この世界はまるで泥沼だ
きれいな花なんて咲かない
あきらめそうになった僕の目の前
『泥沼でもきれいに咲ける花が
あるなら君はどうする』と
真っ白い蓮の花が咲いていた
泥沼の中のキミ
今日はずいぶん暑かった。小さく息を吐き出して額に浮かんだ汗を拭った。
見遣った空に浮かぶ太陽は相変わらず威勢良く光っている。この分では日が落ちても暑さは続くだろう。
真っ赤に染まっている空に浮かぶ濡れたような夕日を見つめながら辟易とした息をまた吐く。からっとした暑さならまだ耐え易いが、如何せん自分の住む一帯は亜熱帯だ。肌にまとわりつく空気は拭えない。
くたくたの体をそれでも動かしながら向かう家路の途中、ふと思い付いて角を曲がる。
橋の工事を手伝ったせいであちらこちら泥もついているし、小さいとは言え擦り傷も数カ所ある。汗にまみれていてあまり清潔とはいえないし、このまま家に帰るよりは途中で汗を流してからの方がいいだろう。小さな息子の小さなお嫁さんは小言をいいながら困った顔で風呂を焚いてくれるだろうが、子供にそんな風に気を使わせるのは気兼ねした。
そんなに距離はない夕日に向かって進む道。とろりと溶けたような赤い日差しは相変わらずの熱気を孕んで肌を染めた。
ふうわりとその暑さを鎮めるように吹きかけた風もやはり少しぬるかった。それでも肌に張り付いていた長い髪がゆうるりと宙を舞い僅かに涼しさを感じる。
穏やかな赤い夕日。思い出すのは出来上がった橋を祝して笑う人々の笑顔と感謝の言葉。肌を焼く日差しに負けずに頑張った甲斐がある。自然ほころぶ笑みはやわらかく身に溶ける思いをしみ出したように優しかった。
ひどく気分が良かった。だから、気付かなかったのかもしれない。
赤く染まった自分と同じように夕日を溶かし込んだ泉。ひたした足先の心地よさに子供のように飛び込んで、さして広くないその水面を掻き分け中央へと泳ぐ。
その一連の動作を見ていたのであろう視線など、微塵も感じはしなかった。
泳ぎゆき水に潜り、地上へと還る。舞う水飛沫すら赤く、鮮やかな光景。
水に浸かる黒髪は漂い泳ぎ、空気に触れる髪はしんなりと肌を覆う。
首筋にまとわりつく髪に不快さを感じて掻き上げれば、不意に聞こえたのはあまりにも馴染み自然な音。
「ずいぶん色っぽいシーンだな」
低音は鮮やかに風に溶けていた。かすれているほど小さい音のくせに、確実に自分が聞き取れる間合いや音量を知っている。
ある種知りたくもない理由を思い至りそうになり、パシャリと水を弾いた。胸元や首筋を通り抜け頬にまで達した水は危うく目に入りそうになり一瞬ひやりとする。
「…………相変わらず悪趣味だな」
素っ気なく返せばくつくつと笑う声。彼独特の音は耳に付いて離れはしない。
水は相変わらず冷たくて心地いいのに、それが逆に身を冷やしゾッとする感覚。彼自身への悪寒とは少し違う、けれど確実に彼も要因の一つであるはずの寒気(
さむけ)
。
ぶるりと震えそうになり、押さえ込むように身を強張らせる。
こうした、底知れぬ視線に曝されることには慣れていた。別段それを恐ろしいとも思わないし、いまさら嫌悪の対象にもなりはしない。それでも不意に感じたその悪寒がなんであるのかいまいちはかりかねた。
「………怖いのか?」
不意に湧いた音はやはり風に溶けている。否、風というよりは泡沫か。水面をはねさせた飛沫の、ほんの僅かな鮮やかさに似て短なその音は鮮明に耳に触れる。
小さく首を傾げ、その言葉を考える。怖いかどうか、ではなく、彼が何故そんな言葉を自分に伝えたのか、を。
自分が彼を恐れることがないことくらい、彼は知っている。どんな状況であっても……それこそ命のやり取りをするその瞬間でさえ、自分は恐れない。むしろ恐れているのは彼だろうと、自分は思う。
命を屠るその瞬間でも、この肌に指を滑らせるその時でも、どちらでも同じ怯えを孕んでいた。
そしてそれを知られていることを彼は知っている。だからこそ、時に乱暴で強引だ。そんなことはないのだと自分に刻むように痛みや傷を与える。裏腹の感情は幼い頃から変わりはしない。哀れだと思うことが彼を貶めることを知っているから、決してそんな生温い感情を向けはしないけれど。
「何となく寒くなった気がしただけだ。くだらんことをいうな」
