風にさざ波が起きる。
………川に波が起きるはずはないのに、そう目に写った。
まるで幼いその腰肢を包む為に起こったような水面の揺れ。
吹き掛ける風さえその身を他者に晒さぬように守っているように感じた。
翻る短い漆黒の髪。
水に濡れて艶やかにそれは瞬く。
――――――目を奪う扇情さ。
いまだ幼いあどけなさのなかに潜む艶。
追い掛けた視線は逸らすことも出来ないまま……………
自分に気づいた少年は淡く笑んで手招きをする。
大きな瑠璃の瞳は眇められ、楽しげに水をまき散らす。
いまもまだそれに捕われている。
この瞼の奥底に刻まれた幼子の姿。
………魂さえ揺さぶるその彩り。
命の輝き故に灯される美しさ。
その荘厳さに小さく息を飲む。
伸びきらないその腕を捕らえたならなにかが変わるのだろうか…………?
戦士の心を携えたあどけなき子供。
誰を頼ることなく己の命をかける意味を知っている…生っ粋の戦い人。
それでもその魂はどこまでも争うことを嫌うのに……………
水泡に写れる
風が耳の奥まで触れるように叩き付けられる。
思わぬ突風に顔を顰め男は閉じていた瞼を開けた。
瞳の奥に残る微睡みの先にあった情景は一瞬で消え、馬鹿げているほどモノトーンに見える現実が舞い込んできた。
……視界の先にはどこまでも濃く垂れ込める灰色の雲。
顰めた顔は更に険しくなる。猛禽類によく似たその双眸(そうぼう)が冷ややかに空を見上げた。
疾風雲は急速に成長して辺りを包もうとしている。小さく舌打ちを零し、男は起き上がる。
………一雨来ることが濃い水の匂いで知れ、男は立ち上がると辺りを見回した。
別にこのまま城まで飛んでいってもいいが、その間に雨に塗れる可能性もある。まして目指すべき海王の城は黒煙のようなその雲の先にあるのだから。
軽く息を吐き面倒ながら雨宿りをしなくてはいけないとそう遠くはない大樹の方へ足を向ける。
揺れる金の髪が吹きかけてきた風に押し流されるように乱雑に揺れる。
それを片手で軽くいなしながらも足を速めるでもなく男は歩く。
眉間に刻まれた皺の深さが男の感情の由縁をよく示している。
………嫌な、夢を見たのだ。
それは美しく彩られた極彩色の景色のなかの夢。
否。…………どこまでも子供を囲み包み込む緑と青の乱反射。伸ばした腕さえ溶かし込むほど濃い自然の鎧。
引き寄せて口吻けようとして…………叶わなかった。
あまりにくだらない夢。もっとも、それは過去の記憶ともいうのだけれど。
なにかに目を奪われることを初めて知った。
いつもはそんなこと感じはしなかったのに、不意に気づかせたものがなんなのかなんてわかりはしない。
ただ克明にそれは魂に刻み込まれた。
侵し難いほどの深さで刷り込まれた思いはいまもなお鮮やかに開花する。
いい加減自分のしぶとさに呆れたように息を零してもその焦燥が消えることはない。
零された息を追うように鼻先に雫がこぼれる。降り出した雨を見上げ、間近になった木陰に身を滑らせるとその根元に男は腰掛ける。
枝振りのいい大樹は巨大な傘のように大きくその身を広げ男の足元にさえ雨は忍び寄ることが出来ない。
微かに気温がさがったのか肌寒くなった男は退屈げに辺りを見て気を紛らそうとした。
そうしたなら、視界の先になにか影が写る。
微かな水音とともに濃くなる影。人の形をしたそれは慌てたように水たまりと化した道を駆けていた。
それが目指す先は明らかに自分の座るこの大樹の影で…………
近付いたなら追い返そうと頭の隅で考えていた男は不意に目を見開く。
ぼんやりとしていた影はだんだんとはっきりと姿を醸す。雨のベールに包まれた身をゆっくりと木陰に入ることで男の前に晒した。
………声もあげることを忘れた男を見遣り、その人は意外そうな顔を零してから声をかけた。
「なんだアラシ。お前も雨宿りか?」
水をふんだんに吸い込んだ長い黒髪を軽く絞り、男が囁く。
腕を伝って落ちた水滴が雨さえ侵すことのなかった領域に濃い影をつくる。
精悍な肉体を舐めるように雨は男の全身を濡らしていた。腰まである髪のせいもあるのか、いくら身体を震わせても男の肢体には水滴がまとわりつく。
目を奪うその光景に微かに息を飲む。干上がりそうな喉奥でクツクツと小さく笑うことをどうにか成功させ、アラシは金の髪を揺らした。
「随分色っぽい格好じゃねぇか、シンちゃん?」
冗談まじりの本気の囁きに視線の先にたたずむ男は呆れたように顔を顰める。
………スコール並の大雨の被害をそんな一言で済まされてはどう考えても割に合わない。
軽く尖った唇が幼馴染み特有の親しみで不貞腐れた様をアラシに伝えた。…………なんの疑惑も嫌悪も覚えることのないシンタローのいつも通りの反応に仕方なさそうにアラシは意地悪げな笑みを浮かべた。
