掠れたような吐息が間近だった
見上げた空が遠くて、泣きたい衝動に駆られる
それでも確かに自分を呼ぶ音色がそれを守るように抱き締めるから
更に慟哭を深めた
名前を呼んで
………呼ばないで
遠い遠い空の先
そこにだけ自分を捧げるべき場所があるのに
もっと傍にそれがあるのだと
教えるように、呼ばないで
抱き締めて、捉えようとしないで……………
04.ぬくもりに似ている
この子はずっとそこに立ち尽くしていた。
何も聞こえないように、何も見えないように、ただ目の前に横たわるものだけが、世界にあるように。
呼びかける声すら、遮断して。
伸ばした腕すら、気付かずに。
…………悼む事だけを知っている、そんな人形のように。
戦闘は、先程終結した。この場にいたAKUMA達は既に全て破壊したらしく、新手がやって来る気配はない。
それなりに賑わっていた街中は、けれど殺伐とした雰囲気で人の気配もない。当然だろう、これだけ多くの建物が壊され、あちらこちらに見て取れる、服だけとなった人間の成れの果てや、明らかに死を匂わせる横たわる人、千切れた四肢があれば、暫くの間、ここは教団関係者による規制の元、一般市民の立ち入りを禁止されるだろう。
そんな中、たった一人静寂を体現するように、その少年はぽつりと瓦礫の傍に立っていた。
そよぐ風が、彼の白い髪を揺らしても、その身体は動かない。
顔は、見えなかった。まるで見られる事を拒否するように背中を見せている。そんなつもりは無かったのだろうけれど、偶然の産物とはいえ、この構図は少年自身が望んだものである事は確かだ。
微かに俯き、前髪が風に揺られても白い肌しか青年には見えない。
そっと足を忍ばせて近づけば、一際強く風が舞った。……まるで少年の心を読み取ったような、足を止めさせようとする風。
けれどそんなものに躊躇う筈も無く、青年は歩を進める。青年自身、あちらこちらに傷がある。どれもたいした事の無い、消毒すれば事足りる程度の傷だ。それは目の前の少年も同じで、駆けつけるのに少し遅れたせいで街の被害は大きかったが、実際の戦闘自体はたいした事はなかった。
…………あるいは、それこそがこの少年をより苦しめているのかもしれないが。
瓦礫になってしまっている、元は壁であった筈の煉瓦の前に、少年はなおも立ち続ける。遠くでファインダーの声が響いたが、少年は元より、青年もまた、それには答えなかった。
見つめた視野に広がったのは、白。
少年を彩る色素は白が多いけれど、それだけではなく、穢れに交わる事を知らない純白色を青年は視た。
泣いていると思っていた。声も無く、ただ涙を流しているのだろうと。そうしたなら、腕を引き抱き寄せて、泣きたいだけ泣かせておこうと思っていた。
この少年は戦う事を救済手段とみなしていて、破壊者である己を自覚しながらも、救う事に重きを置いている。だからこそ、他者の為に彼自身が傷を負う事の多い戦闘スタイルが定着している。
解っていたから、青年はこの状況に心悼める少年を諌めるのではなく、落ち着くまで好きにさせようと思っていた。
けれど、瞳に写ったそれは………違った。
真っ白な頬は濡れてはおらず、月明かりを落とした瞳は何も映してはいなかった。それはただ、そこに立ち尽くすという姿だけを周囲に教える。まるで壊れ損ねたマネキンだ。
悲しかったのは、多分、本当だろう。零せない涙もきっと、我慢とか他人がいるが故とか、そんな理由ではなくて。
思い、眉間に刻まれた皺はひどく深い。見つめる瞳すらそれに染まりそうで、青年は努めて平静を保つように息を落とした。
……………まるで心自体を壊されてしまったように、少年は無機質な表情のまま呆然と眺めているから。
悲しんでいないなんて、誰も思えない。辛くないなんて、思えるわけが無い。
それでもその小さく細い背中は項垂れながらも放っておいて欲しいと、囁くのだ。
真っ白な彼は、真っ白なまま、この瓦礫の山の中に溶けてしまいそうだ。
多分、今の彼はそれを願っている。悼む心がその悼みのまま、寄り添うように遠く心を飛ばしている。
「…………アレン、こっち来い」
彼に聞こえるように強めに囁いた声は、事実彼の肌には触れただろう。微かにその左手の指先が揺れた。
けれどそれ以上の変化は無く、未だ彼はじっとその光景を見つめたままだ。
人の死は、戦争ならば当たり前の事で、慣れろとは言えないけれど、その度毎に心砕いていては、自分自身が壊れてしまう。
………立ち尽くし食い入るようにその光景を見つめたままの少年の前、横たわるのは親子であろう母子の骸だ。
AKUMAの数はどうって事はなかったけれど、街中での出現にパニックに陥った人々の誘導までは、自分達だけでは手に負えなかった。
ファインダーも頑張ってくれはしたが、どう頑張っても人手不足だ。まして自分と少年は戦っているのだから、そんな悠長に危険を勧告して安全な場所に導ける筈も無い。
