ふと思い出す。
それは戯れのような優しさや
無邪気な笑みや
居たたまれないほど純粋な感情
それらは確かにやわらかく透明で美しく澄んでいた。
けれどそれを手繰る指先は悲しみに染まり
傷をこそ願うように蠢いている。
痛ましくて彼を見つめれば、泣きそうな、その目。
どうしてと問う眼差しがその眉を顰ませることくらい、知っているのに……………
太陽のように
日差しの下を歩くと頭痛が悪化した気がする。不機嫌に舌打ちをして、芯から締め付けられるような頭の重さを振払うように乱暴な所作で髪を掻き混ぜた。
ささくれだった精神がそんなもので落ち着くわけもなく、同様に頭痛も鎮まりはしない。
解っていてもつい行う無意識の動作は、鎮めるための指先の模倣だ。それを与えてくれる存在が誰かを知らないわけもない。ちらりと空を見上げれば脳天気な太陽が相変わらずヘラヘラと笑って照っている。
それによく似た顔で笑い、けれどそれよりもずっと深く静かな色をたたえる馬鹿な生き物を脳裏に思い浮かべ、苛立ちが増して自身の髪をまた乱暴に掻き混ぜる。
それは遠い場所にいる……といっても、自分達にとってはたいした距離ではない。
いこうと思えばすぐにいける。そしてそれを相手は拒みはしないだろう。それくらいは知っているし、そう仕向けるくらいは、わけはなかった。
彼は単純で情が深い。他者を傷つける行為を嫌い激するくせに、自身にのみ向けられる暗い感情であればあっさりと許す。………そうでなければこの腕が確かにその心臓を貫いたというのに、その態度に忌み嫌うものが付加されないわけがない。
思えば、更なる苛立ちと頭痛が体を冒す。解っている。自分の不調の大半の原因など、彼以外にない。
心に掛かるものがないのだから、他に原因があるわけがない。この体は病原菌の侵攻を易々と許すほどやわではないのだから。
そう考え至り、唇が知らず歪んでいた。
原因が解っているのなら、原因に罪を擦り付けることに異議はなかった。
方向は、ちょうど進行方向。無意識的にそちらへと歩いていた足を思うこともなく男は地面を蹴りあげ空に浮かぶ。
注ぎくる陽光は先ほどのような苛立ちを思わせることなく柔らかくその身を包み風を送った。
見つけることはさして難しくはない。昔から何故か方向音痴の彼探すことに苦労はしなかった。波長が合うのだろうかと大人たちは首を傾げていたが、その理由を明確な言葉にすることは誰にも出来ないだろう。自分達にすら解らないのだから。
ただ、解るのだ。気配を読むわけではなく、その鼓動が訴える。肌がざわめき向かうべき方向を脳が感知するより早くに知らせ方向の修正を行っている。どうしてなど解らない。ただその視線の先にその命が現れる確信だけが解る。それはどこか獲物を嗅ぎ分け見付ける猟犬の本能に似ている感覚だ。
そうして眼下にその黒い影を見つけた瞬間の、この感情だけが、堪らない。
言葉に表すことも出来ない数々の感情。認め易いものも認め難いものも混じりあい、混沌に還るような、そんな感情が肌を粟立たせ、一瞬だけ、涙腺を侵しそうになる。
引き締めた唇でそれを飲み込み、次いでその唇にたたえられるのは、笑み。
緩やかな速度に変化した飛行する影に気付いたのか、あるいは自分と同じ感覚に肌がざわめいたのか。視界に焼きつけられたその影が不意に空を見上げる。それより早口に降り立てば驚きに見開かれた眼差しが自分を射た。
変わらない仕草だ。突然現れる自分に驚くだけの、まっすぐな目。嫌悪も憎悪もなく、ただ無垢な。
「アラシ?! ってお前、顔色悪くない………」
瞠目した目を慌てたように瞬かせ、彼が駆け寄りながらいう言葉は、途中で途切れる。
おそらく彼の目には青く自分が映っただろう。肌の色が彼よりも薄いせいか、眠れなかった翌日は大抵彼は顔色で勘付いていた。今も彼にはそれが解るのだろう。
他の誰もがただ不機嫌なのだと怯える自分のこの姿が、ただ痛みを身の内に沈めているに過ぎないと。
「か…………?」
間の抜けた彼の問いかけの言葉が疑問を含んでこぼれ落ちる。同時に彼の体もまた、その声と同じように地に落ちた。
自分を前にそこまで無防備にあれる彼もまた、珍しいものだ。他者であれば自分を視界に入れただけでも緊張し、緊急事態に備えて体を強張らせているというのに。
容易く払われた足先は地面から離れ、自分と同じ位置に合った視線が急激に落ち、彼の体は地面に座り込む。瞬く視線には純粋な疑問だけで、畏怖も恐れもありはしなかった。
