きっと、彼の力になってくれる
そんな祈りを込めて彼に願った
多分それは
ただひたすらに彼を痛めたのだろう

遣る瀬無さそうな
苦々しそうな
耐え忍ぶような

そんな声、で


彼は、君が望むなら、と
そう告げたから

感謝と贖罪を思って笑むことは
彼の痛みを助長させるのだろうか…………



29.信じましょう



 目を丸めて彼を見た。何故なら今ここに彼がいることはおかしいと知っているからだ。
 彼から海外視察の予定はちゃんと聞いている。帰国の予定も同じくだ。その時間を空けろという意図でもって教えられているのだから、チェックしないわけにもいかない。
 しかし今日は少なくとも教えられていない。まさかという思いが湧いて、軽く彼を睨んでしまう。
 それに気づいたのか、彼が慌てて口を開く。先ほどまでの喜色に染まった笑みが見る影もなく顰められた。
 「海外視察の件だが、担当が変わったのだ。決して私が勝手に帰国したわけではない」
 今ここにいることは公的に認められていると早口で彼が捲し立てる。自分に異議を挟まれることを恐れているような声の調子に、胡乱そうな視線を向けた。
 先日、会ったばかりだ。そしてその翌々日には再び諸外国を回る予定のはずだった。にもかかわらず彼は、当たり前のような顔をしてここにいる。もしも彼がいうことが正しいなら、あの時に多少なりとも彼が自分に伝えないはずがない。
 けれど一切彼は仄めかさなかった。むしろ駄々を捏ねるように帰国の時間の短さに舌打ちをしていたはずだ。
 そこまでの急な担当の変更が、彼の意志なく為されるはずがない。そして彼がそれを望むとすれば、原因が必ずあるはずだ。
 ………自惚れるつもりはないけれど、彼が今それを望むというのなら、それは当然自分に起因するはずだ。あまりにも今の自分の立場は、彼の不安と焦燥をくすぐるものでしかないのだから。
 「じゃあ誰が代わったんだよ。君の代わりに諸外国回れるほど外国に精通した検事、いたっけ?」
 訝し気に、けれどほとんど彼の言を疑っている響きしかない口調で問いかける。
 案の定、彼は喉を詰まらせるように息を飲んで、それから視線を彷徨わせる。虚偽を防ぐために、更に彼を睨む視線に力を込めた。嘘を吐いた場合、それが発覚した際のペナルティーを匂わせる視線に彼の肩が小さく跳ねた。そのまま彼は緩やかに首を振りながら、自分を宥めるように告げた。
 「牙琉検事が後任だ。彼の今の状況は好ましいものではないからな。ほとぼりが冷めるまで、何も知らない場所にいた方が周囲にも彼にもいいだろう」
 暗に自分との一件が彼の風当たりのひどさに繋がっていることを知って、顔を顰める。彼がそれに気づいて、自分と同じように顔を顰めた。
 彼は、自分が傷つくことを好まない。この一件に関していうのであれば、相手検事を断罪したがってさえいることも知っている。
 ………その上で、我が侭をいったのは自分だ。彼を導いてほしいというそれは、彼にとってみればもっとも苛烈な祈りだっただろう。いっそ拒否してしまえばいいのに、彼はそれでも己を苛む憤りを飲み込んで、自分の願いを受諾した。
 自分が傷つくことで彼も傷つくなら、自分は笑うべきだろう。そう思い、彼に気づかれぬように息を吸い込んで体内で疼く傷を押さえ込んだ。
 「それでも急すぎないか?」
 「少しでも早い方がいい。………周囲との摩擦が己の道を惑わすことは、私が一番よく知っている」
 きっぱりと彼は言い切り、少しだけ申し訳なさそうに瞳を揺らした。彼の失踪の一件は一生忘れることの出来ない出来事だけれど、それが故に今の牙琉検事の立場や心境を慮れるというのであれば、それは確かに彼が最適なはずだ。思い、少しだけ考えてから、また問いかける。
 「上の人たち、随分あっさりと聞き入れたね?」
 「いつだって検事不足なのだ。使い物にならない検事を放置するよりは、私を引き戻して彼をもう一度鍛え直した方がいいと結論が出たのだろう。私はその答えには関与していない」
 淀みなく彼は自分の問いに答える。おそらく全て自分が彼に問うだろうことを予測して、その解答を用意していたのだろう。そうした点は、彼は抜かりなくやってのける。
 相変わらず論争するには厄介な相手だと思いながら、最後の確認を取り付けた。
 「……本当に?」
 「当然だ」
 「嘲ったり脅したり冷笑したり罵ったり、していない?」
 「…………自信はないが、していないと思う」
 少なくとも意図して、と彼は付け加えて視線を逸らした。本当に自信がないのだろう、自分に叱られることを覚悟して消沈しているように項垂れる。
 それでも、諸外国と日本を行き来している彼が出来る、最上の手段だったのだろう。直接彼が牙琉検事を導くには、面識もなければ時間もないことは自分も承知している。
 小さく息を吐き出して、もやもやとする胸中を押さえ込む。………不器用な彼が出した結論なら、それを信じて奨励すべきだろう。多少の我が侭や自身の願望が入り交じっていたとしても。
 「解った。君のこと、信用するよ」
 そう告げて、微笑んでみせる。彼は少しだけ眉間の皺を深くして、視線を逸らした。
 「それに、彼が外の世界を見て回るのもいいことかもしれないしね」
