涙を零し始めた身体が、弛緩した
小さく名を呼んだ唇から音は洩れず、ただ微かに蠢くだけだった
呼吸すら忘れて立ち尽くしていた少年は
ようやく戻ってきた現実の中
目眩に立つ事すら出来ず、崩れ落ちた

揺れた眼差しの中、涙が踊る
瞳を、頬を、彼の残像を残す中空を
彩るように水滴は踊り
少年が腕の中に抱きとめられるのを知って
地に潤いを与えるように染み込んだ


戻って来てくれた事に歓喜しながら
それでも悼みを取り除けない己の腕を
どこまでも憤り、愛おしい細く白い身体を抱き締めた



05.どこまでも遥か、彼方へ


 「………………………」
 「言いたい事はわかっけど、何も言うなよ、ジジイ」
 己の背中にある力ない肢体を見つめる師に、言われる前に釘を刺すように告げる。
 宿の前、先程までの騒動があまりこちらまでは波及していないのか、ざわめきはあるものの人の流れは落ち着いていた。きっとあともう少しすれば号外が出回り、事実を覆いかぶせた上での情報提供と、民間立ち入り禁止が言い渡されるだろう。
 それからの方が、もっとこの辺りは落ち着きを無くしそうだ。おそらくそれは今は眠る少年が目覚めた後の事で、その事が少し胸を痛める。
 老人は何も言わず、相変わらず飄々と銜えていたキセルから煙を吐き出して、自身を見下ろす青年とその背中にいる、姿のほとんど見えない少年を見つめている。
 その口は開かれず、そのまま歩を進め、青年の後ろに回り込む仕草のまま、皺だらけの節くれた枯れ枝じみた指先を背中の少年に伸ばした。
 釘を刺したのは青年だが、元よりこの老人は今の状況に対して口出しする気配がない。
 ………この老人が開口一番に何も言わず静観した時点で、あるいは何かを告げる気など、なかったかもしれない。頭の片隅でそう思いながら、それでも青年は老人に釘を刺さなくては何となく収まらず、なお募りそうな言葉を飲み込むように、憮然とした顔のまま背後に回った老人を見下ろした。
 AKUMA騒ぎはこの老人も解っていただろう。そしてそれが被害の割に、青年達二人以上のエクソシストを必要とする程の大規模な襲撃ではない事も、解っていた筈だ。
 だからこそ、こうして彼は彼の本業を優先すると言わんばかりに、情報収集に身を入れていた。それは理解している。しているからこその、憮然とした表情なのだが。
 多分、それはちょっとした甘えだ。
 自分ではなくこの老人があの場にいたなら、もっと早くに事態は収束出来たかも知れない。被害が少なかったかも知れない。………この背中に眠る少年が傷付いても、もっと早く上手にこちらに戻って来させ、涙を思い出させたかも知れない。
 己の師の優秀さをきちんと知っている青年は、それが故にそんな夢想を思ってしまう。
 現実は現実で、覆しようのない過去の存在を論議する愚かさを知っていても、そう思わずにはいられないのだから、人間の感情というものは厄介だ。
 暫く背後で何かしていた老人は、おそらく少年の診断をしていたのだろう、表情も変えずにまた青年の前に戻ると、ちらりと子供のように顔を顰めたままの弟子を見遣った。
 「……そのまま部屋に運べ。少々鍼が必要そうだ」
 むっつりと口をへの字に曲げたまま老人を見下ろしている青年に、さして気にした風もなく老人は告げると、そのまま背を向けて宿に入っていった。
 その後ろ姿は小さくて貧弱な癖に、到底自分が及ばない事を教える程、隙無く毅然としていて。
 …………舌打ちしたい気持ちを飲み込みながら、追いかけるようにして青年は少しだけ駆け出した。


