伸ばされた腕に驚いた
捧げられた言葉に驚いた
向けられた眼差しに驚いた
今もまだ、驚き続けている
自分を……呪いに染まった自分を
それでも関わり受け入れたいのだと
願うように乞うように
差し出されたぬくもり
優しさこそが一番、恐ろしいのに。
05.触れ合わない手
おかしいな、と。思わないわけではなかった。
どこがとか、どうしてとか、そう言われると答えようがない、そんな感覚でしかないのだけれど。
それでも確かな違和感があった。それが何かを見極めるには、まず違和感をいつ受けるか、そこから整理しなくてはいけない。
「……………まあ、するまでもないのかなぁ」
小さく呟き、少年は目の前を飛んでいる金色のゴーレムに苦笑する。ベッドの上、壁に背を預けてぼんやりとしていたけれど、考え事に向く程、今の自身の脳は明快に働いてはくれないらしい。
つい今さっきの光景を脳裏に描き、苦笑を乗せた顔を膝に埋もれさせるように俯いた。
別にいつも通りだった。食堂で会って話をして、食べ終わってさよならをした。それは普通過ぎて疑問を挟む余地もない。
………ない、筈なのに。それなのに、それにこそ違和感を感じるのだ。
ふわりと揺れた空気の気配に、ゴーレムが近づいた事を知る。そうして、まるで慰めるかのようにゴーレムは少年の頭の上に鎮座し、頬をすり寄せるような真似をした。
その意味が解って、俯いたまま少年は泣き出しそうに笑った。
「ありがとう、ティム。うん……大丈夫、平気だよ」
気にする事じゃないのだと、そう言い聞かせるように呟く。ゴーレムに向かってというよりは、自分自身に向かって。
いつも通りで変わらない。会えば笑顔を向けて話しかけてくれるし、よそよそしさなんてどこにもない。今日だってリナリーに仲がいいねとからかわれたくらいだ。
けれど、違う。…………違うというのもおかしいけれど、相手がどこか遠いと、思ってしまう。
「やっぱ…なんか僕がしちゃったのかなぁ」
解らないし、覚えもない。それでも、笑顔を向けてくれる青年が、時折どこか遠くて………辛そうに、思える。
それを寂しいと思える立場じゃない。解っているから、いつもの通り自分も笑っているし、そんな事を問い詰めたりもしない。
…………問い詰められる筈もない。そんな権利、自分にある筈はないし、許される筈もない。
こうして好奇の目に晒される事もなく、優しく温かな人達にだけ囲まれて。自分がどれ程恵まれた環境で生きているか、知らない程愚かに生きてきてはいない。
ましてやこの身には呪いを受け、腕は戦う為の証であるイノセンス故に、変形した歪で醜い自分だ。
「駄目だなぁ…期待、なんて、しちゃいけないのに」
呟き、頭の上のゴーレムを右手で摘むように持ち上げる。抵抗などしない優しいゴーレムは望むまま腕の中に収まり、膝の上、頬を寄せても拒まない。
醜くて気味の悪い、この自分の顔を、それでも拒絶しないでくれるのは……多分、こんな風に人の手によって作られた生き物だけなのかもしれない。神から命を与えられた生き物が、こんな醜悪なもの、好む筈がないのだから。
「でもさ、ティム。ラビだって…悪いんだよ。期待させるような事言うからさぁ……。でも、うん、……それに甘えちゃ、いけないんだよな」
こうして告げる言葉の全て、きっとこのゴーレムは余さず記録しているだろう。それは永続的に繰り返される、このゴーレムの持つ能力だ。
解っているから、本当ならこんな事をこのゴーレムに向かって言うべきではない。いつ誰がこの映像を目にするか、少年には解る筈もないのだから。
………それでも、少年はこのゴーレムにしか、弱音を吐けない。吐き方が解らない。
