幼い頃の記憶は
多分、ほとんどない
彼らが話す内容を耳にして
それを咀嚼し
己のものにすり替えることで
なんとか保つ会話の流れ
時折浮かぶ情景は
本当に断片的で取り留めもなく
自分の記憶か、知識故に作られた映像か
その判断すらつかない
それでも、拙いこの腕で
どうにか手繰り寄せて抱き締める
嬉しそうに話す人のその笑顔を
翳らせることだけは、したくはないから……………
8.公園
ぼんやりと歩いた。
色々と思い出深いその公園の、自身が被告人に祭り上げられたひょうたん湖のほとりまで足を進める。
屋台があった跡はあるものの、もう既にそれは撤去されている。人通りもまばらで、以前の通りの静寂が包む場所に戻っていた。
それを眺めながら、柵に身体を凭れかけさせて、湖を見遣る。
「……………………」
ここが、ある意味では始まりだったのだろうか。思い、鬱屈とした思いが胸中を占める。
再会したのはもっとずっと以前であったのに、彼と対峙し否定以外の意志で彼を見つめたのは、多分この時が初めてだ。
ひたすらに自分は彼を拒んでいた。過去の自分を知る人間に今の自分を見られて愉快な筈がない。まして彼は、あの頃と変わらぬ瞳で、疑うことを知らぬ無垢さでもって自分を見つめるのだから。 息が詰まる思いを、幾度しただろうか。揺さぶられたのは、証人だけではなく対峙した相手検事である自分もだった。
変わらない彼と変わり果てた自分と、それでも途絶えなかった細すぎる絆。
彼は小学生の頃のままの一途さで他者を信じ愛しみその心を与えてばかりで、意固地なまでに頑なに、自分はそれを否定し拒絶した。
………優しさほど恐ろしいものはないと、きっと彼は知らないのだろう。
それが癒すためにしかないと思っている彼にとって、与えられたあと奪われる恐怖を身に染みらせた自分の心境など、想像することも出来なかったのかも知れない。
それでも彼は飽くることなく拒否するこの腕に、絶えることも尽きることもなくそれを与え続けてくれた。それが枯渇することがないと、そう思わせるほど健気に。
「御剣」
考えに沈んでいれば、待ち合わせた人物が背中から声をかけてきた。振り返れば小走りで彼が近づいてくる姿が見える。
それに小さく笑んで、身体ごと彼のいる方向に向け、到着するのを待った。
「悪い、遅れたか?」
「………いや、私が早めに着いただけだ」
申し訳なさそうに眉を垂らした彼に答え、そっと歩き始める。特に目的地はなかったけれど、のんびりと彼と歩をともにしたい気分だった。
それを知ってか知らずか、彼は特に何も言わずに自分と同じく歩き始める。隣に立つほとんど背の変わらない相手は、ふと笑って、こちらを見遣った。
眩い笑みに目を細め、軽く首を傾げてみれば、楽しそうな彼の声が響いた。
「そういえばさ、御剣、小学校の頃さ」
「………ム?」
おそらく昔話が続くのだろうと思い、少しだけ気が滅入ってしまう。彼と共有している筈の記憶の大部分を、自分が覚えていないと知ったなら、彼は悲しむだろうか。
打ち沈む彼を脳裏に描き、敢えて知らせることではないと改めて己の口を塞ぐ。彼らが話す話にだけ耳を傾け、自身の記憶を手繰ることをしないでいればいい。けれど、それはあくまでも幼馴染み三人が集まった時にだけ有効な手段であり、こうして彼と二人の時に交わされる会話では、同意をするにも己の見解を示すにしても、どうしても不都合が多かった。
視線だけで彼を見遣っていれば、彼は前方を見つめて、木の群生した部分を指差し、笑った。
「あんな感じの雑木林みたいな場所で遊んだよな」
何となく雰囲気が似ていると、懐かしそうに彼がいう。
彼の指差す方向に目を向け、脳裏に浮かぶ光景を重ねる。断片的であっても、光景を重ねる程度であれば可能だ。頷き、彼に笑いかけた。
「そうだな、矢張が無理矢理登って落ちかねん太さだ」
「はは、そうだよな。あいつ、何度も落ちているのに懲りなかったしな」
きっと彼の脳裏では一連の流れが想起されているのだろう、子供のような笑みで言い、また木の群生部を見遣っていた。
しばらくそんな話を取り留めもなくしていた。そうしたなら目の前に件の雑木林に見えた木々が立ちはだかった。それを見上げながら、暫し沈黙が流れる。
こんなちっぽけな木でも、幼い頃にはひどく魅力的な遊具だった。自分の何倍もある大きさも、腕を回しても届かない幹も、まるで絶対的な何かであるような錯覚すら受ける。
見上げた木は、陳腐なほど細かった。今の自分たちであればその幹を抱えられるかもしれない。もしも登ろうなどとしたなら、掴んだ枝があっさりと折れるだろう。
それでも、幼かった頃の記憶は色褪せない。不思議な、ことだった。
「…………あの頃は、さ」
不意に彼が呟く。それは自分に声を掛けるというよりは、彼と彼の中の記憶の邂逅のような、そんな音。
その中に自分がいるかどうかも解らないけれど、木を見つめていた視線を彼へと向け、その音を見遣った。
そのまま途切れるかと思った音は、小さく笑んだ彼の唇を通して、そっと微かな風の音のように紡がれる。
「何もかもが当たり前すぎて、未来なんて、まるで考えられなかったな」
