不意に思い出すと、どうもいけない
どうすることも出来ないのに
どうしても、駆けつけたくなる
そんな意味もないし
望まれるわけもないのに
それでも
不安で 怖くて 怯えて
躊躇いをもって室内を見渡した
いっそ幼い子供のように泣きじゃくってしまえれば
どれほど楽だろうか
独り生きるには、あまりにもこの世は寒すぎる
5.寝不足
呆気にとられたような顔で彼がこちらを見ていた。
それはそうだろうと、不機嫌な顔を装い内心で納得する。自分の顔を見たなら、誰もがまず驚きの感情をのぼらせるのだ。
そしてそれを睨み据えることで質問を牽制するが、如何せんこの相手では意味はないだろうと、浴びせられる質問と叱責を先に覚悟して小さく息を吐き出した。
「な……なんだよ、その顔!」
「人の外見を揶揄するのはいかがかと思うが」
「誰がそんなこといったよ!違うよ!目の下…凄いクマじゃないか!」
まさか何かで描いているのかとでもいうように彼が手を伸ばし、クマを擦るように親指でなぞった。眼球に間近なその指先の動きに顔を顰め、逃れるように顔を逸らすと、衝動的な行動だったのだろう、目を瞬かせた彼が我に返ったように自身の手を引き寄せた。
それに軽く息を吐き、呆れた感を滲ませてみれば居たたまれなさそうな顔を彼がする。このまま話が流れてしまえばいいと思って、ちらりと時計を見遣った。
ちょうど、そろそろ昼食時だ。資料をとりにきた裁判所でまさか彼と出くわすとは思わなかったが、それを口実に話を逸らしてしまおう。そう考えて自分が口を開くより若干早く、彼が真っすぐにこちらを見遣って再び声をかけてきた。
「………で?結局、どうしたんだよ、それ」
まさか徹夜なのかと彼もまた時計を見遣って顔を顰めた。もしも徹夜だといったなら、こんな時間に裁判所にまで足を伸ばして何をしていると叱られるだろうか。
少々子供じみた考えを脳裏に過らせながら、顔を顰めて目線を逸らした。解答を拒否して黙秘権を行使すると、相手は盛大な溜め息を吐き出して、こちらを睨みつける。
ぎくりと、知らず動揺する。彼の眼差しは、苦手だ。何もかも見透かされてしまいそうで、居心地が悪い。
そのくせ、それがないと物足りなくて落ち着かないのだから、厄介な話だ。あってもなくても、結局自分はその視線に捕らえられている。
こくりと息を飲む。内心の動揺を顔にのぼらせないために、唇を引き締め相手を同じように睨み据えた。まるで法廷で対峙したかのような緊迫感に、肌がざわめいた。
ここに他の人間がいないことは僥倖だったとでもいうべきなのだろうか。少なくとも、誰かがいたならさぞ騒がれていただろう。険悪ではないまでも、それなりに体格のいい男が二人真剣に睨み合って対峙しているのだから。
多少の現実逃避も込めてそんなことを考えていると、静かな彼の声が耳を打つ。
「一昨日」
「………………?」
「その時は、少し寝不足だっていっていただけだったね?」
すっと彼は目の下をなぞり問いかけてきた。その言葉にぐっと息を詰まらせる。
失念していたが、一昨日、自分は彼の事務所に足を伸ばしていた。その時も目敏い彼が薄いクマを見つけて、きちんと寝ておけとからかってきた。
その時は本当に軽いノリで、彼とて心配はしていなかっただろう。それが数日後に会ってなお悪化していたのだ。驚きもするし……悔やみも、するのだろう。
彼は、甘い男だ。自分の懐に入れた相手が思い悩んでいるなら力になりたいと思う純正さがある。勝手に立ち直れと背を向けることが出来ない。いつでも伸ばされる腕があれば受け入れると、すぐ傍で微笑んでくれる。
解っていて、自分は言わなかった。眠れないなど、彼に言えるわけもない。
これは自分の弱さだ。彼に言えばそれはそのまま彼に負担を与える。だから隠していたというのに、自分の欲求に忠実に顔を見に行ってしまった数日前の自分を罵りたかった。
もっとも、それも悪あがきに過ぎないのだろう。結局眠れないという根本が解消されない限り、いつかはばれてしまうことだ。
そう思いながら、逸らされない視線を眇めた視線で見つめ、組んだ腕を解いた。
………軽い溜め息。次いで片手で額にかかる前髪を掻き上げ、忌々しげに顔を歪めた。
「たいしたことでは、ない」
それでもなお無駄と知りつつ足掻く言葉に、自分自身でも諦めが悪いと思う。それでもついこぼれた言葉は仕方のないものだ。
ただ、その言葉に、目の前の相手が揺れた事実さえなければ。
じっと自分を見つめる視線。逸らされない、真っすぐな眼差し。介入物の一切ない純乎なそれが、揺れる。寂しげに悲しげに、打ち震えながら、静かに揺れる。
息を飲み、それを見つめる。…………なにが原因であるかなど、解るはずもない。
狼狽えた心理を顔にのぼらせるような余裕もなく目をただ見開いて彼を見つめる。そっと彼は瞬きをして、揺れるそれを覆い隠し、緩やかに息を吐き出した。
「………御剣」
彼の声が響く。静かな、声。法廷で切り裂くように異議を叩き付けるそれとは質の違う、けれど根源は同じ、誰かのために紡がれる音。
