遠い昔、
まだ何も知らなかった幼く拙いこの腕は
変わらず不器用ではあるけれど
笑みを咲かせる事も、覚えました

あなたと出会って知った事
指折り数えて咀嚼して
灯る笑みがくすぐったい

きっとあなたは知らないけれど
あなたが灯した笑みこそが
幸せという言葉に覆われたものなのです

だから、ねえ
あなたにも、灯って
幸せに満ちて、微笑んで




一緒にいる時間



 コンコンと、目の前のドアをノックした。別に必要もないかもしれないが、一応の礼儀だ。
 勿論、返事が返ってこないならそのまま開けてしまうドアは、鍵がかかっていない事が圧倒的に多い。たいしたものがない事と、緊急時にすぐに出られるようにだという少年の言葉ももっともだが、物はなくても少年自身が存在する。
 この教団内に不穏な人物がいると思いたくはないが、用心を重ねる事は悪い事ではない。そう言っても、微笑むばかりで改善はされないのだけれど。
 そんな事を考えていると、中から少年の返事が聞こえた。それならば遠慮はいらないとドアを開けながら声を掛けた。
 「アレーン、今平気さ?」
 明るい声で問い掛けながら室内を覗いてみれば、何故か部屋の中央に置かれている椅子の横に、汗にまみれた少年が立っていた。
 息は上がっていないが、流れ落ちる汗は、この寒い室内の中では異様だ。それを眺め、ひくりと顔が引き攣ってしまった。
 「?はい、どうぞ?」
 顔を引き攣らせた青年に首を傾げながら、少年は取り合えず椅子を片付けながら青年を招き入れた。座る場所がベッドしかないが、流石に汗が滴り落ちた椅子をすすめるわけにもいかない。
 真っ白な肌が惜しげもなく晒され、浮かんだ汗の数すら数えられそうだ。相当の運動量だったのだろう、肌が火照って見える。
 まだ寒さも厳しい時期だ。春といえども高山と言って差し支えのないこの教団の位置からしてみれば、冬と大差ない気温だ。にもかかわらず、少年は半裸でも寒そうな素振りも見せず、あまつさえ汗まで流している。そして、先程まであった、椅子。
 その理由など一つしか思いつかず、青年は軽く息を吐き出して、胡乱な眼差しを向けてしまった。
 「…………もしかして、鍛錬中だったんさ?部屋で?」
 真面目にも程がある。午前中、既に組み手を行なった筈だ。にもかかわらず、昼食後の休憩を取っただろう時間に赴けば、そんな暇はなかったと言わんばかりの状況だ。呆れてしまっても文句は言われないだろう。
 時折、この少年は無茶を無茶と知らずに敢行する。許容量をオーバーしなければいいなんて、そんな筈はないのだ。常に余裕を残す事とて、死線で戦うものには必要だ。いざという時、その余力がものを言う事は、多々ある。
 ………勿論、それを培う為の鍛錬だと言われれば、反論する術もないのだけれど。
 ムスッとした青年の様子に、何を考えているか解ったのだろう。少年は苦笑しながらワイシャツを手にとった。
 「師匠に毎日最低でもやっておけと教え込まれたんですよ………。まあ体力作りには役に立ってます」
 告げる声は、それでも厭った響きがない。慕っている……とは一概に言えないとはいえ、確かに師と仰ぎその言葉を大切にしている事は、解る。
 そしてその言葉の多くは、確かに少年を生かし前に進む為の源として鎮座しているのだ。それを知っているだけに、文句は付けられない。
 軽い溜め息を吐き出しながら、青年は室内に歩を進める。ガシガシと乱暴に自身の赤い髪を掻き乱しながら、勝手知ったる室内を、少年に近づく事なくタンスに向かった。
 「だからアレン、部屋に籠る事多いんさねぇ」
 どうせ常に言われた事を履行する為、奮闘しているのだ。きっと、自分が必要な知識だと教えた事も、帰ってから復習しているに違いない。今度は口頭ではなく、書物も与えてみようか。………そうしたら、この室内でも、自分との時間が繋がるかもしれない。
 そんな事を考えながら、勝手に抽き出しを開けた。少年から咎める声も視線もない。信用されているのか無頓着なのか、微妙だ。
 「そうでもないですけど……、あ、ところで、何か用ですか?」
 首を傾げている様子が背後で窺え、青年は苦笑する。
 さらりと音がして、少年が手にしていたワイシャツに袖を通した事が解った。………まだ汗も引いていなかっただろうに、それでもそうするだろう事は解っている。
 今もまだ左腕を人に晒す事を、彼は好まないのだ。
 気にしないと言っても、意味はない。相手が気にするのではなく、彼自身が気になる事だ。ならば言葉になど頼らず、何も知らない振りをして、その腕が当たり前の存在だと自然体のまま接した方がいいだろう。
 見つけ出したタオルを手に取り、青年は振り返った。きっと少年にとって、背中を向けていた事は着替え中の相手への配慮、と言ったところだろう。実際、その意味合いも兼ねているのだから、間違いはない。
