耳を疑った
事実の認識に時間がかかった

何故彼が、とは、
問うことは出来なかった
あらゆることをそつなくこなす彼が
そんな状態になるならば

あの、人間しか、脳裏に浮かばない

ああ、たとえそうであっても
どれほどそれを訴えても
意味など、ないのだ


…………静まり返った病室内で、
覚悟を、決めた……………………



27.花瓶



 手にしていた花を花瓶に移す。話を聞いて初めて訪れた日に捧げた花は、もう朽ちて捨てられたのか、既にそこに姿はなかった。
 質素な室内。病室なのだから当然だろう。微かな電子音。ベッドに横たわる人の命を繋ぎ止める音。それはある種、彼の心音だ。
 深く息を吐き出し、軽く頭を振る。沈みそうな思考を嫌い、毅然と前方を見遣った。
 真っ白な壁と、真っ白なベッド。点滴台と医療機器が傍に控えたそこに、横たわるのは褐色の肌の偉丈夫。
 もっともこんな場所が似合わないだろう人が、そこで眠っている。まるで下手なお芝居のような滑稽ささえあるのに、笑えなかった。
 笑えるわけが、なかった。
 噛み締めそうになる唇を吐き出した吐息に震わせるだけに留め、そって間近なサイドテーブルの上の花を指で辿る。黄色の花弁が指先をくすぐるようだ。少々季節を遅れた向日葵は、それでも健気にその大輪の花をほころばせている。
 小振りの向日葵だけが生けられた花瓶は、かなり奇妙だった。病室という異質な空間においては、なおさらに。
 じっとその色を見つめ、拳を握りしめる。歯痒いと思っているのだろうか。この結果を招いたのは、あるいは自分かもしれないというのに。
 「………神乃木さん」
 静かに眠る人の名を呼び、また花弁を辿った。
 ゆらゆらと向日葵が揺れる。真実を追究するものがその胸に咲かせるはずの、花。献花されるに相応しいはずなのに、どこまでもこの病室には馴染まない。
 「また、彼女は………逃れたそうです」
 事情聴取の結果、嫌疑はあれども告訴出来るほどではないと断定されて、解放された。厳かに、けれど小さな声で言葉を紡ぐ。悔しさに震えぬように自制するだけでも、かなり苦心した。揺れることを戒めた眼差しは、何かに縋るようにただ一点を見つめる。自分が生けた花瓶の中の、向日葵を。
 悔しいと、いっそ泣ければ楽だろうか。この半年間、後悔と怯えに泣きつかれるほどだったくせに、今更になって、泣くことも出来ない自分の涙腺が奇妙に痛む。
 頭痛のようなその痛みを微かに顰めた眉で押さえ込み、やり過ごす。吐き出した息は、重かった。
 命さえ危ぶまれるこの状態を、彼は想定していたのだろうか。………それくらいの危険はあると、あるいは思っていたかもしれない。その程度には、相手は危険を感じさせる生き物だった。自分のためであればどんなものさえ踏みつけ、それを後悔などしない。あれも一種の孤高というべきなのか。奨励は、出来ないけれど。
 危険を知って、それでも彼は真相を突き止めようと、したのだろうか。個人で動き回っていることは知っていたけれど、まさか自分のあの裁判を今も彼が追っているとは思わなかった。彼が一人追うべき事件ではないと、思っていたから。
 …………自分は、ずっと踞っていた。この半年間、法廷に足を向けることすら出来なかった。自分が信じ守ろうと思った依頼人を殺してしまった、あの底のない恐怖感に身を竦ませて。
 自分こそが、動かなくてはいけなかったのに。労ってくれる周囲の優しさに甘えて、法廷という場から、逃げていた。そのくせ弁護士という立場を手放すことは、出来なかった。やるべきことが……やらなくてはいけないことが、あったから。否、それすらきっと、言い訳だ。自分は、帰りたくはなかった。
 思い、息を詰めるようにして、目蓋を落とした。脳裏に浮かんだのは、愛しい妹の笑顔。
 …………ただ、怖かった。自分がそこに立てばまた同じことが起こりそうで。守るべき人間を追い詰め、逆に破滅させる。そんな意識が脳裏を掠める。
 それはどこか、自分の中に流れる綾里の血を、思い出させた。
 姉妹同士での身の毛のよだつ争いを繰り返してきた、血。守るべき、愛しむべき対象を憎み殺そうとまで考える意識を、幾度となく刻んだ血脈。
 断ち切るつもりで、この世界に飛び込んだはずだったというのに、自分の中にその呪縛は今もまだ燻っているのだろうか。
 目を瞑れば明るい笑顔を向けてくれる愛しい妹が、いる。振り返れば今はどこにいるか解らない母が微笑んでくれる。前を見遣れば、ずっと先に、コーヒーカップを片手に立つ、まださして付き合いのないはずの男性が、たたずんでいた。
 敬愛すべき、人だった。苛立つことだって多かったし、身勝手だと怒鳴りたい時だってあった。
 ………それでも彼は、自分のずっとずっと先を歩んでいた、戦うことを知る人の一人だった。
 初めての法廷の日、隣に立ってくれたのはこの人だ。絶望の中座り込んでしまいたかった自分を支えてくれた。何も終わっていないのだから逃げるなと、ただ一人自分に進むことを突きつけた人。
 きっと、この半年、彼は待ってくれていたのだろう。
 動くことのなくなった自分が立ち上がり、自分も立ち向かうのだと、この意志から声を発するその時を。……………戦う意志を持ち、彼の隣に立てることを。
 暗闇に違いない現実のその先にある真相を掴むことを切望する、弁護士としての自分を。
 待って、いてくれたのだ。立ち上がったそのときに、惑うことなく進めるように、その準備をしながら…………
 たった一人、闇の中を模索して、その身さえ危険に晒して。それでも、一言だって自分を責めることなく、ただ、待つことを知っていた、人。
 唇を噛み締めそうになる。顔を歪め、息を飲み、吐き出す。そうして、笑みを浮かべた。
 「神乃木さん………」
 そっと、呼びかけ、不敵に笑んだその姿のまま、腕を組む。
 法廷で彼がしたように、何も自分に恐れるものがないという姿で、震えることのない声で、断言を、する。揺れそうな眼差しを、笑みに溶かしたまま。
 「私は、歩き始めることにしました」
 もう立ち止まる時間は終わりだと、そっと落とした目蓋の裏、自分を元気づけてくれた彼の顔を思い浮かべる。
 「あなたはいつだって変な物言いをしたし、自分ルールで好き勝手していましたけど」
 困ったように笑って、彼の身勝手ともいえる奔放な手腕を思い出す。無茶苦茶なくせに、必ずその先には真実があった。それを手にすることこそが至上の喜びのように、無邪気にそれを求めていた人。
 そのための労苦を厭わず、真っすぐに努力を惜しまなかった人。
 「それでも、あなたは……決して、逃げない人だった」
 真実であれば依頼人の有罪をも受け入れた。その潔さには、感嘆を覚えたものだ。傍聴席に居て涙ぐんだ法廷だって、数多くあった。自分が法廷に立ったなら同じように依頼人を信じ、同時に、真実を突き止めることを忘れない弁護士であろうと、思った。
 彼は、自分に見せていた。弁護士としてどうあるべきか。言葉などではなく、その姿で。ただ、語ってくれた。それを自分は追えばいい。…………独り歩むことは、恐ろしいことではないはずだ。
 与えられていた。惜しげもなく、盗めばいいと、いつだって目の前に差し出されていた。それは彼がまとっていた、至高の弁護士という名の、意識。
 それをこの身に宿して、再び法廷に挑んでみよう。………一から、全てをやり直して。
 言葉も発さず目も開けず、恐らくはどれほど大声で呼びかけても意識すら揺することの出来ない深淵に落ちてしまった、眠り続ける人の、その理想とする意志を。
 受け継ぐように厳かに、微笑みを深めて、彼を見る。
 「あなたが言葉で教えて下さった最初で最後のもの、大切に、します」
 ピンチの時ほど太々しく。誰をも魅了するように、笑んでみせよう。そう喉奥の痛みを飲み込んで、歪みそうな唇をただして…………微笑む。
 自分は為すべきことをしよう。もう甘やかされて泣き崩れる時間は終わりだ。悔やんで逃げるのも、二度とごめんだ。
 それならば、前へ。…………真実を明らかにするための、一歩を。
 ベッドに横たわる男を見つめ、静かに漂う機械音に耳を澄まし、そっと………頭を下げる。
 この次に来る時は、きっと、今日生けた花など形も残さないほど、先だろう。自分が真相に辿り着いたそのときに、今日生けた花をまた抱え、このドアをくぐろう。
 花瓶に生けながら、その真相を面白可笑しくユーモラスに、彼の口上のように、語ってあげよう。
 そうして………花瓶がいっぱいになったなら、目を覚ましてくれるだろうか。
 自分はまだ、彼から教えてもらいたいことが、あった。弁護士として、彼から学ぶべきことは山ほどあった。時間があると勝手に思い込み、それを全て失ってしまった。
 彼も悔やんだだろう。自分も、今悔やんでいる。
 もう二度と悔やむこと無く、笑えるように。もう二度と逃げ出すような真似をせずに、生きよう。
 垂れた頭を上げ、振り返ること無く、そっと病室を立ち退いた。

