えるように真っ向から受けて立ちながら、俯きたくなる自身の弱さを奮い立たせた。
 いま彼を追い詰めていたのは、自分な筈だ。それがいつの間にか形勢が逆転し、自分が彼に追い込まれている。言葉を探しあぐね、息を飲むことだけで不敵な笑みを張り付かせる、この不様さ。
 まるで、彼がいまその言葉を捧げるために想起しているのだろう男のような、惨めさ。
 唇を噛み締める事も出来ない。それこそ、自身の負けを宣言するようなものだと、気丈に眼前の男を睨むように見つめる事でその仕草を耐えた。
 「どれほどの寒波が襲ったとしても」
 彼の唇が蠢く。静かに……ゆっくりと。まるで自分に噛んで含めるような、諭すような音。
 まるで、自分すらそれを抱えそうだと危惧しているかのような、声で。
 「暖炉がたった一つなんてことは、あり得ないんだよ」
 たった一つのぬくもりでは、人はいつかは凍えてしまう。そう、彼は囁いて、笑った。
 泣き出したいその雰囲気とは裏腹の、ふてぶてしい笑み。まるで法廷で追い詰められた時に晒されるもののようなその様に、困惑を覚え眉が寄った。
 「それしかないと思えば、見える筈がないわ」
 周囲が吹雪で視界はゼロ。そんな状況にいたなら、目の前のそれ以外を探そうなど出来る筈がない。もしもそこから離れ、あるかも解らないそれを探している間に失ったなら、後悔も出来る筈がない。
 それならば、しがみつくだろう。たとえ満たされることがなくとも。
 少なくとも、枯渇することはなく、願うままのぬくもりが差し出される場所があれば、人はそこを安住の地と思う。その程度の単純さは、誰とて持ち合わせている筈だ。
 冷ややかな声で彼の言を切って捨てれば、彼が苦笑した。
 首を傾げ、それを緩やかに振る。否定というよりは、微かな諦観の末の、甘受のように。
 「それなら、暖炉じゃなく、カイロでいいよ」
 「………………?」
 「そうしたなら、一緒に探しに行けるってことだろ?」
 一人探すことが恐ろしいというなら、その身を守り、ぬくもりで癒しながら、ともに歩めばいい。抱えたカイロは惑う足先も凍える指先も、精一杯あたためてくれるだろう。
 寂しそうな瞳で、それでも彼は慈しむ口調で、そんなことを口にした。
 驚きに瞠目し、困惑に視界が揺れる。冷静な自身の理知が戯れ言だと叫ぶ中、感情だけがその言葉の真実に揺れた。
 その言葉の痛みを、彼は知っているのだろうか。
 …………理解した上での、言葉か。
 ただ搾取されるだけと解っていながら、それでも裏切ることも手放すこともないというのか。
 捕食者の飢えを癒すために歩みをともにするなど、愚の骨頂だろうに。
 それでも彼は、平然とそれを告げ、なんの負担もないかのように血塗られた足で歩むのか。笑んで、その痛みすら相手には気づかせることなく、その肩を貸すかのように。
 それは痛みでしかないだろう。
 それは遣る瀬無さしかないだろう。
 それは抉られた傷を刻み続ける、行為だ。
 …………それでも、彼、は。
 「……………愚かだわ」
 告げた声は、震えていた。嘲るつもりが、掠れて震えた声と成り果て、毅然さなど見る影もない。
 揺れる視界の先、彼が笑んだ。見える筈のないその視野の中で、それでも確かに彼が笑う気配がした。
 そうして、彼はいうのだ。
 「うん、知っているよ」
 先ほどと同じ言葉を、まるでなんてことはないかのように、あっさりと囁く。
 その言葉の重みを思い、唇を噛み締める。……………それは、幸だろうか。守り慈しみ愛しいと囁く感情だというには、あまりにも深く澱み歪んでいる。
 それを与えられることも受け入れることも覚悟を決めて、その上でなお、彼は相手の幸せを願うというのか。……………それを願い行動する過程こそが自身を傷つけるだろう結果も知っていて、それでもなお、ただひたすらに、願って。
 それは空恐ろしいほどの、生粋の思い。無辜という言葉すら追いつかない至純。与えることしか知らない植物のような、意志。
 愚かだと、どれほど言葉に換えていっても、彼は頷くだけなのだろう。それすら知った上での選択だと、笑むだけだ。
 …………伸ばした腕に縋る相手を切り捨てられないからと。
 「本当に馬鹿は馬鹿な考えで馬鹿な選択をするものね」
 罵りたいのはきっと、彼ではない。彼にそれを選ばせたことすら知らず求め続ける愚かな弟弟子だろう。
 それすらきっと、彼は願わず、ただ彼に腕を差し伸べてほしいと、祈るのだろう。…………自身を求める相手がこれ以上傷つかないでほしいと、それだけを祈っているのだから。
 噛み締めかけた唇をそっと解き、呼気を肺に押し込む。そんな当たり前の動作にすら意志がいるこの遣る瀬無さを、当事者である彼が何故耐えられるのか、自分には解らない。
 零れることだけは耐えた瞳の揺れの先、彼は小さく頷いて、困ったような声で答えた。
 「うん、そうかもしれない」
 「…………それ、なら」
 躊躇わない声に、やはり噛み締めそうになる唇。それを押さえ込み、一度瞬きをした鋭い瞳を、彼へと挑むように叩き付けた。
 彼は笑んでそれを迎え入れ、不敵に自分を眺めている。きっと、自分の心情などお見通しなのだろう。それでも彼は、自分をからかいもせず窘めもせず、ただ、告げられる音を受け取る姿勢を差し出すのだ。
 それが遣る瀬無い、なんて、とんだ愚かな感情だ。
 「せめて結果くらいは馬鹿でないことを証明するのね」
 まだ出ていない答えの公算など解り切っているけれど、せめてそれくらいの強がりは口にしたかった。
 ………せめて、こんな言葉でくらいは、彼の背中を支えてやりたかった。なんの意味もない、音の慰みでしかないと解ってはいたけれど。
 彼は愛しそうにその音を眺めて、ふうわりと、優しく笑む。
 そうして、そっと、まるで甘い飴を転がすような柔らかさで、囁くのだ。
 「ありがとう、狩魔冥」
 それだけで十分なのだと、その声が囁いた。
 それこそがもっとも胸を軋ませたけれど、それを不器用に押さえ込んだ笑みで、彼を迎える。
 「感謝されるいわれなんてないわ。精々努力することね」
 憎まれ口のようにそう告げて、彼から顔を逸らす。………優しい笑みがを見つめていると、涙があふれそうだ。
 もしも彼が望む環境を、彼がいない間、自分が与えていたのなら。
 あるいは、こんなにも遣る瀬無い結果を晒す現実はなかったのだろうか。
 もうどうしようもない過去の事実を無意味に模索しながら、胸中で小さく首を振る。

