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あなたはきっと何も知らず
知らないまま、美しい旋律を奏でている
その音色がどれ程心地よく
耳に響くか
肌に触れるか
心を溶かすか
あなたは何一つ知らないまま
優しく愛おしく
静かに静かにさえずるのだ
03.誰でもない、君の為に
汽車を待っているホームに人はいなかった。
それもそうだろう。次の汽車までの時間はまだ数時間あり、この前に発車したのもまた、数時間前の話だ。無人駅のホームは鳥が羽ばたく程度で、他の気配もない。
少年と青年はそんなホームにある唯一のベンチに腰掛けて、他に見るものもなく、空を見上げている。
「なんか…肩透かしな任務さぁ」
「でもAKUMAの被害もありませんでしたし、ちょっとした旅行でしたね」
いつもであればイノセンスが空振りであったとしても、大抵AKUMAとは遭遇するものだった。けれど今回の任務では、AKUMAさえいなかった。
もっとも、村人が30人もいない場所で、なおかつ更に奥地へと入った洞穴での怪異だったのだから、AKUMAの原料となるべき魂すらなかったのかも知れない。
洞穴の怪異は、唸り声が聞こえれば土砂崩れが起きるという自然現象で、洞穴内部の空洞と風によって音が共鳴して増幅し、それを外へと押しやる水脈の水深の度合いによって、土砂崩れが起きるらしかった。
山の木の状態とその手入れの問題や水脈自体の整備の至らなさなど、色々な要因が重なった為の現象だったが、それらの中にイノセンスの気配も、AKUMAの姿も無かった。
一応念には念をと山の中を歩き回ったけれど、少年の左目にスキャンされるAKUMAはおらず、任務地に赴いて僅か3日で原因究明まであっさりと終わってしまった。
確かに労力は精々山登りくらいで、それも普段の戦闘を思えばハイキング程度の感覚なのだから、避暑にでも赴いたという気持ちでいればいいのかもしれない。………休みならば、こんな未開の地にわざわざ来はしないとは思うけれど。
「まあ、ま~だアレンが相手でよかったさ。これでユウだった日には八つ当たりでひどい目に遭うさ」
自分で言いながら、ふとそんな光景を青年は想像してしまい、イライラを募らせた相手についからかいの言葉を浴びせて抜刀される図が、克明に脳裏に描かれてしまう。
それは少年も同じだったのか、プクリと頬が膨らんで微妙に唇が笑みを象っている。いっそ吹き出してしまえばいいのにと視界の端で眺めていたが、少年はそのまま少しだけ俯いてしまう。
一応の遠慮が彼にはあるのか、口元を手で覆うだけで少年はそれを堪え、楽しげに目を細めたまま、空を見上げていた。
「そういえば、ラビ。………『ラビ』って律法学者ってこと、なんですか?」
ふと思い出したような調子で、空に浮かぶ雲を目で追いながら少年が問い掛ける。その内容に、きょとんと青年が目を瞬かせた。
意味は…合っている。合っているが、今更そう気にするような事でもないだろうとも思った。
生活に直結する以外の学は少年は浅く、専門的な話になれば一切がチンプンカンプンという顔をいつもする。噛み砕いて説明すれば、元々物覚えがいいのだろう、機転の効く彼はすぐに要所要所を理解し身につけるけれど、だからといって勉学が大好きというわけでもない。
そんな彼が唐突に律法学者なんて単語を出す事自体、奇妙な話だ。
首を傾げたまま続きを待っているような青年の間に、少年は雲を追う視線を落とし、青年の顔へと移した。にっこりと、優しげに笑む仕草は、幼さよりは大人びて見えて不思議だ。
「前に、ブックマンが教えてくれたんです。ラビって誰がつけたのか聞いたら。……その時、今までも色んな名前に変えてきたって聞ってたから」
