不用意な言葉を、いつも自分は口にする
それは悪意などではなくて
ぽろりとたまたま落ちてしまうような、そんな音
たいして考えて告げるわけでもなくて
それは多分、今までがあまりに短い期間しか
同一の人間と関わらないでいたが故の、悪癖だ
それでも、痛めた事実は変わらない
その事実故の結果なら
その傷すら、自分が与えたのだと
目眩がする程の罪悪感に、愕然とした
04.隣には君
見た瞬間、息を飲んだ。
リナリーが掴んだアレンの左腕……イノセンスの寄生したその左腕は、ボロボロで崩れかけている。
今までも寄生型を見た事はあったけれど、一度だってこんな風に脆く綻ぶ姿は記録した覚えがない。明らかに、それは異常だ。
それでも少年は慌てて誤摩化そうとするばかりで、痛みも告げず隠そうとばかりする。
その瞬間、ちらりと送られた視線が、その意味を克明に自分に知らしめた。
「なあ、…………怒ってる?」
その日の宿で、不意にそんな言葉が響く。
移動ばかりの中の、久しぶりの宿だ。もっとも、このあとすぐにまた妓楼へと向かう事を考えると、宿というよりは休憩所に近い感覚だったけれど。
それでも一応の礼儀として、店が始まる前…赴くまでの時間は風呂などの身繕いに当てられた。
そうして、先にいただいたシャワーから出た後の、唐突なまでの一言。
「………はい?って、え、僕が、ですか?なんで?」
通常、年下で後輩の自分が先にシャワーを浴びたのだから、もしもその言葉を発するべきであるなら、自分の方ではないだろうか。そんな事を考えながら、椅子にかけておいたシャツに腕を通した。
目を瞬かせて見遣った先にいる青年は、普段のヘラっとした笑みではなく、少しだけ真面目そうで……緊張でもしているのか、眉間に微かな皺が見て取れた。
まだ出会ってそう時間は経っていないから断言は出来ないけれど、彼はそうした顔を理由もなくするタイプには見えない。………つまり、先程の発言もからかっているのではなく、彼なりの理由、あるいは原因となる事柄があるが故のものなのだろう。
思い、少年は一瞬だけ時計に目を向け、少しくらい話が長引いても青年が身繕いを行なう程度の余裕がある事を判断し、彼に向き直った。
きちんと話をしなくては、これからの旅に支障が出るのかもしれない。それは危険が増すだけで得策ではなかった。それになにより、そんな打算抜きで、出来る事なら彼にはそんな顔ではなく、いつものように陽気に笑っていて欲しいと思う。
…………既に自分は、彼にひどく嫌な経験を押し付けてしまったのだから、尚更強くそれを願った。
少年の態度で話に応じる気がある事に理解した青年は、少しだけ言葉を躊躇うような間をあけた後、それでも真っ直ぐに少年を見遣って言葉を繋げた。
……少しだけその声が常よりも固く感じたのは、あるいは互いにとってそれが、一種タブーであったが故だろうか。
「俺が、AKUMAの魂見た時、言った事」
瞬間、少年の目が硬質化した。それはもしかしたら無意識で、相対していた青年だけが気付いたのかも知れない。
その反応に、青年の隻眼が揺れるように歪む。
少年の痛みが、如実に伝わるような、ほんの一瞬だけの揺らめき。もっと感情的に嫌悪でも怒りでもぶつけてくれれば、まだよかった。そうすれば言い訳も出来たし、少年が抱えたまま独りで背負うような真似、させないでいられた。
「………だから、お前、どんどん一人で暴走するみたいに戦ってんさ?」
自分がどうしても、人の深い部分に鈍い事を痛感する。己の師に諌められなければ、多分今もまだ首を傾げるばかりで、少年の痛みなど露程も気付かなかった。
たまたま告げた言葉に、……事実でしかない言葉に、そこまで人は深く傷付くと、知っている癖に、理解していない。詰め込まれたものは知識でしかなく、経験に基づいた実感はあまりに少ない。
本当は、どこかで解っていたのかも知れない。現状を分析するのは自分達の得意とする事で、エクソシストしかいないこの旅の最中、たった一人に負担がかかるなどおかしいのだと、認識出来る。
ちゃんと情報を告げてフォーメーションを組めば、もっとずっと効率よく負担も分散化し戦える。それを本来なら自分がこの少年に示唆し、上手くフォローするべき立場な筈だった。
…………それなのに、老人が言っていたように、少年は他のエクソシストの倍以上戦っている。
異常だ。それは、まるで摩滅する事を受け入れた鉱石のように、削りゆく自身の身を静観している程、異常だ。