ただ精一杯その日を生きるだけだったと、彼が苦笑する。
それを見つめて、微笑んだ。………彼の精一杯は、いつだって誰かのためでしかないことを、自分は経験からよく知っている。
こちらを見つめた彼が惚けたような顔をして、少しだけ目元を赤く染めると顔を逸らした。時折見せるその表情を訝し気に見遣りながらも敢えて問いただすことなく、間近な木を見上げる。
「君は、あの頃のままだろう」
「…………?」
「今も昔も、君は誰かのためにだけ、必死だ」
告げた言葉が解らないと彼は首を傾げる。無意識……否、無自覚というべきか。彼は自身の性情に対しての見解が薄く、指摘しても理解を示さないことは珍しくもなかった。
苦笑して、それをもう一度、彼が自覚出来るまで繰り返そうかと口を開きかけると、彼がじっと自分を見つめる視線に気づいた。
真っすぐな、視線。息を飲むほど差し出される彼の心情。それが溶かされ、捧げられるこの瞬間の、言葉にすることの出来ない感覚にクラリと目眩を覚える。
「御剣も、だろ。それをいうなら」
窘めるような……あるいは、どこか寂しそうな声で、彼はいった。
笑んだ唇も、柔和に細められた瞳も、分類するならばあたたかな部類な筈なのに、彼の感情だけは、寂し気だった。
こくりと、呼気を飲み込む。…………なにが原因か解らないのだから、混乱を極めた脳裏では光が明滅するばかりで彼にかける言葉が浮かばない。
それを知っているかのように彼の笑みが苦笑に変わり、ポンと、軽やかに自分の肩を叩いた。小さなぬくもりは気にするなと、自分に告げているかのようだ。
「君は優しいよ。だからそう、思い悩むなよ」
眉間、と。そう告げて彼の指先が皺を刻み込んだままの眉間を撫でた。
「今も昔も、それだけは、いつだって僕は自信を持っていえるよ」
それだけで今はいいと、彼は笑んだ。………まるで、過去の記憶の薄さを見知っているように少しだけの寂寞を溶かした瞳で。
携えるにはあまりにも辛くて。
幸せであった記憶が、悲しくて。
現実の痛みの前に、穏やかだった全ては痛みにしか変わらず。
…………結果、手放すことを願ったのは、自分の弱さでしかないのに。
「成歩堂………?」
どこまでを知られているのか問うように彼の名を呼ぶ。彼は首を傾げて笑むばかりで、その質問には答えなかった。あるいは、問いかけだということに気づかなかったのかもしれない。
見つめる視線の中、彼は小さく首を振る。問いが解らないということか、あるいは答えられないということか、自分には解らなかった。解らなかったけれど、それを問うことは、出来なかった。
告げたなら、悲しませるだろう。
………彼のことさえ忘れようとした過去を、彼は認め受け入れてくれるのだろうけれど。それが彼に痛みを与えないと思えるほど、自分は愚鈍ではない。
彼を傷つける可能性があるなら、黙して語らぬままがいい。思い、唇を引き締めた。
「御剣?」
困ったように彼が笑い、その指先をでノックするように自分の唇を叩いた。
「思い悩むなって、いっているのにな」
だから君は優しいんだと、彼は泣きたそうな目でそう告げて、その指先で頬を撫でてくれる。慰めるような仕草にホッと安堵を思ったあと、自分が痛みを覚えていたことに気づいた。
そうして、自分がそれを知るよりも早く、気づいてくれる彼を思う。
優しいのだと、彼は自分をいうけれど、自分のこの利己的な思考が優しさから来るものではないことくらい、自覚がある。
ただ相手のためを思い身を費やせる人を、自分はずっと愚かだと思い嘲ってきたのだから。
そのくせ、いま目の前にいる、まさにその部類に入るだろう彼を、自分は愛しいと思い守りたいとさえ、思うのだ。とんだ矛盾だと、過去に幾度己を嘲笑したか解らない。
「………君ほどではない」
繰り返される問答のように、互いこそがと言い合いながら、その事実に遣る瀬無く笑う。
もしもその優しさ全てが自分に向けられたなら。………思い、不可能なことをと、顔を顰める。
首を傾げてそんな自分を見つめる戸惑うように揺らめく瞳を視野におさめ、そっと、腕を伸ばす。惑うような視線の揺れを見せながら受け止められた腕は、あたたかなぬくもりを与えてくれた。
…………優しくて。彼は、優しすぎるから。
きっと、自分以外の人間も、その優しさに祈るだろう
溺れるように踞る人が差し出す腕を、彼は見過ごせないから
それでも、いつだって、願う
その浅ましさも愚かさも飲み込んで、気づかせないように、しながら。
…………………自分のこの腕だけを、掴んで。
幸せだった現実が突然崩壊した場合、それまでの幸を覚えていることは結構苦痛なので。
全てを忘れて、いま目の前の現実の中の優しさだけで満足しないと、生きていられない。
不具合ではあるし、それを容認したくもないけど、そうじゃなきゃ生きていられなかったのも事実だから、笑い飛ばせるようになればいい。
そうであったことを思い出すことも、いま現在さえそうであることも、やっぱり吐き気がするくらい、自己嫌悪に陥りますけどね。
理解出来なくてもいいのです。ただ、そういった人間だっているのだと、たとえその傷が笑えるくらいちっぽけであっても、認めてくれれば。
07.10.3