背中が少し熱い。
 空を見上げながらそんな間の抜けたことを考えた。ちらりと背後を見てみればのんきに寝ているらしい顔がのぞける。
 相変わらず何を考えているのかよく分からない男だ。否、単純で分かりやすいくせに、そのくせ核となる部分は決して誰にも触れさせない。
 いい意味でおおらかで、悪い意味で秘密主義。真逆のものを抱えた、この世界をただ愛すためだけに生きている不可解な生き物。
 真っ黒な髪が風に翻る。無駄なまでによくのばしたものだと自分の肘に触れたそれを指先でつまんだ。
 毛先だけを軽く結んだだけの髪は風にあおられれば乱雑といえる形に変化する。それを面倒くさがるくせに、この男は髪を切らない。
 別に伸ばそうときろうとそれは自由だが、変なものだと首を傾げる。昔は鬱陶しいからと随分短くしていたというのに。
 いつから伸ばしていただろうか。最後に短い姿を見たのは確か……自分がこの男に類を見ない痛みを刻んだあの戦争下か。
 「…………………………」
 ふとそれを思い出し、何となく勘付いた事実に眉を寄せる。
 多分という言葉がつけられないのは、おそらく彼がどれだけそれに執着し心砕いているかを知っているからだろうか。
 …………それはそれで業腹だと更に眉間のしわが深くなった。
 幸せそうに自分になど背を預けて寝こけている男の横顔を振り返る。その心臓を掴んだことを忘れたわけでもあるまいし、ましてそれ以前にどれほど彼に傷を刻み続けたか、自分でさえ数えきれないほどだというのに。
 それでもこの馬鹿な男は同じようにまた声をかけるのだろう。嫌そうに顔を歪めても無視することなく。
 腕を伸ばせば、戸惑うように顔を顰めて、それでも拒まずに。
 たったひとつを侵すことなくあれば、この男はどんな真似さえいずれは許してしまう。その罪の全てを自身の責と背負うことで…………
 馬鹿だし、愚かだ。憎むことも恨むことも間違いなどではないというのに。
 それもまた生きる上で知らなければならない必然の感情だ。本能だけで生きることの出来ない人間という種族には不可欠のものだ。
 それでもこの愚かな生き物はそれを持つことを拒み、それに染まる己を断罪し続けるのだろう。哀れなほどの、純正故に。
 つまんだ毛先を、軽く自分の方に引き寄せる。ピンと髪が糸のようにまっすぐに張った。
 けれどまだ男は目を覚まさない。
 ……………また指先に力を込める。
 そうして目を覚まさせて、それから、どうしようか。
 自分に不愉快を与えたのだから、それ相応の礼を返さなくてはいけないだろう。
 つまんでいた指先を開き、髪が落ちるより早く、それを握りしめる。今度は強く、無理矢理その体を引き寄せるように力任せで引っ張った。
 「う……っわぁ?!」
 素っ頓狂な声を上げ、男の目が覚めたことを知る。歪むように笑みを作った相手を涙を滲ませて睨んだ男は、目を合わせたことを後悔するように再びあらぬ方を向いた。
 けれどそれを許さぬ指先は、有無をいわすことなく男の唇を引き寄せる。

 …………金の髪に隠されたその視線は、狂惜しいほどに深く、その色を映していた。









 どんな感情が横たわっていようと、結局パーパのヒーローへの愛情にかなうものはないんだろうなぁと。
 愛情の意味には色々あるけれど、無償のものはただ注ぐだけを願うから多分最強なのだと思います。
 見返りを求めないから、相手がどんな態度であろうと枯れることも尽きることもないんだもの。
 質の違う愛情から見ればそれが羨ましかったり逆に鬱陶しかったり。まあそれをどう受け止めるかはやっぱり向けられた本人や周囲が判断することなんでしょうけどね。

