大きな手が寂しそうに泣いていた
大切な人を、愛した人を殺したと、泣いていた
それは自分にも覚えのある感情で
同じ慟哭に身を浸しそうになる
けれど
この純粋な命が涙に暮れて消えないように
死を願う事のないように
祈る思いで心を奮い立たせる
遠いどこかに自ら赴いてはいけないよ
愛しい人は、そこにはいない
傷つけ壊したこの腕を背負って
そうして精一杯生ききったその先にしか
きっと、いないから
寂しくても悲しくても苦しくても辛くても
また笑顔を思い出し
自分の歩みを辿れるから
………それまで、どうぞ縋るように生きて。
01.この手に灯るのは
列車の中、人々の喧噪は少し遠い。
エクソシストの仕事内容を考えれば、出来る限りは人に関わらない方が賢明だ。それはAKUMAの危険性以上に、戦いに巻き込まれ犠牲者が増える事への配慮。
………突然の悲報は、高い確率でAKUMAを生み出してしまうからこその配慮ではあるが、少年としては悲劇が生まれないなら、どんな意味からの配慮でも構わなかった。
思い、周囲を見渡した視界には、赤毛の青年の姿だけで、新しい仲間の青年はいなかった。
悲嘆に暮れる姿は悲しい。悲しくて苦しくて、引き摺られてしまう。だから投げつけた言葉が正しいなんて、到底思えないけれど、それでも生きて欲しかった。
ぼんやりと青年が歩いて行ったドアの先を眺めていてると、不意に隣のぬくもりが揺れる。
知らぬ間に回されていたらしい腕が、肩を軽やかに引き寄せ、少年の真っ白な頭は青年の黒い団服の胸元に落ちた。
「ら、らびっ?」
唐突なその行動に戸惑い、少年が彼の名を呼ぶ。少し舌っ足らずな音は、ぼんやりとしていた意識が突然現実に還ったせいだろうか。
そんな事を思いながら、青年は腕の中にくるむように抱いた年下のエクソシストを見下ろし、にっこりと笑った。
「ま〜たなんか、面倒臭い事考えてんさ?」
どうする事も出来ない、何か遠い世界の出来事のような、そんな個々では足掻く事も難しい事を。
からかうような声音で告げられる言葉は、けれど随分と重い音だった。
………この青年は、悲嘆に暮れる人へ向けたあの言葉を聞かれている。そして、己の左目が見つめる世界を、強制的に見せつけてしまった。だからきっと、彼はたいした関わりの時間が無いにも関わらず、こうしてそんな重さを勘づける材料があった。
それでもこの青年は屈託なく笑う振りをして、こうして少年を気遣ってくれる。その事が、少年には少し、痛かった。
「考えませんよ。………考えても、仕方ない事は考えない主義ですから」
ただ慟哭を深めるだけならば、考えない。そして考えるなら、前に進む為の道の在り方を考える。それが、自分の誓いだ。そう己に言い聞かせるように、小さな吐息とともに少年はきっぱりと答えた。
綺麗な、音だ。まだ少年らしさの色濃い、耳に心地いい音色。
それを眼下に眺めながら、青年はその身に宿す業を脳裏に蘇らせる。瞬間、硬質化しそうな四肢を気力だけで弛緩させながら、青年は憂えると評される色に眼差しを染めた。
この片腕だけで容易く引き寄せられる程細い少年は、通常の人間とは掛け離れた世界を見ながら生きている。それは勿論、自分達エクソシストが相対すべきものであるし、それ以外であったとしても、ブックマンという性を背に追う青年には、常とは異質なものを目にする事は多い。
だから、ショックを受けた己の性根の甘さに、少しだけ嫌気が射したのは本音だ。
何を見ても聞いても、どんな行為がそこにあっても、自分は揺らがない自信があった。疾うに人などというものに希望を持つ事を止め、傍観者である己はそれらとは一線を画した別の生き物と思う事で、自我を確立させていたのに。
目の前の光景に虫酸が走った。嫌悪した。鳥肌が立った。目を逸らす事も出来ないその光景は、けれど自分ではない人間にとっては日常だった。
悔しいというのは、少し違う。ただ何かが胸の中に引っかかり、抜けない棘となって疼いている。それを知っているのは多分、この腕の中の少年だけだ。
「アレンは嘘吐きさー」
クスリと、苦笑をからかう音色に溶かして、青年は真っ白な髪を梳くように肩に置いた指先を移動させた。
途端に跳ねるように戦いた少年の身体に、逆に青年が驚いて手を止めてしまう。
「………?」
微かに息を吸う音が耳に響き、ついで強張った身体が弛緩する。一連の動作はほんの一瞬で、見下ろしていた青年が注意していなければ読み取れない程、静かだった。
