それはまるで練獄の一部。
神曲の一部でもあるまいし、そんなものを目にする筈は無かった。
それでも、それは紛れもなく、眼前にある。
醜悪で惨めで、嫌悪を誘う、
その癖、
……………目を背ける事も出来ない、哀れさで。
そんなものは知らない。
消去出来ない記録などないのに。
これは不要な情報なのに。
身に残しても何にもならない。
解っていて、記録を残した。
…………刻み付けるように、残す事を選んだ。
02.あともう少し
胃の奥から胃液が競り上がる感覚に、随分慣れてしまった。
初めて見た、AKUMAに内蔵された魂の、吐き気を誘う醜悪さが脳裏から離れない。
今更ながらに記憶力の優れた己の頭脳を呪いたくなる。もっとも、あんな強烈なもの、常人の脳で見た所で、同じように記銘されて色褪せもしないだろう。
………思い、また胃が収縮する感覚に辟易とする。もう疾うに胃の中身など空で、胃液を吐き出す事を耐える程度しか、出来る事もない。
いつ何があるか解らないのだから、体調を維持する為にも何か食べた方がいい事は解るが、確実に今の自分では食べたものを消化する前に吐き出すだろう。
それでは無駄に体力を削ると、読書をしている振りをして食事を抜いたけれど、到底脳に情報など書き加えられなかった。
どうしても、離れない。あの、嘆き悲しむように叫ぶ魂の色。消去してしまえばいいのに、そうする気にもならない自分自身が不可解だった。
「……なんじゃ、情けない顔をしおって」
不意に気配もなく、老人の乾いた声が響く。驚くまでもなく、己の師の声に嫌そうな顔をして振り仰げば、相変わらずの無表情がそこにはあった。
この老人ならば、あるいはあの魂を見ても平然としているだろうか。………していそうだと思い、己の未熟さを窘められる事を覚悟して溜め息を吐いた。
「あんなん見た後じゃ、情けない顔にもなるさ。ったく、ジジイも一回見てみるといいんさー」
現状の原因を言外に告げてみれば、ちろりと老人の視線が下げられる。また馬鹿者と冷たく切り捨てられるかと息を吐いてみれば、彼は何も言わずに自分を通り越して自身のベッドに腰掛けた。
まさか老人がなんの反応も返さないとも思わず、目を丸めて彼を見遣ってみれば、どこで手に入れたのか、他国の言葉で書かれた新聞を広げている。………相変わらずの喰えない無表情のままで。
ムッとして、青年は立ち上がると、わざと老人のベッドを揺らして座り込んだ。ブーツも脱ぎ、ベッドの上で胡座を掻いて退かない事を暗に示せば、少しは相手が反応するかと思った。が、相手は青年がどうこう出来る程容易い相手ではなく、そんな青年の行動すら看破していたかのように動揺は見当たらない。
青年の乱暴な所作で揺れた小さな体躯は、けれど相変わらず飄々とした風情で新聞を追っている。恐ろしく速い目の動きは、まだ自分でさえ到達出来ないスピードで、彼との歴然とした差を見せつけられるようで面白くなかった。
「………どんな姿じゃった」
新聞を取り上げたら蹴り飛ばされるくらいで済むかと少し思案していた青年に、唐突な質問が投げかけられる。質問を吐いた老人は、新聞を捲り、次のページに視線を移していた。
彼の発言が自分に対してか新聞に対してかを悩む意味もなく、青年は話を聞く気があったのかとキョトンとしつつ首を傾げた。
「へ?内蔵された魂の事?」
当然の内容確認に、けれど相手は明らかに呆れた溜め息をはき出し、言葉短に返してくる。
「他にあるか、馬鹿者」
「へーへー。まあ、言っちまえば、地獄の一部そのまんまって感じ?」
相変わらずの横暴さだとむくれながらも、青年は老人に解答を返す。
あれ、は。………言葉を尽くして伝わるものではないだろう。想像してもらう以外にどうしようもない。
見えるだけだというのに、その叫びも異臭も感じ取れるような、そんな光景。
どうあってもあれは、慣れる事など出来ない。そんな地上の汚濁の塊だった。
あんなものを事ある毎に見るなど、自分は御免被りたい。この優秀な脳は好む好まざる関係なしに、一度見たものは寸分の狂い無く記録してしまう。
勿論、それは己の意志で消去も可能だけれど、消去すると解っているようなもの、初めから見る意味など無いというのが本音だ。
だから、あれは見たくない。出来る事なら、誰も見ないままの方がいいに決っている。
「ふむ。………ではそれは、救われるべき対象か?」
