その人の傍は心地よかった。
なにも知らない意固地な自分が溶けて、穏やかで優しい風が吹き込む感覚。
嬉しくて楽しくて、思わず頬が緩む。
………他人に笑いかける事のできる自分を初めて知った。
彼は自分を沢山くれた。
笑える自分。
眠れる自分。
穏やかな自分。
素直な自分。
……戦う事を願わない自分。
沢山沢山……彼はくれた。
だから、自分も与えたい。
彼が安らげる空間を。
………いつも一人その背に荷を負う彼がせめて息を吐き疲れたと笑える場所を…………
ちっぽけな獣がそんな事出来るかなんて知らない。
ただ信じている。
………彼の与えてくれた自分を………………………
陽射しの意味
大きく伸びをして、虎はぼんやりとあたりを見回した。
日が高くなっている。もう室内には誰もいなかった。
寝過ごしてしまった事に気付き、虎は慌てて飛び起きる。
……微かな爆発音を響かせ、虎の姿が消える。
その一瞬あとに洗われたのは人。金と黒の斑(まだら)髪を世らし、青年は困ったように眉を寄せていくつか存在するドアを全てあけてみる。……が、当然ながら気配はまったくない。
昨夜幼い夫婦は出かけるといっていたから……きっと朝早くに出ていってしまったのだ。
小さく息を吐き、おいてけぼりを喰らった自分に少し落ち込む。今更後悔しても仕方ないのだけれど………
仕方なく青年は項垂れたまま奥にある台所に顔を覗かせる。
子供達がいなくても、この家の主はいるはずだから。……仕方ないと笑って朝ご飯をくれる彼を想像して少し心が軽くなる。
考えてみれば彼と二人になる事などなかったのではないだろうか。いつだって子どもであるヒーローがいて、彼は……とてもヒーローを大切にしていたから誰かに世話を押し付ける事もなくて。
自分はそんな二人が好きで、傍に控えていた。………いつだって彼と自分の間には誰かがいた。
それが悪い事の筈もないけれど、なんだか新鮮な気分になる。
……少し、彼に甘えてもいいだろうか。
せっかく鮮やかな日の光が見えるのだ。清涼な風が頬をくすぐるのだ。
野を駆けたい。昔のように餓えて独り駆けるのではなく……ただのんびりと誰かと巡りたい。
幼い甘えを微かにもちながら、青年は台所にいるはずの彼に声を掛ける。
「パー……パ………?」
……掛けた声は疑問形で終結する。
がらんとした台所。………誰もいない。
微かな男の残り香が今し方までいたことを教えてくれるけれど………
けれど……いまはいない。起きた自分を迎える笑顔がない。
何故かそれがとても寂しかった。
一人など慣れているのに。………一人が当たり前だったのに。
あまりにもあたたかいこの家では、一人は寂しいのだ。悲しいのだ。
誰もいない台所にいるのが嫌で、虎はそこから離れた。………いつの間にか姿さえ人を保っていなかった。
日の当たるところまで出て……小さく丸まる。……凍えないように。
微かな微睡みに落ちながら、虎は小さく鳴いた。人恋いしい…獣の声。
たった一匹で生きる虎という種族ではもつ事はないと思っていた切ない声。
それがゆっくりと日の光に溶け込む。もうそんな物思いをもつ必要はないと囁くように。
……………優しい気配の訪れと共に。
「なんだ…まだ寝てるのかこの虎は…………」
どこか呆れたような声。……優しい声音。
降り注ぐ日の光のようにあたたかく、深く身に染み込むそれに虎は小さく鼻を鳴らす。
揺れるように香る匂い。……自分に安らぎを与えた存在。
それに気付き、思い出したように虎は目をあけた。
最初瞳に入ってきたのは眩しい光。……それを背負いたっている長身の男の黒髪が鮮やかに浮き上がる。
「があうぅっっっ!」
虎は起き上がり、泣きながら男に抱き着いた。幼い虎の仕種に一体なにがなんなのか判らない男は目を見開いてそれを受け止める。
手の平にやわらかい毛皮の感触がある。……大きな虎の肢体はけれどあまりに愛らしく幼気だ。
小さく息を吐き、不意に思い出す。今日は息子夫婦は朝早くから出掛けてしまった。自分は朝食に出そうと果物をとりにいっていた。
その間にもしこの虎が起きたとしたら。……人になれ、気配に慣れた野生の獣はそれでも一人は寂しいと鳴くのだろうか。
それは自分の身の内に巣食う闇に似た恐怖なのかもしれない。
ポンポンとその背を撫で、男は優しく笑いかける。
仕方なさそうに………愛しそうに。
「なーに拗ねてんだよ。ほら、飯食うだろ?」
お前の好きな果物を採ってきたのだと囁く男の声音はあまりに優しくて。
……まるでその背に背負う果物たちのように甘やかで。
けれど何故かどこか物悲しくて。
虎はしがみついていた前足を解くとその顔を覗き込む。
なにか物言いたげな瞳で……………
