見上げてみれば美しい色。
その気性に関わりなく、鮮やかに彩られた色。
月明かりの下たたずむ姿。
声もなく魅入れば上げられる口角。
悔しく噛み締めた唇は、熱情によってあやふやにされるけれど………
眠れる月の子
うとうとと目蓋が落ちはじめる。月も上がり、夜半も過ぎた頃合いか。
眠りへと向かう目をなんとか擦って開けて月を見上げれぞ考えた答えはその程度。
小さく溜め息に似た吐息を吐き出して、首をまわす。もういい加減、帰ってもいいだろうと思いながら。
約束は……したのだ。ひどく一方的なものだった気がするが。そのくせその主は忘れたかのようにすっぽかして、いつの間にかこんな夜中になってしまっていた。………もっとも途中眠ってしまっていたのでさして待った感覚はないのだが。
もともと自分は家族のいる身で、しかもその家族どころは友人一同にすら会うなと念を押されるような相手と会うのだから自然時間は制限されてしまう。
まだ夜早くに眠る幼子を寝かしつけて家を出て……眠ってしまったとはいえかれこれ数時間は経っている。このままここで眠るわけにもいかないのだから、仕方のないことだ。たとえ今度出くわした時にそのことを責められようとこちらに正当性があるのだから取り合うこともない。もっとも正当性などというものの有無に関係なくなにかと意地の悪い真似をしてくる相手ではあるが。
横たえた身体を仕方なしに起こし、小さく息を吐く。起き上がった反動で揺れた長い黒髪が背中におさまった頃、立ち上がるために足に力を込める。
瞬間を見計らったような、声。
「な〜に帰ろうとしてんだ?」
くつくつと喉奥で笑っているくぐもった声音が誰のものか解らないわけもない。
その音を追うように視線を向ければ幾分離れた位置に点在する岩場の一つに座る影が見えた。
微かな風に揺れる金糸が月に透かされて仄かに光っている。その人物が彩るにはあまりに幻想的な色合いに一瞬言葉に詰まる。………おそらくはそれも知った上でのタイミング、なのだろうけれど。
「…………いるならいるでさっさと声をかけろ」
憮然として言えば返されるのは低い笑い声。
馬鹿なことを言うと、楽しそうに。
ゆらりとその影が立ち上がり、次の瞬間には間近に気配が現れる。自分にとっても彼にとってもこの程度の距離はなんというものではない。その気になれば一瞬で間合いを制することができる。
互いにそれは十分認識している、一度となく、本気で戦った間柄だ。互いの実力は熟知していた。
「なんだ、よかったのか?」
「………なにが」
さも楽しいと言わんばかりに口角を上げたまま彼は言った。なにかを含むような物言いにイライラと答えれば、伸ばされた腕。
頬を包むなどという生易しいものではなく、無理矢理視線を交わるように頤を掴み引き寄せられる。
皮膚の触れるぎりぎりラインで、低う低く獣が囁く。獲物の愚かさを嘲笑うように。
「寝込みを襲われても」
吐息の触れる間近さで囁く声は淫猥に濡れている。それに眉を顰め、些か乱暴な手つきで己の顎を掴む腕を叩いた。
さしたる抵抗もなく解かれた捕縛の網を睨むように見つめ、動かないことを確認してから息を吐く。
「お前が傍にいて寝ているわけないだろ」
殺気だらけのくせにと揶揄してみれば、笑う喉奥の音。
微かに低いそれが、どこか虚空を震わせたような気がして訝し気に視線を戻した。………微かな痛ましさを、感じたから。
相変わらず余裕をたたえるように歪んだ笑みを浮かべた顔は美しく整っていた。月を溶かした髪は風に揺れ、長い前髪によってその双眸が隠されている。
どんな顔をしているのだと眉を顰めて腕を伸ばす。前髪を掻き上げようとした動きを制すように手首をとらえた相手を睨むが、なんの効果もない。
変わらない笑みの奥、月は静々とその光を降らせていた。
まるで今現在のその男のように、変わらない二つの事物の切ない共通点。
解らないのだと、訴えるように相手を睨んだ。必死な瞳には月が淡く浮かんでいる。響く音もなく、ただ闇に解けるような笑みだけが月明かりとともに晒されるだけで。
とらえられた手首を本気で解こうとするよりも僅かに早く、風が吹きかけた。
………突風のような風によって一瞬だけ垣間見れたその目を見逃すわけもなく、息を飲む。
見開いた目を細め、遣る瀬無く噛み締めた唇を憂いの眉とともに月に晒しながら、溜め息を落とす。
「…………………」
与えられる言葉など、少なくて。
全てを分かち合えるような、そんな間柄にだけは決してなれない自分達。
ゆっくりと目蓋を落としてとらえられた手首を差し出したまま、その肩に額を埋めた。
あんまりにも、寂しそうだったのだ。…………傍にいることはきっとこの先も出来ないと、そう互いに認識しているのに。
改めてそれを突き付けられれば顔を顰める人は、普段の余裕を月に奪われたように時折息苦しそうに瞳の感情を消す。……………そうしなくては生きられないくらいに優しかった幼子を狂わせたのは、やはりこの身、なのだろうけれど。
せめてもと捧げてみたぬくもりを、手首を解放した指先は抱きしめるように風に揺れる長い闇色の髪を梳いた。そのやわらかさに、胸が押し潰れそうに、なる。
いっそもっと凶悪に、ただ奪うだけのものであったなら、憎み誹
そし
ることで対峙できるというのに。
思い出したかのように過去の日の優しさと渇望を己に与えるこの男を、拒むことも受け入れることも出来ない。それでも捨て置けず、与えれるものだけでもと触れることを許す愚かさを、月だけはいつだって監視していた。
髪を梳いていた指先が流れ、すくうように頬に触れる。先ほどのような乱暴さのない、細心の注意を払った無骨な指先はなだらかな頬の曲線を撫でる。逸らされたままの視線を乞うように。
暫し月に晒された面は蒼白に彩られる。睫毛を彩る蒼い影は怯えるかのように微かな震えを繰り返していた。それを愛しそうに舐めとり、囁きかけるかのように吐息をかければ眦に溜まる雫。
こぼれるより早く舌先ですくえば僅かに苦い。
目覚めろと、微かな声を捧げてみれば月光はより濃密さを増した気がした。
閉ざされたその瞳だけが最後の砦のように頑なに拒否する相手を、喉奥で笑う。………所詮は無駄な足掻きなのに、と。
愚かなまでに優しい彼が、本気で願い乞うものを拒めるわけもない。まして、自分に対し負い目を持った身であるのなら尚更に。
どんな事由であろうと構わない。捕らえたなら、離さない。
甘く手酷く手腕を変えて、絡めとってその身を奪おう。
やんわりと瞳を口吻け、彼の好む優しさで頬を撫でる。それ以上を強制はしない暖かさに酔いしれれば、陥落も近い。
そうして目蓋を開いたその先で、見つめればいい。
月に捕われ月に狂った、その姿を。
吐息すら奪い思考さえも略奪し、
その身は永久(とわ)
に、この腕のもの。
大変遅くなりました(汗) 暑中お見舞いを下さった皆様への返礼小説です〜!
スランプなどというものを煩ったせいでたいしたもの書けなくてごめんなさい。
しかもものすっごく久しぶりに書いた気がします、アラパー。
今回は短めに濃厚な感じで、と思ったのでちょっと大人っぽく仕上げてみました。
まあ所詮は私の書くものですから。期待してはいけません。
04.9.20