怖いと、いう
なにがと問えば
小さく笑って、
何でも無いと、
彼はいう
バカだなと、思うけれど
気にし過ぎだと、思うけれど
それでもそれが、きっと、
彼の中ではとてもとても重いのだ
あいつはあいつで
自分は自分で。
ずっと一緒に居るけれど、
多分一度だって同じ意見で納得なんかしない
そんな関係でもずっと続けば
確かな絆だから
バカだな、と、思う。
それでも
そっと…眠るバカな男の頭を撫でてやろう、と
思った。
9.宴会
電話があったのは確か昼間。
引き取り育てている愛娘が修学旅行で居ないから、久しぶりに飲もうという誘いに、鬱憤も溜まっていたから気安く同意した。
彼が弁護士だった頃とは様変わりした事務所に、適当に買い求めた酒を持って訪れたのが2時間ほど前。
それから彼の用意してくれたつまみと軽食を口にしながら、他愛無い話をつらつらとしていた。考えてみればお互い忙しくてあまり顔も合わせていなかったと、尽きない話に経過した時間の長さを思う。
それでもそんなことはさして珍しい話でもない20年近い歳月を一緒に居た相手だ。お互い忙しければ連絡が滞ることもあるし、それでもどちらかが声を掛ければいつもと同じ調子で顔を合わせるのが自分たちだ。
多分、安心されているのだろうな、と。…………不機嫌な顔とは裏腹の不貞腐れたような声でその差に不平を漏らしたもう一人の幼馴染みを思い出しながら小さく笑った。
缶ビールを煽りながら楽しそうに愛娘の成長などを口にしている、存外親バカらしい彼はその笑いを苦笑だと思ったのか、目を細めて愉快そうに笑った。まだまだあるよと、ストックの尽きない、新しく始まった今までとはまるで違う生活の話を語る。
彼は多分……自分が突然居なくなっても心配はしないだろう。
またどこかに出掛けたのだと思い、いずれ来る連絡を待ちながら、不安もなくまた会えることを当然と信じてくれる。
もしもそれと同じことをもう一人の幼馴染みがしたなら。そう考えて、寒気がしたので想像を打ち消した。
別段恐ろしい想像がしたわけではなく………想像が、できなかった。
案外単純な彼の行動原理は、長年付き合っていればそれなりに把握出来る。それでも、彼はあの幼馴染みに関わる事柄だけは、いつだって不透明なのだ。
失うこと、を。あの幼い日にお互い痛感して縋り合った。どれほど望んでも、言葉を交わし合うこと無く消え失せることがある。泣きながら二人、必死に互いの手を握り合って、目の前に居る相手がそこに居ることを確認しながら、探しても見つからない、消えてしまった友人を呼んだ。
そうして自分は、それ故にその時その時の出会いを最上と思い、感情のまま好意を寄せた女性には出来る限りの情を寄せて一緒に居られることを願うようになり、彼は縮こまり怯えるように俯くようになってしまった。
思い出し、軽く息を吐く。………煽ったビールは苦かった。
彼は、あまりにも特別視していたのだろう。どれほど心寄せても通じない情があることを、あの年齢で実感してしまった。それは……どれほどの絶望だったのか。
初めからそれが無いと知っているならばまだしも、彼は幸か不幸か、家庭に恵まれ両親に愛され育てられた人間だ。伸ばした腕を握りしめてくれることが当たり前の、幸せな子供だった。
その彼が、叫んでも泣いても願っても、どれほどの努力を繰り返しても。
求めた相手の情が欠片ほども向けられない絶望を、味わった。
友達というには……ある意味深すぎたのか。あれはあるいは憧れで、完全無欠の理想像を、あの少年に重ねていたのか。
どちらにせよ、深すぎる情と愛し愛されること以外を知らない柔らかい性質(さが)は、両断され、血を流した。痛ましいほど、彼はそれに気づきはしなかったけれど。
「聞いてないだろ、矢張!」
ぼんやりと辺りを見やりながらつまみを口に運んでいた自分に、不意に彼が叫んだ。
むくれたような声に目を向ければ、小汚い服装に無精髭を生やした、到底似合いもしないやさぐれ具合を披露している幼馴染みが居る。彼は子供のような表情でこちらを睨んでいた。
「へ?なにがよ?」
首を傾げていってみれば、彼はやっぱり!と少し大きめの声で呟いてから缶ビールを持つ手でこちらに指を突きつけ、告げた。
「だーかーら!いかにみぬきがいい子で僕のこと思ってくれているかって話だよ!」
…………随分酔いが回っているのか、恥ずかしげもなく小学生の娘の自慢話を続けていたらしい。彼が本当に自分の子供を持った時、どれほど過保護になるのか。思いながら、彼の子供自体が想像出来なくて首を傾げてしまった。
それを自分の発言への疑問符と受け取ったのか、むっと顔を顰めて不貞腐れた彼がまた口を開く。
「なんだよ、嘘じゃないからな」
「は?あー……嘘とはいってねーけどよぉ。お前がガキ作ったら凄そうだなーと思ってた」
ずばっと簡潔に思ったことを口にしてみれば、きょとんと彼は目を瞬かせてこちらを見つめた。
それはまるで思いもしなかったことを言われたようで、大きな目が更に大きくなって、少し愉快な顔だった。
