その背に何も背負っていなかった頃。
それでも一心に駆けていた幼い背はひどく頼もしく感じた。
無邪気に笑うくせに潔く微笑む。
どこまでもアンバランスだった彼。
羽根も携えないほど力なき頃、傷つくことさえ恐れずに立ち向かう背を見た。

生まれた時から翼のある自分。羽ばたくことを許された種。
それにいかほどの価値があるのか教えて欲しい。
なにもない背に憧れた。
小さく頼り無い細い肢体は、けれど誰よりも圧倒的なまでの揺るぎなさを示したから。

手を伸ばしたい。
この腕に気づいて欲しい。
……愛しさを滲ませて笑んでも返されるのは慈愛深き彼の笑み。
誰にでも向けられるそれではなく、自分だけに向けて欲しいのに。
それでも拒むことはできない。

傷ついても笑ってしまうその不器用な強さを、誰よりもずっと近くで愛し続けたのはこの自分だったのだから………………





悲歌にあらじ



  微かな風に揺れた草が頬をくすぐる。
 芝生に埋められたこの野原は、けれど時折思い出したように野草が顔を覗かせていた。
 小さな花の零す香りに僅かに笑んで草の悪戯を許していれば、不意に背中になにかが触れる。
 ……否、青年の背中には美しく澄んだ青い翼があり、背中になにか感じるというよりはその翼に触れたものがいたという方がより正確だった。
 やわらかく羽根を撫でる指先は大きく無骨な雰囲気がある。それでもそれらを打ち消してしまうに足るやわらかな気配があたたかな空間を醸す。
 ゆっくりと続けられる優しい仕種に微睡む青年は安心するように小さく息を吐く。
 二人きり、どこかにいくことは随分久し振りだった。
 考えてみれば幼少期以来かもしれない。いつも一緒にいる気はするけれど、誰からも愛される自由人はたった一人が独占することはできない。
 まして大人となって再会した彼は手のかかる赤ん坊を連れていたのだ。その子を置いてどこかに出かけるなどということは彼の性格上出来るわけがない。
 ……正直、その存在にかなり驚きはした。けれど彼の子供ではないだろうことは簡単に知れた。
 母親がわからないとかそんな理由ではなく、風の噂に聴いていた彼の荒んだ状態で……安らぐ為に女の肌を求めるとは思えなかったから。
 どこまでも潔癖な魂は己を慰める為に誰かを使おうなどとは考えることもできない。
 間近に見れば残っている微かな古傷が、どうやって己の罪と向き合って来たのか十分に知らしめたせいもあるのだけれど……………
 安らぐことを忘れていた彼は、そのせいか随分と軽く己の命を見る瞬間がある。
 罰を望む咎人のように痛みを負うことを願うように……………
 そんな情念を振払いたくて一度だけ伸ばした腕。
 拒まれはしなくても寄せられた眉がひどく切なげで、胸を軋ませる。痛みを与える立場でありながら泣いた自分を包む腕があまりにも切ない。
 苦しいと……そう訴えたなら重ねられる唇。願ったなら与えられるぬくもり。
 厭うことを知らない彼に願うことは強制。………知っていても拒めない。
 だからいま自分の羽根を撫でる指先が嬉しかった。
 愛しむようにやわらかく、誰にいわれるでもない男の心からの所作。
 頬をくすぐる草のやわらぎにさえ勝るぬくもり。青年の願う、たったひとつの……………
 欲してはいけない聖域のような人。
 踏み込むことの叶わない高処にいる戦士。
 手に入らないことを知っている。望んだままに追いつめたなら壊してしまうと知っているのだけれど…………
 自分を見てほしくて。……自分の思いを知ってほしくて。
 …………………搦めた指先の罪は己にある。
 だからこんな優しさに触れることなどできないと思っていた。
 慈しむ指先が自分に触れることはもうないだろうと…………
 不意に湧きでたその思いに眠るように閉じられた瞼を濡らす。
 眦を通り筋の通った形のいい鼻を滑る雫に気づいた男が驚いたように動きをとめた。
 心地よかったその仕種を中断させた自分の涙を悔いながらも、青年は目をあけられない。
 眠っていると思ったからこそ、晒された男の優しさ。……………いまも消えず残してくれる親友としての自分への情。
 まだそれに浸りたいと願っている愚かな自分を嘲笑する気も起きない。
 ずっと……願い続けた背中。
 追いつきたくて、その背に触れたくて。
 羽根のない幼い背は翼を携えた自分よりも高処にばかり昇っていく。
 ………空も飛べない頃から彼は自分の知らない空を知っていた。
 ずっと、彼は自分の目標だった。
 今更それを手放せるわけがないことくらい知っていて、壊すことを予感しても伸ばしてしまった腕を愚かと言えるほど青年は潔さを知らない。