06.5.22











 握りしめていたはずの真珠。綺麗な乳白色の輝きはきっと空にまでその美しさを届けてくれる。
 けれどそれが手の中から零れ落ちたくことくらい、分かっていた。
 あの時、喉への焼け付くような海水の刺激に驚いて、真珠を持っていた手を開いてしまった。きっと今頃、あの海の底で淡い陽光を浴びながら漂っている。
 だから絶対にこの手になんて残っていなかったはずだった。
 わかっている。ちゃんと、諦めていた。我が侭なんかいわず、迷惑をかけないために首を振る準備は出来ていた。
 それなのに、目覚めた時にあった手の中の異物。空になったはずの手のひらには一粒の真珠がたたずんでいた。
 驚いて目を見開いて、海と、それを背に呆れたような顔をしている子供を、見て。
 ただ呆然と彼を、見つめて。………言葉も出ない思いに、喉がまた潰れそうになった。海水なんてなくても人は容易く窒息出来るのではないか、なんて、どこかで考えてしまう。
 真っ直ぐに自身を見る相手の視線に少しだけ眉を顰め、まだ濡れている金の髪をかきあげて、彼は軽く息を吐き出した。その間さえ、視線は外れない。
 「溺れかけても離さねぇなんて、強欲なヤツ」
 そんなに真珠が欲しかったのかよとニヤニヤと笑ってからかう彼を、ただ見上げた。
 彼はいつも何も言わない。雄弁なくせに、肝心なことは何一つ口にはしない。今だって自分の手に潜めさせた真珠のことを、まるで教えようとしない。
 …………まるでそれは免罪符の、ようだ。
 伝えないことで、なにから救われる気なのだろう。感謝を捧げられることを厭い、どこか恐れるように顔を逸らす子供。
 恐いところもあるし、悪さだってする。どちらかといえば不真面目な彼は、それでも嘘はつかない。よくも悪くも彼は己自身に正直に生きているから。
 それなのに、自分を前にしたそのときだけはそれが陰るのだ。
 認めたがらないような顔で、視線を逸らす。…………心を、逸らす。
 ありがとうという、その一言を伝えたいのに、それを捧げるより早く、拒否するのだ。だからいつも自分の言葉は宙に浮き、彼には届かない。
 開閉した唇が、それでも感謝の言葉を綴ろうかと勇気を灯した時、それに勘付いたかのように彼は背を翻し、上空を見た。そしてその足は岩場を蹴り、空中に体を浮かび上がらせる。
 「さっさと帰るぞ。大人が帰る前に戻ってねぇと、また小言があるからな」
 他愛無い言葉で相手の声を潰し、彼は言葉を返す間を与えずに口早にいった。見上げた視線には彼の頬が映る。知らされた視線は、交わることを頑に拒んでいる。
 それに気付き、子供は視線を落とし、小さく息を吐く。憂いを乗せそうな眉を隠し、一度瞼を落としてから、力強い灯火を宿したその大きな目を空に投げかける。空に浮き、まだ自分が来るのを待っているその小さな影。
 軽く飛び上がり、彼の腕を掴む。仕方なさそうな顔をして、彼が自分を崖の上まで運ぶ。噛み締められた唇はいつものことで、どこか怒っているようだ。
 「………なあ、アラシ」
 その顔を見上げないようにして、子供は呟く。自分の手首を掴む力が少し強くなり、それが返答の代わりであることをしり、言葉を継いだ。
 「教えてくれて、ありがとうな」
 真珠をくれたことを感謝しても、きっと彼は受け取らない。そんなことはしていないと、凍った瞳で呟くだけだ。それならせめて、彼が受け入れられる、言葉を。
 それでもきっとまた彼の顔は顰められ、苦虫を噛むように苦渋に満ちているだろう。それを覗かれることを彼は嫌うから、決して子供は顔を上げはしなかった。
 「………………世間知らずの坊ちゃん」
 そうしてぽつりと落とされる、少しだけ力ない悪態。
 それを耳にしながら、子供は近付いた崖を見つめていた。いつか彼の心も花開けばいいのに、と。
 他愛無い夢を思うのと同じ軽さと切実さで、祈りながら。

 




