昔、記憶にも無い程、昔
………否、記憶から消去した程の、昔
確かに与えられた愛情を、知っている
けれどそれらはただの知識だ
記録だ
決して羨望するようなものではない
この流れる歴史の中、ただひとつの為に生きる、
その為にだけ、生きる
そんなこの身に
祈る言葉など不要だというのに
それでもきっと祈りたいと
この真っ白な命は、言うのだろう
…………刻み付けるように、残す事を選んだ。
02.ありふれた幸福の
「なんか……ブックマンの読む本って、悲しいのが多いですね」
不意に、老人が既に読み終えた本を手に取り、パラパラと捲っていた少年が呟いた。
拾った単語程度の推測だったのだろうけれど、その言葉を否定する要素は無く、老人は新しい本のページを捲りながら、その言葉に答えた。
「物語は物語でも、史実は残酷なものが多い。心痛んで読むわけではないからな、そう辛いものではないぞ」
「でもブックマン、優しいお話も一杯知っているじゃないですか」
色々教えてくれたと笑う顔は、ひどくあどけない。
これで戦闘においての激しさを思うと、子供の心の危うさを見るようで、老人は読み重ねた本への少年の感想そのままを、彼にこそ捧げるものが多い事を思う。
寝物語のような、そんなささやかで夢見がちな話を、この少年は好む。最後は必ずハッピーエンドの、現実にはそう有り得ない幸せなストーリー。
絵本であっても悲しい結末の物語は泣きそうな顔で首を振る少年は、多分、現実を知っているからこそ、幸せな物語を望む。
そうして、それの語り手に老人を望むのは、数しれぬ悲劇とバッドエンドを記録し続けた声が、優しい物語を綴る事で、現実もそれと同じく優しく紡がれる事を祈るが故なのかも知れない。
…………更に穿ってみてしまえば、そう老人自身が祈る事を願っているのかも知れないけれど。
思い、そんな事を考える時点で同質化していると苦笑する。
「優しさも悲しさも、結局は聞いた当人の受け止め方とも言えるのう」
「人それぞれ、ですか?」
ページを手繰る指先は止まらない。少年が言葉を拾って予測するのと同じ程のスピードで、老人はその全てを読み、記録し、蓄積している。
「人は誰一人として同じではない、それだけの事だ」
冷たくも取れる言葉は、けれど確かな事実だ。同じである事を喜びとする者もあるけれど、決して同じになどなり得ない。
違うからこそ、人は人となり得るのだ。その前提が無ければ、もしも捧げる思いがどれ程慈しみ深き尊いモノでも、必ず人は人を傷つける。
そうした不具合をいつも抱え、人間という生き物は営んでいる。同一になりたいと願い、違う事を思い知って、その違いこそを愛しむように。
…………本能以外のものを求めずにはいられない、そうした欠陥だらけの弱々しい生き物なのだ。
人に対して美しさを見出そうとするこの少年に、あるいはそれは傷となる言葉かも知れないが、同時に、この少年がそれを知っているだろう事を見抜いて、老人の声は淡白な程静かに響いた。
そうしてそれは、間違いの無い観察だったのだろう。少年は少しだけ困ったように眉を垂らしたけれど、すぐに元に戻した。
そうして、老人の言葉に思い出した事があるように、数度瞬きをした後に、にっこりと唇を優しい弧に変えた。
「でも僕、幸せな事、知っていますよ」
絶対に誰もがそれを最後は望む、そんな幸せ。
とっておきの秘密を口に含むように楽しげな顔で告げる少年は、まるで悪戯を仕掛ける子供のように目を輝かせている。
「物は無くなっちゃうし、壊れます。人は消えちゃうし、死んでもいきます」
それは絶対の法則で、それを変える事は許されない。…………それを変える事は、救われない魂を増やす事にしかならない。誰も、幸せになどなれな。悲しいけれど、失ったものをもう一度とは、願ってはいけないのだ。
………失うからこそ、人は失うまでの一時を愛おしみ慈しむ事を覚えゆくのだから。
ぎゅっと閉ざされた少年の瞳。何かを回顧しているのだろう、白い睫毛が微かに震えている。
そうして、数秒も無いその間の後、ゆっくりと睫毛が揺れて瞳が返ってくる。揺らがない、確固たる何かを知っている、悲しみの奥底で慈しみを思う、瞳。