ビールを呷ると、それを口から離すのを待ったようなタイミングで、彼がそっと視線を逸らしながら、小さな声でいった。
「無理だと思うけどね」
噛み合わない解答に怪訝そうに彼を見る。それを視界に入れなくても気づいたのだろう、彼は飲んでいた缶ビールを机に置いて、少しだけ出来たスペースに顔を突っ伏すようにして身体を丸めてしまう。
ますます不可解な行動にきょとんとしながら彼を見て、また手の中のビールを呷った。それが最後の一口で、軽く潰した缶を近くのビニール袋の中に放る。
「だって………怖いしさ」
「みぬきちゃんがぁ?」
あんな可愛い子供が怖いなど馬鹿だろうという響きでいってみれば、ちろりと突っ伏したままの状態で彼がこちらを伺った。
腕の中に口元は隠されていて表情は解らないけれど、多分、眉の具合からいって苦笑しているのだろう。
「ううん。僕が誰かを愛すること、が」
呟いた声は掠れていて、泣き出しそうな声だった。それが耳に微かに響いて、失敗したな、と思う。
彼は、失うことが大嫌いで、それ故に、淡白だ。
去る者を追わない覚悟を持たなければ人と関われないくらい、臆病だ。
それがあの幼い日の喪失に起因しているなら、再会した幼馴染みの責任だと、全部を彼に丸投げしてやりたくなる。
自分は、言葉を操るのはあまり得意ではないし、彼らほど頭の回転も速くはない。
直感と感情と勢いでしか発言出来ないし、前後の流れを繋げるような真似も出来ない。
だから正直、いつだってこうして打ち拉がれる彼を前にすると、途方に暮れるのだ。彼は多分、それをどこかで解っているけれど、そうした弱さを見せられるのは、自分だけなのだろう。彼は、自分には尊大で我が侭で、自己中心的なのだから。
あの喪失の日を共有している、長い月日の中で途切れること無く紡がれた絆を育んでいる、彼にとっての、自分は逃げ場だ。だから、彼は感情も意志も、自分には遠慮などせずにぶつけてくる。そうしても自分たちの縁が切れないと、彼は信じられるから。
臆病で不器用でちっぽけで拙い。子供のようにまだ育ち切らない感性を隠したまま大人になった、彼。
「怖い、よ」
ぽつりと、まるで寝言のように呟いて、彼は腕の中に顔を埋めた。
バカだなと、思う。怖がるようなことじゃない。彼は愛しまれているのだから、同じそれを返せばいいだけの話だ。
弁護士バッチを剥奪されてもなお愛されているその事実を、少しは顧みればいい。肩書きではなく個人を大切なのだと伸ばされる腕を、彼は今もまだ理解しきれていない。
それらを手にすることが、罪悪かのように。
……………それを欲しがることを、恐れてしまう。
自分のようにずぼらでダラしない、どうしようもないと言われてばかりの男には遠慮もないくせに、彼を守ろうと伸ばす腕にはたたらを踏むのだ。
「バッカだなー。相変わらずよ」
軽口のようにそんなことを言い、まるで何も解っていないような顔で、顔を隠した彼の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。抵抗の意志は見当たらず、彼は好きなようにさせていた。
寂しいくせに、不安なくせに、それでも彼は大丈夫と笑って、なんでもないと首を振る。いつもとは少し違う解答にこっそりと笑んで、手近のつまみをまた、口に放り込んだ。
酔いのせいで普段よりも口の軽くなった彼は、明日になってもきっとこの記憶は残っているのだろう。精々バツの悪い思いをして、頭を掻きながらこちらを見やればいいのだ。
弁論が不得手な自分にこんなにも考えさせたのだから、少しくらいは彼も困ればいい。
そうしていつか、思い知ってしまえばいいのだ。
自分がいかに周囲に愛しまれているのか。
差し伸べられる腕の多さを、驚きでもって見渡せばいい。
バカで不器用で鈍感で
自分のことなど顧みない、
どうしようもない幼馴染み
それでもやっぱり、
自分は彼との腐れ縁を続けるのだ
いつかきっと、彼が本当に笑い
本当に泣くことの出来る日を
ずっとずっと、待っている。
あの喪失の日からずっとずっと……………
…………なんでうちの矢張はこう人がいいのでしょうか。
ある意味一番の理解者なんだよね、成歩堂の。まあそれは成歩堂が矢張には全部打ち明けているからなんだけど。多分御剣に比べて矢張に開示されている情報は桁が違うと思う。
いっそ哀れだな、御剣…………(なんかいっつも最終的に哀れで片付けられているよね、御剣)
そのせいなのか、報われている感じがしないといわれてしまいましたよ。一応報われているんだけどなぁ、御剣。というか、初めから好意の全てを与えられているんだから、報われていないわけがないはずなのに。
そもそもあれで報われていないといわれると、報われるという状態がどんなものかが私には解らないという
…………………………………。
いっか、うちの御剣はあれで報われているんですってことで!……………最終的に何だって許されているんだから、幸せなものだと思っておいて下さい。
07.9.13