知らない事は沢山ある。
でも
同じくらい、知っている。
あなたが優しい事
苦しんでいる事
躊躇っている事
それから、
触れる指先が、本当は少しだけ震えている事。
それはまるで微睡むように
もう既に慣れた教団の中、珍しく暇な時間を使って書庫へとやって来た。
それは別に自分の用事故ではなく、頼まれごとを完遂する為だったけれど、教団内ではよく出向く場所なだけに、さして労苦は感じなかった。
書庫はひんやりとしていて少し薄暗い。常駐している人もいないせいか、地下室にでもいるような圧迫感もあった。
それも初めのうちだけで、慣れてしまえばどうってことはなく、キョロキョロと頼まれた資料が置かれているらしい場所を目指した。
自他ともに認める方向音痴の少年は、けれど迷わずに足を進めた。知っているからではなく、これを頼んだ老人がその事を的確に知っていて、迷わないように教えてくれたからだ。
「えっと……入って3つ目の棚を左…で、本棚の区切りが5つ目…の、下から3段目。うん、ここだ!」
一発で目的の場所を探し当てられた喜びに声が弾んでしまう。機嫌よくその棚を眺め、老人が書き記した書籍と同じタイトルのものを抜き出した。
思いの外簡単に出来たおつかいに満足して、少年は書庫を後にし、軽い足取りで自分が帰るのを待っている老人の部屋へと向かう。
老人はあまり表情を変えず、物静かで、その癖ちょっとお茶目で、彼の弟子と一緒にいる姿は多分微笑ましいというものだ。勿論、それはポーズでもあるだろうし、時折鋭い視線と潜められる音とであの師弟が何か、互いにしか解らない会話を交わしている事も知っている。
聞き取れないのではなく、知らない言葉で話している。似通ったような発音で、けれどそれは決して言葉には変わらない、不可解な音。
それは疎外感を教える筈なのに、不思議と老人のその声は優しく囁く歌のようで、少年は嫌いではなかった。
もう何度も辿って覚えてしまった老人とその弟子の相部屋のドアが見え、少年はその数歩をリズムよく早め、そのテンポそのままの明るさで扉を叩いた。
低く小さな返事に扉を開ければ、出て行った時と変わらない体勢で老人が巻物を読んでいる。確か出て行った時は新聞のようなものを何冊か膝に乗せていたから、この僅かな時間の間に読破して次の書籍に移ったのだろうか。
自分では考えられないスピードで、自分ならば読みたくもない難しい本を次々に吸収している老人に、つい尊敬の眼差しを送ってしまうが、それが本職なのだと窘められないようにそっと視線をずらした。
ずらした視線の先、先程は確かベッドで寝転がりながら老人と同じく本を読んでいた筈の青年がいなかった。考えてみれば書籍を受け取る為に声をかけられなかったのだから、当然なのかも知れない。
首を傾げてみれば、同時に降ってきた声。
「あやつならばおぬしへの駄賃を取りに行っとる」
「へっ?ってブックマン、いつの間に……」
いつもの通り音もなくすぐ隣に立っていた小柄な老人を見下ろし、苦笑しながら頼まれていた書籍を彼に渡した。
それを受け取り、老人は小さく礼を言い、懐から取り出した煙草を口にする。
本が溢れた場所でいいのだろうかと見遣っていれば、その視線の意味を理解しているのだろう、危険はないと窘められてしまう。もしかしたら煙草とはまた違うものなのかも知れないが、少年には解らなかった。
どうにも、年長者であるという点が大きいのか、彼の性質故なのか、少年は老人に窘めの言葉を与えられる事が多い。
それは決して嫌な事ではなくて、むしろどこか柔らかな窘めは心地よくて、つい照れたように顔を俯けてしまう。………が、俯けばその視線の先にこそその老人がいるのだから、余計に恥ずかしいのだけれど。
「あ、あの、ブックマン?えっと…ラビ、何取りに行ったんですか?駄賃って…別に僕、暇だったからお手伝いしただけで………」