「でも」
囁きは微かで、室内ですらそれは響かない。ただ隣に座る老人にだけ、その音は向けられ響いた。
「記憶は……それによって与えられた心は、なくならないんですよ」
それは喩えようも無い程の前提だと、そう告げる少年の眼差しはどこまでも澄んでいる。
…………もしもその言葉に、心を病む事もあれば、記憶を失う事もある、思いを変え、意志を捨てる事すらあるのだと。
告げたなら、悲しみに染まり俯くだろうか。
けれど、このどこか儚いまま確固と歩む少年を虐げる気など無い老人は、その呼気や視線すら乱す事なく、耳だけを少年に向けたまま、その音色を聞いていた。
「忘れても、どこかに刻まれているんです。心は、どれ程歪んでも壊れても消えてしまっても、最後の最後まで、忘れないんです」
…………まるでつい先程老人が考えていた事への返答のような言葉に、つい老人の視線が揺れ、少年を見遣った。
その理由など到底解らない少年は、ただ向けられた視線に喜ぶように微笑み、言葉を続ける。
さして学などない、稚拙と言える少年の言葉を、それでもこの博学の老人は厭う事無く聞いてくれる。それは彼の弟子である青年も同じで、少年が躊躇う事なくこうして言葉を続けられるのは、そうした二人への敬意と感謝故だ。
「ずっと与えてもらえた、笑顔とか、おやすみのキスとか、撫でてくれた手のひらとか、抱き締めてくれた大きな腕とか。絵本を読んでくれる声とか、名前を呼んでくれる時の響きとか………」
もうその手にはない幸せを求めるように、少年の眼差しは甘く芳しい花のように綻んだ。
ひとつずつ、甘い飴を口に含むように少年は数え上げ、舌に転がした。それらは全て、過去の日の記憶だ。現実ではあっても、もうこの先同一のものは手に入らない、幼い日の思い出。
それを老人は見つめ、けれど感化されぬようにと、息を飲む。
…………あまりに真っ直ぐに向けられるそのささやかな祈りの音は、ただ聞くというだけでこの身を夢想に浸しそうだ。
この身がその幸を与える一部になど、なり得る筈はないというのに。
「そういう、毎日繰り返される、一番初めに忘れちゃうこと。………初めにもらえた幸せが、やっぱり最後にみんな、欲しい幸せなんです」
それはどこまでも純乎な祈り。
……………幼子が何も知らぬままに知っている、この世界の中の始まりと終わりにあるべき、慈しみ。
本当にそれを手に入れられるものは数少なく、失うままに孤独に浸るものの方が圧倒的に多い現実の中、それでも忘れずそれを抱き締めようとする、幼気な命。
「………得られるといいな」
小さく、慰めにもならぬ言葉を呟き、老人は変わらず書籍に視線を落とす。
それは少年に与えられたならと言う、そうした響きだった。けれど、少年はそれにひどく幸せそうに笑んだ後、煌めく銀灰色の瞳で老人を覗き込み、囁いた。
「ブックマンは大丈夫。ラビがいるし……僕も、その場にいられるなら、きっと差し出しますよ」
自分が生きている可能性は極めて低いけれど。………それでも、その時をもしも目の前で迎える事があるなら。
与えられる事ではなく、与える事を祈るように、少年が呟く。
視界の端でその瞳を見つめ、小さく落とした吐息の後に、それが可能な夢ならば、と。
………差し出される事を受け入れるように、老人は微かに頷き目蓋を落とす。
おそらくその眼差しに映る筈だった、閉ざした目蓋の一瞬後の光景は、傷付き悼み続けながらも眩さを忘れなかった真っ白な少年の、極上の笑み。
それを脳裏に記録したなら、もう一度花開く事を祈らずにはいられない、そんな笑み。
解っているから閉ざした目蓋の先、綻ぶ気配に安堵とともに浮かぶ、寂寞。
きっと、この汚濁に浸れない少年は、悼み続けるだろう
求め続け、欲し続け、願い続けながら
それでもその事実を己の目から覆い隠し
許し、与え、搾取される事を願うのだ。
………それは罰ではなく。
己が欲しかったが故に、誰かに与える事で満たされようとする
愚かしい疑似行為だけれど。
あまりにその思いは純乎と響き
老獪なこの身にすら、慈しみを注いだ