この世は悲しみに満ちている
この世は怒りに満ちている
この世は争いに満ちている

それならば、一体何が救いとなるのかと
汚濁まみれの世界を見渡し溜め息を吐く


悲しみは慈しみに
怒りは優しさに
争いは平穏に
緩やかに微かに僅かにゆっくりと
それでも確実に向かうのだと

月魄(げっぱく)に埋もれた君は、囁いた。



01.その姿は祈りに似ている


 月が煌煌と照っていた。
 ようやく戦闘も終わりお互いに大きな怪我も無く無事な事を確認して、瓦礫を背に一息をついた頃には、もう既にこんな時間だ。
 身体は疲れきっていたけれど、それでも戦いによって鋭敏になった神経がなかなか眠りを運んでくれない。
 見上げた空の月は、僅かに欠けていて満月には届かない。それでも十分にまろみあるその身体を惜しみなく輝かせて闇夜を照らしていた。
 小さく吐いた息すら月光に染まりそうな、静寂だ。森の動物すらいない、荒れ地の廃墟。………正確には、廃墟に磨きをかけたのは自分達だけれど、この際そんな細かい点は気にして入られない。
 戦わなければ殺されるのだ。命がかかっている時、建造物にまで意識は向かない。唯一の救いは既に元から半壊していたようなものだったという点か。
 どちらにしろ、戦い方が大雑把だと、またこの年下のエクソシストに注意を受けたのもつい先程の事だった。もっとも、お互い様だと笑って躱したけれど。
 隣に座る少年は、相変わらず左目を気にしていて、けれど少し待っていればホッと息を吐いて肩から力を抜いた。
 それだけで周囲にAKUMAがいない事が見て取れ、漸く軽くなった口調で話しかけながら、真っ白な髪を月光に染めた少年を見下ろした。
 「なんか、あんだけ無茶な戦闘の後だってのに、静かさねー。俺らがいくらAKUMA破壊しても、世界は変わらねぇんかな」
 無音とも言える静寂の中、響くのは自分達の音だけだ。詩的な表現をするなら月明かりが降る音、などとも言うのかもしれないが、残念ながら青年にそんな音は聞き取れなかった。
 あるいはこの眼下の少年なら聞き取っているかもしれないけれど、おそらくそれを今口にする事はないだろう。今、彼の胸中を占めているのは、きっとたった今破壊し尽くしたAKUMAの魂達の事だけだ。青年の事すら加わっているのか怪しい。
 そんな自嘲気味な物憂いをしていると、声はちゃんと届いていたらしい少年が、不意に答えた。
 「多分、違うと思いますよ」
 そして響いた突然の否定の言葉に、一瞬首を傾げる。ついで、先程自分が言った『世界は変わらない』という事への反証らしい事に気付く。
 見下ろした少年は相変わらず蹲った体勢のまま、ふとした気まぐれのように空を仰ぎ見た。その途中、目が合った自分に少しだけ驚いた顔をして、そうして笑んだ。
 ………どこまでもそれは、慈悲深い聖母の微笑みのように。
 「悲しみがあろうと世界は変わらず美しいって、何かで読みましたけど」
 思い出しながらの言葉は少し辿々しく、読んだその言葉自体も、原文と合致しているかは怪しかった。それでもきっと言いたい事はそんな雰囲気の言葉だったのだろうと、青年は意訳を受け入れ頷いた。
 「でも、違う?」
 問う声音には、月明かりが返事をする程細く静かな音色が響く。
 「………はい」
 それでもその声は、ひどくしっかりと肌に触れる。揺れる事のない、確信にも似た何かを確かに携えているものだけが持ち得る、真っ直ぐとした凛と響く音色。
 「世界は、えっと、大きなこの星自体は、確かに変わらないと思います。AKUMAが生まれても、誰も気付かず毎日が過ぎていきますから」
 「そうさね。なんも変わらず、AKUMAの隣でもいつも通りの毎日さー」
 辟易とした風に戯けて答えてみれば、思いの外青年に向けられた眼差しは真剣で、思わずキョトンと目を瞬かせてしまう。
 ………こんな夜中の、疲れてクタクタな中、随分と真面目ぶった問答をするつもりらしい。
 驚いたけれど、すぐに青年はそれに乗った。面倒臭い事は避けたいが、この月明かりの下、少年の囁く音色はひどくマッチして耳に心地いい。