それに愉悦を感じながら、苦く思う。
落とした膝に強引に頭を乗せ、目蓋を落とす。降り注ぐ陽光が目蓋の裏をあたため、赤く明滅させた。
「ちょ……おい?! アラシッ!!」
慌てる声音に孕まれるのは、彼の大切に育む命たちのこと。それくらい知っているし、それが当然だ。けれどその声音の中、顔色の悪い自分が日に晒されて眠ることへの恐れが含まれていると、そう感じるのは不遜だろうか。
「こら、ダメだって………おい! 気色悪いだろ、男同士、で………」
叫ぶ声に導かれるように目を開ければ、その声は急速に力を無くし噤まれる。
…………くつりと、喉奥が笑う。
不遜でも何でも、いいのだ。どんな言葉であろうとそれでもこの命は自分のものなのだから。
眇めた視界には鮮やかな青と、黒い男の髪。どこまでも至純の象徴のような二者で視界が埋まり、その体温が自分を包む。ざわめくような、それは歓喜、だろうか。
困ったように彼は眉を顰め、泣き出すような切ない顔を自分に向ける。おそらくは無意識に。
そうして乱暴で我が儘な幼子を許し見守るような慈悲で、その指先を自分に与えた。柔らかく、眠りを許すように頬を撫で、髪を梳く。あやすような仕草は、けれど眠りを忘れていた体には心地よかった。
少しだけ屈んでいるのだろう彼の影が顔を覆い、陽射しの強さが和らいだ。知らずに動くそれらの所作は、彼の性根の健全さ故、だろう。こんな自分でさえ守ろうと、その命は囁き実行している。
仕方なさそうにそのまま枕に代わった彼は、時折ぽつりぽつりと言葉を落とす。その言葉は、自分が彼に送る言葉だ。異質と解っている自分さえも受容している精神構造は、慈悲や慈愛という美しい言葉とはまた質の違う部分がある。
それでも誰もが彼を表すのならば、他愛無い何かによく似た、けれど尊く失いがたいものなのだと、いうだろう。
彼自身がその煌めきを隠すように生きようと誰もがそれに気付いてしまう。そうして彼はそれらの感情を全て包み癒し……どこまでもどこまでもたった一人のための彼ではなく、共有する空のような、そんな曖昧なものになる。
ふと目を開けてみれば、空を見上げる頤が見えた。無防備なその喉にこの爪を埋めればあるいは誰ものためにいる彼ではない、自分のためだけの彼に変わるかもしれない。
髪に埋められた指先を求めるように包み、同時にその喉を狙う狩人の爪が伸ばされる。
それでも爪は、その喉を引き裂かない。信頼でも何でもない、彼にとっては当たり前なだけのその無防備さは、結局は引き裂いてもまた、空に溶けるだけなのだというように、無辜だ。
苛立たしくて、その髪を掴み引き寄せる。乱暴なその仕草を厭ったのなら拒めたはずなのに、彼はそれに従うようにその唇を落とした。
触れただけの口吻けを交わし、ふと湧く思いが唇を震わせる。音にすらならなかった言葉は目を閉ざしていた彼に通じないだろう。それでも彼の気配が、震えた。
呼気に溶けただけの音はどこか曖昧で、それでも言葉にならない清さ故に根源的だ。
だからこそ情の深い男は気付いたのか。………思うが故に狂える命を、憐れんで。
くつりと喉奥で笑い、嗜虐を込めて唇を歪める。それでもその仕草さえ何故か解る彼は、閉ざした目蓋のままに許しを与えるように静かに微笑みを称えている。その、困ったように顰められた眉だけに戸惑いを残して。
その目には何が映るのだろう。…………微笑みに起因する感情と顰める眉に起因する感情と、どちらが。
厳粛な儀式のさなかにも感じはしない緊張を指先に宿しながら、その目蓋を撫でる。開かれることを願い、閉ざされたままであることを願って。
そうして、その目に宿る意志は
また再び――――――捕らえるだろう。
たった一人の獲物を見付け、それ以外に焦がれるものを忘れた
歪んだ幸福を知る狩人を――――――――――――……
そんなわけで、「たとえばそれは」のアラシ視点です。
捕らえられているようで捕らえている、そんな相互関係です。結局どっちも手放せない(苦笑)
なんだか素敵な膝枕のイラストが投下されていて悶絶しまして。こ、これは早く書かなくては………!と思っていたのですが。遅くなって申し訳ないです(汗)
それぞれの視点で書いていますのでその場その場での感情のあり方は客観的ではなく主観を含めてみました。なので相手の感情の推移の中には互いに少々すれ違いもあるかもしれませんし、自覚のない感情に気付いているだけかもしれません。
…………そういう匂わせる感じが好きなので(苦笑)
05.7