優しい人達が与えてくれた
多分ずっと、抱える事も出来ないと思っていたもの

その尊さとか素晴らしさとか
言葉にすれば、おそらくは陳腐で

それでも
胸の中、あたたかく包むぬくもりをくれる
そんな、他愛無い、よくあるようなもの

優しいあなた達の、悲しい痛み
何一つ傷になどならないから零して
そうして、その背中を晒して

…………その美しい歩みを、見せて




旅立ちのその時に



 部屋の中、老人は手の中の本を手繰っている。
 それを眺めながら、少年はぼんやりと未だ戻らない青年を思った。
 なかなかの量の買い出しを罰として言い渡された青年は、先程宿を出たばかりだ。きっと暫くは帰ってこられないだろう。
 弟子には厳しい老人は、朝寝坊の罰には少々気の毒な買い出しを平然と言ってのけた上、助力を申し出た少年の腕を断ち切った。
 罰はあくまで青年一人が背負えと告げる、厳しい眼差しの中の深い思慮を、少年は脳裏に蘇らせる。老人の思慮が何に起因して紡がれたか、少年には解らない。
 耳には老人のページを手繰る指先が醸す音だけが室内に響く、静謐。その中に溶けるようにして、少年は取り留めもなくそれらを思い出した。
 ………彼ら師弟は、時折彼らにしか通じぬ意思を通わせ、周囲と隔絶される事がある。
 彼らの本職を思えば当然の仕草を、厭いはしない。厭う意味もない。けれど、それを眺めていると、不意に浮かぶ遠ざかる彼らの背中のビジョンに少年は苦笑した。
 「あの、聞いてもいいですか、ブックマン」
 少年の取り零したような囁きに、老人は本に視線を向けたまま答える。
 「………なんだ?」
 素っ気ない声は、人によっては拒絶に思うかもしれない静寂だ。その静かな音色を眺めながら、今更ながらに今、老人と二人きりだと思い知る。
 もしもここに青年がいたなら、もっと賑やかに華やいだだろう。彼は笑顔を咲かす事を好み、寂しさを嫌うようにまとわりつく癖がある。
 もっとも、少年は老人と二人きりだとて、それを辛くは思わない。
 眼差しを向け、気配に寄り添えば、老人がその意識を向けてくれている事は解る。だから、向けられない眼差しも寂しくはなかった。
 それでも少しだけ去来した寂寞は、きっと身勝手な感傷だ。
 「……いつか、ブックマン達は、教団からまた別の場所に行くんですよね?」
 浮かんだビジョンをなぞるように、笑んだまま少年が問う声音を紡いだ。
 それに、軽快に本を読み進めていた老人の眼差しが止まった。
 ページを手繰る規則正しい紙の音が途切れ、少年は目を瞬かせる。
 視線の先、本にというよりは今はいない青年に向けるような、厳しい老人の眼差しが紙の上に落とされる。それを、少年は不思議そうに眺めた。
 「ラビか、あのしゃべりめが」
 「……あ、あれ?言っちゃいけない事だったんですか?」
 微かに聞こえた低い掠れた声に、少年が困ったように眉を寄せた。言うべきでない話を始めてしまったと、惑うその眼差しが告げる。
 それを見遣り、小さな嘆息ひとつで老人は全てを飲み込むように目を眇め、再び手元の本を見つめた。
 「まあいい。それがどうかしたか」
 言いたい事があれば言えばいいと、その声は後押しするように響く。
 分断する事も可能だった言葉を、老人は繋げた。それは言外の、許しだ。
 言葉は紡ぐものであり、伝えるべきものだ。飲み込み腹に貯めるものではないと、以前、お菓子とともに老人に告げたかった言葉を飲み込んだ時に窘められた事を思い出す。
 それに少年は小さく笑んで、幼子が甘えるようないとけなさで老人の言葉を継いだ。
 「あの、………もし出来るなら、で、いいんですが」
 それでも我が儘を知る少年は、躊躇うように言葉を飲み込みつつ、選びとり音を紡ぐ。
 それが、告げていい言葉かどうか、たった今の老人の気配を考えると、見極められなかった。
 「いなくなる時は、教えてもらえませんか?」
 「…………」
 「あの、いけない事は、解ります。でも、出来たら……」
 小さく告げた言葉に返された沈黙に、慌てたように少年は言葉を繋げた。
 やはり言うべきではなかったのだろうか。あるいは、このままなかった事にした方がよかったのか。解らなくて、紡ぐ声が震えそうだ。
 どうして突然こんな事を言い出してしまったのだろう。
 老人が優しいからといって、それに甘えていい筈がないのに。いつの間に彼らとの間に横たわる距離を見誤る程、気を許してしまったのだろう。
 後悔に頭の中がぐちゃぐちゃに混ざり合い、気持ちが悪かった。いっそもう、何も無いのだと笑って終わらせてしまおうかと、吐き気を飲み込むように息を飲む。
 「……何故だ」
 不意に、少年が耐えきれなくなるより僅かに先に、老人が沈黙を破った。
 変わらない、いつも通りの平坦な音。
 忌避したわけではないらしい自分の発言の所在が解らず、少年は驚いたように肩を跳ねさせ、戸惑いに睫毛を揺らした。
 「え………?」
 声まで、惑う色に染まっている。おそらく顔もそれに倣った情けないものだったのだろう。微かに老人は息を吸い、間を計るように眼差しが向けられる。
 ………隈取りの奥の瞳は、何故か穏やかだった。
 「何故、知りたい。引き留めるつもりなら……」
 ゆっくりと紡がれる老人の乾いた音色。その中に含まれるものに目を瞬かせ、少年は老人を見つめた。
 ………自惚れが許されるか解らないけれど、その声の中、響いたのは微かな躊躇いだ。
 何事も即断で先を見つめられる、経験と知識を無駄なく活用出来る老人には珍しい、逡巡だ。