 眠る少年を起こさないように、そっとベッドに横たえる。手伝う気がないのか、処置を早くする為なのか、老人はサクサクと己の鍼の準備をするだけで、青年が四苦八苦しながら少年を下ろす手伝いはしない。
 抱きかかえていたならまだしも、背中だ。眠ったままの相手を静かに下ろす事は難しい。背負う事だって、戻って来たファインダーに手伝ってもらったのだから当然だ。
 それでも文句も言わず青年はそれを終え、邪魔な掛け布団は足元に寄せて、少年の背中が見えるように着ていた団服やアンダーを脱がした。
 途端現れたのは、やはり真っ白な肌で、その肌に残る傷や痣に顔が顰められる。
 寄生型である少年は、治癒力が装備型の自分達よりも上だ。だからそう傷跡も残らない筈だけれど、うっすらとそれらが解る程、この少年は全身に傷を負って生きてきたのだろう。
 ………そうしなくてはいられない慟哭を、過去に聞いた。旅に出て初めて二人で戦った、仲間を見つけた、あの古城で。
 けれど、それでも、生きる理由を他に見つけて幸せに、と。………祈る思いは愚かだろうか。
 「邪魔じゃ。さっさとどかんか」
 噛み締めそうな唇を耐えていれば、それを耐えなければならない元凶の老人が呆れたように言った。
 既に背後に立つその気配に、ギョッとした事を隠しつつ青年は場所をあけた。
 この老人の鍼は効果がある。それはもうお墨付きだ。それでも、今の少年の状態にどこまでそれが効くのか、いまいちその道に精通していない青年には掴みきれない。
 じっと見遣った老人の指先の動き。そのひとつひとつを写真で撮るように、寸分の狂いも無く記録し、そこの情報を書き込む。
 老人の指先が針を刺すツボを辿り、一ヶ所ずつ確認するように叩く。首もと、肩、背中、背骨を降りて、腰。手のひらや腕も確認し、全体を把握した後、老人はおもむろに鍼を摘むと、見ている方が顔を引き攣らせたくなる程長いその鍼を、躊躇いも無く少年の身体に埋めていく。
 実際に痛みがない事は経験上承知しているが、鍼治療は視覚的に受け入れない。患者になる方が余程気楽なその治療の光景を、シスコンのコムイがよく耐えられたと、今更ながらの感想を回顧した。
 「随分と、中身が荒れとるのう。………また、何か抱え込んだか」
 呟いた老人の声は、静かだ。室内も静かで、窓の外の喧噪だけが、今回の騒ぎが段々浸透してきた事を教える。
 それを見つめながら、明るい電気の下、それでも暗く見えてしまう己の心象風景に苦笑を乗せ、青年は口を開いた。
 「今朝、アレンを送ってくれた子供…と、母親らしいのが、死んでた」
 その瞬間を見たわけではなく、被害の大きさを悔やむように眺めた少年が、たまたま偶然目にしてしまったその光景。
 切り取られたその記憶がリフレインする。…………谺すように、幾度も。書き加えられた情報など無意味な程、その姿だけで全てを語る。
 この世界ではなく、彼が心寄せその為に生きる、どこか遠いその空の先に、その命が揺らめき悼む、嘆きと慟哭の音色。
 「怪我は軽い裂傷と擦り傷と、多分、打撲。骨に異常はないし、内蔵の方も無事。………ただし、精神的なストレスは甚大ってとこさ」
 「所見は間違っておらんな。以前のリナ嬢並に気の流れが乱れておる。意識が戻るのはあの時程遅くなくとも、暫くぶり返しに注意が必要そうだ」
 澱みなく少年の背中に針を刺しながら、いつもと変わらない淡々とした音が響く。その音の中に含まれる憂いは………この先の戦闘にこの少年の左目の能力が必要だから、だろうか。
 違うだろうと、また青年の顔が顰められてしまう。
 この師は、自分に色々諌めの言葉を投げかける割に、意外とこの少年に甘い。勿論、それは一定以上の深入りを己で規制した上での、対応だけれど、そうであったとしても面白くない。
 「この子供は、まだ成長途中以前の問題かもしれんな。己の力をどこか、忌避しておる」
 「は?アレンは救済の為に生きているような奴さ。鍛える事を喜んでも、強くなる事を嫌がらねぇっしょ」
 呟く声に、つい反論してしまう。もっとも、言った言葉に嘘は無く、少年はいつも追い立てられるように身体を鍛えようとする節があり、それを抑え息抜きさせるのが、最近の青年の役目だ。
 それをよく知っている老人が何をと片眉を上げて見遣ってみれば、小柄な老人の背中は相変わらず振り返る気配もないまま、患者である少年の前に立ち塞がっている。
