秘密はきっと誰もが持っている。
隠す隠さぬ関わりなく
誰もが何か、人へと告げずに秘めるもの
それは覆い隠すのではなく
それは暴き立てるのではなく
ただそこにあるがまま。
秘密は意味あるからこその秘密だと、
君は静かに微笑み、そう告げた
01.約束の代わりに
欠伸を噛み殺す仕草で口元を覆い、顔を顰める年下の少年を見遣った。
そろそろもう夜中だ。日中は聞き込み調査だけで戦闘は無かったものの、移動に次ぐ移動で辿り着いて、その直後から休みもせずに動き回ったのだから無理もないだろう。
…………どこか意固地で頑固なこの少年は、時間を惜しむように生きている。
一分一秒でも、己を捧げられるなら捧げたいと祈るように、ひたすらに猛進していくようだ。
それを憂えているらしい教団のトップは、上手くガス抜きをさせられる自分と任務を組ませる事が多い。
思い、苦笑する。自分はあくまでも傍観者で、彼程熱心に任務についていないと知っているだろうに、それでもあの喰えない室長はなんの疑いもなく自分にこの少年を預けるのだ。
………見透かされている、のかも、知れない。
そう考えると、自分がなんの後継者であるかを問い質したくなる。まだ未熟者と師には言われるけれど、それでもそこらの大人など表情ひとつで手玉に取れる程度には有能な筈だというのに。
あっさりと看破される程、多分、変化してしまった。師が顔を顰めて踏み止まれと諌める程度には、急速に……けれど、ひどく自然に。
ふうと聞こえぬように小さく息を落とし、本を閉じると前髪を抑えていたバンダナを首まで落とした。
その仕草だけで、隣のベッドに腰掛けていた相手は落としかけていた目蓋を持ち上げる。そのまま眠ってしまえば楽だろうに、どうも彼は同室者が眠るまでは寝付けないらしい。
今まで人と一緒に暮らすという経験が無かった筈はなく、過去にサーカスに身を寄せていたのなら、むしろ雑魚寝も人の気配も慣れてしまうだろうに、それでも彼はこうして任務中、相手が眠るより先には横にならない。
気にせず寝ろと何度か押し問答を繰り返したけれど、どのみち彼は横になろうと本当に眠れないのだから、どうしようもない。
「ラビ?あの、まだ読みかけでしょう?気にせずどうぞ?」
「んー、でもそろそろ寝ねぇと、明日キツいっしょ?ほら、アレンも布団に入るさ」
躊躇いがちに掛けられた声はひどく弱々しくて、あどけない子供のようだ。眠りの淵にいるせいだけでなく、自分が彼の為に読書を断念した事をきちんと理解してしまっている。
もっと鈍ければ気楽に生きられるだろうにと思う。彼はあまりに人を思い、自身を省みなさ過ぎる。
立ち上がり、自分の荷物の上に本を置く。その帰り道、気まぐれのように彼の頭を撫でれば、気持ち良さそうに目を細めた。
普段は子供扱いをと嫌そうな顔をする彼も、こんな時は素直だ。まだまだ幼い彼は、年上の男の手のひらが好きだ。それは卑猥な意味合いではなく、おそらくは………失ってしまった最愛の腕を想起させるが故だ。
人の記憶はあやふやなもので、自分達ブックマンの血族でもなければ、そう過去の記憶を長い間埋もれさせずに克明に蘇らせる事は出来ない。それは生きる為にはどうしても必要な、心の為の防衛機能だろう。
それでも、彼は忘れる事を嫌い、幾度血を流そうとそれを刻み、鮮やかに厳粛にそれを想起し記銘し続ける。繰り返し繰り返し上書きされたその記憶は、それでもきっと、何一つ歪む事なく美しく花開くのだろう。
美化ですらなく。…………本当に、彼の中の優しく美しいものは、その記憶にだけ由来し、成り立っているのだ。
撫でられた手のひらに擦り寄る猫のような仕草に、苦笑が濃くなる。予言の子供は自分達もマークしていて、歳の近さから観察し易いようにと、自分から彼に懐かれるよう仕向けたけれど、こんなにも無防備に信頼される程いい顔をしただろうか。
…………したのだろうな、と。自嘲する。ミイラ取りがミイラもいいところだ。情を掛けられない立場で、情に溺れるなど、笑い話にもならない。
この手が心地よいと、それこそ全身で知らしめてくれる子供のような幼さに対して、それは別の意味でも秘めるべきだろう。
