辺り一面の雨に、小さく息を吐いた。
呼気は雨の音に溶けて聞こえもしない。おそらく囁く程度ではその音は誰にも届かないだろう。まるでスコールのような大雨だ。
そんな光景を見つめながら、隣にある体温に目を向ける。人の背中に肩を寄りかからせたまま、当然のように眠っている男がそこには居た。
たまたまパトロール中に遭遇して、いつものように邪魔をされて、からかうようにまとわりつく彼を邪見に扱ったところで意味もなく、結局こうして足留めを食らってしまった。
………たいした意味もないくせに、彼は自分に絡むのだ。
小さい頃からそうだった。否、あの頃は今よりももう少しだけ、柔和な関係だった気がする。彼は自分の怪我を心配して駆け寄るくらいのことはあった。
思い、懐かしさに目を細めて微笑む。それは遠い過去の記憶だ。薄れることなどないけれど、あまりにも遠すぎて、優しすぎて、愛しすぎる、悲しい記憶。そんな慈しまれる記憶に包まれるだけの価値が、自分にはなかった。
その元凶ともいえるのは、やはりいま自分に凭れ掛かって眠る男で、この状況こそが自分が自分を許せずにいるすべてを物語っているような気さえしてくる。
もっとも、自身の浅はかさこそが全ての原因なのだから、彼を憎むのもまた、お門違いというものだろう。
そっと溜め息のように呼気を落とし、目を瞑った。雨の音は強く、間近で眠る彼の寝息すら聞こえない。
無音ではない静寂の中、閉ざされた視覚の代わりに鋭敏になった触覚が確かな体温を感じ取った。それさえなければ世界に一人のような、そんな錯覚を覚えただろう。どこまでも雨の音だけで構築された世界は、他の生き物すべてを隔絶して切り離していた。
いっそそうであったなら、よかったのか。そんなことを考えていたのは、やはり昔のことだ。
赤子をこの手に抱きしめて以降、自分は変わった。変わることが出来た。嘆き崩れ全てを拒絶せず、受け入れ生きる道を知った。
それが誰にも望まれていなかったとしても、少なくともこの手を握りしめるあの小さな手のひらだけは確かに願ってくれたから。
ただ……時折去来するこの虚無感だけは、いかんともしがたかった。
世界の音が静まり返り消えてしまう、雨や雪の日。たった一人で蹲ると、過去の暗闇が差し迫る。
憎む相手もおらず、ただ自分だけを責め続け疲弊し、その癖自身を屠ることも出来ずに生きるという罰だけを受け入れる。ぼんやりとそれを見つめていると、必ず誰かしらの腕が伸びてきて、現実に引き戻されるのだけれど。
思い、苦笑する。自分の回りには優しいものが多すぎる。その優しさを与えられるには少しだけ自分は、罪深い気がするほどに。
「…………何考えてんだ?」
不意に、音が触れた。
雨の音以外を随分久しぶりに聞いた気がする。きょとんとして目を瞬かせれば、苛立ったのか、音が触れた肩に痛みが走った。
………確認するまでもない、噛み付かれたのだろう。じんじんと痛みを訴えるそれは、たいして珍しい感覚でもなかった。
顔を引きつらせて振り返り、片手で彼の頭を押さえつけながら睨みつけた。
「いきなりなにしやがる、アラシッ!」
「あ〜ん? なんだ、宣言してから襲ってほしかったのか?」
言葉どおり赤裸々に告げてやろうかとにじり寄る相手の目は、本気だった。
妖しく……というよりは、鬼気迫る雰囲気で彼の目が光る。獲物を見付けたような普段の目とは違い、どこか彼こそが切迫したような、そんな悲痛な輝き。
目を瞬かせて、それを見つめる。あまりにものんきな姿だったのか、呆れたような吐息が頬に触れた。
「随分余裕だな、シンちゃん?」
そのまま頬に舌を這わされて、肩が撥ねる。先ほど同様に片手でその頭を押さえつければ、不服そうに彼の腕が手首を掴んだ。
その力の強さに眉を顰める。彼はいつもいつも不可解なことを言ったりやったり、こちらの理解からは著しく外れた場所にいる存在だ。
それでも、どれほど無体な真似を繰り返そうとも、最終的には彼の感情の方向性は、自分には何とはなしに解るというのに。
それこそが苛立たしいというように、彼は乱雑な腕でわざと自分に傷を作る。
彼を見遣ってみれば、不機嫌そうな目つきが逸らされて、その額が肩に押し付けられる。時折彼は自分の視線を嫌うようにこうして逃げてしまうのだ。そうして、まるで縋るような強さで自分の身体を掻き抱く。
スコールのような大雨は以前止まない。
彼はただひたすらに自分を捕まえるばかりで、言葉もない。あるいは囁いているのかもしれないけれど、それは雨の音に掻き消されて聞こえはしなかった。
自分を抱きしめる、厄介なばかりの幼馴染みの背中をぼんやりと見ながら、雨に全てが隠された世界を思った。
そこには誰一人としていない。
目の前の彼も、自分を救ってくれた赤子も、父も、……………自分自身さえも。