それに気付き、男は苦笑を零す。……獣はあまりに言葉に執着がない。
囁くよりもその視線で全てを語ろうとする。
子どものようなその仕種が自分を癒すのが判る。
………いまも時折夢に見る、あの惨景。赤と黒に彩られた、光のない奈落の風景。
そこから救い出してくれた子どもはもう自分の手から離れて生きる。
自分もまた……子どもに寄り添うのではなく独り生きられるまでに回復したから。
それでも襲いくる闇に、時折飲み込まれるのではないかと……震える心を自覚していた。ありえるはずが…ないのに。
そんな風に自分が自分に言い聞かせる時、虎は不思議そうに顔を覗き込んでくるのだ。
表情どころか…その気配にさえそれを滲ませる事はないのに……………
感情に疎いくせに、そういう切羽詰まったものにだけは敏感に反応するのだ、この虎は。優しいその性根を象徴するかのように………
その優しさに零れそうなものに気付き、男は小さく笑って虎を抱き寄せた。
あたたかい毛皮。生きているものの気配。
それが……それだけが自分を癒すもの。
冷たく凍った肉塊を知っている腕は、ぬくもりをひどく恋しがる。
それを知っている訳ではないだろうに……この虎はまるでそれを与えるように自分の前で獣の姿を模す。
けれどそれに縋ってしまう自分では嫌なのだ。
…………そんな事の為に自分はこの虎を拾った訳ではないのだから……………
だから、揺るぎなく。
だから、絶えまなくこの声は深く響く。
決して誰にも抱える傷を見せないために………………
「悪い、なんでもない。……飯食おうぜ?」
変わらない笑みを浮かべ、男は虎に囁く。……揺らめく虎の瞳を知ってはいたけれど。
何もいわない男が悲しい。
………何もかもを自分の内に溜め込み、吐き出そうとしない男が……悲しいのだ。
何も出来ない腑甲斐無い自分が情けない…………………
小さな爆発音が腕の中で響き、虎は突然青年の姿に変わった。
ぎょっとしてその腕から離そうとする男を抱き寄せて、青年は寂しそうに囁く。
寄る辺ない子どものようなその声音で…………
「パーパ……俺じゃ、ダメか?」
悲しげな……青年自身が傷ついているような声。
なにをいっているのか判らなくて、男は困惑するように青年の顔を覗き見る。
…………微かに瞳が揺れていた。
「…………………?」
「俺じゃ…痛いまんまか…………?」
その内に抱えた傷を癒す事など出来ない事を知っている。
それでもせめて忘れていられるように。彼が彼として輝いていられるように。
………ただ支えたいだけなのに。
何も出来ない自分では、傍にいても傷は痛みを忘れる事はないのだろうか…………?
切ない虎の優しい声。
小さく男は息を吐き………ゆっくりと瞼を落とした。
乱暴者といわれていた虎の中に……これほどまでに豊かに響く声があるなど一体誰が想像出来ただろうか。
自分を抱き締める腕の震えに気付き、男は苦笑を零す。幼い抱擁を気味悪いと思うほど馬鹿ではないけれど、抱き締める意味さえ知らない獣はそれさえ傷つけるのではと怯えている。
それを否定するように、男は青年の背を優しく叩く。……幼子をあやすように。
静かな声が……優しい子どものような青年の耳に触れる。
なにもかも包み込むその声は……微かに揺れ、切なさを内包していた。
「なあ…飯食ったら森にいかねぇか………?」
瞬く青年の瞳に微笑み、男は言葉を紡ぐ。
……深くしみ入る魂の響き。
「お前が傍にいれば…嫌な夢は見なさそうだからさ…………」
他愛無い事を語って、お互いに微睡んで……痛みを忘れて…乗り越えて。
そう生きる事ができると思うから。……その腕に価値はあるのだと。
誰よりも言ってほしい男からの言葉に、青年は濡れた瞳のまま嬉しそうに微笑んだ。
……………自分の中にあった寂寞を溶かしてくれた人。
彼にだって癒えない傷はあったのに、それでも人の為に生きる事のできる人。
憧れた。決して届かないその山頂に登り詰めたかった。
たった独り悠然と立つ男の背を支えるものになりたかった。
だから、一緒にいたい。
………力ない腕でも、彼一人くらいは抱き締められると知ったから……………………
イラストを見て湧いたイメージが実はパーパに駄々こねているタイガーでした!
なんででしょうねー……多分、あんまりにもパーパが仕方ないなーって感じにタイガー見ていたから?
でもそれ全面に出すと彼の優しさが上手く私は表現出来ないので(←修行不足)お互いのもつ消えないなにかを感じるようにしてみましたv
……難しいよ、オイ…………………
なんか妙に近頃タイガー書いているなーとか思います。
書けるようになったからなんだかすっごく嬉しくて動く動くv
楽しすぎます♪←幸せ。