 「……そんな事はしないですよ。あなた達なら、自分で納得して出ていくでしょう?」
 痛まないでいいのだと、告げるように音を紡ぐ。彼がいたわるような必要性は、どこにもないのだから。
 自身の歩みを定め進むものを引き留めるのは、生きる事を諦めさせるようなものだ。
 屍じみた生を送って欲しいなど、祈らない。たとえそれが遠く離れる事になるものでろうと、己の心のまま、萎れる事なく咲き誇って欲しい。
 そう祈るように告げる。………立ち去る前提の場所にいる自分を、傷つけるだろう事を理解し、告げる言葉を精一杯模索してくれる、優しい人。
 厳しい事や冷たい事を言う癖に、存外老人は次世代の命達に甘いのだ。
 「ただ、見送りたいだけです。僕、ちゃんと誰かを見送った事、ないから」
 今まで逃げるように立ち去る事はあっても見送られる事がなかったように、自分より先に誰かがいなくなる事もなかった。いつだって、まず自分が先に消えてきた、から。
 「二人の旅立ちをちゃんと自分で見て、納得したいなって、思ったんです」
 取り残されるのではなく、互いの道を更に進むための布石として、彼らの背中を見送りたい。
 きっと、今まで彼らも、喜びを分かち合いながら手を離す、そんな別れはなかっただろうから。
 感謝と敬意と、言葉になど変えられない彼らへの愛しさを込めて。
 彼らがここにいた意味は、確かにプラスのものとして花開くのだと、知らしめたい。きっと、それが最後に自分が彼らに贈れる、ただひとつの確かなものだ。そう微笑みながら告げ、少年はその中に漂う仄かな棘を飲み込む。
 それでも、他愛ない夢物語のように告げる少年の言葉の中、老人は小さな溜め息を落として、拾い上げた微かな未来の中の不安を取り上げた。
 「………納得出来なければどうするつもりだ?」
 「んー、多分、ブックマンが考えている通りだと思いますよ」
 気づかれたかと、少年は子供のように笑った。
 彼らが納得もせずに、ただ義務として立ち去り、その先に危険があるなら、きっと自分は彼らの背中など眺めはしないだろう。
 目の前に対峙し、刃を交えようと、その道の無為を肯定するまで、退かない。
 「立ちはだかる気か、わしらに」
 そんな意図を、あっさりと看破してしまう老人に、少年は苦笑する。冷えた声を紡ぐ癖に、その隈取りの奥の眼差しは、微かに痛ましげに眇られていた。
 それを見詰め、少年は微笑んだ。何一つ悲しみなど知らないもののような、無垢さで。
 「どうでしょう。あなた達が納得してでの旅立ちなら、祝福しますよ?」
 「…………」
 「だから、見送らせて下さい。あなた達の道が、心のままである事を教えて下さい」
 直向きな眼差しは何も不純物を含まない至純さで晒された。揺らめきそうな眼差しを、老人は胆力だけで押さえ込み、蓋をする。
 痛みも苦痛も嘆きも、恐らくはその年で背負うには重すぎる程に背負ってきただろうに、光を失わずに花開いた真っ白な華。
 銀灰に灯る明かりの鮮やかさに、老人は微かに息を飲み、それを誤魔化すように溜め息を吐いた。
 「おぬしに何の益がある。わしらに関わるとて、痛みの方が多いじゃろうに」
 ……………呟きは、本心だ。
 観察対象として存在する少年にとって、記録を記載する目を持つ自分達は忌むべき存在だ。
 それなのに、この少年はただ首を傾げ、まるで意味の通じぬ言葉に目を瞬かせる。問うた言葉さえ滑稽なほどの、生粋の信頼に染まった眼差しだ。
 「?いいえ。あなた達が僕に教えてくれた事は、嬉しかったり楽しかったりするばかりですよ?だから、あなた達のままで旅立つのを見たいと思ったんです」
 それは、やわらかな祈りの言葉だ。静かな音を耳に響かせ、肌に染まりそうなその音を、遮断する。このいとけない音色は、自分達が染まってはいけない、音色だ。
 ……………それは他者を愛しむ事を選び生きる、聖者と変わらぬ無償の音色。
 少年の歳で手に入れるにはあまりに物悲しい、音色だ。
 「損得勘定で言うなら、そんなあなた達を最後まで僕が記憶したいって事、かな?」
 くすりと、まるで道化のような滑稽さで少年が笑い言った。記録するものを記憶したいという、無謀とも言える事を願ってしまう。これを浅ましいと言うべきか愚かというべきか、あるいは滑稽な喜劇だとでも戯けるべきか。
 解らないけれど、そのどれでもないと、少年は知っている。
 それくらい、彼らは共にいる事が当たり前だった。それを、許してくれた。
 「……わしらを?」
 「好きな人達の事くらい、沢山覚えていたいんですよ、僕だって。だから、状況がそれを許すなら、見送らせて欲しいんです」
 驚いたような嗄(しわが)れた音に、少年は少しだけ寂しげに微笑む。
 この老人が許さなければ、きっと一緒に過ごす時間は、もっとずっと短かっただろう。…………そうして、許された理由だって、知らないわけではないのだ。
 それでも知っている事はある。それがたとえ責務故に始まった偽りの時間であっても、その中で育まれたものに嘘はないという、当たり前のこと。
 ………彼らが痛みを感じた事を隠す全ては、自分にとっては優しい労りに包まれていた。
 決して、傷を与える為に始まった関わりではなく、傷を与える事を想起し痛んでくれたその心を、厭う無意味さをこそ、知っているのだ。
 「あなた達を最後まで見ているのが僕だと、嬉しいなって、思ったんですよ」
 ともに歩めなくても。先に果てるかも知れなくとも。
 それでも、顧みず進み続ける師弟の歩みを、見守りたかった。
