見下ろした先には黒髪が流れている。緑の芝生に波打つように好き勝手に散らばったそれを、一瞬踏み付けてみようかと考えるが、止めた。
 代わりにしゃがみ込み、その毛先を摘まみ上げる。長い黒髪はゆったりとすくいあげられ、頭皮を刺激することがなかったのか、眠っている相手の健やかな寝息に変化はなかった。
 意地の悪い笑みを浮かべながら、そっとその毛先を食むように唇に寄せる。同時に、首を振るようにそっぽを向いた。………当然、彼の髪を噛み締めたまま。
 束ではない髪の引っ張られる感覚は、だからこそ鋭敏に届いたのか、驚いたように彼が目を開けて身体を浮かせた。状況判断など出来てはいないのだろうが、咄嗟に痛覚への刺激を回避しようと動く身体は本能に近いのだろう。寝起きとも思えないその動きに、彼の戦闘能力の高さも伺えた。
 それに含み笑い、舌先にまだ残る彼の髪を見せつけるように口を開く。赤い舌の上、黒い髪がうねるようにたたずんでいた。
 「…………なにしてんだ、アラシッ!」
 自分の存在に気付いた相手が威嚇するような声を上げ、自身の髪を庇うように片手で手繰り寄せる。さり気なく彼は自分が口内に含んだ部分を拭っていた。同様に、こちらも噛み切り口腔内に残ってしまった髪を吐き出す。
 いっそ飲み込んでみせてもいいが、それはたいした嫌がらせにもなりそうもない。精々奇妙なものを見る目で自分を見遣る程度では割に合わないだろう。
 彼を見遣ってみれば周囲の気配を読むように警戒している。自分が個人的にここにいるのか、あるいは組織的な動きなのかを把握しかねているのだろう。もっとも彼自身、組織的な何かという可能性の薄さを知ってはいる。だからこそ、警戒するにはあまりにも浅はかな応対だった。
 くつりと唇だけで笑みを作り、まだ上体を持ち上げただけの彼へと手を伸ばす。しゃがんでいる自分の方が大分視線が高かった。見下ろす姿勢で伸ばした腕に、彼の睨む視線が強まる。
 「なにビビってんだ?」
 くつくつと喉奥で笑いながら告げれば、顔が逸らされる。
 …………警戒を解いたわけではなく、自分が個人であることを悟ったせいだろう。周囲へ向けられた意識の全てが今度は自分一人だけに回された。
 それを理解しながら、愉悦さえ思い彼の頬に指を添えた。
 逸らされたままの視線で、それでも彼は全身で自分を感じ取っている。………だからこそせめてもの抵抗で姿くらいは見ないようにしているのだろう。健気なものだとせせら笑う唇を隠そうともせずに晒した。
 「………離せ」
 単語のみで返された返答は、触れることへの拒否か、傍にいることへの拒否か。………あるいは、彼の意識を独占する今の状況への、ものなのか。
 どれであろうと受け入れるわけのない言葉だ。頬を辿る指先を曲げ、爪を立てる。鋭利な切っ先で線のような切り傷が出来るが、彼の眉一つ動かすことは叶わなかった。
 ちりちりと首筋を刺激する怒気を感じる。彼の怒りが自分に向けられているのか、彼自身に向けられているのか、それは定かではない。
 ただ、困惑を落とした憤りは、ささやかな抵抗という形でだけ、さらされる。
 自分が傍にいながら、気付きもしなかった。…………気配を隠してもいないのに、あっさりと許容した。
 その事実こそが、あるいは彼の苛立ちだろうか。
 思い、喉奥の笑いが彼にも聞こえるほどに、響いた。
 睨む彼の視線が舞い戻る。けれどこちらの悦楽を思う視線に顔を顰め、また逸らされる。もう一度その目を覗くために、頬に添えた爪を滑らせ、喉元に添える。
 …………ギクリとさえしない、身体。そのまま頸動脈を切り裂くことも出来ると知ってなお、彼は動かない。
 それは彼自身がその瞬間を回避できるという自負を持っているせいだろう。少なくとも、自分がそれを行わないなどという甘い考えはない。
 くすぐるように喉を撫で、彼の呼気を探るように脈打つ血液に添える。……………小さく飲み込まれたのは、呼気か不安か。
 それを見つめ、唇が笑みに歪む。逃れる段階を逸してしまった哀れな獲物。躊躇いと戸惑いを隠そうと逸らされたままの視線。吐き出す呼気さえ吐息のように甘いのに、それを律して唇を紡ぐ仕草。
 捕らえられた獲物は、未だ動かない。自分の笑う気配が周囲に満ち、屈んだ自分の影に、彼の眉が歪む。
 それに笑う。………重なる笑みと噤まれた唇。

 ………………触れた唇は、幽かな血の味が、した。








 なんか狂気じみていて怖いなぁ(遠い目)

07.7.19