その因が、何とはなしに青年には解り、そしてその因は明らかに己の失言故である事が明白で、だからこそ余計に、気付かない振りをしていたのかも知れない。
何も言わず真っ先にAKUMAに向かう少年も、それを諌めきれない自分も、脆く崩れそうな彼の左腕に気付な程余裕がない事も。
何もかもが、始まりの部分から躓いていて、上手く回らない歯車にやきもきするばかりだ。
「違いますよ。…………だって、ラビ、あれを見たら、誰だって同じ反応をするでしょう?怒るような事じゃないです」
だからもういっそのこと、彼が抱え込まずに自分に怒りを向けてくれればと思い言った言葉は、けれどやはりどこかチグハグにしか、彼に届かない。
言葉を司り裏歴史を綴る身でありながら、何とも歯痒い。彼に響く音は、どこまでも自分からは遠かった。
諦めたような、彼の笑顔。多分、それはきっと初めから携えていた笑みだ。人当たりよく柔らかな笑みは、自分が被っていた仮面とよく似ている。その仮面の意味が違うだけで、きっと彼もまた、何かを隠し続けているのだ。
………否、隠すのでは、なくて。失う事のないように、必死に、守り続けているのか。
その理由も対象も、今はまだ自分には解らず、それ故に、告げる言葉はどこまでも彼に真っ直ぐには届かない。
「…………じゃあ、怒って。怒って…うん、殴ってもいいさ?ほら」
届かないから、届かせたかった。踏み込もうとすれば一歩退き、躊躇いがちに笑むばかりのこの少年は、多分、自身に好意を見せる相手を恐れている。
いつそれが失われるか。永遠の別れ以外の多くの裏切りを、きっとその幼い身でも十分知り尽くしてきたのだろう、渇望が諦観で覆い隠されてしまった寂しい微笑み。
彼のその腕を取り、そっと自分に向けさせる。掴んだのは、右腕。今の左腕は脆過ぎて、その腕で殴れなど、言える筈もない。
多分、彼はそれなりに身体を鍛えていて鍛錬を怠っていないから、本気で殴られれば相当な痛みがあるだろう。それでもその腕が憤りを示せばいいと思う。
憤りは、望むが故に発する感情だ。求めるが故に沸き起こる、激情だ。
………思い、ならばいっそ、逆に痛い方がいいかも知れないとうっそり胸裏で笑んだ。傷が残って、それを見る度に彼がその感情を思い出せる程強烈に刻まれれば、いいのかもしれない。
そうすればこの意志は彼の元、常に届くだろうか。綺麗に美しく畳まれた既製品の感情ではない、個々の生い立ちと魂の合致故に生まれる、煌めくオートクチュール。
それを確かに内包している筈の少年の、しなやかな手首を掴む指先に力が籠る。気付いてと、叫ぶように。
その視線の先、少年の身体が少しだけ跳ねる。表情がぎこちなく動いて、顔を引き攣らせるようにして唇を震わせた。
「はぁ?!い、意味が解りません!だから、僕は怒ってないし、その意味もないんですってば!」
その指先の強さと相手の眼差しのひたむきさに、殴られる事すら真実望まれているのであろう事が読めたのか、慌てて少年は身体を退けさせようと一歩後ろに下がり……けれど、失敗した。
振りほどけなかった右腕が、青年との距離を遠ざけてはくれない。
その事実に僅かに顔が歪む。…………怒っているのは自分ではなく青年だと、そう詰りたい気持ちが湧き、同時に、そんな資格もないと一瞬で鎮火してしまう。
それは、ほんの微かな眉の動きと瞳の揺らめきだけで完結された、少年の心理。それでもそれは僅かながら表面化していて、ひとつとして取り零さぬよう見つめていた青年の目には、はっきりと刻まれた。
驚きと、動揺と。………それに、ひと欠片程度の、恐怖。そうして揺らめかせて、漸くこの少年は自身の中の感情を零す。年齢の割にひどく厄介な子だと、苦笑が浮かびそうだった。
「あるから言ってんさ。怒らないって…それ、単に俺を近づけたくないって事っしょ?」
もう一押しと、一歩を縮めた。同じ距離を後ろに逃げられないように、少年の肩を逆の手で押さえる。
少年の瞳の揺らめきが、また現れた。今度のそれは……怯え、だろうか。
銀灰色は左右に揺れ、ついで頤ごとゆっくりと床へと向けられる。青年を視野に入れない精一杯の努力を、していた。掴んだ手首が少しだけ引き攣れて、もしかしたら彼が震えているのかもしれないと思わせる。
そうして、どう掬い取ろうかと目算していた青年の耳に、小さく弱く響く、掠れそうな音色が流れた。
「…………呪われた人間に、近づきたい人なんて、いないでしょ?」
「いるさ。ほれ、目の前に」
