遠い昔、自分にも名前はあった
自分だけに与えられた名前があった
それを捨てる事に躊躇いもなく
それを捨てるが故に得られるモノに喜んだ
幾度も仮の名を与えられ、
ほとんどが半年にも満たない期間でそれは消え
その数毎に、自分は新しい仮面を見つけていた
代わり映えのない世界の、代わり映えのない争い
辟易と見つめた世界は灰色に褪せ
綴る音色は闇色で
裏歴史は、その名の通り濃く深く
地中深く埋め込まれたヘドロの色をしていた
それを記録する事を厭いはしないけれど
それでも、思う
………人は、何故生まれる意味があるのだろうか…………………
04.献花の如く、それは
夜中になんとなく目が覚め、微かな寝息の数に違和感を覚えて室内を見遣ると、ベッドがひとつ空になっていた。
今日の宿はツインとシングル2つしか空いておらず、少女と老人がシングルを陣取っている為、結果的に男3人がツインに押し籠められた。ベッドが2つに、取り合えず成人男性が横になる事が可能な大きなソファーがひとつ、無理矢理配置されている。
疲れていたし、誰もが野宿よりはソファーでもいいから室内で眠りたかったのは確かだ。けれど当然、欲を言えばベッドがいい。が、現実は残念ながら自分はソファーに寝転がり、ベッドにアレンとクロウリーが眠っている。………筈だったというべきか。
耳を澄ませる必要もなく、暗闇の中、気配が消えているのが自分の足元の方…少年が眠っていたベッドだと解る。
本当は一番小柄で年下の少年が、このソファーで眠ると言い張っていたのだ。が、左腕の状態を考えれば、流石にそれはいただけない。かといって世間知らずのクロウリーをソファーに押しやるのも気が引けて、結局老人の申し渡しの通りの区分けをする事になった。
にもかかわらず、ソファーよりは格段に寝心地がいい筈のベッドのひとつが空になっている。
侵入者には敏感な青年も、流石に内部の人間の出入りまでは気を配らない。それが尋常でない気配であればまだしも、平素と変わらぬ気配にまで鋭敏に反応していては気の安まる時がない。
そうしたスイッチを上手く切り替えられる出来るだけの修羅場を乗り越えている青年は、首を傾げただけで、もう一度寝ようかと目を瞑る。
…………眠ろうとして、けれど先程まで微睡んでいた眠りの世界がひどく遠のいている事に気付く。
すっかり身体はいなくなった少年を捜す為に起きる気になっていて、その癖、頭だけがまだ惰眠を求めて蹲っていた。こんな夜も明けきらない時間だ。迷惑を掛けたわけでもなく、自発的に動いている少年を捜す謂れもないし、一人になりたかったのであれば、迷惑なだけかもしれない。
そう頭では解っていても、身体が心を急かす。この状態では眠れる筈もない。
軽い溜め息を吐き出し、青年は気配を消したまま起き上がると、寒い外の空気を想定して団服を手に取ると、足音も立てずに部屋を後にした。
思った通り、寒かった。
いくらまだ室内で廊下といえど、そこまで暖房設備は整っていない。快適な筈のない真夜中……否、そろそろ夜明けか、そんな寒気の悪化する頃に出歩くのは随分久しぶりだ。
むしろ任務でなければ、わざわざ好き好んでこんな時間に出歩く事もないだろう。物好きにも自ら動き回っている少年を思い、それを追いかけている自分自身の酔狂さに苦笑する。
団服をしっかりと着込んで寒さを凌げば、薄暗くなった照明の廊下の先、自分と同じ団服の裾が見えた。
見た瞬間、随分と後悔してしまう。出向いたからには当然、理由も当てもなく探してしまった少年と合流はしたかった。けれど、何もこの廊下でも寒さを感じ取れる冬のこの季節の時間帯、わざわざ外に出ていなくてもいいのではないだろうか。
やはり一人になりたかったとか、そんな理由だろうか。………歪みかけた唇を気合いで引き締め、どの道帰るつもりのない自分の意志に呆れながら、青年は少しだけ早くした歩調のまま廊下の突き当たり、バルコニーに出る為のドアへと向かった。
足音など出していないし、そもそもドアに隔てられている今の状況では、外にいて背中を向けている少年には気付いてもらえない。
何かあったのか、ただの気まぐれであればいい。………どうもあの少年を心配してしまうのは、この旅の同行者全員の癖らしく、類を洩れずに自分もまた、彼の唐突な行動の理由を確認しなくては安心出来ない気持ちになってしまう。
コンと、軽く叩いた扉の先、驚いたのか少しだけ少年の肩が跳ねた。