名前の由来とか、毎回あるのかと思ってと、少年は青年の顔を覗き込むように身体を倒して言った。
楽しげなその響きは、青年がどこか拗ねたように顔を顰めているのがよく解るからだろう。覗き込む仕草も、どこか幼子を相手にするような優しさで、つい唇を尖らせて文句を言いたくなってしまう。
「ジジイ………なんかアレンには甘くねぇ?」
「いいえ、ラビに厳しいだけですよ?」
クスクスと楽しげにそう返されると、むくれた自分の方が子供のようだ。
けれど実際、あの老人はこの少年に甘いのだ。予言の子供という事を抜きにして、老人は少年を気に掛けている。
それが弟子である青年の感情を知っていてなのか、まったく無関係なのか、そこまでは飄々とした老人から読み取る事は出来なかったけれど。
「でもラビは、沢山今まで名前があったのは本当なんでしょう?」
「まあ名前っつーか、呼び名みたいなもんだけど。それがどうかしたん?」
じっと見上げる仕草のまま問われる声に、他意はないと解っていても心臓が加速し始める。こんな時は自分の演技力に感謝したくなってしまう。そうでなければ、確実に顔が赤くなった事だろう。
問い返した声に、少年は少しだけ躊躇うように視線を揺らし、青年ではなく目の前の対向車線のホームの、更に奥の山を眺めるように頤を上げた。
それを眺めながら、相変わらず真っ白な睫毛が彼の頬に濃く影を落とす様に魅入ってしまう。理由もなく、それは綺麗な光景だ。
「ラビは…いつかはラビでなくなるんですよね?」
「………まあ、そうなると思うけど。てか、最終的には俺が『ブックマン』になるわけだし?」
少年の問い掛けに、今度は別の意味で心臓が動きを早めた。どこまであの老人が伝えているのかは知らないけれど、少なくとも今ここにいる事が仮初めである事は知っているようだった。
それは仲間と思い心を許していた少年にとって、痛みではなかったのか。………囁く声に悲嘆が籠められていない事を探るように、つい視線が鋭くなってしまう。
「あ、別に責めているわけじゃないですよ?そういうものだって、聞いただけで。誰にだって事情はありますし、僕がそれに口出し出来るわけじゃないって、解ってます。あの、ただ、ちょっとだけ考えて……」
視線の雰囲気が変化した事を敏感に感じ取った少年は、慌てたように青年に顔を向け、両手をパタパタと忙しなく振りながら、必死に誤解しているだろう事を否定した。
それは確かに、他の人間に言われたなら、その意味で捉えられて当然の仕草だ。また、そう捉えてもらわなければ困る事も事実だ。
けれどこの少年ならば口出ししても構わない、なんて。言える筈もない本音を飲み込んで笑んだ。
「解っているさ~。ちょっとビックリしたダケ。で?どしたん?」
にっこりと、彼が安心出来るようにいつも通り笑んだ唇は、その笑みに負けない柔らかさで音を綴る。それに少年がほっと息を吐くのを胸中で苦笑しながら眺め、彼の言葉を待った。
暫くの躊躇いの後、意を決したような面持ちで、少年は青年を見遣った。真っ直ぐに向けられる視線は心地よい程綺麗に澄んでいて、陽射しの透明さに負けない煌めきを讃えていた。
そうして綴られた音は………けれど困惑しか呼ばないものだった。
「あの、ラビって呼ぶより……ジュニアの方がいいですか?」
「はい?」
つい理解しきれなかった言葉に間の抜けた返事を返してしまう。それはつまり、名前を呼ばなくなるという宣言だろうか。
彼に限ってそんな意趣返しをするとは思えないし、するとしてもわざわざ宣言する必要もないけれど、もしもそうだとするならば、名を交わし合いたくもないという、そういう意志だろうか。
思い、一瞬で自分の体内が氷のように冷えた事が解る。震えなかったのはせめてもの見栄だっただろう。
