それはきっと命の音
鼓動よりも早く一瞬で
けれど確かに命を育む糧を捧げる
破壊とともに救済を
きっとそれは、彼にこそ相応しい光
それでも彼は
穿つ地面すら愛おしいのだと
焦がす事無く優しく降り立ち
慈しみの口吻けを落とすのだろうけれど……………
03.いのちのうた
窓の外は見事な豪雨だった。それこそ通りの向かいにある建物も朧な程に。
その窓に貼り付くように手を添えて外を眺める少年は、どこか不安そうに目を揺らしている。その瞳を、一瞬の閃光が染めた。
少しだけ眇められた瞳は、すぐにまた不安げに揺れる。
それを眺めながら、けれど青年は少年が考えている事を間違える事なく読み取っていた。
「ジジイ達ならさっき連絡入れたさ。雨が弱まったらこっちに来れるって」
「解っているんですけど…なんか、あのカフェ、表通りだったし、混雑するだろうし…なんか心配で」
特に新たに加わった新人エクソシストの青年は、きっとそんな多くの人に囲まれた事がないから、不安がって怯えそうだ。そんな事まで考えているのか、愁眉はなかなか晴れない。
それに苦笑しながら、どちらしろ雨に濡れたのは宿探しを命じられた自分達の貧乏くじで、彼らはカフェで優雅にお茶でも飲みながら、今もきっとこの雨を眺めているに違いない。
タオルでは拭き取れない程濡れた少年をシャワーに押し込んだ間にゴーレムで通話した先は、確かに喧噪は感じたが、決して不安を助長させるような要因にはなり得なかった。
それでもこの少年は、自分が濡れて身体を冷やした事よりも、離れている仲間達の心の揺らめきの方が心配なのだ。
純粋な意志というよりも、それは自身を顧みなさ過ぎる故と知っている青年は、窓辺になおも立つ少年を呼び寄せて己の座るベッドの隣に座らせ、冷えた身体を温めるように毛布を肩にかけた。白い肌は雷の光に染められて、なお青く見えた。
差し出された毛布のぬくもりに少しだけ戸惑いながら、それでも少年は笑みを落として礼を言う。…………どうもこの少年は優しくされた時、どうした顔をすればいいのか解らないような、そんな間を空ける事がある。
多分それは、彼の抱える多くのものとの兼ね合い故で、未だそこまで踏み込めない青年は、その苦味をなんとか飲み下して、彼が安心出来るように笑顔を返した。
遠くで、雷鳴が聞こえた。ちらりとそれに惹き寄せられて、二人、窓の外を見る。
光と音の時間差がかなりあるので、そう長くこの雷雨は続かないだろう。そうすれば、心配に揺らめく少年の心もきっと落ち着く。
………その後にでも、彼をからかって楽しませて、また甘えられるように少しだけ、近づいてみようか。
なかなか自分達の距離は微妙なもので、踏み込みすぎると躊躇いながら後ずさる少年を怯えさせない速度と距離は、いくら青年が試算を重ねても、容易く出るような数学的問題ではなかった。
だからこそ手探りで模索するこの感覚は、新鮮で楽しく、少しだけ、寂しかった。多分、距離をすぐに縮められない、その事こそが、寂しいのだ。
思い、そんな事を願える立場でもないと、幾度繰り返したか解らない溜め息を胸中で落とした。
「………雷って、なんか綺麗ですね」
そんな物思いに捕われていた青年の耳に、ぽつりと、少年の呟きが落ちた。窓の外ではまた雷が落ちたのか、空を割るようにして光の糸が落ちていた。
それはきっと、どんな宝石も真似出来ない、一瞬の生命の輝きと同じ強さだ。
濡れてしっとりとした少年の髪は、そんな光にすら染まりそうに透き通っている。それを横目に見つめながら、青年は世間話のノリで答えた。
「神様に喩えられる地域もあるくらいだから、神々しいっていう形容詞が当て嵌るんかね。怖がる奴のが多いけど」
「それはまあ……だって、雷に当たったら死んじゃいますし。それに、ほら、この音っ。ビックリしますよ、やっぱり」