目を瞬かせ、確かめるようにもう一度少年の髪を梳く。今度はその身体は震えず、大人しくされるがままになったが、すぐに少年は姿勢を正して青年の腕を振り払った。
「子供扱いして誤摩化さないで下さい。まったく、自分の読みが外れたからって大人げないですよ、ラビ」
不貞腐れたような顔をして、そんな事を言うその目は、けれどどこか揺れて見える。照明が暗いからなのか、それとも真実彼がの中が揺れているのか。
読み取るには少々、距離が遠い。現実ではなく、互いの関係性の立ち位置の距離。
もう一歩近づいてみれば、もっと読み取れるかもしれない。この少年は『時の破壊者』という予言を与えられた、この先の歴史に関わる可能性を秘めた存在だ。
少しでも多くの情報を記録するに越した事はない。この少年は、自分の知らないモノを抱えて見据えているのだから、尚更だ。
「誤摩化してないさ。なんかアレン、抱き締めてって雰囲気だったさ?」
「………ラビ………心底呆れてもいいですか?」
食人花に捉えられてるその時ですら、この青年は好みの女性に目を奪われていた。それだけで判断するのは失礼かもしれないけれど、それでもこの発言は軽過ぎていただけない。
溜め息とともに返した返答には、彼はへらりと笑ってツレナイ、なんて言うけれど、こうしたスキンシップ過多な人間とあまり関わった事の無い少年には対処に困る言動だ。
その癖、この青年は決して人懐っこくない事だけは解ってしまうのだから、多分己も質が悪いのだろうけれど、と。こっそりと胸中で溜め息を吐いてしまう。
笑顔の仮面は、同じように使っている人間にはすぐにバレる。上手に隠していても、どうしても視線の色はなかなか消えない。
すぐに解る程、青年のそれは粗く隠されていなかったけれど、一緒に行動する時間が増せば嫌でも解ってしまうものだ。
きっとバレていないと思っている青年は、だからこそこんな風にして近づくけれど、どうもそれすら警戒心を触発されて身体を強張らせてしまう。
彼が悪いわけではないけれど、今までもそうした……観察される眼差しで見られる事が多かったから、どうしても心より先に身体が拒否を示してしまう。気付かれただろう不審を、それでもまだ距離を測って青年は何も言わない。
それでいいと思う。………あまりに近過ぎる距離は、まだ慣れる事が出来ない。
多分、この心が真っ先に向かう先は過去にしかなくて、それが故に自分の全てはAKUMAの為に捧げる事を優先してしまう。そのせいで泣かせてしまった少女を思い、胸が痛んだ。
いつか、もしかしたら。
この目の前の青年も、同じ思いを寄せてくれるのだろうか。あの少女のように自分を殴って目を覚ませと、叫ぶだろうか。
思い、じっと彼を見つめた先、返されたのは揺らめかない瞳。
きっとこの先もその眼差しは揺れる事なく、常に観察する事を最優先させるのだろう。それもまた、生き方のひとつだ。否定する意味も無く、寂しく少年は微笑んだ。
そうして、その眼差しから逃れるように俯くと、今はここにいない、車内を見学している漆黒の新人エクソシストを思う。
自分たちよりずっと大人なのに、子供のように涙を流して悲しむ事を知っている、優しくてあたたかい、愛おしむべき新しい仲間。
「ねえ、ラビ。……クロウリー…元気になると、いいですね」
呟いたのは、ずっとずっとそれだけを思ってここまで手を引いてきた、新しい仲間への祈り。
独りぼっちで泣く事しか知らない、寂しい青年。それはどこか、過去の自分のようで、どうしても放っておけない。
目の前の赤毛の青年が携えるほんの少しの距離に、彼が悲しまないといい。自分のようにそれを受け入れて笑うだけの経験を、多分あの青年はしていないから。
これ以上傷付かず、優しさを変化させず、躊躇いながらも歩むその足が人の輪に駆け寄れるようになるといい。
「みんなが…仲間がここにいるって、それを糧に生きられるようになると……いい、なぁ…………」
囁きは小さくて、あるいは青年には聞こえないかもしれない。
それでも構わないと思い、告げた。不可能極まりない、自分自身への願いとともに。
世界は残酷で寂しくて。愛おしいもの程早くに失い、悲しみに心は満たされ、嘆く声しか綴れなくなってしまうけれど。
…………それでも歩み続けば、いつかはぬくもりに躓いて、また拾うべき愛しさを見つけられると。
夢見るように微睡む声音が囁いた。
俯く少年の目には映らない。
息を飲むように唇を引き締め、
何かを探すように揺れた翡翠が、それでも探し切れない何かに歪む様を
……………愛おしいと思う感情の意味を、未だ知らない子供達。