少しばかり意固地で
少しばかり向こう見ずで
少しばかり、情が深すぎる
だから、からかうようにして
そっとそっと息抜きをする
ねえ
その肩から力を抜いて
責任全部背負うような顔をしないで
笑え、なんて言わないけれど
せめて
自分のために、感情を発露しようよ
どこまでも不器用に、相手のためを思う、優しい人
28.オバチャン
カチャンと、普段なら決して音など響かせることなくカップを手繰る指先が苛立たしそうに震えつつソーサーにカップを戻す。
折角彼が土産に持ってきた紅茶も、きっと味など解らないだろう。もっとも自分にはいつでも味の違いなど解らず、精々好みかどうか、くらいの差しかないが。
そっと伺い見ながらそんなことを思い、彼とは違いマグカップに注いだ紅茶を一口飲んだ。
あたたかいそれは、多分上質の茶葉を使用したのだろう。普段自分が買って煎れる日本茶や紅茶に比べればずっと繊細で細やかな香りと味だ。くんと鼻先でそれを味わいながら、上目遣いのまま相手を伺う。
………眉間には相変わらずの深い皺が刻まれている。落とされた目蓋は眠っているわけではなく、考え事をしているせいだろう。指先が苛立った時のようにとんとんと自身の肘を叩いているが、多分そんなこと、彼自身は気づいていないだろう。
微かに息を吐き出し、観念したようにマグカップをテーブルに戻した。
その音を聞き取ったのだろう。彼は目を開き、こちらを睨み据えた。
「どうかした、『みっちゃん』?」
それににっこりと笑いかけ、彼が苛立ちを抱いた原因であるその発言を口にする。もっとも、先ほどまでそれを口にしていたのは可憐な少女の声で、聞いている分にはとても微笑ましい響きだったのだけれど。
自分がいっても気持ち悪いだけだなと再確認して、胸中で少し辟易とした。まだ名字であるだけマシなのだろうかと思い……同時に差はないだろうと結論づけた。
目を向けた相手はやはり複雑そうな顔をして顔を顰めている。当然の反応に吹き出したかったけれど、なんとか耐えた。これ以上機嫌を損ねるとあとが面倒なことになる。それくらいの分別は、あった。
「………どういうことだろうか?」
敢えて何も質問文を使用せずに問いかけてきた彼に、にっこりと笑いかける。
今はもう青いスーツに身を包むこともなく、私服のままのくだけた格好にセットをすることのなくなった髪が容貌を少々柔らかくしているせいか、彼がそっと視線を逸らして溜め息を吐いた。
どうも、彼はまだこの姿に慣れていないらしい。今までだって休日に出掛けることくらいあったにもかかわらず、未だに戸惑うような顔でこちらを見ることがある。
もっとも、それは仕方がないだろう。今まで事務所でスーツ姿以外の格好などしたことはなかった。違和感がない方がおかしい。
彼は今は日本にいることも稀だ。それを考えれば、自分よりもいっそう馴染むのに時間がかかるのだろう。それはそれで彼の柔軟性を鍛えるいい機会なのかもしれない。そんな風に考えながら、そっと口を開いた。
「別に?だってみぬきが悩んでいたからさ」
「?」
「親友が来るんだっていったら、なんて呼ぼうかなって」
事実をそのまま告げてみれば彼の顔がまた顰められる。整った容姿をしていようと、そこまで顰められた顔は逆に怖いだけでしかない。色々と損をするタイプだな、と、何年経っても変わらない相手を見ながら苦笑する。
みぬきを引き取るきっかけとなった裁判のあと、彼には事情を説明したけれど、それでも忙しい彼に学校に行っていたみぬきを引き合わせる時間はなかった。
仕方がないので後日に……と思っていれば、また彼は海外出張があって、少し時間が空いてしまった。その間にもうすでに自分の知人友人の大体と面識を持ったみぬきは、当然、帰国してすぐに会いに来てくれる約束をした御剣に興味を持った。
……………なにせ、会う人会う人、必ずその名を挙げるのだから、気にするなという方が無理だ。
そこまで自分は彼とセットで扱われているとは思ってもみなかった。弁護士と検事といえど、別に常に同じ法廷に立っていたわけではない。友人であることは確かだけれど、口を揃えて彼の名を挙げるほどではないと、思う。
不思議そうに首を傾げた自分に、幼いみぬきはじっと顔を見上げて、小さく笑って手を繋いでくれた。まるで、仕方がないな、というような顔で。
多分、そんなことがあったせいだろうか。別に呼び名など普段は気にしない彼女が、突然御剣が来ると解ってから悩みだした。
なんと呼べばいいのかと、それこそ法律書でも呼んでいる自分のような顔で考え込んでいる。なんと呼んでも気にしないよといっても首を振られるばかりだ。
困り果てたのは彼女だけでなく自分も一緒で、対策を考え始めたのが、実は昨夜。色々と話しながら、不意に脳裏に掠めた忘れたくとも忘れられない強烈なインパクトを残した女性の証人を思い出す。
法廷という特殊空間でも強烈な異彩を放っていた彼女が呼んでいた、彼の呼び名。