優しい人は数限りなく存在して、こんな自分にだって、あたたかいぬくもりをくれる。
けれど、それは仮初めのものだ。この先ずっと与えてくれるものではない。関わる間、その瞬間だけの、糧だ。
解っているから、それに感謝して享受し、その一時を生きる支えにしてきた。愚かな自分がもっと欲しいと、そんな不相応な事を望まないように、ずっとずっと与えて貰える僅かな糧だけで生きられるように、してきたのに。
あの時、彼がくれた言葉を幾度だって思い出せる。けれど、それに心揺れた自分が、悪いのだ。
彼は優しくて、自分が傷付いていた事を鋭敏に感じ取って、己こそが傷つけたのだと、そう思って。きっとそれを取り除こうとしてくれた、だけなのに。
甘えてもいいなんて。………そんな夢見事、今更自分に許される筈がない。
「だって………キスして、くれたんだ。マナのおやすみのキスみたいに、凄く……当たり前に」
真っ白な髪は気味が悪いだろうに。ペンタクルなど嫌悪しか想起しないだろうに。
それでも彼は、まるでそうする事が自然な動作のように、そっとそっと口吻けた。あやすように宥めるように……愛おしむように。
それが自分にどれ程喜びを教えたかなど、知る筈もなく。出過ぎた真似だったと慌てていた姿が脳裏に浮かぶ。
「嬉しかったなんて、言える筈ないじゃんか。期待なんか出来ないし……して、困った顔されたら………………どうする事も出来ない」
拒絶なんていつもの事で、振り払われる腕も、罵られる言葉も、当たり前だ。だから今更その程度の事では傷付かない。立ち向かう為の糧にする程度の胆力、持ち合わせた。
それでもきっと、彼にそれを与えられたら………悲しい。足元がぐらつくくらい、悲しいのだ。
ぎゅっと閉ざした目蓋の奥が真っ赤だ。彼の髪の色とはまるで違う、汚い赤。それはきっと自分が醜く穢れているから、そんな色に透けるのだ。
綺麗な人達を、自分の世界に巻き込んではいけないと、知っているのに。
腕を、伸ばしそうだった。
伸ばしてくれた腕を、取ってしまいそうだった。
…………もっと欲しいと、願ってしまいそうだった。
そんな事、許されないと、幾度自分に言い聞かせれば、この物忘れの激しい意志に刷り込まれてくれるのだろうか。
もう思いっきりここは泣いて、そうして全部流して忘れようか。……泣く事が出来れば、だけれど。どんな風に折り合いを付けようと思った少年が、漸く腕の中に抱えたゴーレムを解放すると、小さなノックがドアから響いた。
首を傾げ、ゴーレムを見遣る。解答など返る筈がないけれど、一人旅の最中ずっと一緒だったゴーレムには、ついそんな態度をとってしまう。
入室を促す声を掛ければ、ドアはあっさりと開かれて、覗いたのは…赤い髪。
「よ、お邪魔しまス。今、平気さ?」
にっこりと笑って問うのは、紛れもなく先程まで少年を悩ませてた当の本人で、なんてタイミングが悪い人だろうと、彼が悪いわけでもないのにクッションのひとつも投げてやりたくなってしまう。
とはいえ、唐突にそんな無礼な真似が出来る筈もなく、困ったように眉を垂らしながら、それでも少年は頷いた。
「ちょ〜っと聞きたくて……って、なんさ、ティム?なんでお前、俺に威嚇すんさ??」
俺何かやった?と純粋に疑問を向けてこのゴーレムの持ち主に顔を向ければ、気まずそうに視線を逸らされる。
目の前では牙を剥けてくる小さな金色のゴーレム。その奥には、顔を逸らしながらもどうするべきか考え倦ねている少年。
何かまたあったのかと首を傾げ、青年は一先ず気になる方から解決しようと、目の前のゴーレムを摘まみ上げて少年の方に向かった。が、その一歩目で、足が止まる。
『…たかなぁ…』
小さく洩れ聞こえたのは、少年の声。けれど目線の先、顔を逸らしたまま考え込んでいる少年の唇は動いてはいない。