 小さく告げてみれば、彼が弾かれたようにこちらに視線を向けた。あからさまにどういう意味だと問いかけるその態度に吹き出しそうになるが、どうにか耐えた。
 「だって、日本の制度の欠点を補完するための、海外視察だったんだろ?」
 彼は頷き、だからこそ日本にいても彼との連絡は不可欠だろうともいった。その中できっと彼は導いてくれるつもりなのだろう。自身の途中放棄した視察の結果も無駄にする気はないはずだ。まだまだ法廷は荒れそうだと胸中で苦笑しながら、彼に笑いかける。
 「君の意向に添えるだけの実力と意識を持ってくれるなら、きっとこの先の彼の道が拓けるよ」
 慈しむようにそう告げてみれば、彼の顔つきが変わる。その変化に首を傾げて彼を見遣った。
 おかしなことはいっていないだろう。………法廷という場所は特殊な空間で、第三者は口出しも出来ない。それならば、そこに立つものは清廉な意志を携える必要がある。
 己の立場に有益であることではなく、真実を求めるその意志を。
 だからこそ、それに基づき奔走する彼の片腕になれる人がいるなら、喜ばしかった。きっとあの坊やは拙いながらも彼の願うように成長出来るだろう。若干の時間と挫折とが必要ではあったのかも知れないけれど。
 「……君は」
 そんなことを考えていると、彼が苦々しそうな声を吐き出した。
 きょとんと見遣った先には、どこか暗い目をした彼がたたずんでいる。泣き出しそうな、あるいは怒りだしそうな、そんな目だ。
 驚いて瞠目していれば、少し頼りな気な小さな声で吐き捨てるように彼が呟く。
 「牙琉検事を、随分気に入っているのだな」
 あるいは自分に告げたくはない言葉だったのか、声の調子の割に、その音はひどく小さかった。目を瞬かせて聞き取ったその言葉に首を傾げる。
 「気に入っているっていうか……まあ、頑張ってほしいとは思うよ?」
 答えた言葉に彼の肩が揺れる。もしかしたらまだ、彼は自分から弁護士バッチを奪った検事だと、牙琉検事を好ましく思っていないのかも知れない。もっとも数日の間に相手への印象を変えられるほど彼は器用ではないのだから、仕方のないことかも知れないけれど。
 それを思い、そんな中でも自分の願いを叶えようと努力してくれた彼への感謝が、胸に湧く。
 「だってさ、御剣」
 ふわりと、笑んで。目の前で何かに耐えるような顔で自分を見遣る人の名を呼んだ。
 「あの坊やが僕らの望むように成長してくれるなら、君が背負う重責も負担も、少しくらい減るだろ?」
 そうしたならきっと君だってもっとずっと自由に動けると、彼の仕事量の膨大さを憂えていってみれば、驚いたように彼が目を瞬かせていた。
 また何か自分はおかしなことをいったのかと首を傾げ、考え込むように顎に指先を乗せていると、小さく息を飲む彼の呼気が聞こえた。
 何か告げるつもりかと視線を向けてみれば、その先にいるのは苦慮するような、我慢するような、そんな子供のような顔をする彼が立ち尽くしている。ぎゅっと握り込まれている拳が、いっそ皮膚でも切り裂きはしないかとひやりとした。
 「成歩堂」
 そんなことを思っていれば、彼は自分の名を呼んで、真剣な顔を向ける。もっとも端から見れば睨みつけているような、そんな顔だったけれど。
 首を傾げて答えてみれば、少しだけ視線を揺らして躊躇いを見せたあと、はっきりとした音を紡いだ。
 「抱き締めたいのだが、いいだろうか」
 「………へ?」
 あまりにもはっきりとした要求に一瞬惚けて間の抜けた声を返してしまった。その答えが拒否と思ったのか、彼の顔が歪む。
 それに気づき、慌てて彼の名を呼んだ。………目を瞬かせて驚いていると余計に悪化していく彼の思考を理解しているから。
 澱んだような視線で自分を見る様は、少しだけ寂しげだ。苦笑を浮かべて、小さく頷いてみせる。
 「えっと……いい、けど?」
 少しくらいは大丈夫と軽い調子でいってみれば、ほっとしたように彼の腕が伸びる。壊れ物でも扱うように辿々しいその指先は、それでもいざ腕の中に自分をおさめてしまえば気遣いを忘れるのか、縋るような強さで背中を抱き締めた。
 まるで、彼の情の全てが流し込まれるような抱擁に困ったように視線を伏せる。
 彼は彼の道を歩んでくれれば、自分は嬉しいけれど。彼はその傍に自分が居ないなら意味がないというかのように、その執着心を曝け出す。
 弱点とさえとられかねないその情の全てを、惜しみもせずに、いっそ自分に気づけと迫っているように、差し出すのだ。
 微かな吐息を胸中でだけ吐き出して、子供のように頬を寄せて安らぎを求める相手の髪を梳いた。
 自分が傷つけば同じように傷つく彼。………全ての痛みから守れればと顔を顰めることも知っている。
 それでも自分は痛みの存在は不可欠であることを知っているから、彼のそんな優しい祈りに諾とは唱えられないけれど。
 ただ、彼を信じようと、思う。
 この先自分は彼が願わないことも行うだろう。もう弁護士ではないのだから、情報収集にも限りがある。
 望まぬ傷も負うかもしれないし、彼が危ぶむような真似もするかもしれない。
 ………それでも、彼が自分を信じてくれることを、信じよう。


