ふと見上げた空は青空だった。
雲の浮いた空は高く、吸い込まれるほど清々しい。
幼い頃、それに手を伸ばし悔しそうに唇を噛む
そんな馬鹿な子供がいたと、思い出した。
青空の意味を知らない君
イライラと小さく舌打ちを繰り返し、それでも足はそこに赴いていた。
自国とは離れた国。ちょっと寄った、なんて言い訳はまず通用しない場所だ。それを解っているからこその忌々しさと苛立ちと……微かな焦燥なのだが。
それを思いもう一度毒を吐くように舌を打つ。同時に地面についた足が無意味なほど乱暴な仕草で土を抉っていた。空を飛んでいたせいで薄くなっていた土を踏む感覚をその衝撃で思い出し、さして傷ついた地表を気にした風もなく足を動かした。
小さく開いたその穴を見て誰が何を思おうと、ましてそれを地球が痛んだ証など思う気はなかった。そんなことを思うほど殊勝な心があったなら、もっと自分は欲しいものを上手く手繰り寄せ掴むことが出来ただろう。もっともそんな正攻法で手に入る部分はたかが知れていると、暗く自戒するかのように男は笑った。
空は相変わらず綺麗な青をたたえていた。ゆっくりと地面に近付いた太陽は後もう少し沈めばその色を変えるだろう空。
鮮やかな青は目を見張る赤へ。その変化はどこか、あの過去の日にいた子供と、いま現在脳裏に浮かぶ男との変化に似ている気がする。
同じもの、なのだ。ただそれを彩る色が違う。熟成されたワインのような、変化だ。緩やかに知らぬうちに変わっている。空の青が赤に変わる瞬間が解らないように、彼が一体いつ今の彼に変わったのか自分は知らない。
昔は無表情になりやすい子供だった。自分よりも年下の子供がいたなら笑みを絶やさない面倒見の良さもあったが、自分といるときや大人と混じって修行するときは感情をどこか奥底に沈めたような顔をしていた。
無感情なわけではなく、まるで感情を恐れているような仕草だった。そんな子供を見たことがなくて興味を引かれ………そうして自分は間違いを犯した。
「………………………っ」
自身の脳裏に描かれた言葉の無様さを嫌い、男は苛立たしそうに眉を顰めて揺れる自身の前髪を書き上げた。鮮やかな金が日差しに溶けるように煌めき、色素の薄い肌を慕うようにして舞い戻った。
間違いではない、と、小さく呟く声は吹きかける風すら聞こえなかっただろう。そしてそれを自身に納得させるように男は奥歯を噛み締めた。………沸き起こる苦みを飲み込むように。
自分が残虐な人間であることくらい解っている。それを悲しんだこともなければ悔やんだこともなかった。実際、自分があの幼なじみに戦争中に与えた傷は、むしろ愉悦さえ感じたほどだ。
それでもたった一つ思い出したなら胃の捩じれる思いの湧くことは、あった。
幼い頃のあの、修行の日の思い出。自分の無慈悲な慈悲が、死を決定された犬に投げた小石。それが抉った彼の背中を思い出す度、吐き気を覚える。繰り返される幼い頃の彼の声。まだ声変わりさえしていない高い子供の声が綴るには、あまりにそれは清廉に過ぎた。
痛かった。どうしようもなく。心臓も目も耳も、否定を綴ろうとした唇までもが痛くて、その言葉に従うかのように自分は無言でいることしか出来なかった。
間違いだったと、自分の人生で思うことはないと粋がっていた無邪気な頃の、たった一つの痛手だ。それ以前もそれ以後も一度として感じたことのない痛みだ。
それを飲み込むように噛んだ奥歯をゆるゆると解き、男は息を吐き出した。吐息というには重いそれを吐ききれば唇には不適な笑みが描かれていた。
ふと気づいて自分を染める日差しを見遣ってみればそれは赤みを帯びたものに変わっていた。夏は日が長いが、気づかぬ内に色を変える点においては変わりはなく、そしてそれは急激にさえ感じた。短い夜を哀れんでいるかのようだ。その時間しか現れることの出来ない月を思い、潔く舞台を明け渡すように。
しばしその赤みを帯びた光を全身で受け止めながら、不意ににやりと男の唇が楽しそうに歪んだ。
空を見て、ここにきてしまった。それは時折あることで、別段その度にあの幼なじみのもとに押し掛けているわけではなかった。けれど……気が変わった。
幼い頃の記憶を呼び覚ました空がゆっくりと消えていく。それは同時に、自戒に似た良心が消えていくことも意味していた。自分に与えられている枷は数少ない。その一つが対象であるはずの男であることに自覚はあるが、それを凌駕する執着がしばしばそれを押しのけ彼をこの腕に捉えさせるのだが。
口元に嗜虐的な笑みを乗せたまま男は辺りを見回した。大体、この辺りはあの男がよく通り道にする場所だ。空を飛んでいる可能性もあるのだから木の根元にいるわけにもいかない。そう考えながら、面倒になってその場にごろりと横になった。
空を見上げれば青かったはずそこには深くしみるような赤がしみ出していた。そうしてそのなかにはほんの少し染まることを嫌うような細い糸のような箇所があった。よくよく見てみれば、それは真昼の月だった。細く研ぎすまされたように幽かな、三日月。
くつくつと喉奥でその月を転がすように笑い、男は赤く染まり、いずれは闇に包まれるのであろう空を眇めた視界におさめた。
もしも彼が自分に気づかなかったなら、今日は見逃そうか。
気づいたなら、きっと彼は自分を無視して帰ることなど出来ないだろうから。
そうしたなら………この腕に捉えても咎められることではない。
現れるか、現れないか。
これから消える太陽ではなく、研ぎすましたような三日月を目に映しながら男は楽しそうに口の端を持ち上げた。
賭けを、してみよう。決して負けない賭けを。
そうして哀れな獲物が捕われたなら、あの三日月からさえも隠してしまおうか。
黒いその髪さえも自分の肌に沈めこんで…………
そんなわけで、「宵闇の月」の前編(?)部分、アラシの話でしたー。
特に考えてはいなかったのですが、妖さんのお言葉でそういえばそうだよ!と思いまして(笑) なんでそんな場所で寝ているんだアラシと考えたらこんな理由でした。
罠……? いや、何か違うような。でもやっぱり罠なのかしら??
あ、冒頭部分の補足を。うちのパーパは羽が生えるのが遅かった、という勝手設定がありますのでアラシと修行しているときは羽がなく、空を飛ぶことへの憧れが強かったのです。空、というもの自体へも。
05.7