悪夢は、どれほどのあいだ続いただろうか。
それは瞬きの一瞬であったようにも思うし
久遠の時を経たもののようにも感じた。
けれどそれらを正確に思い出す事は出来なかった。
あの頃、時間の感覚を掴めていなかったから当然かもしれないけれど。
命の尊さを知っていた。
そのつもりだった。
………けれどどこかに過信があった。
守れる、と。
この腕は何一つ取りこぼす事なく守り抜けるのだ、と。
己に酔った愚鈍さを今もまだ許す事は出来ない。
それでも生きようと、思った。
…………この笑顔を守る事こそが、還る事のない者たちの願いと同じと思うから……………
絶える事なく
ぽかぽかと肌を滑る優しい陽光を感じながらぼんやりと目を閉じた。
暖かい日差しに包まれ、柔らかな風に囁きかけられ、身体を抱きしめるのは緑の煌めき。自然全ての恩恵を一身に浴びたようないまの状況に心安らかせずにどうするというのか。
小さく欠伸を零してごろりと身体の向きを変える。緑の香りがいっそう濃く鼻先をかすめた。
平和だな、と思う。
緑があるのだ。日差しを感じる事が出来るのだ。
そしてなによりも、それを心から得る事の出来る時間が与えられているのだ。
こんな幸せな時間、知りはしなかった。幼い頃からただ一心に強くなる事を望んで、少々情緒というものが育たなかったのかもしれない。今更の歳になってそれがどれほどかけがえのないものかを実感する。
「……お前は、こういうの一杯覚えるんだぞ?」
腕の中で眠る小さな命に微笑みながらその頬をあやし囁く。
今はまだこの片手だけでも壊れてしまいそうな小さな赤子。ようやくはいはいが出来るようになってあちらこちらと動き回ってしまう活発な息子は疲れきって深い眠りの底だ。
その額に口吻けを落として前髪を掻き揚げる。………自分一人の愛情だけでどれほど満ち足りてくれるか、解らない。自分のようにただ父親を追うだけの子供にはなって欲しくはないけれど。
己の道を己で定める、そんな潔さだけは携えて欲しい。守る事を義務ではなく、己の願いとして。
………少々酷な事ではあるのだろうと思うけれど。
それでも思う。世界は清らかで優しいから。………決して傷つける為に存在はしていないと、いまこの幼い身のうちにたくさん覚えてくれていればいい。
「お前が一人立てるまで、パーパが守るから…………」
一緒に生きれる時間がどれくらいかなんて解らない。
それでもその中で精一杯、一緒にいるから。心寄せて誰よりも何よりもお前を肯定して、そして導けるものになるから。
だから……どうか。
堅く閉ざされた瞼の上にのせられた眉が、険しくしわ寄せた。
悔恨を、必死で飲み込もうとするその仕草に、上から苦笑が降り掛かる。
「………ば〜か。お前一人で守ろうなんて思うからしかめっ面になんだよ」
「…………あ…?」
不意にからかう声音で捧げられた音にきょとんと目を見開く。………すっかり、失念していた。今ここにいるのは自分達二人だけではなかった。
首だけを動かして背後に座る人を視界に入れれば、空よりなお深い青を讃えた翼がふんわりと開かれ風に靡いた。………まるで自分達を包もうとするかのような仕草に苦笑する。
「なに間抜けた声出してんだよ。……もしかして、寝てたのか?」
ふと気付いた事にバードが顔を顰めて申し訳なさそうに眉をたらした。てっきり起きているものと思って声をかけてしまったが、ただの寝言だったというのなら、安眠を妨げてしまった。
ようやく眠る事に慣れてくれたというのに、その邪魔をするつもりなどなかったと幼い顔で戸惑った仕草。
それに微笑み、シンタローは赤子を抱いていない手を持ち上げて振る。違うと、示すように。
「起きてたさ。少し、中に入り込み過ぎた」
小さく静かな音。赤ん坊を決して沈めないように気づかったそれは、出来れば晒したくはない言葉。
それでも晒した理由に気付けないほど鈍感ではない翼が揺らめくように日差しを遮断した。暖かいからと油断していると脱水する。自分達は大丈夫でも、その腕のなか守ると誓った赤ん坊には少々危険だ。時折こうして影を作っては昼寝の時間を守ってくれている事をきちんとシンタローは知っている。