それを視界におさめ、本格的に不貞腐れたらしいシンタローは咎めるように口を開く。
………唇を辿った水滴が、ゆっくりとその動きに合わせて踊りこぼれ落ちる。
「あのな……水浴びりゃあお前だってこうなるぞ! なんなら浴びるか?」
顎を廻らせて霧のように降り注ぐ雨をシンタローが指し示す。
豪雨というに相応しい視界の先の景色はまるでスクリーンにでもなるのではないかと疑いたくなるほどに視界が悪かった。それを見つめてアラシは躱すように鼻で笑う。
わかりきっていたその反応に気を悪くするわけでもなくシンタローもまたそちらに視線を向ける。
周りにあったはずの細い木の影さえ朧な視界に微かに顔が引き攣る。………潦(にわたずみ)ができるどころの騒ぎではないと改めてシンタローは溜め息を吐く。
この調子で降られたらと思うと少し陰鬱な気分に陥る。その背を眺めていたアラシが不意に声をかけた。
「随分空が暗くなったな。ガキどもはいいのか?」
普段の男だったなら雨など気にもしないで家に帰っていくだろうとからかいと…微かな嫉妬を込めて囁かれた言葉には苦笑とも吐かない笑みを向けられた。
一瞬飲み込まれかけたアラシはそれでも気丈にしたり顔を崩すことなくシンタローを眺めた。
…………濡れ羽以上の艶やかなその黒髪が揺れ、冷たく色を落とした肌が近付く。
隣に座った気配に肌がざわめく。
長い髪が微かに肌に触れ、冷たい筈なのに何故か火傷するほど熱く感じた。
「ヒーローたちは親父のところに遊びにいってんだよ」
赴けそうにない現状に申し訳なさそうな笑みが灯る。
それを眺めながら……無意識にアラシは自分の肌に張り付いた毛先に指を絡める。
しっとりと肌に馴染むその感触に貪欲な指先が力を込めて引き寄せる。
考えもしていなかった力に引き寄せられ、シンタローは驚く間もなく仰向けにアラシの膝元に落ちかける。
「……っっとおっ!? なんだよアラシ、いきなり髪引っ張るなんて………」
呟きかけた文句は……けれど途切れる。考えてみれば間近に座った時点でなんらかの意地悪くらい覚悟して然るべき人物なのだ。
それに警戒を怠ったことを誇ってどうするというのか。
子供の悪戯を窘めるような笑みを唇にのせ、シンタローは不自然な位置で止まったままの身体を立て直そうと腹筋に力を入れる。
その気配を感じ、アラシは咄嗟に腕を引いてそれを拒む。
………間近に落ちた深い瑠璃色の瞳。水に塗れ淡く照る肌。
あの過去の日、この腕に抱き締めたかったそれが眼前に落ちる。
不可解そうにシンタローの眉が顰められ、真直ぐにアラシに注がれる。
それを見つめてアラシは唇を引き結ぶ。喉の奥蟠る思いの所在など……知らない。
ただ欲しい。その魂が。
引き裂いた胸の奥、鷲掴んだ心臓の熱ささえそれを与えてはくれなかった。
腕のなか身じろいだ肢体は僅かに冷たく雨に塗れたせいか微かに震えている。
うっすらと笑んで…アラシは逃げることのできない獲物を見つめる。髪に絡んだままの指先を口元に寄せ引き抜くように力を込めながら………それでも恭しく口吻けた。
視界の先己の黒髪に邪魔をされてもその瞳の切望した瞬きだけは見て取れて…………
シンタローは微かに息を落として瞼を落とす。
そうしたなら降り注ぐ熱を知ってなお、その瞳は開かれない。
恐れるように間を開けて微かに寄せられた眉間の戸惑いをアラシの唇が舐めとる。
解くことのできないそれに軽く牙をたて、びくりと跳ねた身体を押さえるようにその頬に唇は落ちた。
水滴を乞うように辿る口吻けはどこか切ない。
ゆったりと瞳を開けて自分に覆い被さる男を見上げれば切羽詰まったように余裕のない顔を晒していて…………
冷たく冷えた肌をあたためるように回された腕は雄々しいくせに儚くて。
なにかを求める男の口吻けにそれでも与えるものがわからなくて…………………
顰められた眉は溶かすことが出来ない。
それでもいまはいいといまだ幼い頃の深き情を変わることなく携えた男の紫闇の瞳が瞬いた。
凍えた唇を溶かす口吻けに瞼を落とし、与えられるものを探る男の指先が金の髪を包んだ…………………
なんて久し振りなんだアラシ×パーパ!
まったく書いていない気がします。いや…読んでいたから満足というか?
………だって人様のアラシ見ていていつも思うのは……うちのアラシって本当には意地悪じゃないな……と………………
余裕ないというかなんというか。
意地悪したくて意地悪してんじゃなくて、余裕あるように見せたくて意地悪しているんだもの。
子供だ子供……………
今回それが如実にあらわれましたv
つーかアラシ……一体いつあんたは懸想したのですか…………(汗)