「でもさ、知ってる、アレン?」
肩を弾ませてビックリしている少年の隣、青年がその音を眺めるように窓の方に身をかがめる仕草で少年を覗き込む。隻眼は楽しげに細められ、それが雷ではなく少年に向けられた仕草である事は明白だった。
上背が少年よりかなりある青年に、そうした位置から見上げられる事はそうなく、雷と同じかそれ以上に驚いた肩がまた跳ね上がった。
それに胸中で吹き出しつつ、気付かなかった振りをして青年が続ける。
「落雷って、マイナスイオンとか色んな栄養素が含まれてて、植物が生えるの手伝うんさ」
「へ?だって……あれって、電気ですよね?焦げちゃうんですよ?」
唐突になんて解りやすい嘘を吐くのかと少年が目を瞬かせている。
それが解ったのだろう、青年は嘘なんか吐いていないさと苦笑して覗き込んでいた上体を起こし、きちんと少年の顔を見ながら指を振りつつ講釈を続けた。
「電気だから、地面伝って巡っていくんさ。焦げるのなんか、直撃受けた一部だけさー」
「だって、なんか………雷って、怒っているイメージ強いですよ」
からかわれた事はあっても嘘を教えられた事はない少年は、まだ目を瞬かせた表情のまま、青年の言葉をどう飲み込むべきか考え倦ねているようだ。
決して愚鈍ではない少年は、与えられる言葉を咀嚼し、吸収する事に長けている。
それを眺めていると、二人の前の窓が、また光を纏った。………雷はなかなか止まないらしい。
見つめるでもなく視界の隅に入れたその光景の中、一瞬の輝きが、間近で煌めいた。
それがなんであるかを考えるまでもなく、青年は気付く。少年の大きな銀灰色が、稲光に染まり金に輝いたのだ。
…………その白い髪と肌も同じように光に染まり、まるでその身自身が輝くようだ。
一瞬の感傷を誤摩化すように、青年はなんとか納得したらしい少年の顔が自分に戻ってくると、にっこりと悪戯好きな笑みを浮かべた。
「そうさね。ゴロゴロ大きな音立てて、ピカって驚かせて?」
クスクスと楽しげに声を響かせれば、その声の質に違和感を感じたのか、少年が顔を顰めて睨んできた。
「………ラビ?」
その声に棘が含まれ、警戒させている事を言外に響かせれば、両手を上げてホールドアップしながら、青年はそれでもなお笑ったまま、言葉を続けた。
「ごめんごめん、なんかさ、アレンに似てんじゃんって思えてきたさ」
「雷って……また黒アレンと言い出す気ですか」
ぶすっと顔を顰めて唇を尖らせる仕草は、黒いというよりは幼い。結局この少年は裏を持ちながらもまっさらなままだ。
その癖、意外と根に持って拗ねるのだ。もっとも、そんな事を見せるようになったのは心を開いてきた証拠なのだから、可愛いものだけれど。
「違うさ。ま、それもあっけど?」
「………………」
敢えて否定せずに笑ってみれば、隣でも低気圧が発生した。最近は随分青年の存在に慣れてきたのか、感情表現が豊かになり、少年はこうして噛み付くような顔を晒す事が増えた。
少し前までは、それすら飲み込んでしまおうと晒す事を諦めている節があったのだから、これはいい傾向だ。思い、初めからそれを弾き出させていた同僚のエクソシストに、拍手を送りたい気分になる。
「睨まれても、事実さね。……ほら、アレン。光ったさ。で。あーやって真っ直ぐ筋が立つと、落雷」
そっと差し出した指先が一瞬の稲光のあと、空と地を駆ける龍と表現される美しい閃光を辿った。
「?知ってますよ、それくらいは」
いくら無知でも天気はどこにいても同じように降り注ぐ。ましてや一ヶ所に居続けずに旅していた身だ。少年も数多くのその地域特有と言われる天候を目にしてきた。
何を言い出すのかと首を傾げて青年を見遣ってみれば、ニコニコと屈託なく笑う青年が目に入り、少年はますます首を傾げてしまう。
何故か、機嫌よく笑っているように視えて………どこか違和感がある。それはからかおうとしているとか、そんな事ではなくて。