これ以上、彼は悲しみも苦痛も背負うべきではないのだから。
うつらうつらとしてきた少年を横にする為、下敷きになっている布団を引っ張れば、察した彼が腰を浮かしてベッドの中に潜り込んだ。
流石に眠さも限界だったのだろう、こんな子供扱いも文句を言う気配も強気な眼差しもない。
今度からは一度寝かしつけてから外で本を読もうか。しかしそれはバレた時にかなり厄介な事になりそうだと、シュミレーションの時点で吹き出しそうになってしまった。
そんな心境を隠して、布団に包まった少年を見下ろした。この少年が時の破壊者などという厳つい予言を与えられたなど、きっと誰も信じない程のいとけなさ。
「明日も朝から調査だし、ゆっくり寝るさ。なんなら子守唄でも歌ってやろうか?」
からかうように軽い口調で、撫でていた手を少し乱暴に掻き混ぜるものに変えて笑いかける。悪戯っ子のような、そんな笑み。
それを見上げる銀灰色の眼差しは柔和に細まり、愛しげに笑んだ。
口が滑ったのかもしれないと悔やんだ時には遅い。彼の頤が揺れ、子守唄を強請られてしまう。知っている歌は、それこそ山程あるけれど、その膨大な情報の中、たった一つが彼の求めるものだ。
それを誤らずに選び出せる筈もなく、さりとて違う歌をうたって失望に染まる眼差しも見たくなくて、彼の横たわったベッドに腰掛け、またその頭を撫でた。
………優しく優しく。労りと慈しみを感じ取るように。歌などなくとも心地よい眠りに誘われるように。
きっとそう時間もかからずに眠ってしまうだろう。そう思った手のひらの下、ぽつりと問い掛ける声が響いた。
「ラビ…も、寝る準備、しないんですか」
まだブーツも履いたまま、ジャケットも肩に羽織ったままの、そのままベッドにダイブ出来る状態でない自分にようやく気付いたらしい、人を気に掛けてばかりの少年は困ったように眉を垂らしてそんな事を言った。
準備という程でもないし、彼が寝るまで待つ事にさして時間もかかるとは思えない。
それでもこの状況ではまた彼が眠れないかと、見下ろした先の微睡む顔にからかいの笑みを浮かべて問う。
「準備なんて、電気消してからで十分さ。目瞑ってたってこの部屋くらい歩けるさ〜」
もう室内の距離は頭に叩き込んである。たとえ暗闇でも迷いなく明かりの下と同じ行動がとれると言ってみれば、どこかベッドの少年は残念そうな顔で笑った。
「?どうかしたさ?」
「………いいえ、少し、残念で」
「残念?」
問いには間延びした声が返ってきた。多分、もう寝てしまう所を、この会話でなんとか意識を保っているのだろう。
それなら問い返さなければいいものを、ついこの素直な状態の彼の言葉が聞きたくて、答えを求めるように言葉を紡いでしまう。
瞬きの下、少年は微睡みに溶けた笑みを浮かべる。夢見心地な、柔らかい笑み。
それに少しだけ鼓動が早まった。幸せそうなその笑みは、普段はあまり見れない彼の中の奥底にしまい込まれたものだ。
また、彼の幼少の頃に幸福に何かが重なったのだろうか。見れた笑みは嬉しくても、その先があまりに苦い。
引き結ばれてしまっただろう唇を見せないように、撫でていた手のひらを額の方へと辿らせ、幼子をあやすように頬を撫で、目蓋を覆い、眠りを促すように前髪を撫でた。
案の定目を瞑ってくれた少年は、そのまま小さく小さく囁いた。
「ラビの素顔、見れるかと思いました」
ああでも、寝ていても取らないか。そんな声が口の中で繰り返されていて、彼が眼帯の事を告げているのだと初めて解った。
人の外見を彼は気にしない。彼自身が色々と言われてしまう外見だからか、なおの事彼は人の外観に関して言及はしない。
それなのに、気にしていたのか。………考えてみると、彼はいつも右側にいて、自分の失われている視野を補うようにしていた。
それはあるいは無意識で、何も考えずにそうしていただけなのかも知れないけれど、彼は彼なりに、自分に興味を持っていたのだろうか。…………自分が彼に持つ程でなくとも。
「何、気になる、外したとこ??」
眼帯を指で辿り、楽しげに弾んだ声で問う。深刻な声など出さず、あくまでも軽やかに。彼の眠りが妨げられないように、常の意識を刺激しないように、注意して彼の様子を見遣った。