ちらりと、青年は手の中に押さえ込まれているゴーレムを見る。先程まで威嚇の為に牙すら見えていたその口からは、今は他のものが見えた。
小さく映し出された映像。多分、たった今の記録。
見えるのは白い髪の海原。次いで、同じ程に白い頬と…その白を両断するかのような、傷跡。声は続く。小さく…微かな震えをもって、それでも健気に祈りを乗せて……それを、諦めるように。
『駄目だなぁ…期待、なんて、しちゃいけないのに。でもさ、ティム。ラビだって…悪いんだよ。期待させるような事言うか………』
「ティム?!お前、何やって…………!!」
呟く映像の声は、途中で途絶えた。少年の叫びとともに、青年の眼前に白い海原が出現する。いつの間に走り寄ったのか、ベッドの上にいた筈の少年が、まるで腕の中に飛び込んでくるような勢いで現れた。
彼の両腕が映像を映し出していたゴーレムを掴み、その口を無理矢理閉ざさせていた。それはひとえに、彼にその映像の心当たりがあるからで、それはそのまま、映像が事実である事を青年に知らしめた。
見下ろした少年の顔は、真っ赤だ。否、青ざめているのか。複雑に器用に顔の色を変化させている。
そのどちらの心境も解る気がして、青年は苦笑が漏れる。
「アレン?なんか……聞きたかった事、ティムが教えてくれたって感じなんだけど…聞いてもいいさ?」
「…………これ以上恥の掻きようがないんで、もう終わりにして下さい。というか、忘れて下さい、全部。お願いします」
いつだったか、こんな風に近くで話した時も、この少年は俯いていた。顔を見られたくないのか、見たくないのか。………もしかしたら、その両方だろうか。
己の顔に浮かぶ祈りを彼はきっと浅ましく思い、相手の顔にのぼるだろう嫌悪を恐れている。
それはどこまでも自分と同じ心境だ。否、多分、人というものが関わり合う中で、どうしたって避けられない、心境なのだ。
ぎゅっと彼がゴーレムを掴む。それは折檻ではなく、縋っているような動き。微かに震えている指先が、今すぐ逃げ出したいだろう少年の心理を思わせた。
「なんで?俺、またなんかやっちまったかと思って、聞きにきたんさ?」
「………………………?」
「アレン、さっき……だけじゃねぇけど、なんか最近、俺とあんま目、合わせないさ?」
小さく跳ねた肩が、誤摩化しようもなくそれが事実だと教える。それが少し、痛い。先程の映像を見る前にこの反応を見たなら、自分こそが逃げ出したくてたまらなかっただろう。
それでも、今はほんの少し、勇気があった。否、確信が、あったというべきか。
主人を愛おしむゴーレムの、小さくて大きな諫言が、嬉しかった。その牙で自分を排除するのではなく、きちんと掬い取れと示すゴーレムは、随分と人間臭くてお節介なのかもしれないけれど。
「こないだ、俺、ついキスしちまったし、………嫌だったんかなぁって」
ぽつりと問う声に、少年は答えない。肩も震えない。なんとなく、あの時の届かない言葉を思い出して、声が自嘲に揺れた。
「お前さ、嫌でも何でも、大丈夫って言っちまうの、癖さぁ?」
「ち、違います!」
途端に、少年が叫ぶような声で青年の言葉を切り裂いた。
相変わらず俯いたまま、手の中のゴーレムを拠り所にするように握り締めて。ゴーレムの羽がクルクルとはためき、自身を包む華奢な手のひらを柔らかくくるむように撫でている。
仲がいいな、と、少しだけ面白くない。そんな自分に苦笑する気も起きないけれど。
「違います。嫌じゃ、なくて。………僕は、嬉しくて。でも、ラビ、ずっとそれから僕に触ろうとはしないじゃないですか」