「ああ、気にするな。駄賃という名目で、わしら全員の軽食じゃ。もっとも、おぬしの満足する量となるとなかなか運ぶのは苦労するじゃろうが、よい修行じゃろう」
最近鍛錬を怠けておるからな、と人の悪い笑みで言う老人に苦笑が濃くなる。
青年が鍛錬を怠けているというなら、自分も怠けている事になるだろう。その程度の鍛錬は、青年とて怠っていないのだ。
それでもきっと、彼らの本職を考えるなら、身体も心も鍛えるのに手は抜けないのだろう。危険はいつだって隣り合わせなのだ。人こそが彼らの記録する対象で、その対象物こそが、彼らを死に至らしめる可能性を秘めている。………もしかしたら、だからこその出会った当初の青年の言葉なのかも知れない。
「じゃあお言葉に甘えて。……手伝いに行くと、逆に邪魔ですよね?」
躊躇いがちに付け足した言葉に、煙を吐いていた老人の片目が少し大きくなる。隈取りのメイクをしているせいか、彼の表情はよく解らない。それでも老人は随分と少年にも解りやすいようにそれを教えてくれていた。
老人が吐ききった煙の跡を目で追っていると、老人は読み始める筈だった書籍を隣の山に乗せる。グラグラしそうな程高い本の山は、けれど微動たりともせずに綺麗に佇んでいた。
「ふム………おぬしは気付いておるようだな」
「はあ…まあ、当事者ですし。でも、多分ラビは知らないですよ…ね?」
「まさに当事者本人なんだがな。あやつはあれで己について鈍い」
辟易とした響きの老人の声に、少年は思わず吹き出してしまう。
本を手繰らなくなった指先が、近くに来てもいいと教えているような気がして、ほんの少し躊躇いがちな歩みを、床に散乱した書類を踏まないように気をつけながら老人へと向ける。
彼の隣には座るスペースがないので、先程まで青年が横になっていたベッドの端に腰掛け、すぐ近くの老人の顔を覗くように窺った。
「鈍い…というより、気付かないようにしている、じゃないですかね?」
「疾うに手遅れだろうにそう思い込んどる。まったく、いつまで経っても未熟者だのう」
それは呆れるよりはどこか愛おしむ音。………口で言う以上に、彼は己の弟子を評価している。しているからこそ、その芸術作品が壊れないように気をつけてもいるのだろう。彼の年齢を考えたなら、あの弟子を失った後、後継者を育てるのは少し難しい。
きっとそんな老人から見れば誰もが未熟だろう。歳経たが故の老練さは、戦場に足を踏み入れていてもなかなか培われない。……むしろその人生の大半をこうした戦いの場で過ごしている人なのだから、追いつける筈もないのかも知れない。
そんな事を思いながら、少年は自分の手のひらを見つめた。
………自分でも嫌になる程白い貧弱な右手と、その手の幾回りも大きな、手袋に覆われた左手。
生活をする分にはなんの不自由もないけれど、この左手は人に不快感を与える。知っているから、隠すようにずっと手袋の中にしまっていた。
この教団の中ならそれが解放されても許されるのだろうけれど、どうしても習慣は消えない。
「手遅れ…なのは、どっちなんでしょうね」
この手を。……否。自分を。触れるその時に震える指先を知っている。
柔らかく溶けた眼差しで、愛おしむ声が名を呼ぶ仕草も知っている。
…………それがどれ程深い情か、知らない程鈍くはないのだ。
ただ、自分以上にそうした事に慣れていて敏感な筈のその本人は、それを隠し通せていると本気で思っていて、不思議そうに自分が見上げても首を傾げるばかりだ。
先程書庫へのおつかいを頼まれたのも、そんな自分達を見かねた老人の助け舟で、多分青年が今ここにいないのも、老人が追い出したせいだろう。
そう思ったからこそ、自分から始めた話は、口にしたならばひどく痛い。…………この次に告げる言葉故と、解っているけれど。
「…………僕、近づかない方がいいんですかね」
それは、けれど寂しいと、つい声に愛惜が塗れて響いてしまう。歪んだ視界が目の方にも愛惜を溜めている事を教えた。