「…………………いいえ」
ぽつりと、眠りの淵の声は存外しっかりした音で応えた。
意外に思い、目を大きくしてしまう。今の状態の彼なら、幼い暴虐な我が侭のまま、頷くと思ったのに。
頷いたなら、どうせ記憶にも留まらないだろうこの一瞬の時間なら、与えても構わないかと思ったのに。
…………それとも、自分という存在は、秘密を暴く程の価値もないのだろうか。
そこまで貶められてはいないだろうけれど、どうにも彼の事になると、あまり普段の自信が生まれない。……始まりを意図的に行なった負い目があるからか、その後に孕んだ想いの異質さ故か、それすらこの優秀な頭脳は判断してはくれないけれど。
「意味があるから覆うのなら、いいんです。好奇心でやるべき事じゃない。………暴く事は共有する事じゃ、ないですから」
ぽつりと、零れる水滴のような透明さで、彼が呟く。閉ざされたままの瞳は、彼の意志を読み取らせてはくれなかった。
さらりと乾いた質感の彼の白髪を撫でた。柔らかく指を通すその下に、毒々しい程しっかりと残された、呪いの傷。
気になるからとこの白髪を掻き上げられ、その呪いの印を恐れられたのだろうか。
色がおかしいと手袋を奪われ、その腕の変形に怯えられたのだろうか。
彼は多くは語らない。己の身に起きた数多の傷を、予想するのも唾棄する程のそれを、たいした事はないというように飄々と、すでに過去の事と目もくれない。
それでも……傷は残るだろう。その傷を誰かに与えないように、彼は優しさを知ったのだろうか。…………鬱屈と荒むのではなく、愚かと切り捨てるのでもなく、割り切って傍観するのでもなく。
この小さく細い身体で、幼いまま傷を抱えた心で、絶え間なく与えられる痛みを純化させてきたのか。
だからこその、言葉。………共に分かち合う心がないなら、彼は何もいらないというのだろう。その覚悟もないまま何かを欲する事も…欲しがられる事も、彼は厭うのか。
今この時だけというそんな薄っぺらな思いでは、きっと彼の心には届かない。
………なんて遠大で、そして純粋で滑稽な、思いだろう。
永遠を信じるには、彼も世界も傷付き、膿んでいるであろうに、今もまだ彼は夢見る幼子の御伽話を内包したままだ。
親の愛が永遠であると信じきっている、いとけない幼子のままだ。
………だからこその、強靭な意志のもとの、救済者、か。
零れる自嘲に、彼が目を閉ざしていた事を感謝した。今はどうも上手く笑う自信が無かった。
そうして見下ろした愛おしい寝顔が、口ずさむ音が寝息になるかと思った時、ふと、取り零したようにもう一度、音を注ぐ。
「いつか、そうしていいと思う時に、そうする事が許されるなら、見たいですけど」
分かち合いたいと、そう言うかのように、彼が呟く。眠りに半分以上浸かった、舌っ足らずな声音で。
その音に目を見開き、呆気にとられて返す言葉が見つからない。
「ラビがラビである事に、変わりませんから。………だから、どちらでもいいんです」
ふうわりと、彼が笑う。過去の日、おそらくは幸せだったというその頃にだけ浮かべていた、純然とした微笑み。
これがそうだと、過去を知らない自分が断言など出来ない。出来ない、のに。
「………期待させんなさぁ…」
寝息へと変わった唇の動きに、がっくりと肩を落として、もう一度彼の頭を優しく撫でる。
諦めて、切り捨てて、そうするべき筈の思い。抱えるには不都合だらけで、その上、それは成就する可能性すら極めて低い、厄介極まりない荷物な筈なのに。
………………そのまま無くさず抱えて育てろと、まるで、そう言うかのように。
覚悟と誠意を持って捧げれば玉座に収まってくれるかのように。
眠る子供はいとけなく告げるのだから、性質が悪い。
それでも、きっと。…………きっと、望みがないわけでは、ないのかもしれない。
思い、手のひらの下、真っ白な髪と肌を撫でる。
この先何があるかなど解らない
それでも、手放さないでいられれば
その覚悟と、途方もない努力と、
誰もが認めずにはいられない程の、意志を
携え、与えれば、手に入るだろうか。
白と黒に染まった、この透明な魂を……………