「だから、ジュニアっていう方が、もしかしていいのかなって………」
「いやいやいやいや……って、え?なに?アレン……もしかして実は怒ってる?名前呼びたくないくらい??」
それでもなお続けられる痛みしかない言葉に、つい割って入って情けない声と顔で嘆願するように問い掛けてしまう。
………嫌われたい、筈がない。自分が選んだこの生き方を破棄など出来ないけれど、それが故に厭われる事だって知っているけれど、それでもこの少年に嫌悪を向けられ手を降り払われる事は嫌だった。
謝罪くらい、いくらでもするから、せめてそんな事は言わないで欲しいと願う心を写し取った隻眼は、笑えない程憐憫の情を誘う寂しさを讃えていた。
それを見つめ、少年は大きく目を瞬かせ、ビックリしたような顔で青年の頬を擦った。
「え、ちょ、なんですか、ラビ?!泣かないで下さいよ?!」
「てか痛いって、アレン!泣いてないさ、擦んなって!」
確かにあと少し背中を押されてしまえば零れただろう涙は抱えていたけれど、少なくとも今突然頬を擦られる程みっともなく泣き出してはいない。
プチパニックを起こしているらしい少年は力加減も出来ておらず、ゴシゴシと遠慮のない力で擦られた頬は少し痛かった。手首を掴んで止めてみれば、困惑したまま揺れている少年の瞳が間近に覗ける。
そこには嫌悪はなく、驚く程真っ直ぐな労りと憐憫が乗せられている。
目を瞬かせ、何か勘違いしたらしい自分に気付き、苦笑を落とすと、青年はそのまま自由な片手で少年の真っ白な髪を掻き混ぜるように乱暴に撫でた。
「いきなり名前呼び止めたいって言われれば、ビックリするさ~。何、なんか理由あんの?」
何も気にしていないから告げるといいと、柔らかくした声音で明るく問えば、少年の固まっていた身体が少しだけ解れた。
躊躇いがちに揺れる瞳が窺うように覗く前髪の下、青年の傷を探るようにそれはひたむきに見遣ってきた。それに気付き、青年は解りやすく微笑み、言葉を待っていると教える。
小さな逡巡の沈黙。けれど少年の頭を撫でる指先は、優しく待つ事だけを教え、けれど退く気のない事もまた、克明に伝えた。
青年が微かに息を飲む音を耳にすると、それを追いかけるようにして、少年の声が響く。
「ラビは……ラビじゃなくなっても、でも、ずっとブックマンの後継者、でしょう?」
ひたむきな眼差しをすぐ近く、真っ正面から注がれ、その心地よさにうっとりと微笑みながら、青年は頷いた。
ブックマンの跡取りであるが故に、名を変えていくのだ。その前提がなければ、名前をそう何度も変えなくてはいけない理由はない。それは確かな事実だ。
確認し、少年はぎゅっと捉えられていない左手の拳を握る。膝の上、それは何かに耐えるようで、青年の視野の端で寂しく泣いて見えた。
どうしたのだろうと瞬けば、その瞬きの一瞬の間で、少年の顔が切なく揺れている。
寂しそうな、悲しそうな、けれどそれをひた隠し微笑もうとするような、そんな複雑で奇怪で滑稽な、無色の微笑み。
どんな感情にもなり得るその笑みで、少年はじっと青年を見据え、そうして小さく小さくその唇を蠢かした。
「ラビって呼んで、解らなくなっても………ジュニアって呼べば、ラビは解るんじゃないかなって、思ったんです」
この先名が変わり、変わった名に慣れ、過去の名を自身の呼び名と認識しなくなっても。それでも呼べば振り返ってくれる、そんな名称。
それが欲しいと、そう告げるような言葉に、青年は目を見開いて少年を食い入るように見つめた。
「……………『ラビ』じゃなくなっても、呼んでくれんの?」
呆然と、ついそんな言葉を零してしまう。
この名がなくなれば、その時には別の道を歩み、おそらくはそのまま、その先の人生で出会う確率は皆無に等しいだろうと、思っていたのに。