 その才気の全てを自分のために浪費することなく

 自分が必ず真実を掴むことを
 彼が躊躇うことなく信じてくれる、そのことを。

 自分は信じて、この闇を進もう。


 ………腕の中の幼子のような彼を抱きとめながら、祈りのようにそう、思った。







 そんなわけで闇雲に自分にしか手を伸ばさない我が侭な子供の意志を少しでも信じていようと祈る成歩堂でした。
 さて。その信頼に応えてくれるか、影でこっそり裏切っているか。どっちだろうね(遠い目)私にも解らんよ………。
 まあ下手に海外視察蹴って成歩堂の傍にいようとしたら、うちの成歩堂怒りますけどね。ちゃんと自分のやるべきことをやれないんなら傍になんかいられるはずがないと。
 だって、自分の存在が相手の道を塞ぐなんて、考えたくもないことだし。
 まあきっと、御剣と成歩堂の価値観と感性の違いなのだろう、その辺りは。人は所詮自分を相手に投影してその範囲までの感情を理解出来るだけだしね。己が携えていない感情は本当には知ることは出来んだろうよ。
 ………まあだから、御剣と成歩堂では互いに理解出来る範囲がまるで違う。それもまあ、仕方のないことなのだけどね。
 ついでに。
 実は以前ぼーっと考えていて、響也が御剣の仕事の完璧さに感嘆しているから、そこまで完璧な機械人間じゃないよ、と教えるために御剣からかう話を考えていたのですが。
 響也がその後どうされるのか恐ろしくなったので止めた。うん、御剣の目の前で響也に抱きついたりしたら怖いや(遠い目)
 うちの成歩堂、響也のこと気に入っているしね……………

07.10.2