 ………………………知りたくなかった。
 この指を失うことを由とすることが正しいなんて、信じたくはないから…………
 やわらかな微風が青年と男を包むように流れ、微かな木々のざわめきを作る。
 いっそ耳が痛くなるほどの静謐。
 ………消えない軌道は日の光に晒されてもなお乾かない。静かに…けれど途切れることを知らない水面は切なげな青年の眉をいっそう悲愴に彩った。
 それを見つめる男の視線を感じ、青年は目を開けるべきかを悩む。
 戯けた風に起きて、笑いの内に涙を打ち消してしまえばいいだろうか。……それともこのまま寝た振りを続け、男が忘れるまで待つべきか…………
 そのどちらもを思い浮かべ……どちらの稚拙さも否めずに心の内で深い溜め息が落ちた。
 男の反応に身を任せ、どちらをとるか決めようかと考えていた青年の前髪が一瞬風に攫われる。
 …………そうしたなら、またぬくもりが触れた。
 風ではなく男の指が自分の前髪を掻き揚げたことに気づき、青年の目が驚きに開かれる。
 つい目覚めていることを知らしめてしまったことを後悔したところでもう遅い。時間は巻戻らない原則の基青年は再び眠った振りに戻ることはできない。
 ありありと困惑の浮かぶ青年の面に小さく男は笑い、晒された額に掠める口吻けを落とした。
 大きく見開かれた青年の瞳からまた、一筋の軌道が落ちた。
 慌てたように起き上がった青年の翼が男の肩に当たり、数枚の羽根が静かに舞う。……青く澄んだ至空の羽根に気をとられたなら、切羽詰まったような上擦った声が男の鼓膜を震わせた。
 「なに考えてんだお前はッッ!」
 微かに目元が赤いのは流れた涙のせいだけでないことは容易に知れる。
 その幼い所作に男は小さな溜め息を零すと苦笑した。
 自分が身を任せた理由さえ哀れみと思い、伸ばした腕に後悔の念さえ抱いている馬鹿な青年。
 そんな理由で男に触れられる嫌悪を覆い隠せる筈がないのに…………
 どこか自分に理想を重ね過ぎる幼馴染みは、いまもこの背は遠くにあると思い恐れている。
 こんなにも傍にいる筈なのに……………
 それを知らしめるように男は笑う。深く幼い、青年の見たことのないその笑みで…………。
 囁く声は笑みに魅了された青年にはまるで奏でられた楽器の音色のように深く身に染み込んだ。
 「お前が仕掛けたことだろ………?」
 それを厭っていないから、返した。たったそれだけの事実。
 ……けれどそれを知らない青年には驚嘆すべき事実。
 見開かれた瞳には微かな疑惑。それに向けられた笑みのあどけなさに青年の肩から力が抜けた。
 ずっと捕われたいた魂。この腕のなか残る筈のない自由で清廉なるその羽根はどこまでも高処にいて……………
 それなのに、ずっと傍らで気づくのを待っていたというのだろうか………?
 …………盲目的にただその背を追っていた自分のように拙い魂を。
 戸惑うように寄せられた眉を溶かすようにまた、男が優しい口吻けを落とす。
 動きに遅れた長い黒髪が風に靡き…静かに芝生に落ちる様を見つめながら青年は震える指を持ち上げた。
 躊躇うような数瞬の間をあけ……それでも青年はその腕を男に向けた。
 ………相変わらず抵抗もなく収まる大きな肢体。微かに震えている自分の腕はおさまらず、滑稽だとは思ってもその背を男はあたためてくれる。
 もうずっと自分にも向けられていた腕。
 気づかなかったのは憧れるあまりに不可侵だと決めつけて目を瞑っていた自分の盲目さ。
 それでも待ってくれていた男に祈るように青年は囁いた。
 やわらかな春風が青年の羽根と男の黒髪を揺らす…………………
 「後悔したって…知らねぇからな、シンタロー…………」
 声さえ震えて、それでも乞うことを厭った魂の穢れなさに微笑み、男は寄せられた唇に瞼を落とすと微かな声で答えた。
 触れる瞬間、青年に飲み込まれるような囁きにまた青年の頬を濡らす雫が零れ落ちた……………

 ―――――――お前なら、一緒に飛んでいけるだろ………?








そんなわけで鳥パーです。
なんだかこの人をよく書いている気がしてならない今日この頃。
………いかんな……私はタイガーかアラシの方が………(オイ)

詩のイメージが強いせいか今回のバードはえらく消極的です。
かなりシンタローに神聖さを求めているというか……自分を卑小に見やすいというか。
傍にいるのが当たり前!という関係で、感情が違うものに変わった場合やっぱり一回くらいはこんな感じになっちゃうものかなー…とかも思うのですが。
まだまだ恋愛感情というのは奥が深過ぎて私には書ききれないなーと思う今日この頃でした………
ムズかしーよー(汗)