 まあ結局アラシの性情が正しく開花することは永遠にないと思いますけどね(きっぱり)
 あったらそれはもうすでにアラシじゃないよ。

 こちらの小説は、アラパー同盟主催の「アラパーフィスティバル」で書かせていただいた『水の底に棲まうモノ』をベースにしています。お祭りが終われば一般公開されますので、よろしければあわせてお楽しみ下さい。

06.7.22









 しとしとと雨の音が響いた。
 それに耳を傾けながら軽く息を吐き出す。パトロールの最中に運が悪いと空を見上げた。
 先ほどまで晴れていた空は、相変わらず太陽をのぞかせている。が、雨の勢いは更に増してきた。もう既にしとしとなどという音ではなく、ザーザーという音に変わりつつある。
 もう一度溜め息を吐き出し、お天気雨がどれくらいで止んでくれるかと辺りを見ながら思った。
 ふと、視線が過ったその中に不思議なものを見た気がして首をひねる。あり得ないものを見たというように顔を顰め、見間違えたのか事実なのかを探るようにまたその方角に視線を戻す。
 しかしその必要のないことをその一瞬後に感じた。間近な位置に突如湧き出た気配、呼気。ポタリと、木の下にいながらも大粒の雫が肩に落ちてきた。
 「……よう」
 不満げに顔を顰めてみればそれに気付いたのか、楽しそうに喉奥で笑いを噛み殺した声が響いた。
 先程見た瞬間は少なくとも木立の先だったはずだ。それを一瞬で詰めるあたり、相変わらず実力だけはナンバーワンたちと大差ない男だと辟易と息を吐き出す。
 これみよがしな溜め息にくつくつと笑う声がする。先ほど同様、間近で。肩よりは首といった方が正しいような位置に、音が添えられる。揶揄と笑いを含んだ、獣の唸り声のような声。
 それを厭うように首を振ればそのまま肩に額が乗せられる。拒むように身を捻れば、おそらく今はまわされていない腕が自由を奪うだろう。もう既に慣れてしまった彼の手順に顔を顰め、せめて許容できる範囲で済ませようと頬に当たる濡れた髪の感触を享受する。
 「相変わらず暇人だな。やることないのか?」
 「シンちゃんと違って有能だからな」
 せめてもの意趣返しの厭味には笑みの滲んだ声音で応酬される。可愛げのない男の態度に増々顔を顰めても、どうせ彼には見えはしない。声に含ませる棘とて彼にとっては蜜のようなものだ。到底自分の不愉快さを彼に伝える手段にはなり得ない。
 それでも擦り寄る気配を無下に出来ないのだから、結局は同罪なのか。そんな不条理なことを思い、鬱屈とした溜め息を漏らす。
 せっかく濡れる前に木の下に逃げ込んだのに、濡れそぼった男に懐かれたせいで彼のいる側の肌は冷たくなりはじめた。頬もまた、冷たい雨に濡れている。
 まるでそれが免罪符のように自分に触れ、暖を取る。
 …………時折雨の日訪れる、はた迷惑な濡れ坊主。
 そんな風に濡れる前に雨宿りくらい十分できるくせに、びしょ濡れで現れる男にもう一度溜め息を落とす。
 気付かなければ拒めるのに。
 ………彼が気付かせないようにするからこそ、自分は気付いてしまう。
 太陽が顔をのぞかせたままの、大粒の雨。長くはないはずの雫の来襲。それ故に許されている、この距離。
 緩やかな呼気が肩から聞こえる。自分の心音と重なるそのリズム。
 胎児にでも戻りたいかのようなその仕草に、男は顔を顰めて、また空を見上げる。

 

 ………小雨になりはじめた空が、後もう少し、涙を流すように、と。





 理由がないと傍に寄れない。
 傷つけるためなら躊躇いなんかないくせに、それ以外じゃ、どうしようもなく言い訳が必要。
 こういうところは大人の愚かさだよなーと思います(苦笑)

