いつもは不器用な指先が
白黒の鍵盤の上、滑らかに動く
…………その指先が奏でる音の鮮やかさ

聞いているだけで
嬉しくて楽しくて切なくてしんみりして
沢山の思いを心の中に醸してくれる

優しく切ない、あなたの譜面
綴った音符の思いの一つ一つ
あなたの心のままに、拾いたい

あなたの寂しさを、癒せればいいのに

 




辿る音符の囁く音色



 最近の日課のようになっている、近所の友達の家の玄関の前、子供はちょこんと立って待っていた。
 チャイムは鳴らした。その後は、いつもと同じようにただ待っているだけ。そうすれば、3つ年上の少年が笑顔で玄関のドアを開けてくれる。
 そんな事もこの町にやって来て初めて知った。ひどく感動した自分を彼は不思議そうに首を傾げて見ていたけれど、その隣、同じように立って自分を見ていた老人は優しく頭を撫でてくれた。
 きっと、あの老人は解っているのだろう。自分の置かれた立場と、それ故の境遇の意味を。
 その気恥ずかしさに、逃げるように少年の後ろに隠れてしまったその時でさえ、あの老人の眼差しは優しかったのを、今更ながらに思い出す。
 それから重なるこの家のドアをくぐる機会。いつもの当たり前のように、老人も一緒にいてくれた。
 思い描きながら、ドアが開くのを見詰めた。その先にいる筈の、自分より少しだけ背の高い少年の姿。
 ………………だと思っていたら、同じ程の身長の老人が、そこにはいた。
 「あれ?ブックマン?えっと、こんにちは。もしかして今日はラビ、いないですか?」
 「まあ入れ。あれは入学願書を取りに行っとる」
 「にゅーがくがんしょ?」
 キョトンとした返事を返しながら、子供は老人に招かれるままに玄関をくぐり靴を脱ぎ、彼の小さな背中を追っていく。
 キッチンに向かった背中は、いつも通り用意されているお茶の準備に取りかかるようだった。
 それを変わる事を申し出て、子供は慣れた仕草で煎茶の入った茶缶を選び、茶さじですくった。綺麗な深緑の茶葉は、玉露も混ぜられているのか、飲むと甘味が舌に残り、子供にも飲み易かった。
 それを思い出し、楽しい気持ちになった子供は機嫌よく急須をあたため茶葉を入れ、湯冷ましのとっておいた湯を注ぎ入れた。
 その一連の動作を横目で確認しながら、大雑把な少年とは違い教えた手順をきちんとこなす子供の所作に微かの老人の唇が笑みに彩られた。
 「ところで、ブックマン、さっきの、ラビが取りに行っているのって、なんですか?」
 茶請けのお菓子を取り出して盛りつけている老人に、子供は指折り数を数えて抽出時間を確認しながら問い掛けた。既に正式名称はきちんと言える自信がなかったのか、綴らなかった。
 「ああ、入学願書、だ。あやつは中学は公立ではなく、クロス学園に通うからな」
 「公立?って何ですか?」
 よく解らないと首を傾げながら、子供は急須から茶碗に茶を注ぎ入れた。綺麗な黄緑色に、こっそりと子供は会心の笑みを浮かべた。きっとこれは上手く煎れられたから、老人も美味しいと言ってくれるだろう。
 「普通に皆が通う学校だ。いま通っている小学校も公立。国が建てた学校だな」
 「国以外が建てる学校に行くんですか?あ、解った、シリツっていう奴ですね!」
 ポンと、手を叩いて子供は弾む声をあげた。
 世情に疎いというよりも、金銭が掛かるような事をよく知らない子供だ。学校も公立以外の存在を知りそうになかったが、どうやら名前くらいは知っているらしい。
 少々意外に思いながらも老人はお盆に茶請けを乗せ、子供の煎れた茶も同じように乗せると、そのまま今の方へ進んでいった。その後ろを、当たり前のようにぴょっこりと赤茶色のひよこのように子供が寄り添い付いてくる。
 「僕もね、行くんです。と言うか、行きたいなって、言っていたんです、学校」