 ………流石に、想う相手のそんな姿を見て、平常心がぐらつかない自信はないのだ。
 「んにゃ、用があるわけじゃないんさ。ほら、それよりタオル。身体冷やしちゃダメさ?」
  からかう声で喉奥の乾きを誤摩化しながら、青年は少年にタオルを投げ与えた。それを綺麗にキャッチしながら、少年がきょろりと室内を見回した。
 「あ、すみません。……用じゃないんですか?あ、お茶煎れましょうか?」
 そんな仕草に何かと思い眺めていれば言われた言葉に、肩を落としそうだ。今はこちらに気を使うより、まずは自分の身支度を考えるべきだろう。
 汗も拭わずに羽織ったワイシャツは、微かに汗で透けて見える。このままでは風邪くらい引きそうだった。
 「いいから、取り合えずまずはちょっと座って休むさ。アレン、頑張り過ぎ」
 このままでは埒が明かないと、青年は折角とっていた距離を詰め、少年の腕を掴んだ。………本当は、自分の理性の為にも、もう少し距離が欲しいところだ。けれどそんな事を言っていれば、この少年は自身の事など後回しにしてこちらを気に掛けるに決っている。
 掴んだ腕の先、キョトンとした少年の眼差し。額から垂れる汗を拭う指先を眺めながら、青年はその腕を引き寄せた。
 当然、傾いた少年の上体は、そのまま青年の胸に凭れ掛かるように押し付けられる。
 ニヤリとそれに笑い、間近な白い髪を見下ろせば、微かに艶がかったように見えた。この寒い室内でそれだけの量の汗を掻くなんて、どれだけ動いたのだろうか。
 そっと、それを労るように眼下の白い髪に口吻ければ、仕草でそれに気付いた少年が真っ赤になって腕を突っぱねた。
 「ちょっ………!ラビ、僕いま凄く汗臭いですからっ!」
 いくらなんでもこの状態で人の傍に収まるなんて耐えられない。相手に対しても失礼だと、必死に遠ざかろうと突っぱねたその腕を、青年は掴んで腕の中に押さえ込んでしまう。
 それでもまだ抵抗を試みようとする少年に苦笑しながら、仕方なしに軽くその足を払って宙に浮かせた。
 「ふぇ?!」
 少年の驚きの声とともに僅かに浮かんだ細い身体。それを抱え上げるようにして支えて衝撃を和らげ、その場に2人、座り込む。
 あっさりと終わったその一連の動作のあと、少年が目を瞬かせて現状を確認してみれば、しっかりと腕の中、肩を抱かれている上、身体は青年の足の上だ。
 ……………いくらなんでも、これはない。たとえ想い合った者同士でも、自分達はどちらも男だ。こんなポジションに座らされるなんて、男として少しばかりプライドを傷つけられてしまう。
 ただでさえ青年よりも小柄な自分の体格を気にしているというのにと、睨むように振り返った視線の先、見えたのは隻眼。
 柔らかく嬉しそうに溶けたその片目が、言葉などいらない程に綻んで喜びを教えてくる。
 ………………………質の悪い人だ。そんな顔をされて、拒否など出来る筈がない。むくれるように頬を膨らませて顔を逸らし、それでも足りないと俯いたが、きっと耳も首筋も赤く染まったに違いない。
 証拠のように、背後の青年が楽しげに笑んで、耳元に軽いキスを贈ってきた。
 「別に気にならないさ。それよりほら、肩、冷えてる。いきなり冷やしたらダメなん、解ってるだろ?」
 そうしてそのまま、存在をすっかり忘れられてしまった不格好に少年の肩に乗ったままのタオルを手に取ると、頬や額、耳の裏、首筋からはだけたままのワイシャツの中まで汗を拭い始める。
 脇腹を過る感触のくすぐったさに身を捩るが、他意のない指先はまるで遠慮もなかった。
 「なら、シャワー浴びてきますよ」
 もがくようにして立ち上がろうとするけれど、どうやらその度に関節を押えられてしまうらしく、うまくいかない。
 丸まるようにして前に逃げようとしてみれば、そのまま首筋を押えられて、無防備な背中の汗も拭われた。………もっとも、その大部分は既にワイシャツに吸収されていただろうけれど。
 最早抵抗も無意味な気がしてきて、軽く息を吐き出すと、少年は床についた指先を引き戻し、諦めたように背中を青年に預け、ワイシャツのボタンをとめた。
 それが解ったのだろう。青年も敢えてそれ以上タオルを押し付ける真似はせず、ぎゅっと少年を腕の中に抱えて髪に頬を寄せた。
 諦めたとはいえ、やはりまだ居心地は悪い。せめて汗に濡れた髪になど触れないで欲しいけれど、青年は気にも掛けていないようだ。
 僅かに身体を逸らせて逃げを打つが、それにクスクスと笑いながら青年は少年の腹の上に回した腕を組み、逃がさないと教えるように力を込めた。
 「だ〜め。もうちっとだから、一緒にいて」
 軽やかな声の中、寂しげに響く音。それに肩を竦めていた少年は気付き、眉を顰めさせた。
 「…………?どういう意味ですか?」
 どうも、この青年は無駄な言葉が多い。戯けて躱して、ひっそりと微かにしか本心を零さないのだから、いつだって気付くのが後手に回る。