 卑屈な感情からではなくて。批難からでさえ、なくて。
 ただ、彼らが定めた先に進む背を、見つめていたかった。
 自分は教団から離れる事はない。何があろうとそれは許されない。
 だから、分かたれる道の先、世界を愛でる人達の背中を、刻みたかった。
 思い、少年は自嘲げに唇を歪めた。笑みになりきらなかった、滑稽な泣き顔。
 ………こんな言い訳じみた言葉さえ、無意味なのだ。ただ自分は、いなくなるその瞬間まで、彼らの傍にいたいだけなのだから。
 無理矢理唇を苦笑しに変えて、少年はささやかな音色でもう一度、改めた祈りを差し出した。
 初めから、こちらを差し出すべきだった。それなのに、つい甘えて押し付けた。それを謝するように、そっと落ちた眼差しが床を見た。
 「駄目でも、構いません。ただ頷いてくれればいいです」
 ……………微かに歪む床を一心に見詰め、声が震えない事だけを、祈った。
 それは履行される事のない約束を望む、無為の行為だ。
 解っている。彼らと自分の距離。横たわらせなければいけない、責務故の一歩。そうして………それ以上を望めない事を痛い程理解してしまえる程度には、少年はこの師弟に関わってしまった。
 零れそうな涙を噛み締め飲み込まなければいけない程、寄り添ってしまった。
 それに、老人は小さく息を吐いた。関わる事を許したのは、自分だ。予言の子供がこんなにも鮮やかな宝石に化けるなど、思いもしなかった不明さは今更だろう。
 一歩、を。少年も弟子も、躊躇いながら惑いながら、距離を測り互いを瓦解させる因とならぬように、まるで綱渡りのような均衡を保って窺っている。
 それを、知っていても何も言わない、自分こそがおそらくは、その一歩に一番戸惑いを感じているのだろうけれど。
 「叶う状況であれば、だがな。……おぬしも大概酔狂だな」
 溜め息のように、老人は呟いた乾いた声が、それでも柔らかく空気を震わせた。
 …………確約など出来ない。あるいは彼を踏みにじり消えるかもしれないのに、出来る筈もない。
 それでも響かせた音は、慈しみ深く少年の中に注がれた。それに、堪えていた水滴が頬を辿り床を濡らす。
 「はは、ブックマンには負けますよ」
 こんな自分の身勝手な我が儘を叶えようとしてくれる。そんな老人の方がよほど酔狂だ。
 泣き笑う声で、戯けてみせる。まるで青年のような仕草だと、より滑稽な気がして笑った。本来ならこれは、黙殺され忘れ去られる、そんな言葉だ。解っていたのに、告げていいと許されたが故に、押し付けてしまった彼らの自由を束縛するほんのひとひらの花弁。
 …………己のままでいて欲しいと願いながらも、矛盾するものを押し付けた自分をどこまでも罵るような、自虐の笑みが落とされた頤の奥に沈んでいた。
 それを見遣り、今もまだそんな物言いを無くせない少年を窘め、その眼差しを曇らせる事を厭うように、呟いた。
 「可愛いげのない返事だ、まったく」
 呆れたような呟きの中、それでも伝わるのは、優しくあたたかなぬくもりだ。
 それを見詰め、少年は泣き出すのを堪えるように笑った。今度のそれは、透き通る程に柔らかく老人を見詰める。
 …………どこまでも、誰かの為にしか笑む事を知らない、自身の為に生きる事を未だ惑う、少年の笑み。
 「ねえ、ブックマン………我が儘言ってすみませんでした」
 そうして響くのは、小さな謝罪の音色。
 …………本当なら、こんな口約束とて許されない事を知っている。それでも与えてくれた音はどこまでも誠実で、老人がそれを可能ならば履行するだろうと、信じさせた。
 否、いつだってこの老人は、嘘は紡がないのだ。言葉を扱うその責故に、黙秘を敢行する事はあっても、虚実を紡ぐ事はない。
 それは彼の手管などではなく、純粋なまでの、祈りだ。幼い命達への、慈しみの音色。
 老人に背負わせた、本来ならば背負うべきでない約束を、少年は見詰め………噛み締める。彼らの為に出来る事もないのに、望みすぎる自分の強欲さを思い知るように。
 響いた少年の微かな悲嘆の声を見詰め、老人は微かに視線をあげると、小さな溜め息と共にもう一度、窘めを寄越した。
 先程とは違う、穏やかな響きで。
 「小僧、言葉を間違うものではないぞ」
 「………?えっと?」
 「謝るのではなく、感謝するべき事柄ではないのか?」
 告げたなら、少年は驚いたように目を丸めた。微かに唇が赤くなっているのは、噛み締め過ぎてもう少しで噛み切るところだったせいだろう。
 誰かに何かを望む事を自身に許されるなど考えない、この少年らしい自制の自戒の念だ。
 それを溶かすような枯れた声に、澄んだ銀灰が満月になり、そうして、綻ぶようにして三日月に変わる。
 そこまでを見詰め、老人は手の中の本を指先で撫で、静かに伏せた眼差しで文字を追う。
 「そう、ですね」
 目映いものを見つめるように少年は瞳を細め、幸せそうに微笑んだ。視線の先には、相変わらず本を手に持ちそれを目で追う老人の、物静かな銅像のように微動たりともしない姿。
 打ち沈む満月は、いつでもほんのひとすくいの光を浴びるだけで、闇の全てを取り払い燦々と光を紡ぐ。
 ………解っていたからこそ、それを書籍に目を落とすふりをして視界から外した老人は、小さく息を吐いた。
 結局は自分もこの少年を切り捨てようとしないからこその、悪循環だ。
 「有り難うございます、ブックマン」
 柔らかく響く少年の声。
 あたたかなぬくもりを想起させるその音色を耳に染め、老人は素っ気ない顔のまま、ただ微かに頷いた。