魔が差したとか悪戯心とか、そんなものよりも、物凄い名案に思えたのは、確かだ。その理由は伏せて娘に提案した時、やっぱり自分の顔をじっと見つめた彼女は、手を繋いでくれた時と同じように、仕方ないなぁと小さな声でいって、頷いた。
何となく、きっと、あの小さな女の子には全部がばれているような気がする。自分が何故それを提案したかも、今のこの状況を願っていたことも。
思い、苦笑する。
マゾでもあるまいし、相手を怒らせることを目的として接する意味はない。それでも今は、それが欲しかった。
本当はもっと優しい方法が取れればいいのだけれど、とてもではないが今の彼にそれを差し出しても目的は達せないだろうことが手に取るように解る。
「だからだよ、『みっちゃん』?」
「止めたまえっ!」
からかう声で繰り返したその名称に間髪入れずに彼が切り捨てる。はっきりとした感情的な声。向けられる視線は苛立ちが込められ鋭かった。
それを不敵に笑んで受け止めて、また声をかけた。
「あれ?僕には返事してくれないわけ?」
「君は確信犯だろう!みぬきくんとは違う!」
やはりすぐに返された解答。随分と激怒しているようだ。ついでに、今目の前のこと以外は、忘れてくれている。
それに小さく笑って、また同じ名称で彼を呼ぶ。………彼が怒鳴って、目を逸らした。
ずっとずっと、あの裁判の日から、自分を気遣い自身の時間すら擦り減らして、摩耗されるように動き回っていた彼が、ようやく息を吐くように、自分自身の感情に、揺れた。
それに笑んで、マグカップの紅茶をまた一口、飲み込んだ。あたたかなその香りが喉を湿らせ、微笑む唇をマグカップが隠してくれる。
何も問いかけず、ただ笑って頷いてくれた娘を思い出しながら、そっとマグカップをテーブルに戻した。
「ま、海外出張、頑張っておけよ。君にとってプラスになるんだからさ」
今までの話をまるでなかったことにしたような、いつも通りの言葉に、彼は怪訝そうな視線だけを向け、胡乱な顔をした。それにそっと笑んで、窓の外を見る振りをして、昨夜の記憶を思い出す。
あのね、パパ
うん?
みぬきはパパの味方だよ
知っているよ
だから、悲しいときはいってね?
………………うん?
『みっちゃん』、元気だといいね
優しく娘は笑い、確信する。きっとこの子は、全部見抜いているんだろう。自分が何故、そんな名称を差し出したのか、そんな意図さえも。その上で、微笑む。
味方だよ、と。……………その腕を差し出しながら。
そんな、昨夜の出来事が脳裏を掠めた。
自分のために何かしたいと、いつだって躍起になって不器用に空回りする彼を、少し解放したかった。こんな状況に自分がいるから、彼はただでさえ不得手な自身の感情をどこかに置き忘れてしまって、他の人とのコミュニケーションすら成立していない。そんな風に狭い価値観で、生きてなんか欲しくないのに。
…………思ったのは、多分、そんなこと。
口になど出していないそれを、あの小さな子供は勘づいたのだろうか。
思い、知らず漏れた微笑みに、目の前の相手が息を飲む音が、聞こえた。小さく自分の名を呼ぶ彼に、にっこりと笑んで、やっぱり彼の嫌うその名称で、呼びかける。
苦虫を噛み潰した顔を彼は晒し、けれど、もうそのことを切り捨てることも諦めて、緩やかに息を吐き出す。
ゆっくりでいい。少しずつでいい。どうか、自身のために生きて欲しい。
…………………その意志の全てを自分に向けて身を削るような真似、しなくてもいいから。
思い、不満を顔に乗せる彼に手を伸ばして、頬を撫でる。久しぶりの体温に目を瞬かせて、彼は笑んだ。
引き寄せられるのだろうと思い、少しだけ覚悟をして、間のテーブルを蹴らないようにそっと身を浮かす。
そうして、躊躇いを持ちながらも確かな意志で、腕を引かれた。
小さく笑んで、彼の瞳の中、感情が揺れるのを、見る。
僅かに痛む胸。それを飲み込み、微笑んだ。
どうかどうか、お願いだから
………………君自身のために、生きて。
まあ、みぬきちゃんがいい子だよね、という話?
補足説明してしまえば。捏造事件のせいで色々大変な成歩堂に何らかの手助けをしたいのに拒否されて(当然だよ)軽いパニック状態で周囲に迷惑まき散らしている御剣を想像しておいて下さい。
そういう風に相手を捕らえてしまうことが恐ろしいうちの成歩堂にとって、ある意味最悪な状況でしたのですよ(笑)
で。とりあえず一刀両断したらそれこそ死を選びかねないので、からかいまくって怒り触発させて溜まっている鬱憤吹き出させようかと。
意固地な子なので自分の考えに凝り固まっているときはなにいっても聞き入れやしないのですよ。隙を作ってそこから入り込んで懐柔するのがある意味一番手軽で手っ取り早い。
そしてこのあと簡単に籠絡されて海外出張頑張ってきます。無駄に一時帰国とかした場合叱責が飛びます。厳しいな、うちの成歩堂。
07.9.17