貧弱で脆弱で真っ白で。

このままにすればきっと

雪と一緒に溶けるだろう

そう、思った、あの日

 

伸ばした腕が誰の為か、なんて

…………考えるつもりもなかったのに





きみがため



 ワインを取り上げると、不意に気配が増えた。昔にはよく感じたこの気配を間違える筈もない。
 ニヤリと笑い、欠片程も驚いていない声音で、当たり前のように呟いた。
 「なんだ、せっせと仕事か」
 グラスを一つ、すくいあげて振り向いた。その先には小柄な老人が一人、立っている。ドアが開いた気配もないというのに、いつもの事ながら彼はどこから忍び込むのか、謎だ。
 「お前さん程遊びほうけておられんわ」
 揶揄する男の声に、溜め息を吐きながら老人が答える。一歩近づけば、男はグラスを掲げてみせた。
 それに僅かに思案する振りをして、頷く。この男が自ら酒を分けようとするなど、天変地異の前触れのようなものだ。それくらい、機嫌がいいのだろう。
 「弟子の方はどうした。そっちが遊んでんのか?」
 楽しげな声で告げる言葉は、多分、探り合いの一端だ。あの場に立っていた弟子が、記録対象をどのような眼差しで見つめていたか、想像に難くない。
 どうせまた、感情が先に出たのだ。少年がいなければまだ取り繕う事も出来るというのに、彼を前にしてそれを記録する時、どうにもあの弟子は不安定でいけない。
 「あれは、もう一人を見とる」
 解っているだろうと呟くような枯れた音に、男はワインを注いだグラスを差し出した。深紅の液体が揺れて波を起こしながら、そっと老人に目の前に現れた。礼を言い受け取れば、もう興味がないように男は背を向け、出窓の端に腰掛けてしまう。
 そうして、窓の外の暗闇を見つめる振りをして、小さくその唇を蠢かした。
 「………………アレン、…いや、『14番目』を、か」
 声に揺れはなかった。いつもと同じ、高飛車ともいえる抑揚。微かに窓硝子に映る姿は、強かな笑みに彩られている。
 それを見つめ、あの少年のポーカーフェイスがどこから学んだものか解り、老人は仕方なさそうに隈取りの奥の瞳を細めた。
 「安心されよ、マリアン」
 聞きたい事を、聞きたいがままに綴らないのは、この男の癖だろう。見栄や保身ならばまだしも、それは晒せば巻き込む事を知っているが故の、癖だ。………それを見つめ育てられた弟子にすら移ってしまった、悪癖だ。
 もっとも、それらを男は偽悪的なまでの不遜さの中に紛れ込ませ、少年は微笑みの中に隠し込むという、決定的な差はあるけれど。
 思い、溜め息が出そうだ。
 自身を導き育てるものに感化されやすい少年は、彼自身が他者を感化する至純に包まれた希有な存在で。その希有な命に惹かれてしまうのはきっと、自分達一族の業のようなものだろう。
 「あの未熟者は、『アレン・ウォーカー』以外、見る気もないようだ」
 この世界の汚泥の底を見つめてきたからこそ、あのまっさらさはあまりに魅力的だ。枯渇する喉を癒し潤してくれる、甘露。
 それが許されるか否かなど関係もなく、不器用な弟子は不器用なりに、あの少年が抱えるには多過ぎる痛みを癒したいのだと、佇んでいる。きっと、間違えもするし失敗もするだろうが、それでもあの少年はその中にある愛おしさに気付いて、抱き締める事だろう。
 「………そりゃ、また酔狂な話しだ。あんたらの本職考えれば、14番目は貴重だろう?」
 くつりと、男の唇が笑みを深めた。窓硝子の中、老人の眼差しでなければ見極められない程微かに見えるのは、僅かに顰められた憂いの眉。
 その意味を知る老人は、何も気付かなかったかのように視線すら揺らさず、軽い溜め息とともに己の弟子を扱き下ろした。
 「だからこそ、未熟と言うておる」
 そして未熟だからこそ、愚かにも記載対象に情を寄せ、記録すべき対象を打ち消す事を願っている。
 それが本職として正しいか否か、ではなく。それでも選び模索する。そう告げる音に、僅かに男の目が見開いたのを、老人は見逃さなかった。
 「あんたは……まあいい、俺には関係もない。あんな生意気な馬鹿弟子、勝手にするがいいさ」
 振り返り、いつもの居丈高な笑みと声でそう呟いた男は、グラスの中のワインを喉に流した。……いつもなら味わい楽しみそれを、まるで不味い水道水を飲むように。
 「そうだな。小僧は勝手に強く歩むだろう」
 呟き、老人もまた、手の中のグラスを揺らし、その香りを鼻先に漂わせる。上等の葡萄酒の香り。きっとまた、彼の警護をしているものが涙を飲んで自腹を切って購入したに違いない。
 いつだってそのように振る舞い続け、嘲るように絶対的な力を指し示す男だ。決して己の弟子に同情など示すまいと、思っていた。それは、解っていた未来を足掻く無意味さを知り、覆す為に勝利する為に飲み込む事を決めた汚濁の欠片が含む、痛みだった筈だ。