 「たわけ」
 答える言葉はいつだって簡潔で、的確だ。
 だから多分、今回のこれもその通りなんだろう。そう思いながら、けれど釈然としなくて唇を引き締め師の背中を睨むように見た。
 最後の針を刺し終えたらしい老人は、漸く振り返った。暫くはそのまま放置されるのだろう少年は、けれど意識が無いが故の反射を懸念し、老人は振り返りながらもベッドの側からは離れず、少年の様子が見て取れる位置をキープしたまま、己の弟子を見遣った。
 「心の揺れぬ人間などおらん。ましてやこやつはまだ子供であろう」
 視線は青年に、けれど意識はどこまでも少年だけに、老人は向けている。それはどこか美しい姿に見えて、胸中が苦い。
 …………そんなにも自分は、その少年に意識を差し出せない。差し出せば……きっと、もっと彼から返されるものを願ってしまう。
 決して自分の思いは無欲でも無償でもなく、与えれば満足出来る類いですらない。それがあまりに克明に映し出された気がして、己の醜悪さに胃が軋む。
 「失った事を嘆き悲しむ事を忘れず、諦める事が出来ないままの子供が、その因を喜びのまま受け入れると思うか」
 声が、響く。眠る少年が聞いたなら頭を振って違うと否定しそうな、そんな痛みの言葉。
 それでもそれを、眠っているとはいえ当人の目の前で綴るのは、ひとえに何も気付こうとしない自分に突きつける為だ。自分が大切に想う相手だからこその、駆け引きだ。
 解っていて、けれど反発心や憤り以上に、老人の厭うものが見えて悔しい。
 ………無機質な語り口な癖に、優しく響くなど卑怯だろうと、青年は顰めた顔を隠すように俯いた。
 まだこの師を真っ直ぐに見ても恐れないでいられる程、自分の内部の情は清らかに浄化出来ない。この先すら、浄化出来るのか解らない。不様でも、それが事実だ。
 そしてそれを、この老人は理解していて、だからこそ、こんな風に少年を間に、師弟での駆け引きが勃発するのだ。
 …………否、あるいは、そう思う事すら計算されて、晒されているのか。この少年の痛みを、誰かが分かち合う事を、望んでいるのか。
 到底読み切れない老人の真意は、眼差しにも声にも雰囲気にも、何も滲ませない程の完璧な遮断の奥に潜められている。
 ただ響くのは、静かで重い、老人の声。
 「当たり前の事を最も尊いと知るものが、異端である事を厭わずにいられるのは、精々それを気に掛けず受け入れるものを得てのちだ」
 その言葉は、間違ってはおらず、それ故に、痛みが身を走る。その痛みを呻くように唇に乗せ、青年は反論するように言葉を絞り出した
 「…………受け入れられてんさ、アレンは」
 エクソシスト達に、ファインダーに、科学班のみんなに。受け入れられ、愛しまれ、大切に見守られている。自分のように浅ましさのない、優しく尊い感情のまま。
 呟きは、けれど返される言葉を知っていて、あまりに力なかった。
 「自覚があればな」
 あっさりと切って捨てられた言葉に、青年は唇を噛む。
 解っている。この少年は遠いどこかを見遣ってばかりだ。そこにこそ幸福があると、彼方へ思いを馳せている。
 ここに戻って来いと告げる声すら、力なく。彼を満たすにはまだ、不十分で。
 それでもやはり、この傍らに留め置きたいのは……どうしようもない己の弱さ故の、エゴだ。
 「それでもいずれは………それを知り、また前に進むであろうがな」
 それが幸いかどうかは誰に解らない。そんな響きを乗せて、老人は呟いた。
 青年はそれを見つめ、遣る瀬無く眉を寄せる。

 きっと、その言葉すら、自身の希望含んでいる。

 透き通る程朗々と響くしわがれた声。
 その中の、ひと匙程の、憂い。

 この師もきっと、自分と同じく愛おしんでいるのだ、と。


 祈りとともに、気付く事を、眠る少年に願った。






 4の続き。
 多分、ラビの一番のライバル(むしろ立ちはだかる壁)は色んな意味でブックマンですよ。
 マナは侵すべからずっていうのを知っているから、一方通行である現状、ライバルにすらなれません。ラビが。

 でも意外にブックマンは後押ししているけど、多分まだまだ当分ラビは気付かないですよ。仕方ないさ、一杯一杯なんだもん(苦笑)

10.9.26