 拍手、ありがとうございました。何かコメントがあればどうぞ。

06.9.11








 優しい音が聞こえた。
 子供に言い聞かせるような、そんな音。紡ぐ人間の性根の清らかさに沁みた、透き通った音色。
 眇めた視野には漆黒の髪が風に揺れている。誰の背中かなど考えるまでもない。少しの間の後、その腕の中にいたのだろう子供が空へと飛び立ち、軽く手を振る背中だけが残った。
 おそらく周囲のパトロールに行かせたのだろう。世代交代はまだ早いとぼやきながらも、彼は自身の育てた子供の力と勇気、その心の正しさを誰よりも評価していた。
 信頼してその手を離せる。それがきっと彼の強さだろう。
 じっと視線を注いでいれば、いい加減その存在に気付いたのだろう、顔を顰めた相手が溜め息を吐きながら振り返った。
 その様に喉奥で笑ってしまうのは条件反射のようなものだ。彼は自分にだけは必ずその顔を晒す。迷惑そうな、厭ましそうな。そのくせ、振払えないと諦めているような、顔。
 「また来たのか」
 挨拶をするでもなく端的にそういった相手は、近付いてくるわけでもなくその場に立ち尽くしている。
 じっと見つめる視線は牽制を含んでいるのだろう。彼は未だ、自分が危害を加えるか否かを判断するのに慣れていない。
 ………否、慣れていないのではなく、基準を誤ってしまうのだろう。もっともそうなるようにしむけているのは自分なのだから当然といえば当然だ。
 喉奥で唸りそうな歓喜を余所に、唇だけを笑みに染めた。
 意地の悪いそれではない、極自然なもの。仲のいい親子を見れば自然と浮かぶような、そんな笑み。
 「ご挨拶だな、シンちゃん?」
 そっと囁いてみれば戸惑うように視線が揺れる。何も企んでいなかったなら傷つけたとか、そんなバカなことを考えているのだろう。
 企んでいるかどうか、と考える時点で間抜けだ。常に警戒しているくらいでちょうどいい。むしろ、近付かないようにすることこそ必要だ。少なくとも、自分への評価はそんなものだ。
 幼い頃からたった一人だけ、そんな評価に無頓着な奴がいた。どうせすぐに同じになるなら初めからそうすればいいと呆れながら、幾度となく邪魔をした。彼に実力がなければ命を落としてさえいただろう。
 それでも彼は変わらなかった。自分によって命を落としても、幾度となく死地へと陥れても、その眼差しの生粋さも、慈悲深さも、………自分への、態度さえも。
 いっそ壊れてしまえばいいのに。そうしたなら、こんな風に確かめるように足を運ぶ必要もない。
 思いながら、そっと足を踏み出す。
 変わらない人を自分は知らない。否、たった一人、今もまだ変わらない人は知っている。
 けれどそれがいつまで続くかなど、誰も保証してくれない。それならばもう、この手で終幕のベルを鳴らした方がまだましだ。誰かによって与えられるくらいなら、この自分の腕で。
 そう思うことこそが何故なのかを知らなかった頃、無知故に、愚かさ故に、自分は何も恐れはしなかった。
 「シンちゃん?」
 問うように名を呼んで近付く。笑みは変えないまま、戸惑う獲物をじっと見つめる。
 答えるべきか否か、悩んでいる時点で答えは決まっている。腹の底で笑いながら、そっと踏み締めた土の音がただ響いた。
 そっと、その音さえ包むように静かに足を進める。獲物は逃げない。逃げるはずがない。
 躊躇いを持ちながらも拒まない。最終的に善性を願ってしまう甘い男。

 歩んで、手を伸ばし。
 終わりを告げることを思いながら、続くことを乞う。

 なんて陳腐な、喜劇。





 久しぶりのアラパー。相変わらずこの人は暗いなーというか、歪んでいるなー。
 別種の純粋性って、こいつのようなタイプだと思うのだよ。だから多分、見捨てられないんだ。
 ちゃんと接していけばいつかは、って思ってしまうから。

 拍手、ありがとうございました。何かコメントがあればどうぞ。

07.5.18