 覚悟を、決めていた筈の男。それを引き寄せ育てたのは、見張る為だと思っていたのに。
 「おぬしが示した全てを、正しく食んで身の肥やしと出来る」
 慈しんで、いたのか。あんな風にその腕を差し出すまでに。その声を豊かな父性で響かせる程に。
 ちっぽけで壊れかけた、ボロボロの子供。歩みを思い出したその小汚い子供は、その眼差しの見据える先、美しく世界を愛でる術を持った、希有なる命だったのは、どんな喜劇だろうか。
 「…………随分、買い被ってんなぁ。ありゃ、父親恋しいって泣く、クソガキだよ。ずっとな」
 「だから、拾ったのだろう。存外おぬしは子供に甘い」
 「まんまあんたに言うぜ、ブックマン。そんなんで裏歴史、綴れるのか?」
 随分と入れ込んでいる、と。男は警戒を示して呟いた。たとえ教団内であっても、何があるか解らない。発言は、慎重に。例え洩れ聞こえていたとしても問題がないよう、気をつけなくてはいけない。
 「心配は無用。おぬし同様、境界線は把握しておる」
 解っていると、そう示すように冷めた声が呟いた。相変わらず、記録者と成り済ます事が上手い老人だ。
 「とはいえ、今回はお互い、逸脱したようだがな」
 低い呟きに、さっと周囲の気配を探った。………まだ、何も感じはしない。が、安堵も出来ない。
 「………何の話しだ」
 探るようにゆっくりと、男は問うた。微かに眇められた眼差しが、真意を問うようだ。
 たったいま、釘を刺しただろうに。それでも何を示すつもりかと、訝しんだ男の眼差しの先、老人は微かに唇を動かし、その音を紡いだ。
 「アレン・ウォーカーを、残したいのだろう?」
 「………………、14番目が戻ってくる、それが俺とあんたの唯一重なってる望みだろう」
 「それでも、宿主をくれてやるのは、惜しまれておる」
 「何が言いたい」
 今この状況の中、ノアと関わりを持つ自分達は、トップクラスの重要参考人だ。そんな中、宿主の話をあからさまにする事に、なんの意義があるだろうか。
 不可解に眉を顰めれば、老人はほんの微か、その隈取りの奥を柔らかくした気がした。
 「わざわざ、焚き付けたな。小僧に」
 一区切り事、念を押すように響いた、老人の声。
 …………それに、微かに息を飲んだ己が腹立たしかった。
 「大切なものを殺す、などと言われて、あの小僧が己を手放す事はなくなったな」
 呟く声に、彼の意図を知る。
 あの子供が、教団を裏切らないと、示したいのか。この極悪の環境の元、それでも萎れる事なく凛と咲く真っ白な花弁が枯れないように。
 ノアになどくれてやるなと、どこで聞いているか解りもしない誰かに、告げているのか。
 それが、自身にもまた影響を及ぼす可能性を知っていて、それでも告げる程度には、この老人もまたあの少年を気に入っているのか。
 ………もっとも、そんな事口にしたところで、この老獪な老人は記録対象として必要だと、しれっと答えるに決っている。
 「この先、最悪の場合、ノアに人質でもとられれば、己の身体、くれてやりかねん」
 老人の冷静な判断。それは、頷かざるを得ない未来だ。見据え、回避する為にこそ頭を使うべき、そんな客観的事実。
 解っている事だ。自分は元は科学者だ。全ての事実を平等に並べ比較し、そして仮説を立て検証する術は、彼程ではないとしても持っている。
 だからこそ、呼気すら乱さず眉すら微動たりともさせず、空になったグラスにワインを注ぎながら答えた。
 「………そこまであの馬鹿が馬鹿なら、代わった方が幸せだろうよ」
 「だから、試したか。怒りをぶつけたアレンに、安堵しただろう」
 くすりと、笑う筈もない老人の笑いが聞こえた気がして、男は顔を顰めた。
 どうせ、気付かれてはいるだろう。それくらいは、解っていた。この老人は、茶目っ気に隠して玲瓏に全てを見定めている役者だ。告げた言葉の、たかだか呼気の落とし方程度でも、分析し介入してラベルを張り付けられる。
 その中、まるで過保護なティエドールのようなカテゴリーに加えられるのは業腹だ。思い、鼻で笑って手の中のグラスを呷った。
 「誰があんなクソ生意気な馬鹿弟子に安心なんぞするか。この俺に歯向かいやがった」
 一緒に旅していた3年間。自分の奇行に翻弄され目を回すようについてきているばかりで、文句を言うような余裕も、牙を剥くようなゆとりも、なかった癖に。
 あんな、鉄枷をはめられる以上の拘束の術を施された状況で、ティムを使ってまで、反抗した。
 あのまま崩れ落ち動けなくなるかと思った、昔の傷を触発されれば血を流してしまう、惑い続ける寄る辺ない子供、が。
 思い出し、グラスにつけた唇が、満足げに笑んでしまった。
 「そうだな。………あのほんの数瞬で、あやつは己の思いの根源を認めた。認めて、受け入れて、立ち向かう事を決めた」
 その笑みに己で気付き隠すより早く、老人はひたと見つめた眼差しのまま答える。気付かれた、確実に。舌打ちしたいが、そんな不様な真似を晒すのも業腹だ。