 本当に望む事以外なら、いくらだって幼い子供のように我が侭を言う癖に、殊勝というよりは諦めに近い感情で、彼はそれを晒せない。
 だから、せめて気付いた時くらいは、掬い取りたい。そう願って向けた眼差しの先、新緑が静かに瞬いた。
 「………俺らさ、またちょっと遠出なんさ。多分、帰ってくる頃にはアレンの方がいなさそう」
 言葉のニュアンス的に、おそらくは本職でだろう。それを感じ取り、少年は青年の中の不安が見えた気がして、微笑んだ。
 「仕方ないですよ。でも、怪我には気を付けて下さいね」
 それならば恥ずかしいなどという思いで拒むわけにもいかない。こんな時、青年は触れている事でしか安堵を見出せないのだ。
 躊躇いがちだった身体の力を抜いて、そっと青年の首筋に頬を埋める。
 腕の中に収まる事を享受した仕草に、青年の唇が嬉しげに笑んだのが、近過ぎる視野の中、ぼんやりと映った。
 その唇が、心地良さそうに淡く溜め息を落とす。その微かな呼気が触れた頬が、冷えていた筈の身体にぬくもりを教えた。
 …………きっと、それを与えたかったのだろう、と。今もまだ腕の力を緩めずに身体全部で包もうとする青年に微笑んだ。
 「それはこっちの台詞さ。俺らは道中の危険がなければ、そう危ない事にはならないさ」
 エクソシストではなくブックマンとして動く中、一番危険なのは、AKUMAではなく、人間だ。命を狙う大部分は、人という同種の生き物だ。
 それらが一番罠を張り強襲を掛けるのは、大抵が道中の狙い易いポイントだ。それを熟知しているからこそ、今までも師弟の旅の中では、いらぬ争いを避ける為の裏道や秘密通路、変装に至るまであらゆる手段を駆使してきた。が、それでも交戦となる事を避けるにはいたらないケースも多い。
 それを全て解消出来るのは、たった一歩で現地に近付けるという、方舟の力だ。
 「方舟、使えてよかったです」
 響く青年の声の中の感謝に、少年はくすぐったそうに照れ笑いを落とし、自身を包む腕に指先を添えて満足そうに囁いた。
 大切な人達を守る為、自分の持つ特殊性が役に立つ。理由など知らないし、解らないままでもいい。それが故に心ない言葉を投げつけられても、疑いの眼差しを向けられても、構わない。
 守りたいものを守れる、それが一番大切な事だと、少年は知っている。
 それ以外の痛みなど、些事だ。もっとも、それを気に掛ける必要もないと言ったなら、この青年は悲しみ怒るのだろうけれど。
 「うん。アレンのおかげ。守ってくれてありがとさ」
 愛おしそうに、腕の力が強まる。肩に埋められる青年の唇が囁く声が、熱の引いた身体に心地良かった。
 同じぬくもりを贈れるかは解らないけれど、間近な赤い髪に唇を寄せ、少年は精一杯の勇気とともに、それに口吻けた。
 「…………こちらこそ、守られてくれて、ありがとうございます」
 少年の仕草に、驚いたように青年の腕がぴくりと跳ねた。それに真っ赤になった顔を見られないように、その髪に顔を埋める。きっと彼の髪と同じ色に染まった顔は、情けないくらい幼いに違いない。
 今もまだ、色々な事に不器用で拙い自分だ。出来る事は限られていて、この身に起こるあらゆる事への不安や恐怖だって、ある。
 それでも、たった一つ見失う事なく携えられるものがある。それが、どれ程の救いだろうか。
 「大事な人達の為なら、僕はいくらでも強くなれますから」
 愛しいと、教えてくれたこと。与えてくれたこと。………どれ程感謝しても足りないくらいの、励みだ。
 きっと青年はそんな物では足りないのだと、こうしてほんの少し離れる時間を惜しむくらい、沢山の情を与えようとするけれど。
 ………もうとっくに、満たされていると、知ってくれればいい。
 抱き締めてくれる腕がある、それだけでこんなにも泣きたいくらい幸せだと、知ってくれればいい。
 この人達を守る為なら、いくらでも。どんな事だって頑張れるのだと、当たり前に思える自分の事は、ほんの少しだけ好きだと思えた。………もっとも、無理ばかりするなと、彼らには窘められてしまうけれど。
 「アレン、男前さ。……でも、忘れちゃ困るさ、俺の方がお兄さん!」
 そんな考えが伝わったのか、擦り寄るように懐く青年が、クスリと笑いを孕んで答えた。
 彼の腕に添えた指先を包むように手のひらに収め、逃したくないと教えるようにぎゅっと、掴まれる。多分、それは言外の思い、だ。離れたくないと、ずっと傍にいたいと、教える為の無言の睦言。
 「……………だからアレンの事、俺らにも守らせるさ」
 そう、言って。にっこり嬉しそうに笑う青年は、腕の力を込めた。
 まるで軽口のように言う癖に、ひどくそれは厳かな誓いのように響く。
 さわさわと懐くように擦り寄る度に揺れる赤毛が頬をくすぐる。まるで顔を見せまいとするように少年の肩に顔を埋めてしまった青年を、横目で見下ろした。
 ………微かに熱く、肩に染まる吐息。