「はぁ???何言ってんさ、ジジイ」
そんな、まるで神の使徒を気取るような言葉、老人には似つかわしくない。彼はいつだって一歩退き、他者に混じりながら傍観者である事に徹するプロフェッショナルだ。
少なくとも自分は、彼が一度だって他者に心痛めて救おうという意志を示した姿など、見た事はない。
それは冷徹ではなく、この職に就くならば定めなければならない覚悟だ。そうでなければブックマンなどという血脈は、疾うに絶えている筈だ。
だからこその、疑問。無意味な事など問わない彼が、敢えてそれを口にする真意が解らない。
「最下層に落とされた魂を、救う意志を持つか?」
「……………なんさ、それ、俺ン事試してんの?てか、ジジイがいつも言ってんじゃねぇか。俺らはエクソシストじゃなく、ブックマンだって」
それはつまり、世界を救うなどという大それた意志ではなく、記録というその為だけに力を奮う事だ。そんな自分達に誰かを……ましてや、あんな救いようの無い魂のみの存在を救う意志など、ある筈も無い。また、携えるわけにもいかない。
解りきった解答。愚問という意味すらない問いかけ。
けれど自分など足元にも及ばない程の経験を備えたこの老人が、そんな事をする筈も無い。
何を見落としているのかと、眉を厳めしく顰めて老人を見遣れば………ゆうるりと息を落とされる。
まるで、そんな単純な事にもまだ気付かないというような、あからさまな言外の態度にムッと唇を引き結べば、漸く老人は紙面から青年に目を向けた。新聞は脇に退けられ、既に読みきってしまった事が解る。………人に問答を仕掛けておきながらも自身はしっかり必要な情報を吸収している老練な相手に、苦いものを含むように、青年は更に険しい顔に変えた。
そんなものは歯牙にもかけず、冷めた眼差しのまま老人は、その皺の刻まれた頬を小さく動かして音を綴る。
「誰が馬鹿弟子の話なんぞしておるか。もう一歩、前を見ろ。それを見たのは、何故だ。救おうとしておるのは、誰だ。………おぬしの事だ、どうせ考えもせずにいらん事でも言ったんじゃろう、しゃべりめが」
珍しく長々と告げられた言葉に目を瞬かせた一瞬の後、ぎくりと青年は身体を強張らせる。
…………この老人が、そんな事をわざわざ言うのだ。それはきっと、言わざるを得ないものを、見取ったからだ。
そしてそれは、確実に今言われた事に起因する。
「傷つけ、た?俺、なんかマジィ事、やっちまったか?」
「知るか。そんな事は己で考えんか」
あっさり過ぎる、先程とは打って変わったいつも通りの簡潔な解答。それが妙に苛立って、青年はつい、食って掛かるように間合いを詰めて老人に詰め寄る。
「心当たりないさ!だって、あいつ、なんも言わねぇし!」
そう、言わなかった。あの醜悪な魂を見ても、彼は何も言わなかった。言わないで、ただ俯いた。悲しそうに寂しそうに、その癖、それらを全て飲み込み消化するように、また前を見つめた。
それら全ては彼一人で行なわれ、自分は入り込めもしなかった。彼の中にあるものに、自分は近づけてもいないし、組み込まれてもいない。それなのに波紋など、起こせる筈が無い。
無い、のに。………この老人は自分が原因だというように告げる。そして考えろと示す。
解る筈がない。解るだけの条件を、自分は彼から与えられていない。この老人ではなく、あの小さく幼いままの、後輩エクソシストに。
思い、愕然とする。老人に伸ばした腕は、力なく小さく震え、相手を睨む筈だった隻眼は彷徨うようにして地を見下ろす。
あの少年は、自分よりも幼いのだ。………確実に、自分よりも経験値だって少ないだろうし、世界の汚濁を見る機会だって乏しいに決っている。
けれど、彼は恐れもしなかった。怯えもしなかった。嫌悪など、微塵も浮かべなかったまっさらな眼差しを脳裏に想起する。
何一つ脚色などしていない、あったままのその画像は、恐ろしく生粋の命を晒した。彼はあれと戦っていた。自分がそこに加わるまで、たった一人であれを見つめ、それに臆する事もなく、戦っていたのだ。その魂を救済するため、に。
それが揺らいだ、瞬間。思い出せる。己の望むままに、寸分の狂いも無く。
それは確かに、自分が告げた、不用意なたった一言、で。…………それは、あるいは、彼のその外見を忌み嫌ってきた周囲の人間と同じだけの鋭さを持っていた……のだろうか。
「…………………ぁ…」