 片眉を上げるだけで老人の言葉を揶揄してみれば、彼は昔に比べて随分と柔らかくその皺だらけの唇で弧を描いた。
 「子の親離れは……喜ばしいな。あれはいずれ美しく羽ばたく、蛹(さなぎ)だ」
 それはまるで慈しんでいるかのような、音。
 耳に響く意外な音色に、思わず唇を引き結んでしまう。………あの馬鹿弟子は、マシな顔をするようになったと思いきや、この教団の中、きちんと己を見つめ育む存在達を見つけたのか。
 それは……きっと、喜ばしい事、だ。
 打ち沈み言葉を飲み込みただ生き急ぐように生きるばかりの、終焉を夢見て戦う子供だった。自分の守り方など考えもしない無茶な戦い方しか知らないその腕に、幾度殴り蹴りを入れ、防御の仕方、身の躱し方、叩き込んだ事だろう。
 それをもっとずっと優しく、彼らは与え開花させたのか。ようやく蕾を付けただけだった、あの己の価値など微塵も認めていなかった独りぼっちの子供を。
 「言っているだろう、買い被り、だな。ありゃ、今もまだ、オシメつけたまんまのガキだ」
 微かに、声が苛立ってしまった。………まだまだ自分も青い。
 自分が育てた蕾だ。開花すればそれは望ましい事だ。それでもそれは未だ、満開とはいかない五分咲きの花。
 あとの半分は、過去が抱き締め触れる事も出来ないまま、佇み続けている。
 「親が恋しくて泣く、ガキのまんまだよ。親離れなんぞ、しちゃいねぇ」
 …………小さく呟くその低い音の中、微かに潜む寂寞。
 それを見つめ、老人は嗄れた指先でグラスを傾け、中の赤い葡萄酒を燻らせるように混ぜ、唇を濡らした。
 あの子供が、たった一つ抱え続け無くせずにいる、枷のように深い呪い。それが愛なのだと言ったなら、愛という言葉の抱える、その意味とは真逆の狂気を教えるようなものだろうか。
 それでもきっと、あの子供は微笑むだろう。それすら知っているのだと、あの壊れた養父を支え寄り添う事を選んだ時から、ずっと、それ以外の望みも知らない幼い子供。
 思い、微かな溜め息を隠すように、一口、口に含んだ葡萄酒は、甘露というにはあまりに苦く感じた。
 「それでもおぬしの望みは、叶う」
 そっと呟いたその声も、あるいは苦かっただろうか。いつも通りの、無機質な音色の中、つい先程耳を澄まし記録した音色が重なる。
 ………囁いた、男の言葉。深まった少年の沈黙。その隙間を埋めるものを、想像する。彼らの関係性、与えられた情報、それを処理する少年の思考、そして、少年の携える、全て。混ぜ合わせ拡散し、再構築する。
 そうして見据えたものは、どこか物悲しく切なくて、老人は隈取りの奥の瞳を隠すように目蓋を落とした。
 「14番目が、戻ってくるって?」
 揶揄するような皮肉な声が、不意に響いた。それはきっと、隈取りに隠された眼差しの意味を知っているからだ。
 まだまだ自分も未熟だ。他者に見極められるなど。………とはいえ、今夜は少し、衝撃的な情報が多過ぎて、処理する事も一苦労であった事は確かだけれど。
 「……さあな。この言葉をどう受け止めるかは、おぬし次第だ」
 小さく笑い、老人も言葉を濁し、告げた。浮かんだ笑みは、男と同じ皮肉なものだ。
 お互い、解っていて、隠した。どこで何が耳をそばだてているか解らない、それが現状だ。ならば通じるものを形として提示する意味はない。覆い隠し、素知らぬ顔をしなくては、危険だ。
 「さて、そろそろ行くか。おぬしも精々、気をつけよ」
 くい、と、グラスの中に僅かに残る葡萄酒を喉に流し込み、老人は立ち上がった。それを横目に見ながら、男は唇を歪めるように不敵に笑んだ。
 彼の言葉の意味が、解らない筈はない。きっと、それを耳にし、相当な焦燥を感じた事だろう。山のような情報を持つという事は、時に不幸だ。それが故に、命の危険に晒される事もある。
 「悪いな。聞いてたあんたまで、巻き込んだ」
 「解っているならばみなまで言う必要もあるまい」
 溜め息のように落とした言葉は、微かに早口だった。それにクスリと笑い、男は傾けたグラスに唇を寄せる。
 「ただ、生き残られよ。それが、………あの子供の望む事だと、忘れるなよ、マリアン」
 そう呟く老人の背中は、小さく細い癖に、ひどく雄大だった。
 流石は裏歴史を詰めに詰め、当代まで守り続けただけはある、と。男はニヤリと笑い、紫煙を吐き出した。
 何を記録にきたのか、など、問うまでもない。
 ただ、告げたかっただけだろう、あのどこか甘くお人好しな老人は。
 自分が危険を承知で告げた一言が、誰の為の言葉か、解っているのはきっと、彼だけだ。そして、そうであるが故に、それは守られると教えにきてくれた。
 もっとも。………その守り手は、未だ尻に殻をつけた未熟なヒヨッ子だ。安心など到底出来はしないが、それでも寄り添うものがいると、示しにきた。