 ………あとに残ったのは、心音のように一定間隔で鳴る機械音と、鮮やかな花弁を誇らしげに揺らす、花瓶の中の向日葵だけだった。



 そうして、半年後。

 病室は、光を感じた。………………花束を抱えた女性は艶やかに笑み、一輪ずつ花瓶に生けながら、ゆっくりと語った。

 彼を眠りに陥れた真犯人を捕らえた、その法廷の様子を。


 嗚咽に染まること無く、ただ、頬だけを濡らして………………………







 そんなわけで恐らく最初で最後の神乃木さんと千尋さん。むしろ千尋さんだけだよ、神乃木さん毒かっ食らって昏睡状態ですよ!
 半年間、綾里の悲劇と法廷での悲劇を重ねて自分の道を思い悩んでいた千尋さんが、それら全てを背負って前に進む覚悟をした話、とでもいえばいいでしょうか。余所様で千尋さんのお話を読むことがないのでどんな設定が主流か知りませんが。まあ自分設定そんな感じです。
 そして半年間また法廷の傍聴とかから始めて意欲的に取り組んで、ついに成歩堂21歳と出会っちゃったよ、と。
 ちなみさんの有罪判決掴むまで神乃木さんの病室には足を向けなかった感じですかね。その後はまあ、それなりの面会かもしれませんが、成歩堂の報告しながら(笑)

07.9.20