名を捨て場所を変え、そうしてまた記録のため点々と移りゆく自分の名を、それでも呼びたいと、思ってくれるのか。
「……………すみません…あの、迷惑な事、言いましたよね」
けれど青年の言葉を悪い方の意味で捉えたらしい少年は、真っ白な肌を更に白くして俯き、泣き出す笑みを讃えたまま、そんな事を言った。
「違うさ、コラ、アレン。お前ちょっと卑屈さ、そういうとこ!」
人の事を言えた義理ではないけれど、それでも少年は自身に向けられる言葉をマイナスで捉えがちだ。手のひらの中、まだ捉えたままの右手を引き寄せ、その勢いのまま胸に顔を閉じ込める。
思った通り細い肩はあっさりと腕の中に収まり、少年の顔が当たる胸がじんわりとあたたかい。……もしかしたら泣き出してしまったのだろうか。
そんな事を思いながら、その泣き顔を見せたくはないだろう少年の矜持を思い、茶化すようにその髪を撫でくり回した。
「嬉しかったんさ、本当に。そんな風に考えてくれたヤツ、アレンが初めてだし」
自分は名前ひとつをそこまで大きく捉えてはおらず、名を変えれば関わる人が変わるのは当然と受け止めてきたのに。
変わっても関わりたいと、そう願ってくれるいとけない声が、ひどく愛おしい。
「みんな、思ってますよ。どこに行ったって、また会った時に笑っていたいって、誰だって………」
小さく震える声は掠れていて、やはり泣かせてしまったと胸が痛んだ。笑顔を与えたい筈なのに、どうも自分はこの少年の事になると一杯一杯で上手く立ち回れない。
師である老人の未熟者と告げる声が脳裏に響き、今回ばかりはまったくその通りだと反論も浮かばなかった。
「でも、誰も名前の事、そんな真剣に悩んでくれないさ」
ぎゅっと、言葉では伝え切れない思いを教えるように、少年を包む腕に力を込める。
嬉しいのだと、喜んでいるのだと、声にも腕にもぬくもりにも、全てにその思いを溶かして少年を包み込んだ。
「呼び名なんて、何でもいいさ。でも、出来ればアレンには、ラビって呼んでもらいたい。………『ラビ』って、俺の人生の中で一番長く呼ばれている名前なんさ」
だからその声でこの名を呼んで、この身に刻んでくれるといい。
茶化す為だった抱擁が、いつの間にか縋るように包み込みものに変わり、抱き寄せた細い肩に、そっと青年は額を乗せる。
少年は困惑はしてもそれを拒まず、胸元に埋めていた筈の顔が首元へと引き上げられ、さらりと頬を掠める赤髪を見上げた。真っ青な空に、鮮やかな赤のコントラストがひどく美しく目に映える。
「な、アレン?呼んで、名前。ずっと。………そうしたら、どこにいたってきっと、俺、アレンの声にはすぐ気付いて振り返るさ」
何でもいいと言いながら、それでも青年は今呼ばれる49番目の呼び名こそを、願った。
それ以外の名を知らない少年が、ずっと綴ってくれた名前。
擦り寄るように肩に押し付けた額に、戸惑うように少年の身体が身じろいだ。……かと思えば、それはすぐに留まり、優しいぬくもりに包まれる。
…………まるで泣く子をあやすように、少年が青年の頭を抱き締めた。
そのぬくもりにこそ泣けてきて、どうしようもなく腑甲斐無い自分に笑えてしまう。
「アレン………」
彼の名を呼びながら、彼に呼ばれる名前を乞うた。
声が掠れた事に、きっと少年は気付いたのだろう。優しく包む腕がぎゅっと強く抱き締めてくれる。
そうして、彼は音を綴る。
優しくあたたかく愛おしい音。
どうでもよかったたった4文字で綴りを書ける名が、この上もない宝物のようだ。
君の声に乗せられて、この名に意味が確立する。
たった一人の為に綴ってくれる
たった一人のその音色だけが、たったひとつの確かな名前。