 「私立にか?どこの学校か、希望があるという事か」
 背中から聞こえる弾んだ声に、子供が興奮しているらしい事が窺えた。
 養父との関係は良好なのだろう。幸せそうに響く事を知る、幼い歌声。無邪気さを思い出したらしいその響きに、老人はお盆をテーブルに置きながら楽しそうに笑んだ。
 それが話をもっと聞く印である事を知っている子供は、パッと顔を明るく輝かせて、老人の隣に座ると見ぶりも加えて話し始めた。
 「はい!あの、マナがね、通っていたらしいんです。音楽を教えてくれる学校。近所だって言っていましたよ」
 そこに行きたいのだと、言外に語る輝く大きな銀灰の瞳。初めの頃はもっと引っ込み思案で、養父の陰に隠れてしまいそうな、そんな子供だった。それが妙なきっかけで知り合って以降、随分と懐かれたものだと、苦笑する。
 「近所?と言ってもこの辺りで一番近いのは、クロス学園だが……。ああ、そうか、音楽科があったな、あそこは」
 「?よく解らないです。でも、同じ場所行きたいなって言ったら、マナがいいよって。………なのにね、ピアノは一杯弾くの禁止なんですよ」
 それが唯一の不満なのか、子供は頬を膨らませた。そんな子供の前に茶碗を置き、茶請けも取り易いように子供寄りに置いてやると、小さく礼を言ってそれを手にとった。
 それを眺め、ちゃんと飲み始めたのを確認してから、老人も茶を口に含む。どうもこの子供は人から与えられる事に慣れていないせいか、直接与えない限りものに手を出す事が無い。
 口に含んだ茶は、仄かに甘く、鼻孔をくすぐるように深い香りを漂わせた。滋味深い、茶葉の旨味が滲み出ている。
 養父の為に美味しい紅茶を煎れるのだと必死になっていたけれど、その手腕がこちらにも発揮されているのか、短い間に随分上手に入れられるようになったものだ。
 茶碗を置けば、子供はじっと窺うようにこちらを見ている。どうやら味が気になるのだろう。笑ってみせれば、破顔して子供も茶碗を煽った。どんな味が気に入ったのか、おそらくは記憶する為に。
 「で、ピアノは、どれくらい弾いているんだ?」
 「んー…………えっと、その話をする前は、マナがいる時はご飯とお風呂以外はほとんどずっと。でも、最近は1日1時間までって」
 そんな少なくては、いまだって上手く弾けなくてマナと連弾も出来ないのに、もっと出来ない時間が増えてしまう。
 もっと沢山、彼と過ごしたいのだ。彼が奏でる音を、自分も彼に返したいのに。与えて貰うばかりで、幼い自分には彼に返せるものが何もない。
 「もっと沢山練習すれば、マナの為にきっと、綺麗な音をあげられるのに。マナはね、ブックマン、ピアノだけじゃ駄目ですよって言うんです」
 しゅんと肩を落とし、子供は何を言っているのか解らないという顔で寂しそうに告げた。
 何か自分が悪い事をして、だからピアノにあまり触れさせてもらえないのか。それとも、ピアノに触れる程、養父に近づいて欲しくないのか。
 ……………厭われて、いるのではないか。
 そんな寂しさと不安と、それでも募る親愛に、幼い子供が揺れているのが見えた。
 老人は苦笑する。言葉が不器用なのは、どうやらどちらもお互い様のようだ。もっとも、確かにあの養父は時折素っ頓狂な話の仕方をするせいで、すっかり近所では有名の奇人ぶりではあるけれど。
 「それは当たり前だ。小僧、楽譜を見た事はあるか?」
 「…………?ありますよ。だって、ピアの練習する時に使いますから」
 「まあ初めは音階練習だろう。それ以外、そうだな、彼の作曲した楽譜は?」
 「……………見ました、けど、………記号が多くて難しくて、弾けないです、まだ」
 「それだな、言いたいであろう事は」
 誘導するように、子供が納得するだろう方向へと、老人は話を進める。何が一番、この子供を動かし支えるか、おそらくは一番老人が解っているだろう。
