不思議な状況に悩むのは、多分誰でもあることだろう。
 そんなことを思いながら、やはり解決しない現実に首を傾げる。
 「…………なにを間抜けな顔をさらしているの?」
 ぐーたら親父が何をやっていると呆れたような顔で彼女がいう。いつも通りの彼女の姿だが、いつもと違うのはきっと、今現在ここには自分達二人しかいないということだろう。
 子供たちは居候とともに初詣に行ってしまった。その間にせめて正月らしい食事を用意しようと思っていたが、なかなかうまくいかず、途方に暮れていたのがつい30分ほど前のこと。
 そして今現在、目の前には鮮やかな色彩のおせちが、お重に詰め込まれて置かれていた。台所の鍋の中には雑煮も甘酒も作られている。自分では途方に暮れていたのだから、当然これは彼女が持ってきてくれたものと作ってくれたものだ。
 どれもこれも彼女の愛しい我が子のために作ってきたものだろう。あるいは、寒い中初詣から帰ってくる子供たちのために作った鍋の中身。
 それらはよく解るのだ。うまく出来なかったというだけで、その気持ちは自分にだってあったのだから。
 ただ、いま自分に差し出されているものが解らない。
 じっと差し出されているものを見つめ、それを持つ細く白い指先を辿り、目つきの少しきつい、顔の整った見慣れた幼馴染みを見遣った。ウエーブした長い黒髪が、ふわりと宙に浮いては肩に落ちるその様さえ、見慣れたものだ。
 にもかかわらず不思議な状況なのは、彼女と自分の力関係上、これがあり得ないと自分の脳が判断しているせいだろう。
 「いや………これ、は?」
 「…………………あんた、お屠蘇も知らないほどバカだったの?」
 精一杯の勇気を振り絞ったような小さな声で呟けば、彼女は訝しむのを通り越し、心底呆れたと肩を竦めた。
 さすがにそれは知っていると答えるだけの勇気は持ち合わせてはおらず、肩をすぼめて叱られるのを待つような面持ちで続く彼女の言葉を待ち構えた。それには気付いているのだろう、示される視線は存外柔らかい。もっとも、彼女の顔を見たわけではないのでその表情までは解らないけれど。
 「子供たちには飲ませられないでしょ」
 「まあ……甘酒、持ってきてくれたし」
 それを与えれば喜ぶだろうとちらりと背後の台所を見遣った。癖の強い屠蘇よりはずっと飲みやすいし、凍えきった体を温めてくれるだろう。
 大喜びで飲むだろう子供たちを思い浮かべ、知らず唇が綻んだ。あの子供たちが笑って暮らせる、そんな世界があることが心から嬉しい。もうきっと誰も無慈悲な悲しみに打ち拉がれて泣く、あんな時代はこないだろう。………少なくとも、自分達が生きている間は。
 思い、微かな憂愁が心に舞った。
 自分達の世代はそう長くはないだろう。いつかはまた、あの惨劇が繰り返されるのかもしれない。長寿の龍人たちがどれほど心砕き導いてくれても、生き物のすべてを統治することは容易くはないのだ。
 あの子供たちが笑う時間が続けばいい。それは、子供たちが成人し、その更に子供たちが子を産む、その先までずっと、だ。
 自分達が見守り続けることの出来ない時間の流れの先まで、平穏がこの世界を包み込んでくれれば、いい。そんな不可能なことを、それでもつい望んでしまう。
 「……………なに、間抜けな顔、してんのよ」
 似たような言葉がまた彼女の口から紡がれる。ひどく気分を害したような、憮然とした顔。元が美人なだけにひどく迫力のあるそれは正直無条件降伏してしまいたくなる類いだ。
 ましてそれがどんな時に示されるか知っているだけに、自分はいつだって彼女にかなうことがない。
 彼女は、人の機微にひどく聡い。それは自分という愚かな男にすら適用されてしまい、幼い頃から落ち込んだり塞ぎ込むと叱りつけるようにして元気づけてくれた。
 「みんな、喜ぶといいな、と思って」
 困ったように笑って、小さく答える。少しだけ曲解した解答に、彼女の形の良い眉が顰められた。
 「今日は元旦よ」
 「…………? うん?」
 「元旦は年神様の再生の日なんだから、いいことずくめで当然なのよ」
 きっぱりと言い切った彼女の目に、迷いなど欠片もない。それに小さく苦笑する。
 彼女はその腕の持つ力全てを使って、きっとずっと周囲に幸を配り続けるだろう。それは常ではないけれど、それでも今日という日だけは必ず幸福にしてみせようと、それだけの気概と意志を持って言い切れる人だ。
 そして、実行することを躊躇わずにいられる、強い人だ。
 「来年もさ来年もずっと、よ。で、いつか孫が生まれて、ひ孫も生まれたら」
 その頃にはもうよぼよぼのおばあちゃんとおじいちゃんになっている自分達を想像して、思わず吹き出しそうになる。そんな年齢でもきっとキビキビとしているだろう彼女は、あまりにも鮮やかな想像だった。
 それをひと睨みで黙殺した彼女は、また屠蘇を差し出しながら、呟いた。
 「………そうしたら、今度はミイちゃんが受け継いでくれるわ。それが、親子ってものなのよ」
 自分が残すものを、残したいと思うものを確かに受け継いでくれる。強制ではなく、惰性でもなく。そうしたいという意志の元、語り継いでくれるだろう。
 「だからあんたもうじうじしてないで、さっさと飲みなさいよ」
 そうすれば年が明けてまた一つ、語り継ぐことが増えていく。それを喜んで聞き、受け入れて、同じように語る子供を、自分達は確かに手にしているのだ、と。
 彼女は誇らしく胸を張っていった。その笑みはひどく力強く、優しい。
 「そう、だな」
 くすりと困ったように笑った後、自分もまた手を伸ばす。猪口の中、あまり得意ではない屠蘇が注がれる様を見つめ、ふと思った。
 きっと今年も彼女にはかなわない。

 そしてきっと来年もさ来年も、ずっとずっとかなうことはない。

 それはひどく楽しくて嬉しくて、幸せなことだろう。

 

 そう思い飲み込んだ屠蘇は、苦手なはずなのに、甘く優しい味がした。






07.1.1