彼はAKUMAを視覚で捉えられるせいか、普段から周囲の気配を探る癖がない。そのせいか、こんなささいな事にエクソシストらしからぬ可愛らしい反応を見せる。
目を瞬かせて振り返った少年は、まだ朝焼けもない薄暗い藍色の星空の下、廊下に立っている自分に気付いた。同時に見開かれるようにして、元から大きな瞳が更に大きくなった。
慌てたような仕草で身体ごとドアに近づき、素早くドアを開けた少年が、その勢いのまま口を開いた。
「何かあったんですか?!」
「………いんや〜?むしろそれ、俺の台詞さ?」
こんな時間に起きるなんて異常だと言わんばかりの少年の態度に怒る気にもならないのは、普段から寝汚い自分をよく知られてしまっているからだ。一緒の任務だとそうした情けなさも白日の元に晒されるので少し照れ臭い。
青年の返答にキョトンとした少年は、首を傾げた後に漸く意味が解ったのか、困ったような顔で笑って謝罪を口にした。………この年下のエクソシストは謝るのが癖らしく、何かあると言い訳より先にまず謝罪をしてしまう。自分とはまるで逆だ。
「で、何見てたんさ?星……はもう見えづらいよな」
見るなら夜更かしする方が確実だと、ドアを開け放したまま動かない少年をもう一度外に押しやって、二人一緒にバルコニーに出た。
当然ながら、そこには誰もおらず、見える景色の中でも動いているものは皆無といっていい。
風が吹きかけると首元に風が入ってきて、青年はマフラーを忘れた事を少し後悔した。それくらい寒いというのに、この少年は一体いつからここに居たのか、鼻先を赤くしたまま笑っていた。
「何をって言っても、ただ空を見ていたんですよ。なんか目が覚めちゃって、でもほら、流石に部屋で何かするわけにはいかないでしょう?」
だから心配する程の事ではないと、困ったような顔で笑う仕草に嘘はなく、何も無いに越したことはないけれど、そう言われてしまうとなんだか自分がひどく過保護な気がして居たたまれない。
「それで、空を見ていた、ほら、どんどん色が変わってきたんです。さっきより色が淡くなったでしょ?凄いなぁって思ったら、ついずっと魅入っちゃいました」
「ずっとって……お前、いつからいるんさ?鼻真っ赤だぞ?」
スンと鼻を軽く啜って言う少年の幼い仕草を笑んで見遣りながら、その発言の中、気にかかる部分だけは指摘した。
「う〜ん、時計見なかったんで解らないんですが、そんな長くはないと思いますよ?」
「そうかぁ?」
首を傾げて思い出そうとしているけれど、彼のベッドから時計は見えづらかっただろう。まして物音を立てないように気をつけての行動では、そんなものを気にしている筈もない。
少しだけ眉を顰めて、青年は確かめるように少年の髪に触れる。鼻先の赤さからいって、短い時間ではないだろうと思ったけれど、触れた髪はいっそ凍ってき始めたかと思える程、冷たかった。
「ってお前、冷たくなりすぎだろ、これ?!どんだけいたんさ!!」
「へぇっ?!いえ、本当にそんな長くは……」
ギョッとして叫ぶように告げた言葉に、同じようにギョッとして少年も慌てて返す。端から見ていればコントだが、当事者にしてみれば真剣な物言いだ。明らかに、この少年は身体の事などすっかり忘れてここに居座っていたのだ。
普段から人を気に掛ける癖に、少年は自分自身の身体の事には無頓着で、これもまた、そうした部分の悪癖かも知れない。軽い頭痛を感じながら、青年は自身の労り方を知らない少年を諌めた。
「どこがさ!あ〜もう、本当にお前、そういう所ガキそのまんまさ」
小さく咎めるように、寂しさを隠してそうからかう声音で告げて、青年は髪に触れていたその指先を滑らせ、肩を掴むと抵抗を許さずに引き寄せた。
腕の中に収まった……というよりは、収められた少年は、ぱちくりと目を瞬かせて現状理解を諦めてしまっているようだ。
少年は人に触れる事に慣れておらず、時折こうして度を超したスキンシップを仕掛けると、思考がショートするのか抵抗が無くなる。今はその事に感謝して、青年は団服の上からでもひやりとする少年の背中にべったりと身体を押し付けた。
「うわー、冷たっ!この寒い中氷抱き締めるって、どんな修行さー」
氷になっている本人にも同じ事が言えるけれど、それが解っていて腕に抱く自分も自分だろう。大袈裟に身体を振るわせて茶化してみれば、漸く意識が現実を捉え始めたのか、少年が答えた。
「いえ、だったら離して下さい。と言うか、変です、これ」
「うんまあ…変だけど。俺もマフラー無いし、団服貸せんし。でもお前、ま〜だ部屋に戻る気ないんさ?」