敢えて言うならば、仮面を被ったような、違和感。確かに青年な筈なのに、青年でないような、そんな喩えようもない差異。
「アレンもあんな感じさ」
「???」
「パッといきなり現れて、目に見えない早さで動き回って。AKUMAを破壊している筈なのに………何かを生み出そうとしているみたいさ」
もう死者となり魂となり、その姿すら醜悪となったモノを、もう一度美しく清らかに産み落とそうとする、神の下した雷鳴のよう。
その癖、叫びは全て無音のまま。轟く轟音など響かせない、音すら無く、ただその魂を救い上げる赦しの御手。
………きっと、内蔵された囚われの魂達には、その鎖を解き放つ雷撃にすら思えるだろう、圧倒的な煌めき。
感嘆と告げてしまえば不審に思われそうな事だと、出来る限り軽い口調で告げてみれば、予測通りにからかわれたと思った顔が目の前で晒されている。
「別に僕はスーパーマンじゃないですから、いきなり現れませんし、目にだって見えますよ」
「…………音速を目で見えるって断言するのはどうさ」
顔を顰めて睨む様は、子供じみていてあどけない。普段は礼儀正しい紳士スタイルだけれど、きっと少年の本質はもっと奔放で、戦闘時と同じく意固地で頑なのだろうと思わせる。
「見えるでしょう?ならいいんです!」
ムスッとした顔をして、からかわれていると思い込んだ少年は青年にツンとした声を差し出した。
これ以上からかえば毛布に包まってふて寝でもし始めそうだ。
そんな様子に苦笑を浮かべる青年は、その手を伸ばし、グシャグシャと少年の真っ白な髪を掻き混ぜるようにして撫で、からかっていないと優しく告げた。
からかう声音にしなければ、告げられなかっただけだ。茶化してしまえばただの戯れ言になるから。そうでないなら、それはいつか事実となって降り注ぎそうで、苦笑にも溶かせない苦味が胸を占める。
………からかうなら、こんな風にわざわざ胸が痛むようなものに、重ねない。
眩く光り、誰もの目を引きつけ、畏れ忌み…その癖、崇めずにはいられない神聖さ。
そんな厭わしいとも言える偶像崇拝に、この少年を差し出す気はないけれど。彼の外見とその精神性がそれを構築しかねない危うさを持ち得ていて、青年には少しだけ不安が付き纏う。
もっとも、そんなものをあの室長が許す筈が無いのだから、きっと杞憂に終わるのだけれど。
思い、確かに人々に慈しまれている幼い命を喜びの手でまた、撫でた。少しだけ乱暴な指先は青年の顔が写らぬように、少年の頭を俯かせるようにして落とす。
普段は子供扱いを厭うのに、その感触が思いの外心地よかったのか、叩かれる事を予想していた指先は、何故か受け入れられ、ぐちゃぐちゃになった白い髪が眼下で乱雑に舞っている。
「……僕は生み出す力はないけど、赦す事と掬い取る事は、出来ます。このイノセンスがあれば、出来るんです」
そうして乱暴な指先の横暴の合間、少年が呟いた。柔らかな月明かりのような、そんなささやかな音色。遠くで雷鳴が聞こえる。そろそろ夕立も弱まってきたのか、先程よりもその音に距離を感じた。
そんな窓の外を見つめるわけでもない青年の眼下には、細い首と、それに絡まる白。………へし折る事がそう苦に思えないその脆弱さが嘘のように、この少年は強いのだけれど。
彼の声を聞いていると、つい引き込まれてしまう。
話術など持ち合わせていない、学もそう高くはない。………けれど、この少年は生きる上で学ぶべき事をきちんと学び、それを己の血肉と換えて音にする。
それこそが、彼を宣教師でも偶像にもで出来得る魅了なのだが、それは決して己の自由で晒せるものではなく、彼が思うがままに綴る音色の中に、それは煌めきながら落ちている。
「………神様なんて、本当はどうでもいいです。けど。………せめてそれを欲しいと縋る人くらいは、導きたいじゃないですか」