肩を叩く事も頭を撫でる事も、戯れに首にかけられる腕も、何もない。あの日からずっと、何も変わらない態度の中で、触れるという記述だけ、抜け落ちた。
だから、きっと彼は嫌だったのだろうと、思った。この呪われた左目を、醜く色の消えた白い髪を、触れた事を悔やんだのだと。
それは別に珍しい事ではなくて、それは決して相手が悪いわけでもなくて。………傷ついたのは、自分がそんな大それたものを欲しがった、欲深さ故だ。
「でも、頭撫でて欲しいとか、おやすみのキスが恋しいとか、僕、そんな小さな子供じゃないのに。こんな、見た目で、気持ち悪い思い、させたくないのに、えっと、だから……ラビが悪いんじゃ………」
「スト〜ップ。アレン、それ、一個も悪いとこないさ?なんでそんな怖がって言うん?」
まるで流れるように言葉を挟まれる事を恐れるように、ただひたすらに続けようとする言葉は、どれもあまりに幼くていとけない。
少年の両の頬を包むように手のひらを寄せ、首を傾げて問い掛ければ、漸く見えた銀灰色は湖面に沈むように瞬いた。
きっと少年は気付いていない。自身が話す間ずっと身体を震わせていた事も、逃げたいというようにドアの方にばかり意識が向かっていた事も。
…………泣き出す子供のように、その声が掠れていった事さえも。
「俺、言ったさ?甘えてって。嫌な事や嬉しい事、教えてって。………嬉しかったんなら、笑って?」
そんな風に泣かせたくていった言葉ではなくて。
…………厭われる事を恐れていたのは、むしろ自分だ。
浅ましさに軽蔑の眼差しを思い、触れた事を無かった事にしようとしたのは、どこまでも身勝手な保身だ。
無意識に触れた唇の言い訳が思いつかなくて、少年が嫌悪を持つのではないか、なんて。………こんな風に優しい記憶ばかりに結びつけ人を思う至純の意志を、自分は知らないから。
覗き込んだ銀灰は必死の虚勢で首を振ろうとして、けれど腕の中のゴーレムに噛み付かれたのか、驚きに大きく目を瞬かせた弾みで、湖面を頬へと落としてしまう。
それが頬を包む青年の指に触れ、歪まなくなった視界の中、ひどく甘く自分を見下ろす青年の笑みが克明に映される。
「笑ってくれんなら、いくらでもやるさ。……それとも、嫌?」
柔らかな声。……優しさの溶けた眼差し。触れる指先は相変わらずあたたかくて、どれ程ぶりか解らない程懐かしくて、また視界が歪みそうだった。
その癖、彼のその声だけは悲嘆にまみれていて、自分の拒絶ばかりを思うように、寂しそうだ。
……多分それは、鏡写しの互いの姿。
お互いに距離が解らなくて、伸ばす腕の位置も、解らなくて。差し出した筈のそれは擦れ違い、重ならない。
告げなければ、重ねられる筈もない。傍にいて欲しい存在は、しっかりと手を繋がなければいけないと、道に迷う度に優しい養父に言われていたのに。
声を出そうとして、喉が引き攣れた。
それならば微笑もうかと頬を動かせば、ぎこちない痙攣を誘う。
どちらの解答も彼を安らかにさせる程鮮明に差し出せなくて、また涙が溢れそうだった。
それでも、答えたくて。
…………彼の悲しみを打ち消したくて、首を振る。嫌な事など何一つないと示すように、精一杯、打ち振って。
そうして、ヘタクソな笑みを浮かべて、両手を伸ばした。
手の中にいたゴーレムは柔らかく飛び、まるでその先を知っていたかのように二人の間からするりと身を避けた。
何も無い手のひらを少年は伸ばし、青年と同じ仕草で寂しそうな笑みを浮かべるその顔を包む。
ほらこうすれば、まるで同じ姿が二つ。
それならきっと、願いも重なるから。
言葉も笑顔も綺麗に差し出せないけれど。
…………あなたと同じ仕草を捧げる事で、どうぞ望みを知って下さい。
どうぞどうぞ、あなたも笑顔になって……………