 閉ざされた隻眼が何を思うかなど、解らない、けれど。

 きっとその翡翠は祈るように自身の言葉を刻んでいるのだろう。

 ………ほんの少しの、別離のあいだ。
 傷付かずにいてほしい、なんて。
 戦う宿命を背負う自分達には不可能かもしれないけれど。

 幾度でも捧げ告げてくれる優しい祈りに、そっと睫毛を落とし、少年は抱き締める赤い髪に頬を寄せた。

 少しだけ驚いた翡翠が瞬き、見つめた先、柔らかくほころぶ銀灰。

 ……………同じ祈りを分かち合う事を教えるぬくもりに、翡翠が微笑んだ。

 

 真っ白なの睫毛に、祝福のキス、ひとつ落として。

 








 久々更新。D灰始めて初めてですね、一週間以上サイト更新しなかったの。まあブログには書いていましたが。
 これは実は以前キリリクでいただいたお題に使おうと冒頭部分と結末部分は書いていたのですが。
 その時に書いた中身と微妙にチグハグ間が出てサクッと切り離した物体のリメイクです。
 ………まあ書き足した方が8割くらいなんですがね。
 ちょっと長めの話しもそろそろ書きたいな〜と思っているのですが。
 それが現代パロというか近未来パロというかSFまではいかんけど……みたいな内容で、設定を考えるところで既に頓挫中(笑)
 あんまり非現実的な話は考えないからなぁ………。読むのは好きだけど、自分の脳みそで考えるには不向き。
 まあ頑張って設定が煮詰められたら書いてみますよ。犬に乗り移ってるラビと、子アレンのハートフルストーリー。………こう書くと普通そうなのになぁ……いざ書く為に考える設定は面倒ですよ(溜め息)

11.3.26