誰よりも何よりも自分を慕ってくれた人。
幼い頃の時間のほとんどを一緒に過ごし、一緒に育った。
それでも築いた結果はまるで違く、壊れた自分をそれでも必至に守ろうと腕を伸ばし続けてくれたい希有なる友人。
だからこんな顔はさせたくないのだ。
今の自分の幸せを、知っている。………あれほどの罪を犯しながらこうして微睡む事を許され、望まれている事の尊さ。
「…………声かけてくれて助かった」
ふんわりと、風のように笑う。
決して掴む事の出来ないその笑みに曖昧に笑いを返し、翼が揺らめき風を捧げた。
「なあ、シンタロー」
ほんの少しだけの羨望と、深い信頼を乗せた声が虚空に放たれる。自分の耳に直に届かぬようにどこかあらぬ方を見つめたバードを見上げれば、その頬だけが見え隠れした。少しだけ長い黒髪が揺れて、バードが息を飲んでいるのが解った。
どうしたのだろうと、眉を顰める。どこか苦しそうなのだ。
まるで祈りを捧げる事を禁じられた信者のようだ。綴る音を躊躇っている。
「…………………」
間近な膝を軽く叩き、大丈夫だと示すように微笑めばまるで泣き出す直前の子供のような顔を晒す。
こういう時、まだまだ幼いのだと思い出される。4歳の歳の差を気にしてなにかと大人ぶる癖のあるバードは、ニヒルな笑みの似合う容姿端麗さをもって周りを騙してはいるけれど、こうして二人きりの時のぞかせる年相応の戸惑いは変わらない。
「あの……な、俺…なにも出来ないけどさ」
なんと言えばいいのかを模索した言葉はどこか辿々しい。それでも紡ぐ事を恐れないその勇気に微笑みが零れる。
きっと彼は知らない。囁く事が聞く事以上の力を必要とする事を。受け入れられるか解らなくとも己の言葉を相手に捧げる勇気を知らぬまま、彼は自然体でそれを行う。
どれほどそれが困難な事かを解らないからこその、至純の清浄。
自分の間近にあるにはあまりに美しい羽根に、微笑みは苦笑に変わった。それに気付かないまま翼は揺れ、囁きを落とす。
「お前が生きているのは、すっごく嬉しいんだからな」
だから傍にいさせろと、幼い頃の我が儘のままに呟いた。
不安が、あったのだ。
ずっとずっと深く静かに自分を壊していこうとする命が怖かった。潔く消える事を知っているから、消えないでとその瞬きに訴えた。
…………それが正しいかどうかなんて、本当は知りはしなかったのだ。
それでもその声を聞き届け、生きる光明を手に入れた傷だらけの男は地に足を着けて歩む事を誓った。
どれほどの苦悩と痛みを伴った決断かなんて、解るわけがない。
知らないから、肯定する。決してそれは間違っていないと。………祝福されるべき事なのだと。
誰よりも何よりも己を断罪する彼だから、救われるべきなのだと訴える。
傍にいたいと、生きていて欲しいのだと。それは呪縛かもしれないけれど、確実に彼の命綱になるだろうから。
「忘れんなよ。………そう何度も、いわねぇからな」
もう置いていかないで欲しい。どこかに駆けるというのなら、せめて自分を傍においていって欲しい。足でまといにならないだけの実力を、必ず身につけるから。
躊躇うような笑みを乗せたシンタローを見つめ、霞む視界を噛み締めた唇で耐える。
………それを包むように微笑んで、微かに頷くその姿にこぼれ落ちた雫が相手の頬を濡らす。
この翼のもと、必ず守る事を誓うから、どうか傍にいて。
あなたの腕の中、守るべき赤子を抱いたままに。
この命尽きるまでなどとは言わない。
自分が自分である限り、永遠に。
精も魂も尽き果ててこの身すら朽ち果てたとしても。
どうか………傍に………………
ヒーローとパーパとバードの話。
まだヒーローが赤ん坊で世界がパーパしかいなかった頃。
たくさん綺麗なものを送られたと思うのです。
それは物体としてではなくて、思いや風景、いつ消えてなくなるか解らないようで傍に寄り添ってくれるものたちを。
一番きつい時を支えてくれた赤ん坊だから、パーパも自分が見つけた愛しいものを惜し気もなく与えただろうな、と思います。
そしてそんな献身的な姿がそのまま磨り減って消えてしまうもののようで怖かったまだ幼いバードの話でした(笑)