 余計な御節介という言葉が脳裏に浮かんだが、もうそれはこうして子供を家に招き入れている時点で決定している事だ。初めからする気が無いのであれば、孫がいない時に家に入れなければいい。
 そう、思い。………随分と自身が入れ込んでいるらしい事に、老人は子供を見詰め、笑った。
 「楽譜は本と変わらん。書き手が何を思い、綴ったか。それを読み解き心を添わせ、そうして奏でて初めてそれは音楽に変わる」
 「…………?音符、読む事は、違うんですか?」
 不思議そうな子供の声。瞬く瞳は互いの言葉の差異を見出そうと探るように逸らされない。
 ………知る事を恐れない、子供だ。それはきっと彼の境遇の中、傷や痛みを多く見出すものだったであろうに。
 それでも子供は、選んだ。知らぬまま愚迷に生きる事ではなく、知る事で相手を受け入れ共に進む、茨の歩みを。
 「書き手の生まれた国、時代背景、その人生の経緯。それらすべてを知り見詰めなければ、書き手の描くべき深淵は見えん」
 「ま、待って下さい、ブックマン、言葉が難しくて、解らないです」
 ついその眼差しに講義で語るがままに言葉に換えてしまったが、未だ語彙に乏しい子供相手にこれでは伝わらない。それに気付き、つい失念してしまうような眼差しを携える子供に、老人は苦笑した。
 「む………そうか。ふむ、ならば、ピアノを弾かない分、ここにきて本を読め」
 解りやすい例よりも、おそらくはそれがいい。やるべき事、やらなければいけない事。それらは何一つとして、強制ではないのだ。
 ただ、願われている。不器用で語る事が下手な、彼を愛おしみ育てようと決めた、彼の慕う人に。
 「へ?」
 「…………彼はな、知って欲しいのだろうよ、お前に」
 怪訝な眼差しで小さく洩らした声に、老人は気付かぬ振りをしてもう一度茶を飲んだ。
 甘い、玉露のような旨味を舌に転がし、辿々しくあやふやなまま、それでも精一杯お互いに腕を伸ばして繋がりあおうと努力する、まだなりたての小さな家族像を思う。
 それはひどく愚かしくも滑稽でもあるけれど、どれ程その尊さを失った家族がいるかを思えば、そのまま萎れる事なく花開く事を祈りたい、姿だ。
 「ブックマン?」
 戸惑うように揺れる高い声。まだ子供のままの幼いその声が、今まで幾度悲嘆に染められたか、過ぎ去り彼が乗り越えた過去を思う事も愚かだろうけれど。
 …………咲き誇るといい。彼の腕を取り彼の為、子守唄を奏でる腕の祈りのまま。
 「自分一人で終わる世界ではなく。たかが楽譜の中にすら、世界が無限に広がり、それによって繋がるものがあるという事を」
 「…………………」
 「学べ、小僧。見たままではなく、その先の深みも。綴る記号が何故そこにあり、何故その音符とメロディによって表現し、何を捧げ伝える為の音になるか」
 形は違くとも、人の作る全てはその心の模写だ。
 手法は違う。読み取り選ぶものも違う。過去の偉人達を知り尽くすなど、おそらくは不可能な話だ。
 それでも手がかりはある。必ず、あるのだ。それを見つめ紐解き抱き寄せ口に含んだならば、ほんの微かでも見える、作り手の描いた鮮やかな世界。
 それを示唆する乾いた老人の声に、子供はぎゅっと拳を握る。固く瞑られた目蓋の裏側、その銀灰が何を見つめているか、まだ解らない。
 小さく、戦慄くようにして震えた唇が、そっと音を紡ごうと、した。呼気に紛れるようにして落とされた、文章にもなりきらない幼気な音。
 「マナの、事、も………」
 掠れた声は、息を詰めているからだろう。開かれた目蓋の先に煌めく、決して泣き出しそうではない、鋭く何かを見つめる、強気な眼差し。
 これは強かに、進む事をこそ見据えられる、命だ。
 思い、老人は彼の養父の見る目の確かさに胸中で笑んだ。