逸らせない視線をそのままに、彼を見つめた。呼吸することさえ惜しい。微かな振動ですら、彼の真意を読み取るのに邪魔だ。それほどまでに、彼は静かに音を紡ぐ。
「たいしたことないって顔だと、思っているのか?」
「……………」
「一昨日からほとんど寝ていないで……でも、仕事はしているんだろ?」
今日は金曜日だから休めるのはこのあとからだ。それくらいは、誰にでも解る計算だ。まして自惚れではないけれど、迷惑なほど有能な処理能力のせいで人よりも多く仕事が回ってくる立場にいる自分が、休む暇があるはずもない。
その程度のことは彼とて熟知しており、だからこその、悪足掻きな発言だった。
そしてそれが、彼を痛めるものだったと、告げなければ自分は解らない。……告げても、何故に傷つけたのか、解らない。
それが、歯痒かった。彼は与えられた傷を飲み込んでしまうから、自分は一方的に傷つけるだけで、負担を与えるだけの存在でしかない。
彼を支えたいと思うのに、彼はその一歩先をいつの間にか歩んでいる。伸ばそうと思った腕は掠りもせず、途方に暮れた自分の腕を、彼は振り返って引いてくれる。
与えられたいわけではないのに。………与えたいと、思うのに。
自分は未だ幼い頃のまま情緒が凍結していて、感情の機微は解らず、情動の動きなど見当もつかない。
彼は、そのシグナルを零してくれるのに、自分はそれを掬い取れない。
………いつかそのシグナルさえ、与えることを諦めて遠く彼が離れはしないかと、いつだって怯えているのに。それでも、自分の処理能力は、願う分野での活躍だけは、してくれない。
「僕は弁護士で、君の仕事内容には関与出来ないけど」
彼は言葉を区切らせて、僅かな躊躇いを見せるように、息を飲む。
「………でも、プライベートなら、君の心配くらい、したいんだよ」
寂しそうに、彼が囁く。
まるで……それが許されざる願いであるかのように。
目を瞬かせて、息を飲む。なにが彼を傷つけるのか、なにに彼が傷つくのか、何故自分はすぐに失念し、繰り返すのだろうか。
傍にいたいと彼はいい、感情を与えられることを喜ぶのに。そのどちらもを取り上げるようなことをして、悲しまないわけが、ないのに。
「成歩堂」
慌てて彼の名を呼ぶ。そのまま彼が打ち拉がれてしまうのが怖くて、捲し立てるような早口の音に、彼が軽く首を傾げた。小さく、笑んだまま。
寂しいその笑みに心臓が音を立てる。睡眠の不足した身体は体内の急激な変化に僅かに耐えられなかったのか、軽い目眩がした。
目を瞑り、片手で視界を覆う。それに気づいた彼が一歩近づき、躊躇うように身体を支えてくれた。
目眩は思いの外すぐに消え、数度の瞬きをすれば、視界がしっかりとした。それを確認し、自分を支えてくれる人を視界におさめようと、顔を持ち上げた。
不安を映した瞳が、目に入る。………それを見て、やはり胸が締め付けられた。
悲しませたくない。不安にさせたくない。怯えることなど、ない方がいいに決まっているのに。自分のせいで、彼がそれに染まるのが、歯痒い。
それでも、なにを最優先にしたいか、なんて。…………考えるまでもないのだ。
「成歩堂…」
もう一度仕切り直すように彼の名を呼ぶ。身体を支える腕に力を込めて、彼は小さな頷きで答えた。じっと自分を見遣る視線。他に不調な要素はないか、確認しているのだろう。いたわりの視線を感じながら、そっと彼の肩に額を乗せた。
微かに彼の身体が震える。それは普段の怯えとは質の違う、不安故の震え。
それを噛み締めながら、小さく彼に願った。
「頼みが、ある」
「…………?なに?」
「……………………………もしも、可能なら…………家に来てくれ」
独りの室内で目が覚めると眠れないのだ、と。幼い子供のような不眠の理由を吐き捨てるようにして口に出す。
彼は少しの間静止して、そのあとに、ぎゅっと、支える腕を抱き締める腕に変えて、笑った。
「バカだな、前にいったこと、気にしていたんだ?」
嬉しそうな響きでそんなことをいって、肩に埋められた相手の髪を梳くように撫でる。優しい仕草だ。そのまま溶けるように眠りに誘われるほど、暖かい。
「大丈夫だよ。君が眠れないより、ずっといい」
うっとりと目を細めて彼の体温を感じていれば、あやすようにその手は背中を撫でて、そっと約束の言葉を、くれた。
優しい体温、優しい仕草、優しい音。
彼を構成する全てが愛しくて、疼く不安が癒される。
何もかもを失った幼い日の夢なんて、悪夢でしかないけれど
その幼い日は、彼との共有した時間でもあった
少しずつ、昇華出来ればいい
何もかもが劇的になど変化しないと彼はいい
恐れることも恥じることもないのだと
愛おしむように抱きとめながら、囁いた
前に書いた『朝の一時』&『隣の体温』でお泊まり会があったので。なんで泊まるようになったのかい、というだけの話。
でも同じ室内では寝ませんよ。その代わり寝る前にこっそり顔見に行ってますけど。要はそこに相手がいるということを実感出来ていれば不安じゃないようです。複雑なんだか単純なんだかよく解らない子だね、うちの御剣。
しかしこのあと夕方まで仕事ちゃんとこなせたのかな、御剣。……まあこなすか、あの子なら。
07.9.17