 出来る事ならもう少し、この音色を奏でてもらって、自分の内側で燻る高揚を鎮めて欲しかった。
 「でも………変わらないなら、なんで教団は生まれたんですか?」
 不意に真剣になった眼差しの意味が解り、それに気付いた事を告げるように青年は笑みを浮かべる。月光を背に笑う青年は、屈託のない笑みを浮かべたというのに、ひどく精悍に見えた。
 夜の帳は不思議なものを作り上げると、己も同じように月光に輝き淡く光っている事を知らない少年は、物珍しい姿を真っ直ぐに瞳に映した。
 「僕達一人一人はちっぽけで小さ過ぎて、世界の中に埋もれてしまいます。でも……」
 AKUMAに対抗する力を持つエクソシストは極僅かだ。その上、AKUMAやノアは数限りなく存在し、多勢に無勢がまさに正しい現状だ。
 エクソシストですら命の危険は常につきまとう程、この戦争は過酷で、大部分の人間は無抵抗に殺されるばかりだろう。それは絶対の事実。
 ………それでももうひとつ見逃せない事実はある。
 何も出来ない人間達は、集い合い力を合わせ、強大な何かに対抗すべく、組織を作り上げた。
 今も教団で力を握るのはエクソシストではなく、その更に上の、イノセンスとは無関係の人間達だ。適合者は珍重されるが、決してトップに躍り出る事はない。
 力なく無抵抗に殺される筈の、そんな存在達こそが、対抗勢力を作り上げ、それを牛耳っている。
 それは、なんて途方もない現実だろう。
 「昔…教えてもらいました。時計は、小さな歯車ひとつ駄目になるだけで、動かなくなるって。………それって、大きなひとつの物を、小さな多くの物が動かしているっていう、事……ですよね?」
 転がる石が雪崩を生むように。なんて事はなかったモノが、その実恐ろしく大きなモノを知らず動かしているのだ。
 「それなら、きっと、世界は一人の人間の何かによって、小さく小さく動いているんです」
 月明かりが降り注ぐ。柔らかく優しく、銀の幕で包むように少年の白い髪を、肌を彩り輝かせた。
 …………その様に、声もなく青年は見惚れた。
 それはなんと美しい、洗礼の言葉だろう。水ではなく月光を降らせ浴び、聖書の言葉ではなく己が携え血肉としてきた(まこと)の言葉で人を導く。
 美しい、銀に包まれた優しい天使。
 「だって、そうでないなら、なんで世界は変化するんですか?」
 囁く声は朗々と響く。廃墟の中、虚空に消える事もなく、月明かりを媒体に世界に溶ける。
 「ちっぽけな人達が嘆いて悲しんで苦しんで、叫んで。そうして革命が起きるって聞いた事、あります。小さな声が大きくなって、国を動かすんだって」
 まるで少年自体が月明かりで出来ているようで、知らず青年は腕を伸ばしてしまう。触れなければ、本当に少年が月に消えてしまいそうだった。
 月に溶けそうな白い髪は、やはり少し冷たく質感があやふやで、どうも手を離す事が出来なくなってしまった。
 「ああ、市民革命?」
 「………名前までは知らないんです。ごめんなさい……」
 頭を撫でるようにして髪を掻き混ぜれば、拗ねたような声が返ってきた。大切な部分は知っていても、それに付随される細かな記述までは記憶にない少年は、己の学の無さを唇を尖らせて拗ねるように告げた。
 それに青年は微笑み、それだけ知っていれば十分と、もう一度優しく頭を撫でる。
 「でも、きっと、そういうのなんです。そういうのがあるから、きっと、革命があって、戦争があって、平和があって、また争って………繰り返し繰り返し、小さくちょっとずつ、理想に近づいていくんです」
 夢見るような物言いを、けれど少年は確固たる意志の元、告げた。
 世間知らずな筈は無く、世界の無慈悲さを知らぬ筈も無く。それでもこの少年は、世界は美しく歩みゆくと祈るのだろうか。
 こんな……毎日のように戦いに明け暮れて、山のようなAKUMAをその身に写して天へと還し、そうして誰も顧みない魂の欠片にすら心痛めて、祈るのだろうか。
 髪を撫でていた指先が、不意に止まってしまう。それに合わせるように、少年の眼差しが青年へと向けられ、月明かりと同じ色の瞳が柔和に細められると、ひどく愛おしいものを見つめる微笑みで告げた。