 きっと、それが無意味であることを彼も知っている。


 あの愚かな男は、あまりにも純粋で
 そのくせ浅はかなほどに
 貪欲なのだ


 彼が求めるほどの深さで情を差し出せる人間など
 いま目の前で笑むこの人以外、居る筈がない




 どれほどの痛ましい現実の重なりだと、小さく気づかれぬように、唇を噛み締めた。







 ふと初めの部分の冥ちゃんの会話を思いついて、忘れぬうちにとその部分のやり取りを先行して書いておいたんです。
 で、後日それに基づいてラストまで書いて、長さ調節をするために初めの部分を調整しよう、と思っていたのですが。…………思った以上にラストまでに長さが取られまして、1作分の長さが終了してしまいました。一応私、小説はほぼ同じ長さで統一して書いているもので…………
 おかげでまるで状況説明無しな話で申し訳ない。まあどこかで冥ちゃんと二人話してる成歩堂がいるよ、とでも思っておいて下さい。
 そして求めるばっかで相手の痛みも傷も見えずに盲目的に腕を伸ばし続けるおバカさんもいると。7歳年下に愚かだと思われる男って………(遠い目)
 まあまだ余裕がきっとないのです。いつかは持ってくれる事を祈りますよ。つーか持ってくれ、頼むから。

07.10.5