 いつか、立ち去るその時に、この口約束は履行されるだろうか。

 ……………悩むまでもなく黙殺すべきを物思う。

 それこそが何より雄弁な解答だと、未だ弟子と同じく惑うものを抱える己に苦笑する。

 

 せめて分かたれるその日が、穏やかに訪れるといい。

 …………せめて対峙する白い影とまみえることのない未来を、思った。

 








 携帯でポチポチしていた小説ですよ。
 ラビ&ブックマン再登場の回を読む前に書き始めていたのですが、読んでしまったが故に、ブックマンで締めくくられました。ごめんラビー!!!
 そして若干ブックマンもアレンを気に入っている風が今回は色濃いですね。わざとですけどね!(オイ)
 大丈夫、弟子とは意味が違うから。同じだったら弟子戦々恐々ですよ。仲良いからね、アレンと!
 ラビが欲も含んだ意味でアレンを好きなら、ブックマンは家族愛に近い感情でアレンを好きになると思うしねー。
 …………まあうちのラビ、欲薄いけど。薄いと言うか、多分実行出来ないだけだけど。臆病者なので拒絶される事はしたくないヘタレですよ☆
 なんでアレンがOK出してくれた事は即やり返しているよな…うちのラビ。一回ブックマンに鍛え直してもらいたい。

11.1.9