彼らはエクソシストだけれど、本職が別にあって、それが最優先で。その最優先にすべき事の邪魔になる場所に、多分今、少年はいるのだ。
それを自惚れだといっそ両断されれば、こんな物思いもしなくていいのに。
………そう言われる事を願って告げた筈の言葉は、むしろあっさりと肯定されて、今老人と二人きりでいる事実がひどく重く思えた。
老人に言わせるよりはと、言われる前に自分から告げた言葉は、けれど何故か室内に落ちたまま拾われる事がない。
煙が、ゆうるりと揺れる。老人の髪のようにゆらゆらと、不思議なダンスのように眼前を行っては消え、上空に流れる。
首を傾げ、老人を見遣る。先程同様、すぐに肯定の言葉が返ると思った言葉に、老人は何も言わない。
「…ブックマン………?」
聞こえない筈がないと、そう問い掛ける声に、老人は目だけを向けた。
そうして最後の煙を吐ききると、ぴょこんと可愛らしい動きで座っていた場所から飛び降り、少年の座るベッドの端まで歩み寄った。
小柄な老人は、その位置で初めて少年と目線が同じ程の位置になる。叱られるのだろうかと、叱責を思って、つい目を瞑ってしまった少年の額に指が触れる。
…………書籍を大切に手繰る、優しい指先だ。弾かれるわけでも撫でられるわけでもない、ただ目を開けろと教えるような、そんな温もり。
怖々と目蓋を持ち上げれば、眼前には思った通り老人の顔。無表情な中、それでも、彼の目は柔和だった。
戸惑い、垂らされた眉毛が情けない子供の顔を少年にさせた。
「決めるのはおぬしじゃ。あれは鬱陶しいぞ。かなりな」
あまり薦める気はしないと、盛大な溜め息を吐けて言った老人は、ふとした気まぐれのように唐突に少年の額を押していた指先を滑らせ、その真っ白な髪を掻き混ぜた。
「え、ちょ、ぶ、ぶっく、まん????」
「ジジイー、取り合えず第一弾これっくら……って何やてんさ、パンダ!!!」
驚きに洩れた少年の問う声音と、無造作にドアが開けられ響いた青年の声が重なった。
両手一杯の食べ物を気遣う事もなくベッドに置いた青年が、そのまま、まるで老人から少年を奪い返すような勢いで肩に手を回し、抱き寄せた。
「誰がパンダじゃ。どさくさ紛れにおぬしこそ何をやっとるか、バカモノ」
普段は今の老人と同じ真似ですら、緊張に気付かれないようにするだけで一杯一杯だというのに。少し他の者が同じ真似をしただけで取り乱すなど、冷静の欠片もない。
もう一度盛大な溜め息を落とし、老人は青年の腕の中に収められて真っ赤になっている少年を見遣った。
答えは多分、解っている。この先おそらくは波乱が多いだろう。
この少年はそれを乗り越えるくらいの胆力はあるが、この馬鹿弟子にはあるのかどうか。精神面の鍛錬をもっと強化しておこうと、今からトレーニングメニューを脳裏に描いた。
そうして、早速ひとつ、精神鍛錬のいい題材を見つけ、老人は自分から離された少年の手をポンと叩き、目だけで笑った。
「?」
「なんさ、ジジイ、ま〜だアレンにちょっかい掛ける気さ?」
「おぬしには関係あるまい。さて、小僧。先程の返事は…まあ、こやつのおらぬ時にでも聞かせてもらおうかのう。ゆっくりで構わんぞ」
「へ?あ、あの、ブックマン?????」
それは答えるべき事かと問おうとした瞬間、肩に回されてたままの青年の手のひらの力が強くなった。
「ジジイー!!なんさ、教えろよ!なんの話さー!!!」
「おぬしには関係なかろう。わしと小僧の内緒話じゃ」
のう?と。どこか人の悪い笑みで同意を求める老人は、やはりお茶目で自分の弟子が大事なのだろう。
そう思えば浮かぶのは笑みで。
その笑みに更にまた、少年の肩を包む力が強くなった。
ああ本当に、きっと。
老人のいう通り、相当手がかかる。
それでもきっと、この力強い腕はあたたかく優しいと。
それだけは確かに知っていて、大人しく腕の中に収まった。
彼が現状に気付いて真っ赤になるまでの、あとほんの数秒の間だけだけれど。