 「一度には誰も出来ないんですよ。だって、僕らだってイノセンスとのシンクロ率、一気に100%越えなんて無理でしょう?」
 きっと、そんな顔をしてしまうくらい、今の自分の表情は情けなく滑稽で、寄る辺無かったのだろう。当たり前にそんな事を祈れる程美しい生き物、戦場の中では長く生きられない、なんて。………考える事も厭える思考が、それでも己の意志に関係なく計算し、導きだした答え。
 そんな事は嫌だと、月に溶ける少年を食い入るように見つめ、もう一度確かめるようにゆっくりと、少年に触れる指先を動かした。月明かりを吸って彼の髪が滑らかになったような気がしたのは、多分、ただの感傷だ。
 …………ただ相変わらず冷えたままの温度が、寂しかった。
 「あー俺、そもそもする気ないさー。元帥面倒臭そーだし、なるわけいかねぇし」
 「そういう問題じゃないんですけど……」
 ムゥと頬を膨らませ、先程までのあまりに儚く優しい微笑みを消して、常の少年に戻った事に、青年は微かな安堵を感じた。
 あのまま、そんな微笑みで月の下にいると、世界を守る為に光に溶けて大気とともに世界を抱き締めにいってしまいそうだった。
 そんな筈が無いと解っていて、けれど夢想とするにはあまりにもこの少年はどこか、危ういのだ。
 「ん、解ってるさ。……うん、それならひとりのAKUMAが生まれれば、世界はちょっぴり悲しむかもなー」
 「でもね、ラビ」
 からかって悪かったと告げる音色に、少年はすぐにむくれた頬を笑みに戻し、また月明かりを全身で浴びるように頤を空へと捧げる。
 真っ白な首が晒されて、その首すら月に染まり、黒い団服から浮いて見える。
 ………首だけとなり銀の盆に飾られた予言者を思い出し、青年は己の空想の悪辣さに舌打ちをしたくなる。
 「悲しむのは、世界の為じゃ、ないんですよ」
 少年は囁く。愛おしそうに、慈しみ深く。
 銀に包まれ黒に抱き締められ、それらから奪うように添えられた手のひらに引き寄せられながら。
 トン、と、青年の膝に少年の頬が触れる。引き寄せても抱き締められる位置ではなかったとその時漸く気付き、少しだけバツの悪い顔で見下ろした少年は、指先を組んで膝に乗せ、空を見上げて月を食むように囁いた。
 「誰だって、悲しむのは手の届く何か、ちっぽけで些細で他愛無い、そんなものの為なんです」
 そうして、それが故に世界は悲しみ、その悲しみを癒す為に変動していくのだと。
 真っ白な月明かりに溶けてしまいそうな少年は、微笑んで透明な音色をそっと奏でた。
 それはどれ程の思いのもと、綴られる旋律なのか。それすら解らない青年は微かに眉を寄せ、座っていた瓦礫から腰を落とすと、少年と同じように地面に座り込んだ。
 そうして、今度こそ真っ白な髪を引き寄せ肩に寄りかからせると、小さく深く息を吸い、じっと月を睨み上げた。そうして牽制しなければ、本当に月がこの少年を自分から奪いそうだ。
 …………世界の為の贄に、選びそうだ。
 「じゃあ、悲しまないでいい世界に、ちょっとでも早くなるように頑張るさ」
 銀に染まった髪に頬を寄せ、自分が言う柄でもなく、そんな使命を背負える立場でもない事を、呟く。
 少年は小さく笑い、頷いて、微かに甘えるように青年に擦り寄りながら、そっと目蓋を落とした。
 睫毛すら白い少年は、銀に輝き、それが癪に障って、青年は抱き込むように少年の肩を更に引き寄せた。

 抵抗も無いまま収まった肢体は幼く細く、月が喜んで迎え入れてしまいそうな程、甘かった。





 ………………世界の為などではなく、己の為に生きれればいいのに。






 嘘でない笑顔は、多分ちゃんと回りに伝わって、感染して、幸せを作る一因になってくれると思うのですよ。
 笑顔だけで生きられる筈はないけど、沢山の表情の中で、一番幸せな笑みが多ければいい。
 子供達は特に、それに包まれて自分もそれを携えて生きてくれるといい。そうすれば、意外と世界は冷たくても、愛しく優しいって気付ける糧になるだろうから。
 多分アレンはそれを知っていて、ラビはまだ気付く途中(苦笑)

10.9.23