歌うように少年の言葉は滑らかだった。幾度その言葉を口にし、己を諌めてきたのか。………考える事も愚かかもしれない程、その声に滲む恐れと裏腹に、言葉はひどく滑らかに綴られている。
痛ましいと、それを思う事はあるいは侮辱だろうか。思いの外矜持の高い少年は、見下されたなどと思えば、二度と近づけてはくれないだろう頑固さも持ち合わせている。
慎重に、けれど出来る限り軽やかに。彼がその言葉を思い詰めない程度の柔らかい響きで告げた言葉は、彼に届いたか。俯く少年の表情は読み取れず、言葉の距離感がひどく難しかった。
「俺は知りたがりなんさ。気に入ったもんの事は、全部知りたい。から、アレンが見ている世界だって、そりゃ驚いたけど、消去なんかしないさ」
びくりと、腕に伝わらずとも視覚情報で十分解った、少年の身体の震え。
…………恐れていたのだろう、きっと。言葉をどれほど尽くしても、あるいはその恐れは消えないのかもしれない。
己が縋り失う事の出来ないモノが、仲間に拒絶され忌避される、その恐怖。漸く得た安住を再び手放し独りになる、恐怖。
まだたった15歳の少年だ。全てを悟るなんて出来る筈もない。………また悟るべきではないのだ。
それはきっと、悟ったという思い込みでしかない、他者の拒絶しか生まないのだから。
だから、気付くといい。………この腕の存在に。
知りたいと伸ばす、この傲慢で横暴で……それでも何よりも少年を求める事を諦められない、この腕を。
………いっそ失いたいと思われなければいいという自嘲を込めて、捧げる。自分が今彼に与えられる、たった一つの確かなものを。
「だから、傷付いたなら怒って。んっで、嫌な事嬉しい事、全部教えて。そうすりゃ、お前もっと気楽に歩けるさ」
「駄目、ですよ、ラビ。甘えさせないで下さい。僕、甘えていいって思うと、本当に際限ないんです。だから、駄目です」
俯いたままの顔。声が、震えていた。それでも解答は明確な程、躊躇う間もなく一瞬で返される、否定。
何かを思い出しているのか。何か彼の中の琴線に触れたか。………この先、彼を知り、支え、守る為に、ひとつも余さず記憶する。
脳ではなく、心に。…………存在する筈のない、己の心に。
「それでいいって言ってんさ〜。ったく、年下なんだから、もっとお兄さんに甘えるもんさ」
そうしてもっと、近づいて。一歩縮めた距離を、こうして押さえ込まなければ逃げるような心ではなく、当たり前に縮まる距離を受け入れる、そんな心を。
捧げたこの腕に、添えて欲しい。…………この上もない、身勝手な我が侭な願いで、強く祈る。
掴んだ右手はまだ強固で、力を籠められたままで、掴む腕が緩めばその瞬間、俊敏に逃げてしまうだろう野生の生き物。
一度は人の手に堕ちていたのだろう、その珠玉の生き物は、更にそれを磨かれ美しく成長して……………野生に戻ってしまったのか。
失った優しい御手を嘆き、朽ち果てるその時まで、その御手だけを思うような、そんな一途な情の在り方。
「ま、いいさ。いきなり全部って言われても、無理なモンさね。でも、忘れないで覚えておくさ。俺は…違うな、俺らは、アレンが甘えたって嫌だなんて思わないさ」
気付いて、と。きっと誰もが声にも出さずに叫んでいる。一緒に旅をする、誰もが。
共に戦う力があるのだ。寄り添える心があるのだ。だから独り傷付かず、その腕を伸ばして欲しい。
自分の祈りは独り善がりだけれど、他のみんなの祈りは純粋で美しいものだ。それに寄生するような浅ましさに胃が痛むけれど、それでもいい。
自分の醜さなんて、どうでもいい。美しいもの達を見つめて、この独りぼっちの少年が遠ざかる歩みを止めてくれるといい。
「だから、早く俺らに慣れるさね。そうしたら、目一杯甘やかしちゃる♪」
だから、だから、もう一度こちらにおいで。
そうして、出来る事なら自分の腕を、取って。美しくもなく、歪で、それでもきっと彼にだけ届くこの腕を。
抱き締める事も出来ない臆病さも、その顔を覗く事も出来ない腑甲斐無さも、全部全部乗り越えて、彼が甘えたいだけ甘えさせられる存在になるから。
震える小さな細い身体。………近づく体温にも心にも、どうぞ慣れて。
………………………祈るようにそっと、真っ白な髪に、口吻けた。
人の輪の中、微睡むように覆い隠されないで。
この腕の中、もう一度花開いて
美しく艶やかに、
喜色に染まった笑みで、花開いて。
…………………たった独りで微笑まず、どうぞ傍に置いて下さい