 「知りたいならば、なおだ。あれは作曲家だ。多くのヒントを作品に残しているだろう」
 「……………なら、ピアノ…は」
 「基礎だけは教えるつもりだろう。が、その先はお前が見つめ選ぶものだ。後を追う雛で甘んじるなよ、小僧」
 同じになる事を望み同化してはいけない。それは生きる道を誤らせる因にしかなり得ない。
 どれ程心寄せようと、同じ血を流す血縁であろうと、だ。己の道は己で描き進まなければ、辿る道の前も後ろも瓦解し消える未来が待つばかりだ。
 より長く共に歩みたいと願うならば、己の眼差しでこそ選び進まなければいけない。
 …………いまだ幼く二桁にもならぬ子供相手に言うには小難しい、問答だ。それでもそれを聞き入れ見つめる子供の瞳は、澄み渡り厳かにそれを抱き締める叡智を覗かせる。
 「お前はお前の表現を知り、奏でろ。それこそが報いる方法だろう」
 呟きに、子供はそっと睫毛を落とし、緩く細く息を吐き出した。
 「……難しいですね、音楽って」
 落とされた言葉の大人じみた響きに、老人は知らず苦笑した。子供が言うにはあまりに現実味を帯びた音だった。
 いっそそれ程の思いを、自分が勤めた講義や講演に訪れるものも携えればいいものをと、思わずにはいられない、学徒の難しさを知る音色。
 「何事も極めるのは困難だ。現にわしとて、未だ極めきれてはおらん」
 慰めるというよりは嘆くように、微かに戯けていってみせれば、子供は目を瞬かせて老人を見遣る。
 その眼差しの意味を把握し切れず、老人もまた、子供を見つめた。
 「ブックマンはもう、出来てるじゃないですか」
 「?何がだ」
 言い切る言葉に、なんの話を彼がしているか掴み切れず、老人は珍しくも首を傾げる。時折、この子供は突拍子も無い事を告げるので、老人でも底知れない時があるのだ。
 「ブックマンは、ラビのお母さんを育てて、今はラビを育てて、そうして僕にも教えてくれて。ひとつずつちゃんと」
 囁き、子供は笑んだ。幸せそうな、嬉しそうな、幼い微笑みで。
 ぎこちなかった過去の日の笑みではない、心から咲く事を知った、綻ぶ真っ白な花弁。
 「ちゃんと、ブックマンの背中見て、進んで、追い越そうって、頑張るんです。……僕も負けないですよ。ブックマンにも、マナにも!」
 力を込め、幼い眼差しは決意したように煌めいた。
 それを見つめ、思い出す。
 幼い日、娘が世界に羽撃くと語った時の眼差しを。孫が自分の後を継ぐのだと言い放った時の強かな笑みを。
 未だこの身では成せない数多い研究はある。仮定を実証するには、自分の人生だけでは足りないだろう。
 それでも、いつの日か。この思いを、意志を受け継ぎ、それを糧に前に進む世代の赤子達が、その結果を目にし作り上げ、刻むのだ。
 …………それは永遠に受け渡し、譲り受け、次代に託す、輪踊のように。

 それは己の先を見定めようとする幼い眼差しが、嬉しそうに輝き告げた。

 

 この先の、優しく綴られる、美しい未来の予言。

 

 








 いやはや、やっと書けた、マナと同じ学校行きたがるアレンと、そんなアレンに沢山の事を知って欲しいなと思っているマナ。
 と、その『沢山の事』を何故か教える立場に自らなっちゃうブックマン!!!←メイン。
 そうしてどんどんブックマンと仲良くなっちゃうので、ラビがアレン帰った後にブックマンに八つ当たりして怒られるといいよ。
 ブックマンは博物学者でミッジングピース専門。だけど歴史学者の娘さんとその旦那の地理分布専門の学者さんの手伝いもするんであっちこっち引っ張りだこ。
 だから聞けば大抵の解答が即返されますよ。とてもいい教師…………!
 そして素直な生徒(アレン)を得るので、そりゃ仲良くもなるわ、二人とも。
 ラビがいなくても普通にアレンはブックマンに会いにきますよ、この先もね☆

11.1.15