結果は、最善を尽くした上での、どうしようもない現実だ。これ以上は無理だった筈だ。自分や彼が犠牲となれば、この光景は更に多くの場所で、より悪化して再現される。解っているから、即座にAKUMAを破壊する方に目を向けるのは、当然の法則だ。それぞれに役目があり、自分達エクソシストは戦う事こそが、役目なのだから。
………それでも、この少年は悼んでしまうのだ。母親であろう女が抱き締めている小さな子供は、調度今朝方、道に迷って困っていた少年に駅の場所を教えてくれた優しい子供だった。少年の姿が見当たらずに探していた自分も、その姿を見たから覚えている。
たったそれだけの、そんな細く途切れてしまうささやかな関わりしか無い相手だ。その場限りの話題でのぼり、忘れられていく程度の、縁だろう。
きっと子供は少年の事など、迷子になっていたお兄ちゃんとして認識していて、それすら一週間もすれば記憶からも消えてしまう程度だっただろう。
だから嘆くなと、言えばきっと更に傷つける事は目に見えていた。………少年はたったそれだけの相手を前に、こんな顔で立ち尽くし動けなくなる程ショックを受けているのだから。
全てを守り切れる筈が無いと、それはもう誰もが解っている事だ。そもそも仲間ですら、数多く犠牲となっているのだから、一般市民に至ってはその幾十倍もの数の犠牲が、AKUMAのエサとなる以外にも確実にある。
解って、それでも戦うしかないのが現実だ。守りたいと願っても、守り切れない事は認めざるを得ないのだ。
「アレン………怪我、してるだろ。手当てしねぇと」
呟きに返る声は無い。肩も震えず腕も凍り付いたままだ。もう、その指先すら揺れない。
ファインダーは間近までやって来て、青年の言葉を耳にしたのだろう、また取って返し、医療器具を探しに行ったらしい。それを見てもいない青年は、けれど気配でそれを把握して、また一歩少年に近づいた。
日に当たり白さが増す肌など、そうは無いだろう。それだけ少年はそこに立ち尽くしているのだ。おそらく脳性貧血になりかけている。微かな顔色の悪さと浅い呼気がそれを教えていた。
眉を顰め、青年は少年の腕をとった。握り締められたまま微かに赤を滲ませている、右腕。
動かなかった身体が、強制的に揺れた。ただ揺れただけで、弛緩する事も強張る事も無い身体。………まるで無機物のようで、また青年の眼差しが険しくなる。
いっそ叫べればいいのに。………戦う事を覚悟するなら、この現実を見ても前に進まなければいけない。割り切る事だって必要だと、学ばなければいけない。
…………それでもきっと、それを告げてもこの少年は変わらないのだ。
悼む心を無くせない、純正の生き物。
幾度己の心を切り裂いて血を流させても、同じ痛みを味わうと解っていても、心砕く事を諦めず捧げ、慈しむ事を思える。
それはきっと、とても尊い事だ。美しい事だ。…………痛ましい事だ。
「………アレン……こっち見るさ。俺らの事、忘れんなよ」
小さく、これだけ近くにいるからこそ聞き取れる声で青年が呟く。低く掠れていて、青年の声こそが泣き出しそうだ。
それでも少年は動かず、瞬きすら忘れた眼差しは、微かに落とされた長い睫毛に隠されるように翳っている。
青年は手にした右腕を引いた。そっと、握り締められたままの手のひらを解き、それ以上の傷を増やさせぬように、指を搦め手を握る。
正気に戻ったなら変な事をするなと顔を顰められそうだ。………それでも、きっと彼は自分からそれを振りほどきはしないだろう。
「悼みだけに捕われんな。アレン……周りにも、目を向けるさ」
ぎゅっと、彼と繋がった指先に力を込める。囁きは、もう直に耳に注ぐ程間近だ。
戻って来い、こちらに。そして泣いてしまえばいい。守れなかったと、その慟哭を己の内だけに鎮めず、喚き散らして発すればいい。
「アレン…………」
彼が答えるまで、ずっと、幾度でもその名を呼ぼう。握り締めた指先が動き、握り返してくれるまで。
まだ多分、時間はかかる。そっと回したもう片方の自由な腕は、自分よりも格段に細い少年を包むように抱き締める。
ぬくもりは、この少年にとって怯えとともに癒しを与える特効薬だ。どんな手段よりも、呼びかける声と抱擁が、彼をこの場に引き戻す。
涙を引き金に、きっと戻ってくる筈だ。
だから幾度でも、飽く事なくその名を口にする。
…………自惚れではないけれど、自分の声が一番初めに彼に届くから。
抱き締めて、端から見れば自分こそが縋るように、抱き締めて。少年を取り戻す為に囁き続けた。
幸せを突然奪われる悲しみを
誰よりも強く濃く刻み込んだいとけない魂
白く白く純白に色を落とし
その魂は何色にも染まる危うさで
それでも内なる輝きを秘めて立ち尽くす
遠い場所の悲しい色に染まらないで。
この声が、凍える君を包めるまで
ずっと繰り返しその名を呼ぶから。
ここに戻って来て。
…………凍える自分を、抱き締めて。