生温い感情を向けないと、そう決めているから、結局彼に与えられる音などどこか刺々しいものに変わらざるを得ない。そうしてそんな自分の葛藤を知っている彼は、喉奥で笑う音を響かせる。
パシャリと水が動く。掻き分けた水はやはり冷たい。けれどそれが身を震わせることはない。夕日は相変わらず赤く大地を染め、透明のはずの泉すら、透ける赤を模していた。
ゆっくりと彼に近付く。
金の髪が夕日に染まりひどく美しく映える。それを言葉に換えることは出来ないが、好ましく思う感情は視線に溢れているだろう。微かに眇められた彼の視線と、満足そうな唇がそれを如実に示している。
まるで罠と知って近付くようなものだ。それでも、離れることもできない。
知っている。自分に解らない感情を抱えている彼が、苦しんでいることくらいは。それがどういった種の苦しみかまでは解らない愚鈍な自分に舌打ちしたくなる。救いたいと、そう思うことこそが浅ましいと解ってはいても、悲しむ友を見たいとも思わない。
「お前は?」
小さく問いかける。そうしたなら不可解そうに顰められた、眉。
「………あん?」
「お前は、水を浴びにきたんじゃないのか?」
なんてことはないように問いかければ不意に逸らされる視線。未だ泉の中にいる自分を、まるで視界から消すようにあからさまに。
珍しい反応だ。彼から視線を逸らすなど。
どうしたのだろうと、問いかけることは許されてはいない。解っているから、怪訝に眉を歪めはしても問いかけはしなかった。
ただ、腕をのばす。
泉の畔(
ほとり)
、その間近に座り込む彼の足先。立てられた膝に乗せられた雄々しい腕。赤く染められるその金の髪と伏せられた紫闇の瞳、に。
差し出した指先はその肌に触れるより早く捕まれる。込められた力の強さに眉を顰めることさえ忘れて、沈む赤に染まる彼を見た。
言葉にならない、感情。それがどういった種か自分は知らない。おそらくは、自分は見てはいない世界の中の、それは感情。彼が自分を見る時にいつだって広がる世界に現存する幽かに後ろ暗い悲しい感情。
「……………」
彼の唇が開き、何かを言った気がする。けれどそれは音とはならずに散った。
やりきれないのか噛み締められた唇。そうして込められた怒気に似た感情は殺意にすら秘めていた。
それら全てを見なかったかのように笑い、捕まってはいない腕を差し出した。
「お前も水を浴びていけ」
小さく、まるで諭すように呟く。幼子を抱きしめるように深くやわらかな音。
「砂埃にまみれて……何をしていたんだ」
髪を梳く指先は拒まれず、その指先にはジャリ…と、異物を示す音が触れる。
赤く赤く染まる二人。豊かな指先は枯渇した腕をとり、子供を誘うようにゆうるりと水へと誘う。一瞬の躊躇いが肌に触れれば、やんわりと彼は腕が動き出すことを待つように立ち止まる。
やりきれなさを飲み込むように彼は俯いた面を微かな怒りに浸しながら持ち上げた。
…バシャッ…………
かすかな水音が鼓膜に響き、飛び込むように自分の傍らに現れたぬくもりに瞠目した。
知らず包まれた身体は仕方がないというようにしんなりと力を抜き、甘える子供を抱きとめるようにその背を優しく撫でる。
怯えなど解るわけもない。彼の感じる世界の、矛盾や汚れも知りはしない。
それでも彼はこの身を抱き、この腕を求めるから。
決して清浄とはいえないこの腕を、差し出す。
赤く赤く染まった世界で、それでも決して染まりはしない黒髪が揺れ、染めあげられた金糸を包む。
やわらかくやわらかく
ゆりかごのように
やわらかくやわらかく
泥沼の花
清らかさすら知らず咲き誇り
その花弁を綻ばせる
泥沼に窒息するものをすくいとるように
決して染まらぬ白き花弁を咲き誇らせて
槇.原.敬.之の『LOTUS IN THE DIRT』より冒頭部分は引用させていただきました。
槙原さんの声も歌も大好きです。彼の感性の繊細さが好き。
本当はアラシ視点でパーパを書こうかと思っていたのですが、あまりにもアラシが健気にパーパに夢見ていたので止めました。
むしろ気味が悪かった!(オイ)
久しぶりの自由人がこれですか。なんというか……アラパーは見事なくらい擦れ違うのですよねー。そのくせ根っこのところではきっちり互いが解ってる。不思議。
05.1.29