そうしてその絶対的な虚無の中で漂うことこそが罰だと思っていた頃を、思い出す。まるでその記憶すら粉砕しようというような乱暴な腕は、ただひたすらに抱きしめるばかりで、少しだけ幼く感じる。
………なにを恐れているのだろうと思いながら。
小さく苦笑して、彼の背中を撫でるように抱きしめた。その手首には、拘束の証のように、彼の指先の痣がついていた。
まるで帳のような雨は相変わらずその勢いを失速させる気配もなかった。
そして同じように自分を抱きしめ続ける男もその力を緩めるつもりはないらしく、身動きすらとれない状態が続いていた。
互いの肩に顔を乗せて、まるで恋人同士の触れ合いのようだ。自分達に最も似合わない単語を思い浮かべて、少しだけげんなりと顔を顰めた。
自分も彼も、そんな甘やかな関係など望む気もないだろう。自分達の間にあるのは触れれば切れかねない、そんな緊張を孕んだ刃のようなもの。それこそが相応しいはずだと、こんな日は特に思う。
彼は自分を傷つける。それこそが生き甲斐だと笑う。それは決して誰にも否定されはしないだろう。事実、彼は自分が嫌がることならば何だろうと笑んで敢行するのだ。どれほど懇願しようと、それを抑止することは出来ない。
たとえば………もしも自分が彼が死ぬことを心から恐れたなら、彼は笑んで自分の目の前で心臓を抉るだろう。その程度には、彼は狂気を携えている。
それは容易く想像できることだった。否、想像ですらない。確信、だ。
事実彼は過去に自分が失うことを恐れた人たちをあっさりと屠った。それは自分の未熟さ故の結果だったけれど、彼が自分を追いつめるためだけに命を狩るという現実は変わらない。
思い、鬱屈と息を吐き出す。…………そんな相手と抱きしめあっている現状が、あまりにも滑稽だった。
雨は止まない。抱きしめる腕は動かない。まるで停止したような世界の中、自分の吐き出した息だけが中空を舞って動いていた。
「…………何考えてんだ?」
ぼんやりとその呼気を眺めていたら、不意に彼が先ほどと同じ言葉を口にした。
首を傾げて彼の顔を見ようとするが、見えたのは彼の尖った耳と流れる金糸の髪だけだった。仕方なくまた視線を正面に戻し、彼の背中を抱き締めている自分の指先を見つめながら、そっと答えた。
「雨、止まないなーって」
そしてこの状況がおかしいと、そっと心の中だけで呟いた。
自分の声を聞いた彼は何を答えるわけでもなく、また腕に力を込める。そして、唐突に何の前触れもなく、その牙を肩に沈めた。
「………………っつ!!」
走ったのは、激痛といって差し障りがないだろう。事実、肩からは鮮血がしたたった。
痛みを訴えるように彼の背中に拳を打ち付けてみるが、彼は埋めた牙を更に深めようとするように顔を押し付けるばかりだ。
まるで、喰らうようだ。思った瞬間、………それはひどく彼らしいと感じた。
自分が他のどんな感情を誰に向けても彼は顔を顰める。それを偏執狂というべきなのかどうか、自分には解らない。ただ知っているのは、異常なまでのその執着心だろう。
「考えてんな、なにも」
そんなことを呟いて、彼は滴る血を舐めとる。疼くような熱が訴える傷は、決して浅くはないだろう。
溢れる血を飲み干すように彼は舌を這わる。それ以上は何もいわずに。
考える事象の元凶は彼のくせに、彼はそれを思うことを好まない。自身が突き付けて捕らえるならばまだしも、自分がそれに捕われ蹲ることを、彼は許さない。奇妙な話だと思いながら、不意に気付く。
………だから今日、彼は自分の前に現れたのか。
雲の流れから予測できたこの天気に、急いで帰ろうとしていた自分を捕らえ、こうして世界から隔絶された雨の檻の中、自分を捕まえたのか。
他の誰にもこの感情をすくわせることを許さず、さりとて自身で沈むことすら、厭って。
何一つ思索を許さず、麻痺した脳のまま自分が与える痛みだけを感じろというように。
…………なんという滑稽で純粋な、独占欲だろう。
優しさ故に伸ばされる腕ではないそれは、罪深い自分にも許されるのだろうか。
らしくない彼と同じように、らしくもないことを考えながら、傷を抉るように舌を蠢かす彼の肩を掴んだ。
不器用極まりない幼馴染みの、自覚のない慰めの腕を受け入れながら。
微かに滲む涙の先で、雨の音が少しだけ、小さくなった気が、した。
自覚なんかあるはずもないですよ、アラシに。いというか、我が家のアラシは私が書くキャラの中では一番厄介な上に性格悪いというか、鬼畜さんではあるのですが。だって相手傷つけるの躊躇わないし、実行するし。
他所様に比べると違うのですかね。この子が優しかったら私の書くタイガーとかは一体なんと称されるのか。…………天使?(オイ)
07.7.16