ならこれで手を打つしかないだろうと暗に告げてみれば、驚いたように少年が振り返った。
………この間近な距離で振り返られては、少々顔の距離が危険な事など、おそらくはまったく意識もせずに、頬に唇が触れそうな状況すら気に掛けず、少年は青年の顔を覗き込むようにして問い掛けた。
「え、なんで解ったんですか」
「なんでって………まあ、勘?」
解るもなにも、青年がやって来ても戻ろうとせず、外に出ても帰る発言もせず。むしろうっとりと空を見上げる横顔を見てしまえば、答えなど解ったようなものだ。
人を気にしすぎる程の典型的な優等生で振る舞っている少年が、明らかに寒がっている青年を部屋に誘導しないのだから、当然と言えば当然の解答。
けれどそんな事自身で解る筈もなく、少年は純粋に凄いと呟いて、にっこりと幼い笑みを漏らした。普段よりもずっと近いその笑みは、つい愛らしいなどという感想を脳裏に瞬かせた。
「ラビは色んな場所、行った事あるんですよね。空はやっぱり、全然違うものですか?」
まるで旅物語を強請る子供のような声に、青年は苦笑する。腕の中の身体は少しだけぬくもりを思い出してきたのか、氷のような固さが次第に柔らかくなる。
初めに比べて随分そうなるまでの時間が減った。自分という存在に慣れたという事だろうか。………それがなんとなく嬉しくて、少年の笑みに似た笑顔が、つい零れた。
「同じっちゃ同じさ。見た時の気持ちが同じなら。……ってか、アレンだって元帥とあっちこっち行ってんさ?」
「修業時代、空を見上げるような余裕はありませんでしたよ」
キッパリと一瞬の間も置かずに言い切った声が固い。………どうやらタブーだったらしいと乾いた笑いで躱せば、また少年は空を見遣った。それに倣うように、青年もまた空を見上げる。
随分明るくなった空は、もう上空高くにほんの少しの濃紺を残しただけで、その大部分を朝焼けに変えようとしていた。
鮮やかな空だ。美しく、荘厳で。………過去に幾度も見てきた空とはまるで違うその鮮やかさに、青年は魅入るよりも苦笑してしまう。
己の言った言葉の、なんと素直な実感だろう。特別なものを腕に抱えている今は、きっと世界の何を見ていても美しい。
「昔…こんな空を見ましたよ。まだ小さくて、名前もなくて、不貞腐れた可愛げのない子供だった頃」
ふと洩れるように呟いた声は、どこか夢見心地で、おそらく青年に話しかけているわけではないと、解った。解っていたけれど、囁く少年はひどく愛おしそうに空を眺めていて、それが、自分と同じ筈はないのに、同じ思いから起因しているような気がして、つい先を強請る思いが湧く。
答えたならその言葉が消えるだろうかと思いながら、それでもその言葉を繋げたくて、小さく囁くように青年は間近な少年の耳元に声を落とした。
「…………どこで?」
「大好きな、背中。初めておんぶしてもらった日。こんな風に青空じゃなかったのに……うん、似てる」
すぐに返された言葉は、真っ直ぐに空を捧げられた。青年の腕の中、身じろぎもしないで、ただ吸い込まれるように空を見つめる眼差し。
言葉はどこか少なく削られ、中核を避けるように曖昧だった。名も言わず、詳細も語らず。………それでもそれが、きっと彼の中の大切な記憶の始まりなのだろうと、勘づいた。
そうして、そう思ったなら…歓喜に胸が躍りそうだった。
気付いてなどいないだろう少年の、極上の睦言。自覚さえしていないだろうに、とんだ殺し文句だ。
彼の中、消える事も褪せる事もない、永久に刻まれ続け共に歩む傷。その中の一番愛おしまれる美しく清らかなものと、今の空が同じだと囁くのか。
その空を見つめる気持ちが同じなら同じだと。たった今、自分がそう言ったにもかかわらず。
同じなのだと、暗に告げるように、囁くのか。
「この空があったから、僕は生まれて、そうして、僕になれたんですよ」
出会わなければきっと、まるで違う結果しか無かったのだと。この空こそが原風景なのだと。
この腕の中、夢見るように空を見つめて、氷のように冷たかった身体をぬくもりに変えて、囁いた。
「なんか…俺もそれ、いつか言いそうさ」
くすりと、彼の耳に笑みを落として、呟く。
夢見る眼差しの少年は、多分そんな声は聞こえておらず、過去の日とシンクロした今を喜んでいるけれど。
きっといつか、そう遠くはない未来、自分は同じ言葉を捧げるだろう。
自分が自分になれた始まりの時。
生まれ落ち産声を上げた時。
君が命を与え宿してくれた
こんなにも鮮やかに美しく、光り輝く世界の中に
君と見たこの空こそが、魂の原風景。