 裏歴史、なんて。そんなモノに関わる事はない。
 それでもあの細く脆弱な真っ白な子供の中。
 書き込められた全ては、それに寄り添い歩む事を余儀なくさせた。

 それならば、せめて、花開け。

 美しく艶やかに、世界に刻むように、咲き誇れ。
 甘やかな誘惑など足蹴にし、己の意志で立ち上がれ。

 それが、俺の弟子の証だと、誇って笑え。

 

 …………そうして笑んだ唇の先、ドアが、ノックされた。

 それは最後の来訪者の、訪れの音。

 








 キリリク『アレン談義をする師匠とブックマン』でした。
 初めての師匠………!あっているのか、この人こんなで?!という謎に包まれています(オイ)
 いえ、人様の書かれる師匠ってあまり見ず。ブックマンも己で自己生産ですし………。
 今回は、本誌のアレン様(様?!)があまりに素敵だったので、ラストをそちらとリンクさせました。
 204夜ネタバレ小説のアレンパートを合わせてご覧下されば幸いです。(ピクシブにあります)
 見事な師匠とシンクロした笑みでしたよ、アレン様。
 あ。一つ言い訳を。
 師匠失踪に繋げるなら、ブックマンにグラスあげない方がよかったのですが。
 上機嫌な師匠の心境表現と、ブックマンが葡萄酒飲んでるの可愛い気がする!という自分の欲求に勝てませんでした!!(待て)
 そっとグラス1つ分は心の目で掻き消して、繋げて下されば有り難い。

 こんな感じの小説になりましたが、よろしければハルさん、お持ち帰り下さいませ♪

11.3.9