そんなつもりがなくとも、そう響いたであろう言葉。
あの前を見る事をすぐに定め、己の向かう道を見据えていた眼差しを揺らがせた。それは確かに自分の配慮の無さだ。
「阿呆が。お前が18年生きて、48回名を捨てた数だけの経験を、どれだけ無駄に活用する気じゃ」
漸く解ったかと告げる声は、どこか沈んだ音だ。…………珍しく感情がその音に滲んでいる。
それを見上げようとして、けれど、俯けた顔は持ち上げられなかった。
……………考えろと言われた。師に考えろと言われなければ、気付かなかった。その事実がひどく痛くて、その痛みに、驚いた。
痛む意味が解らない。痛む理由が解らない。そんな必要はないのだ。その少年は記録対象で、自分はブックマン後継者で、だから傍にいて………それ、なのに。
痛んだ。傷つけ悲しませただろう事に、心と言われるべき箇所が、痛んだのだ。そんなもの、持ち合わせてなどいない筈なのに。
「嫌なら消去しろ。出来ないわけでもあるまいし、何を悩んでおる」
それは記録対象にする意味は無い。語り継ぐ価値がないわけではないが、夢物語のようなものだ。魂の形など、この先の歴史にどう影響を及ぼすというのか。その魂の作用であればまだしも、見目形に価値はない。
無いものを刻む必要も無い。語り継ぐ裏歴史は膨大で、その中から必要な物を取捨選択するだけの器量もまた、ブックマンには必要な能力だ。
切り捨てればいいと、示した。………それは当然の方向性。不要なものは捨てなければならない。ましてやそれを抱えるが故に、こうして食事を拒否するようならば尚の事だ。
暫くの沈黙。恐らくはフルスピードで様々な事を思い描き、この愚かな弟子は選ぶ道を模索しているのだろう。一瞬で決められない時点で、既に答えなど出ている筈だというのに、それでもまだ躊躇い逡巡するのは、未だ歳若い故だろうか。
思い、俯いたままの赤髪を見遣れば、小さく空気を震わせた、潜められた音。
「……………………………明日は、飯、食う」
「………………」
「それなら、いいんさ?」
抱えても、自分がそれを乗り越え消化出来るなら。消し去り忘れるのではなく、飲み込み血肉に代える。それを選ぶのもまた、ひとつの選択肢。
消去したくなかった。消す事は容易くて、そうすればきっと、自分はすぐに昨日までと同じ笑みを浮かべられる。なんの問題もなく、またあの少年の隣に立つだろう。
それでも、そうしたくなかった。あれは、少年が抱えていた闇の色だ。あの細い身体でたった一人だけ、誰とも共有する事も出来ず告げる意味もなく、それでも飲み込み救う意志で受け入れた、対象物。
消したくなかった。自分も同じものを見た。共有出来る、のに。あの少年をまた独り放置して笑いかける事で、あの瞬間の悲嘆の色で眼差しを染めたくなかった。
理由など知らない。けれど、そうしたかった。だから、選んだ。示されなかった、もうひとつの選択肢を。
…………老人は答えない。それがひどく重くのししかかる空気に変わり、青年もまた、顔をあげられない。
喘ぐように小さく繰り返される呼気は、それでもたった今の発言を撤回する気はないらしく、音を紡ぐ気配は無かった。
ほんの数分の、それは駆け引き。沈黙の恐怖に平伏すなら、この先の対応も変わろうかと思ったが、それは杞憂だったらしい。………否、この結果こそが、憂慮すべき始まりか。
思い、深く息を吐き出す。それが重い溜め息とならぬように、細心の注意を払って。
弟子の肩が揺れ、もう一度同じ言葉をその震える唇に叫ばせるより早く、老人は静かに永き沈黙を破った。
「小僧ですら12歳で乗り越えた事を、ブックマンの跡継ぎが乗り越えられないなど、恥と思え」
そうして、この話は己で蹴りをつけろと、そう告げるような容赦のない拳を、俯いたまま上げる事も出来ない情けない頭に撃ち落とした。
大声で喚く声に、驚いたようにドアをノックする音。
躊躇いがちの気遣う声に、老人はただの折檻だと軽やかに答える。
ベッドの上、頭を抱えて蹲る弟子は、何かドアの外に応えたそうに顔を上げ、けれど唇を引き結んだ。
まだ、それはきっと、答えに気付いていないが故の所作。
この先こそが思い遣られると。
小さく小さく老人は溜め息を吐き、ドアを見つめた。
既に気配はなく、少年はいない。
この出会いが何を
せめてそれが少しでも幸いであればいい、と。
珍しくも好々爺のような事を思う自身に、老人は苦笑を落とした。