この左腕はその為にあるのだと、言外の響きが語る音色の美しさ。
殉教など興味も無いけれど、彼がもしこの戦争の最中に命を落とせば、きっと誰かが神に愛された使徒として崇めるだろう。………その遺品、あるいは遺骨を、聖人のそれと同等に奉りながら。
美しいものはいつだって、そうした危機に晒されながら輝くのだ。
…………せめて、その輝きが褪せぬよう、刈り取られぬよう、この腕が彼を守れればいいけれど。
「やっぱアレン、似てるさ」
ぽつりと呟いたのは、無意識だった。
崇められる事など、自然物達は知りもせず、ただ在るが侭に在るだけで、人は敬虔なる思いで跪くのだ。
それはどこか、この少年に似通った至純さだ。
「似てませんよ。そんな一瞬で消えません!」
また顔を顰めているのだろう、少し荒くなった語気がそれを教えた。
クスクスと零れてしまう笑みは、不意に彼が儚く見えるその顔を、歳相応に崩すのが嬉しいからだ。決してからかう仕草ではないけれど、きっと彼には同義にしか映らなかっただろう。
証拠に、先程まで甘んじていた指先が弾かれ、ぐしゃぐしゃな髪のまま、彼は顔を上げた。
雷鳴の映っていない、いつもと同じ銀灰色の瞳は、やはりどこまでも澄んでいて、つい綻ぶ笑みが落ちる。
それに顔を顰め、少年は首を傾げた。何か不思議なものを見たような、そんな顔。
「ちゃんと、ずっと居ます。簡単に消えません。諦めません。………ほら、ラビ、空が明るくなって来た」
少年と同じように首を傾げた青年に、けれど差し出した疑問ではない答えを少年は示した。
細い指先が窓の先を指差す。その先は灰色に覆われた空。けれど、少しだけ雨脚が弱まり、空の色が薄くなっている。
「もう、雷は無くなりますよ。でも、僕は居ます。天気になんて左右されずに、ちゃんと居ます」
にっこりと、少年が笑う。それは決してポーカーフェイスではない、感情の揺れによって落ちる笑み。
窓を指差していた少年の指先は、そのまま巡り、ついと青年を指差すかと思うと、その手は解け、頬を撫でるように包んだ。
………微笑みが、柔らかくなる。慈しみを乗せて輝く月色の瞳は瞬き、翡翠の揺らめきを確かめるように見つめた。
そうして、そっと呼気を落とすように、囁いた。
「だから似てませんよ。あんな綺麗なもの、神様が欲しがって、さっさと持って帰っちゃうんです」
自分は綺麗な生き物ではないから、欲しがられはしないと。
まるで青年の物思いを看破しているかのように少年は微笑み、告げた。
何も知らない筈の少年は、知らないまま、それでも人の心に落ちるものを見取って掬い取るのが上手いと、青年は苦笑する。これでは、どちらが年上か解らない。
「………………なら、かっ攫われないように、ちゃんと掴んどかなきゃ駄目さね」
「僕なんてわざわざ攫いませんよ」
呆れたように少年は言って笑い、伸ばされた腕が少しだけ怯えながら肩を抱くのを許した。
時折不安にかられるように人肌を求める青年にも、随分慣れた。そんな風に言ったら、彼の師である老人がひどく深い溜め息を落としていたのを思い出す。
きっと、それはあまり彼らの本職としてはいい傾向ではなくて、けれど青年が一人立ち前に進む為には、必要であろうもので。
老人がその狭間、どう均衡を保つかをいつも思い倦ねているのをなんとなく知っている少年は、それでもこの腕を拒めない。
こんな風に縋るもの、拒めるわけが無い。
それは多分、同情ではなくて
けれど憐憫に、似ていてもやはり違う
微かに震え伸ばされるその指先が
本当は自分にしか捧げられていない事も、知っている
その意味を考えようとして
けれどほんの少しの恐怖に、目を瞑ってしまう
今はまだ、このぬくもりだけで微睡みたい
柔らかな赤に頬を埋め、
いとけない赤子を抱き締めるように、青年を抱き締めた。